晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

安部龍太郎 『関ケ原連判状』

2022-10-05 | 日本人作家 あ

結局、9月は1冊しか投稿できませんでした。まあいつもの言い訳をすれば仕事しながら学校の勉強もして猫と遊んで、って最後のは全く関係ありませんが、寝る前の1時間くらいを読書タイムにしてはいるのですがあまり読めてません。「読めない」のか「読まない」のか、一字違いで意味が変わってきますね。そこまで大げさな話でもありませんが、学校の勉強がひと段落ついたら投稿の回数も増えるでしょう。

 

以上、読書の秋。

 

さて、安部龍太郎さん。基本的には歴史上の実在の人物や史実を描いた作品が多いのですが、市井の人々や架空の武士がメインの作品も読んでみたいですね。

この作品は戦国時代。はじめのページの描写に「豊臣秀吉の廟」とありますから、戦国末期。京の都に石堂多門という男がいます。いちおう侍ですが、羽織の背中には「天下布武」と刺繍がしてあり、腰の刀は刀というより鉈のよう。そこに包みを抱えて走る男と、女の声で「盗人です、どなたかその男を」。多門はその男を倒し、包みを女に渡します。女の名前は千代。お礼をしたいといいますが多門は断ります。

多門は、加賀白山の出身で、石堂家は白山神社所属の護衛集団の家系。しかし織田信長の一向一揆制圧のときに一向宗に味方をしていた石堂家ら護衛集団は滅ぼされ、生き残ったのはわずか。その生き残りが各戦国大名家に傭兵として送り込まれることに。多門が京に来たのは細川幽斎のもとを訪ねて指示に従ってくれと指令が。

女を助けた翌日、細川邸に向かうと、5人の頬かむりをした侍が旅人を囲んでるのを見かけます。なんとその旅人の中には千代が。多門は旅人に助っ人に駆けつけ、分が悪いと侍は引き上げます。細川邸に着いて、多門は幽斎から「金沢まである者を無事に送り届けてくれ」と頼まれます。その「ある者」とは、さきほどの旅人。そのうちのひとりは前田家の家老、横山大膳。この頃、前田家と徳川家康は一触即発の険悪ムードで、殿の前田利長は優柔不断、前田家の家臣たちの意見は好戦派と和解派に分かれています。そこで和解派の家老の大膳は細川幽斎を訪ねて相談をして、家康は利長の母、芳春院(前田利家の妻のまつ)を人質にすれば和解してもいいということで、交渉してなんとか和解にこぎつけますが、金沢では芳春院さまを人質に出すとはふざけるな、こうなったら戦だと非難轟々で針のむしろの大膳はふたたび幽斎のもとに解決策の相談に出向きます。そこで芳春院に戦はやめるようにと文を書いてもらって、その文を金沢の利長に渡そうということに。

近江の佐和山城にいる石田三成のもとに、作戦に失敗した侍のボスが「芳春院の文を奪うことはできませんでした」と報告。「なら金沢に着くまでになんとしてでも奪え」と命令します。

幽斎は、ときの正親町天皇の異母弟である八条宮智仁親王の御殿に向かいます。その目的は、古今伝授。古今伝授とは「古今和歌集」を伝えることですが、平安時代の頃に公家の中で和歌に独自の解釈を立てるようになり、それが門外不出の秘伝となり、かなり限られた人にしか伝授されないものになります。500年に渡って受け継がれてきた古今伝授ですが、この時代にはそれを伝えることができるのは幽斎ただひとり。古今伝授を絶やしてはいけないので天皇家の智仁親王に教えるという大義名分の他に、じつは幽斎にはもうひとつの目的があったのです。

天下分け目の戦いはいつ起きてもおかしくないとされている徳川家康と石田三成の豊臣方の勢力争い。じつはそこに「第3の勢力」を作ろうと画策しているのが幽斎の細川家と加賀の前田家。両家ともしいていうなら豊臣方ですが石田三成のもとで戦うのはまっぴらごめん、かといって徳川方についたとしても冷遇されることは目に見えてるので、それなら朝廷の後ろ盾を使って両家の存続を図ろうと考えたのです。

そんな中、とうとう事件が。上杉景勝と徳川家康の交渉が決裂、家康は上杉征伐に会津へ向かいます。ところがこれは石田三成の陰謀とされていて、家康が東へ向かったその隙に豊臣方の西国大名を結集させて挟み撃ちしてやろうとします。幽斎の息子の忠興も上杉征伐に向かったため、そうなってきますと古今伝授どころではない幽斎は伝授を中断して所轄地の丹後田辺城に行くことに。

豊臣方は田辺城への攻撃を開始、籠城戦になって必死に守ります。幽斎は朝廷の後ろ盾を使おうと、古今伝授の続きがあるため田辺城への攻撃をやめろという勅命を出してもらおうとしますが・・・

そしてさらに、幽斎にはもうひとつの切り札が。秀吉が生前に「人生最大の汚点」と三成に語っていた、幽斎に渡したというある連判状。その内容とは・・・

史実どおりにいきますと、関ケ原の合戦で家康の東軍が勝ち、江戸に幕府が開かれますが、さて細川家と前田家の運命はといったところですが、細川家は肥後熊本54万国の藩主となり、前田家は加賀100万石の大大名に。

まあそれはいいとしても、ある歴史研究家が「当時の日本が会社としたら家康は代表取締役会長で三成はせいぜい秘書室長、社内の勢力争いははじめから勝負はついていた」と例えていまして、御存知の通り後世の三成の評価はさんざんなものですが、この小説では秀吉が晩節を汚した愚行でお馴染み朝鮮への出兵の真意や徳川家康を敵に回して西軍の大将にならざるを得なかった事情などが説明されていて、なんだか三成が可哀想に思えてしまいました。

文中にありましたが、じつは過去から現在にかけて天皇家が政治の実権を握っていた時期というのは意外と短く、鎌倉幕府の武家政権誕生以降はむしろ苦しい生活だったほど。天皇家や公家の存在意義とはもはや「歴史と伝統」のみ。そこで古今伝授を継承することによって存在意義を守ろうとしていたのですね。大陸では王朝がたびたび変わりますが、日本では大和朝廷ができてから王朝じたいは滅んでいません。ときの権力者は天皇家を「利用」することによって政治の実権を握ります。戦国時代に入って「天下布武」をスローガンに天皇も仏教もすべて邪魔だ敵だと出てきたのが織田信長。つまり大陸のように王朝を滅ぼして自分が次の帝(みかど)になろうとしたのでしょう。しかし天皇崇拝といいますか天皇家は日本そのものという考えはおそらく武士の中で信長以外の全員がそう思っていたわけでして、なんとかしてあいつの暴走をストップさせないと・・・というのがこの物語のキーとなっています。

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