前回の生まれ変わりについての論考でも人間の魂が死後復活して再生を繰り返すという思想は、人は神が創造し、神の復活に際して裁きがあるというキリスト教の教えに反するはずと記しました。ハロウイーンの収穫祭で死者の魂に対峙するというのは元々古いケルト人の伝説に基づく習慣であり、キリスト教(カソリック)においては、正式な祭りではなく黙認しているだけであるとウイキペディアにも記されています。
一方で米国でのゾンビ映画(テレビ映画も)の人気は大変なもので、死体が勝手に復活して大暴れするシリーズ物が大人気でとうとう現実との区別がつかなくなって死人まで出る始末のようです。まさにGod damn itな番組なのだと思いますが。
前回の竹倉史人氏の著作で紹介されていた輪廻転生の概念が非常に興味深かったので備忘録の意味で少しまとめた状態で以下に記しておきます。
再生型は古くからの伝承や習慣に見られるもので、例として挙げられていたナイジェリアのイグボ族の概念をまとめたものを示します。
輪廻型については仏教における思想の元になったインドウパニシャド哲学における五火二道説について示します。因果に基づく人生は以降の仏教や日本の生まれ変わり思想にも受け継がれていると思います。
仏教における私(霊)は実体を伴わない(無)であると考えられているのですが、そうは言いながら煩悩に執着しつつ因果に捉われて人生を繰り返すのが人の世なのでしょう。
この私を五つの蘊の集合とみなす考えは、孔子の論語「為政編」における人の見分け方に通づるものがあると感じます。すなわち「子曰く、その以す所を視、その由る所を観、その安んずる所を察すれば、人焉んぞかくさんや。人焉んぞかくさんや。(人の価値を判断するにはやっていることを見て<五蘊の色と行>、その行為の動機を見て<五蘊の想>、何を持って満足するか<五蘊の識>を見れば良い)」という教えです。私もこの教えに従って人を観察して判断していますが、まさに適確な教えだと思いますし、逆に自分が判断されるときにもこの教えに従ってあまり煩悩に惑わされすぎないよう、誠実であろうと勤めています。この世における人のありようとは、五蘊の総合による仮の姿なのだというのは深い教えだと思います。
さて、日本の死生観は不二(生死を分けない、連続したものと考える)と両行(二つの概念を共に取り入れる、例えば祖霊は生まれ変わるもあり、常に我々を見守っているもあり。因果応報と言いながら悪人も死んだら仏という考えもあり)からなると以前にも紹介しましたが、いろいろな要素を取り込んだ輪廻と生まれ変わりの思想になっていると思われます。