rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

理不尽でも合法であれば正義とする思想についてゆけるか

2013-04-04 17:09:20 | 社会

私のブログでもたびたび話題にしますが、日本の社会と欧米の社会文化の根本的な違いとして、欧米の社会は合法性ということをことさら重視することがあげられます。昨今話題となる「コンプライアンスの重視」というのも、「合法」であれば納得できるできないの議論を封じて相手を服従させることができる(complyのもともとの意味は服従)ことを意味しています。

 

多民族、多文化の中で秩序を保つためには、明文化された法によって物事を決めることが必須であったために「合法性」というものが何よりも重視され、お互いの利害が衝突する場合には、皆が従う法同士を対決させて、どちらがよりrational(合理的か)で優劣をつけるというのが正しい紛争の解決法となったことは理解できます。そうでなければ戦争をして殺し合いをする他解決方法がなくなります。翻って同一民族、同一文化で数百年暮らしてきた日本人は、譲り合いと皆が少しずつ利を得る事で世の中を丸く納める事を正義としてきたという違いがあります。その最たるものが、公共事業などの受注をめぐる談合と言えるでしょう(だからこれは日本の文化でいえば正義と言えます)。

 

前にも書きましたが、トマス・ホッブズの「リヴァイアサン」を読んでいて違和感を感ずるのは「人間は他人を殺すことも自由である」という発想と「銃で脅して結んだ契約書も契約である限り守らねばならない」とする法や契約を感情より優越したものとする考え方です。これは神との契約は絶対だけれど、人間同士の事柄は人間界で決めた「法」で、より合理的であるよう争えば良い、という思想につながり、それは現在も有効なエトスとして続いていると思われるのです。

 

TPP交渉を何故非公開で行うのか、というと「参加国の国民にとって理不尽な内容であっても、参加国間で協定が結ばれて内容が合法となればそれが正義となる」からに他なりません。最近お題目のようにコンプライアンスの重視が求められる事の本意は「理不尽でも合法であればそれに従いなさい」ということを体で覚えさせられていると考えれば合点がゆきます。皆が納得できる内容でまとめるつもりならば、始めから公開討論で決めて行けばよいのですが、それでは各国の利害が調整できず、WTOやGATTの二の舞になることが明確だから「非公開で理不尽な内容であってもまとめてしまおう」としているのです。そもそもそのそのような貿易協定は世界の人々には不要であり、TPPを必要とするのは仕事がやりやすくなるグローバル企業だけだということになるのでしょう。

 

日米地位協定によると、「米軍は公務であれば日本国内どこに行く事も自由であり、行われた行為は日本国の法では犯罪であっても罪に問われる事はない」とされています。性犯罪や単なる傷害事件などは公務ではないから勿論問題になりますが、例えば米国にとって不利益となる政治家を暗殺することは、立派な公務であり、地位協定にコンプライアンスすれば、実行者を罪に問うことはできません。日本の現役の閣僚が突然死したり不自然な自殺をしたりする事例が時折見られますが、その日のうちに「自殺」とか「病死」といった報道がなされて深く追求されないのも、米国が公務として暗殺したから日本は罪に問えない、これは合法的事項である、という事情を反映していると考えれば納得がゆきます。米国が自国に不利益となる政治家を暗殺したり追放したりすることは中東やアフリカでは日常的に行われていることは皆さん承知と思いますが、日本でも「合法的」に行われる法体系ができているということです。必要ならば公務として都心でテロを起こすことも可能と言えるでしょう。だから安倍総理も野田前総理もアメリカから脅しをかけられて強く言われると「TPP入りまっせ」と本人の意思にかかわらず決断する結果になるのだと思います。何よりも「合法」であることの怖さはここにあるのです。

 

江戸期を含めて、日本の伝統的な法体系というのは、日本人の「倫理的善」の意識と矛盾しないよう作られていたと思います。だから「法を守る事は倫理的にも善である」という意識が日本人は強く、単なる約束規範である交通ルールも「車の来ない状態でも赤信号を守る」といった意識につながっています。「法に従う(コンプライ)事は倫理的にも善」という意識がもともと日本人は強いのであって、理に合わない法に対して別の法で対抗するという発想を日本人は持ちにくいと言えます。

 

イスラム社会においても、イスラム法を守ることはきっと神との契約を守ることにつながり、「法を守ることは倫理的にも善」という認識があるのではないかと推察します。しかしキリスト教社会においては、ルネッサンス期に「教会法による日常生活の呪縛」から解放された結果、現在の「合理性(ratio)を主体とする法」に基づく世界の形成に役立ったのだと思います。「法」を扱うにあたって倫理観にとらわれず、合理性のみを追求してお互いの利益を求める事ができるのは日本人やイスラム社会の人達にない「キリスト教社会の人達の強み」だろうと思います。

 

「理不尽でも合法であれば正義」という事態に対して、イスラム社会からは有効な対策は打ち出されていないように見えます。唯一の抵抗は「自爆テロ」という他の社会から理解されない倫理的殉教ということでしょうか。日本においても明文化されない習慣や官僚の抵抗で何とかしのいできたものの、いよいよTPPによって「理不尽でも合法であれば正義」の思想を受け入れざるを得なくなってきているように思います。中国は人治の世界で法治国家とはいえないので日本のように簡単にコンプライアンスさせることはできないでしょう。アントニオ・ネグリの著書「帝国」では、世界制覇を「合法的」に目論むグローバル資本に対する抵抗は世界の良識に基づく人々の結合「マルチチュード」しかない、と結論づけられています。私も理論や感覚としてはネグリ氏の主張は解るのですが、具体的にどうするかについてはまだ氏も結論を出せずにいるように見えます。私は「理不尽は理不尽とはっきりと声に出して、より納得のゆく法に変えて行く」ことをより多くの人達が目覚める事で実行してゆくというのが唯一の解決法のように現在は思っています。

コメント (2)
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