曹洞宗大本山総持寺に行く前、偶然に成願寺に参拝し、ようやくメインの目的地の総持寺!しかしながらここまででランチができる店も見つからず、総持寺をきちんと観終わるまでお預けとなった(^^ゞ
Wikipediaの「總持寺」の項はこちら
ネットで「鶴見 総持寺 石原裕次郎 墓」で検索したところ、「元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】」さんの記事が詳しいのでご紹介したい。
總持寺は元々は能登にあり、福井の永平寺ともども大本山として隆盛を極めていたが、明治31年(1898)に不慮の火災で、伽藍の大部分が焼失してしまった。その後その地で再建せず、明治44年(1911年)に現在地に移転してきたとのことで、堂宇の大部分は近代の建立。一部、移築されてきた建物は近世末期のものがあるとのこと。
冒頭の写真は迎賓館の「待鳳館」。東京千駄ヶ谷の尾張徳川家旧書院を移築したものとのことで、尾張家の派手好みな感じが玄関の透かし彫りからも偲ばれた。
総持寺が能登から移転して最初に法要が行われた「放光堂」。安政年間に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立されたものを移築しているという。その入り口の上の飾りの透かし彫りがまた見事だった。
下の写真は「向唐門」で、こちらは1925年の建造だが、唐門の屋根の構造を真横から見るのは一同初めてで、面白がってぐるっと回って両方から見てしまった。
「宝物殿」も入館料を払って見学。けっこう面白かったがあまり古いものはなかった。以前、仏殿に置かれていた中国の清代の釈迦如来座像は、漆塗りの上に衣紋が金色の針金が貼り付けられているという造られ方が珍しく美しかったのが印象的だった。
巨大な鉄筋コンクリートの切妻造の「三松閣」は、檀信徒の道場・宿泊、葬儀・通夜の会場とのことで、売店もあった。しかしながら、棺が車に乗せられて僧侶や参列者が見送っている家族葬と思われる御一行にも遭遇。まさに葬儀の会場だった。
三松閣の左奥が下の写真の「香積台」。
さちぎくさんは集印をされているので総受付のあるこちらにも入った。こちらの売店の方は「三松閣」の売店と違って僧侶の着る物も売っていた。僧侶が身につけるものから、さまざまな素材の作務衣やらTシャツ・トレーナーもあった。
木彫りの大黒天が祀られていたが、僧侶たちの起居している建物にも続いているようで、廊下に掲示物があって、内容が面白く、みんなで見入ってしまった。
着るものが華美にならないようにという風紀委員会の通達のようなもの。お風呂の掃除当番表には、ボディソープを補充するともあって、笑えた。
境内には初詣の参拝者という感じの方は多くなさそうで、観光ずれしていないお寺だという印象をもった。
(3)へ続く。