ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

13/01/12 恒例の散策(2)曹洞宗大本山総持寺は観光ずれしていなかった

2013-01-19 23:59:29 | おでかけ、旅行

曹洞宗大本山総持寺に行く前、偶然に成願寺に参拝し、ようやくメインの目的地の総持寺!しかしながらここまででランチができる店も見つからず、総持寺をきちんと観終わるまでお預けとなった(^^ゞ

Wikipediaの「總持寺」の項はこちら
ネットで「鶴見 総持寺 石原裕次郎 墓」で検索したところ、「元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】」さんの記事が詳しいのでご紹介したい。
總持寺は元々は能登にあり、福井の永平寺ともども大本山として隆盛を極めていたが、明治31年(1898)に不慮の火災で、伽藍の大部分が焼失してしまった。その後その地で再建せず、明治44年(1911年)に現在地に移転してきたとのことで、堂宇の大部分は近代の建立。一部、移築されてきた建物は近世末期のものがあるとのこと。
冒頭の写真は迎賓館の「待鳳館」。東京千駄ヶ谷の尾張徳川家旧書院を移築したものとのことで、尾張家の派手好みな感じが玄関の透かし彫りからも偲ばれた。

総持寺が能登から移転して最初に法要が行われた「放光堂」。安政年間に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立されたものを移築しているという。その入り口の上の飾りの透かし彫りがまた見事だった。

下の写真は「向唐門」で、こちらは1925年の建造だが、唐門の屋根の構造を真横から見るのは一同初めてで、面白がってぐるっと回って両方から見てしまった。

「宝物殿」も入館料を払って見学。けっこう面白かったがあまり古いものはなかった。以前、仏殿に置かれていた中国の清代の釈迦如来座像は、漆塗りの上に衣紋が金色の針金が貼り付けられているという造られ方が珍しく美しかったのが印象的だった。
巨大な鉄筋コンクリートの切妻造の「三松閣」は、檀信徒の道場・宿泊、葬儀・通夜の会場とのことで、売店もあった。しかしながら、棺が車に乗せられて僧侶や参列者が見送っている家族葬と思われる御一行にも遭遇。まさに葬儀の会場だった。

三松閣の左奥が下の写真の「香積台」。

さちぎくさんは集印をされているので総受付のあるこちらにも入った。こちらの売店の方は「三松閣」の売店と違って僧侶の着る物も売っていた。僧侶が身につけるものから、さまざまな素材の作務衣やらTシャツ・トレーナーもあった。
木彫りの大黒天が祀られていたが、僧侶たちの起居している建物にも続いているようで、廊下に掲示物があって、内容が面白く、みんなで見入ってしまった。
着るものが華美にならないようにという風紀委員会の通達のようなもの。お風呂の掃除当番表には、ボディソープを補充するともあって、笑えた。

境内には初詣の参拝者という感じの方は多くなさそうで、観光ずれしていないお寺だという印象をもった。
(3)へ続く。

13/01/12 恒例の散策(1)鶴見の総持寺に行く前、偶然に成願寺

2013-01-19 23:58:28 | おでかけ、旅行

いつものお馴染みの散策グループで、これまで芝の増上寺、池上本門寺と散策したので、「京浜四大本山巡り」のチラシに乗せられて残りの本山も行ってみようということになった。
今回は曹洞宗大本山の総持寺へ行き、時間があれば川崎大師に回る予定で、JR鶴見駅西口改札で集合。玲小姐さん、Aさん、私の女子高3人組にさちぎくさん、けろちゃんさんで5人が揃う。
駅前に総持寺への案内板などがないので、おそらくこっち方面だろうと歩いて行った。そして今回も失敗(^^ゞ裏側の方に回ってしまった!裏口参りが得意な一行なのだ(笑)

総持寺の入り口を探しながら歩くうち、由緒のありそうなお寺に遭遇。曹洞宗の成願寺だ。門の前にあった由来を書いた板碑には天正3年に創建され、三転して今の地にあるとあった。薬師三尊と十二神将は鎌倉末期の作とあり、講中が来て参籠したと武蔵風土記や江戸名所図絵に明らかだと書いてあった。
うーん、これはお参りせねばなるまい。


境内に入ると一本のそれなりに大きな木に花が咲いている。この季節に花?そうか、寒緋桜(カンヒザクラ)だろうということになった。梅も期待していない時期に花咲く木に遭遇したら、幸先がいいねぇという雰囲気になった。
冒頭の写真が本堂。左にある薬師堂のご本尊は秘仏のようだが、両脇にある十二神将には彩色もよく残っているのが見えた。下の写真は本尊の左側の十二神将の半分。

山門を出る時に左右の阿吽の仁王像を見たら、こちらは彩色部分が浮き上がっていて傷みが激しかった。残念~。
ネット検索すると「猫のあしあと」さんの成願寺についての記事がみつかった。「明治39年に、寺地を大本山總持寺移転建設地に献納して、大正元年当地に移転したといいます」とあり、総持寺の敷地は元々は成願寺のものだったことがわかった。なるほどねぇ。

たどりついたのは総持寺に裏側から入るための階段。やっぱり大きなお寺は高台の上に造るんだなぁと納得しつつ、頑張って登っていったら、墓地のエリアだった。石原裕次郎のお墓も総持寺にあるらしいという。やたらに派手な献花がある立派なお墓も見えたが、それがそうかはわからない。別にそんなにファンではない私たちはそこまで調べには行かなかった。

(2)へ続く。