NHKの朝ドラ「純と愛」で主人公の兄が「今日は1/17じゃないか」と言って合掌する場面にハッとした。そうだ、阪神・淡路大震災の日だ。
女主人公の兄はもうどうしようもないダメンズという設定なんだが、主人公一家が大阪に住んでいた頃に三人きょうだい一緒に大震災を体験し、長兄であるその兄がこわがる妹弟を励ましてくれたという記憶から、主人公が兄を見直すという展開になった。
さりげなく、盛り込んでくれた作家の気持ちが嬉しい。
阪神・淡路大震災から18年、日本人はその犠牲者の死を無駄にしてしまっていないだろうか。国がもっとちゃんとやらなかったのが悪いという言い方はあるが、国にそこをやるようにできなかったのは世論が盛り上がらなかったせいだ。
資本主義国の基本的価値観=私的財産は国家として補償する必要がない、というところを突き崩せなかった。だから一昨年の東日本大震災でも同じことになる。
「人と人との絆が大事」と言われているが、「絆」という言葉は情緒的すぎて積極的な意思が弱い気がする。望んでいないのに地縁や血縁で縛られるという「しがらみ」的な側面もあるように思える。
マイケル・ムーアのドキュメンタリー映画「SiCKO(シッコ)」で、医療費無料化のカナダで、その制度を支える税負担の高さを受けとめるのは何故かとムーア監督が一般市民に突撃取材をしていたが、「連帯のためだから当然さ」というような答えをしていたのが心に残っている。
「連帯」というと、「連帯保証人」になって身を滅ぼしたという嫌な使われ方もあるが、それだって、きちんと自覚的に自分の意思で判を押しているのだ。
そういえば、社会主義国のポーランドを民主化する先頭に立ったのが「自主管理労組『連帯』」でその委員長だったワレサ氏が、のちに大統領までつとめたんだっけ。
だから、単に「絆」というよりも「連帯」という市民意識を共有化していきたいなぁと私は考えている。
(1/18追記)
『ビッグイシュー日本版』206号(2013.1.1)の特集「『縮小社会』を生きる」で哲学者の萱野稔人さんと雨宮処凛さんの対談の中で、「萱野さんの本の中で、『自力で生きていけない人たちを国や政府が助けるべきか?』という調査で、助けるべきと答えた人が日本で一番低くて15%、ヨーロッパでは50%を超えているんですね。なぜ日本は自力で生きていけない人たちにこんなに冷たいのか、謎なんですけれど」と雨宮さんがしゃべっていて、その意識の大きな差に驚いた。
ネット検索してみたら、逆の設問に対しての回答の方がもっとシビアで、秋原葉月さんのブログの記事によると以下のようなデータだった。
自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだとは思わないと言う人が日本では三人に一人以上もいることがアンケートでわかりました。
日本 38%
アメリカ 28%
イギリス 8%
フランス 8%
ドイツ 7%
中国 9%
インド 8%
日本はなんという生きにくい国なのでしょうか。「人様に迷惑をかけるな」という日本的な美徳は、度が過ぎれば他人に冷酷であることの裏返しでもあります。
「情けは人のためならず」という諺が間違って解釈する人が多くなっている時代である。新自由主義経済によって、既得権でちょっと恵まれた条件にある人をバッシングする風潮とも根はひとつだろう。
Wikipediaの「情けは人の為ならず」の項はこちら
萱野さんへインタビューの最後のひとことのなかにヒントがあった。
「資本主義に代わる経済システムをつくるのは難しいですが、資本主義経済のものでも、拡大しない状況に耐え、そしてバブルのような不確実性にも耐えられるようなシステムをつくりだすことは不可能ではありません」
そのような修正資本主義の現代的なシステムをつくりだすためには、弱者(どんなに人間的に壊れているようにみえてもそうなったのはその本人だけの問題ではない)に厳しくあたるのではなくともに生きていく存在として社会的に包摂していこうという意識をもてる人が多数派にならなければならない。
少しでもそういうお仲間が増えていくようにお互いに啓発しあっていきたいと思っている。