ぱたの関心空間

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映画ドラえもん のび太の新恐竜 @ イオンシネマ久御山

2020-10-07 23:00:10 | 映画感想
ドラえもん映画で恐竜といえば。。。ピー助である。

そうですか。
そうきましたか。
ふむ。

「所詮子供向けアニメだろ?多少矛盾があったって仕方ないだろ」

うむ。
大人というのはそう言って飲み込むことの出来る人達なのだろう。

ええねん。儂、コドモやし精神年齢一桁やし。
ほっとけ!


んー、映画の感想書こうっと。



いや、とは言いながら、やっぱり「のび太の恐竜」の事は頭にあるわけですよ、こちとらね。
そうすると、冒頭部分の展開のいくつかはやっぱり「のび太の恐竜」の事を思い起こさずにはいられない。
っつーか、のび太だってピー助の事思い出すだろ?「生きたままの恐竜を発見してやる」「じゃぁできなかったら目でピーナッツ食べてみせる」ってそれ、ピー助の時もゆーてたやん!忘れたんか?のび太!?と。

ぬぬぬぬ、この「のび太の新恐竜」ののび太は「のび太の恐竜」の後日ののび太とは別人なのか?(←『の』多いな)
成る程、旧作の設定の新解釈か?
なら、なぜドラえもんの温かい目とかぐぅとかはなぜ削ったのだ?(そこ?)

ならば仕方ない。
別ののび太ストーリーとしてみるだけの事である。ふむ。

と、

思って、

いたのにさ。

がーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

ピー助ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

さて、気を取り直して感想である。

平日昼間のドラえもん。(&コロナ禍下)

じゃーん!貸切であります♪


でも、ちゃんとチケット取った席に座る真面目さ。
あぁ、褒めて褒めて褒めて〜(いや、当たり前だから。。。)。

ストレートに、今回のメッセージはなんでしょう。

儂が一番感じたのは
「がんばればできる」
でした。

超短絡的に言っちゃうよ。
そのメッセージはわかりやすいが画一的で、道徳的ではあるけれど教科書的で、普遍的に見えるかもしれんが多様である事を良しとするイマドキの価値観からすれば時代遅れな感じではないか。

そうそうそう。
儂は逆上がりができなかったのだ。

「がんばればできる」
そう言われていた。
だからがんばった。

でもできなかった。

儂は走るのが遅かった。

「がんばれば早くなるよ」
そう言われていた。
だからがんばった。

でも小学校から高校まで、すべてのマラソン大会で学年ビリという輝かしい記録を打ち立てた。

「がんばればできる」
この言葉の残酷さに、ここ数年でようやく世間は気付いたと思っていたのにな。
この時代にまだ「ドラえもん」という子ども向けの映画を使ってその呪いの言葉で洗脳するのか?と。

がんばってできた人は救われる。
がんばって飛べたキューは生き延びる事ができた。

しかし、
がんばってもできない人はいるのだ。

がんばってできなかった人は救われない。
その烙印のコンプレックスをかかえて生きていかなくてはいけない。
がんばっても飛べなかったらキューはどうなる?
弱肉強食の世界では当然生きていけない。のび太も救えない。

勿論、それでは話は成立しない。

問題にしたいのは2点。

1つはやはり個々の多様性であるとか、全ての人に生きる価値というのは儂ら人間の文明の話であって、それを恐竜に敷衍するのにはやはり無理があるということ。
そこは弱肉強食の世界であり、生存競争に敗れたものには非情な末路があるという現実に目を背けるなら、それはファンタジーでしかないと。
飛んだキューを見てTPのジルが云っていたのは、その時は「ん?」ってなったけど、多分キューは他の個体に対して劣っていたというよりは進化の過程にある個体だった、みたいなことだったのかな?と解釈。ひょっとするとそれで製作側はエクスキューズしているつもりかもしれないけれど、仮にそうだったとしてもじゃぁ本当に能力的に劣った個体だったとしたら救われないであろう現実については都合よくスルーしたことになる。

2つ目にはそもそも「のび太」という存在は「がんばってもできない」から準主役としての意味があるのに。。。ということ。
のび太はがんばる子だ。でもがんばってもできない子だ。それでもがんばる子だ。だからのび太が何か成し遂げる時にはのび太に甘いドラえもんの力を借りたり、がんばりを見かねて友達(ジャイアン、スネ夫、しずかちゃん)が助けてくれることで達成したり、意図せずに搦め手で偶然成功したり。まぁ、たまーには正攻法で頑張ってできることもあったり。
一方で他の子にはできない特技(あやとりとか、射撃とか、瞬時に寝る能力とか)を持っている子でもある。
ドラえもんのお話というのは基本的に「がんばってもできない」のび太が「(世間一般的な価値尺度では)できない」まんまで、それでも時に(正義感とか諦めない態度とか友情とか真面目さとかいった)道徳的な性格と(ある意味)強運とあまり役に立たない(偶にたつ)個性的な特技で、失敗したり成功したりする様子に一喜一憂するお話なのだ。
つまり、のび太それ自身が多様性を認めたり弱者を包摂する社会の体現者であり、そののび太がちゃんと受け入れられている(全体的に馬鹿にされているシーンが多い事は否めないけれど)というドラえもんというコミックのメッセージ性はある程度評価されてもいいものだと思う(さすがにちょっと大袈裟ですね、えへ♪)。
そののび太が「がんばればできる」教の教祖になってはいけない。
ましてや「みんなできるんだから」がんばればできる、と「みんな一緒があたりまえ」教義を上乗せしてはいけない。

儂はドラえもん映画には金子みすずばりに、みんなちがってみんないい、というメッセージを送り続けていただきたいのだ。

きっと制作側に悪意はない。
だから逆に悪質なのだ。
良かれと思うメッセージ性は強ければ強いほどそれにコミットメントできない誰かを排除してしまう事がある。

もう1つ、よくわからなかったところ。
最後の最後でのび太とキューを自由にする事で、恐竜たちをノビサウルスランドに集め、結果としてたくさんの恐竜をディープインパクトから救うわけだけど、そんな風に一部の恐竜は生き残ったというような説があるのだろうか?隕石の衝突で恐竜は絶滅した、と儂は普通にそう思っていた。
もしも、この設定が単にキューとミュー、そして関わりになった恐竜たちが絶滅するのを指をくわえて見ているなんて感情的にとても許せない、だから実は(知られてはいないけれど)一部の恐竜はノビサウルスランドによって生き延びたのが史実だったんですよー、って現在の学説で認められていないような事にしたとしたのならあまりにご都合主義的ではないか。
もっとも、6600万年前のことの真実なんて検証しようがないし、そもそも隕石が絶滅の理由だった、というのも説の1つに過ぎないとも言える。だからなんとでも言えるといえば言える。だいたいにして、ドラえもん自体がフィクションなんだから設定ではなんでもありだと言ってしまえばまぁ元も子もない。第一、ドラえもん自体が歴史を改変するために未来からやってきているわけだし(あぁ、身も蓋もない)。

(追記:おっと、こんな記事もあるのか、鳥に進化するキュー&ミューたちが生き延びるというのはここに繋がってる?)

TPが言うまでもなく、歴史の改変は大変な犯罪である。未来を完全に変えてしまう可能性があるからだ。
当然、過去の世界で自然の摂理に逆らうことも大罪である。恐竜は絶滅する運命だし、適応できない個体は淘汰されるだけだ。その残酷さを子供向けだからと避けるくらいなら、最初からテーマとして扱うべきではないし違うやり方を考えてもいいのではないかと思う。

え、そんなこと言いながら今回も泣いたんだろ、って?

な、泣くわけないじゃん!(ふふふ、目撃者は誰1人いないぜ)

あと特筆すべきは、恐竜映像のリアルさかな。
最近恐竜に興味があるうちの6歳男子に見せようかな、と思ったけれど。
逆に怖がって泣いちゃうかも。。。

まぁ、
なんにしろ、
ドラえもん、蝗、備蓄しすぎっス。



そういえば今回の全員プレゼントはおもちゃではなくて小冊子。
こういうのもいいよねー。