ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

「学校で育むアナキズム」(池田賢一著)

2024-05-04 00:52:11 | 読後感想など
儂はもう、アナキズムという言葉に抵抗なくなっちゃったけれど、多分世間一般的にはちょっとヤバいヤツ、みたいな感じよね、きっと。

でもなんかやっぱり儂の考えていることに馴染む、アナキズム。
やっぱり儂、アナキストで大丈夫(笑)。

確かに、他の人とちょっと違うかもしれない儂の考え方は、側から見たらちょっとヤバいヤツの時もあるかもしれんけど、それは儂がヤバいのではなくて、ヤバいというレッテルを貼ってしまう社会の方がヤバいのだと思うな。

そのヤバいアナキズムで学校教育を考えようというのだからヤバい事この上ない(^○^)。

などと、ちょっとフザケ気味で話しても構わないのだけれど、やっぱりここは真面目に行こうかね。


基本的にアナキズムというのは「無政府主義」というよりは「反権威主義」と言った方がいいと理解している。

どストレートに言うと、公教育でいうところの学校という場所は権威的なものの下に従順な人間になるよう子どもたちを教育する場所であるわけだから(あぁ、もうここで引いちゃう人いるだろうなー(^_^;))、アナキズムというのはその今の教育を真っ向否定するものであると言ってもいい。

著者も言っている
「支配関係を否定する点がアナキズムのポイント」である。学校はそれと正反対で「支配関係の構築に躍起になり、そのためにかなり無理を重ねている」と。
「実は、アナーキーであることによって、子どもも教員も安心して過ごせる学びの環境が作れるのではないか」ということを確認するのが「本書のねらいである」と。
(「はじめに」より)

目から鱗ボロボロ落ちる。
いったい儂の目にはどんだけ鱗あんねん!?

小手先の話ではない。
もう教育の根本理念の話なのだ。

理想的な教育のあり方、のようなものが儂なりにあったりする。
でも一方で、実現させるのは難しいんだろうな、と思ってしまったりもする。
いやさ、実はそこがちゃうねんなー。
今の学校の枠組みの中で考えようとするから難しいと考えてしまうだけの話やねん。
根本的に、その今の学校の有り様そのものが間違っていると。話はそこからなのだ、と。アナキズムを通して考えてみれば、それがとてもよくわかるのだ。

例えば、儂が常々考えている事の一つは、学校の中でどうしたら先生も子どもたちも親も楽になれるのか、という事だったりする。
先生なんか顕著だけれど、過労死ラインを超えて疲弊しているし、子ども達もギスギスした環境に置かれているし、親も視界の効かない学校という現場に対してのフラストレーションを抱えている。
どうしたらいい?と考えた時に仕事量を減らすだの人を増やすだの。儂もPTA役員をやっている時にはPTAとして学校に関わる事でそういった労力やストレスを減らす事に繋げられないか、と考えていた。
でも、それって一方で学校そのものの今の在り方を肯定しているわけで、今の枠内で考えているから、現状で学校が抱えている大変さ(無理している部分)を温存しがちなのだ。つまりそこには限界があるし、根本的な解決にはならない。

大阪の大空小学校の話を初めて聴いた時に一番驚いたのは、先生はみんな定時で帰りますよ、というところだった。
そんなバカな!ただでさえ大変な教育現場。通常の学校よりも多くの困難を抱えた子どもたちがいるという学校なのに、他にも手の掛かりそうな話を色々しているのに、残業しないなんて!
何故?
映画を観て本を読んで、そこにアナキズムという言葉は出てこないけれど、子ども達に任せるという姿勢とかね、教員の側もまた子どもと一緒に間違うしちゃんとその時は謝るしで支配非支配の関係ではないとかね。感じるわけさ、アナキズム的感覚を。
あぁこれは、何故?じゃない。故に、と言うべきであると。

勿論、社会全体に対して問題提起をしようとすれば、お金がないとか、人手が足りないとか、そもそもその理念が理解されにくいとか。
実現の難しさを云々するのはしたい人はすればいい。だけど、それ以前の話として教育の理念についてもっと議論されるべきだと思うね。
社会的にどう実現させるのかは政治家や官僚のお仕事であって、儂等市井が責任持つ必要なんてこれっぽっちもないのだから。

っつーか、実践だってできるところでは実践すれば良い。
実際にやっている現場はいくつもあるんだし、法律的、制度的には実現可能なのだから。
1番のネックは。。。思い込みかな。

競争的価値観に儂らは囚われていて、それをほとんどの人は疑いはしない。
けどもう、ちょっと考えれば気付くはずだ。
一部の勝者しか獲得を許されない栄光を求める競争的価値観というパラダイムに従い続ける以上、多くの敗者に安息はないし、勝者でさえ追い落とされる不安から逃れることはできない。そんな余裕のない社会が寛容になれる筈もない。
受験という手段を目的にしてしまった日本の学校社会は、成績表だの評価だの競争的価値観で埋め尽くされているわけで、そこから突き崩さなければ意味がない。

極論を言ってしまえば成績などつけるな、という事になる。

いや、でも待て、それは本当に極論なのか?
成績を上げる事など本来は教育の目的でもなんでもない。
学力をつけることは手段ではあっても、それで日常的に評価される事など手段でもなければ必要でもない。
実際に通知表をなくした学校だってある。

でも儂らの多くは現状の支配的価値観から降りる事はできない。
できないと(これもまた)思い込んでいる。

曰く、
「学歴社会なのだから仕方がない」
だと?
だから、それがおかしいのだ。
いい学歴を持たなければ将来の生活保障が得られない?
ほう?日本国憲法の生存権は何処に行った?
エラそうに言うけど、儂は大学院卒だけど今の仕事はパートの主夫だ。

学歴を否定するわけではないしパート仕事を卑下しているわけでもない。
言いたいのは学歴は将来いい生活をする為のパスポートではないし、どんな境遇であろうと生活する事についてこの国は不安があってはいけない、と憲法が宣言しているという事だ。

そもそも学歴のための勉強だと?
想像するだけでクソつまらんそんなものを学びだと呼ぶこと自体違和感しかない。
「個別最適化」の話(個別化することで逆に画一的になるというパラドックス!)でも思ったけれど、そもそも勉強(というか学習というか)の定義からして狭い定義の中に押し込められたパッケージから抜け出せないでいるのだ。
あぁ、くだらんくだらん。

支配的な思考から自由にならない理由の合理性は思い込みに支えられている。

そして、ひょっとすると最大の思い込みは
「学校は社会に出るための訓練をする場所」
ということかもしれない。

子どもたちは皆学校に行くことになっている。いや、正確に言えば、親には子どもたちに教育を受けさせる義務があるから、当然のように子どもたちは学校に行かなくちゃいけないと思っている、ということだ。
だから、子どもたちにとっての日中の居場所は学校しかない、と思われている、というのが正しい言い方だろう。

でも、著者は看破する
「学校は、むしろ一般社会から隔絶された時空間である」
と。

こうも言う
「教員の『社会に出てから困るぞ』という決まり文句」で教員自体が「学校は『社会』ではないと認めている」
と。
確かに(笑)。

子どもたちは学校に行く以前に家族という社会、場合によっては地域という社会や、塾やクラブチーム、趣味サークルのような社会とも繋がっていたりする。もちろん、個人差があることについてこの社会はめくじらを立てるのだろうけれど、その規範が問題であることは本書全体で書かれているとおり。
学校以前にすでに社会的に生きている子どもたちを社会から隔絶して、社会はこうだと社会とは違うルールを教え込む場所学校(苦笑)。
そんな学校からはみ出てしまった子は学校に行かない代わりにまた別の社会と繋がるチャンスがあるわけだから、逆に社会を学ぶ機会を増やす事になってしまうという逆説(冷笑)。
もう学校いらないよね(爆笑)。

子どもたちが「安定」している方がいい、などともいう。
荒れる学校、的な物言いの対局として言われる言い方と了解されていると思うのだけれど、はたしてどうか?
「波風を立ててくれるな」というメッセージは儂がPTA役員をやっている時に校長教頭から受け取った強いメッセージでもある。高校の時に授業中の態度を咎められて反論した時の教師のとにかくそれをするな、という理屈に合わない物言いへの不信感は、この「安定」を求める学校の態度と思えば合点がいく。子どもというのはそもそもはみ出す存在であり、また学ぶとか考えるという動きは動的なものだ。「波風を立てる」は確かに問題を起こすというニュアンスがあるので適当ではないかもしれないけれど、それぞれの子が自分で学ぶ考えるという時に想定を外れた動きが出るのは当然であり、それはむしろ「安定」からは程遠いことだろう。

例えば、インクルーシブなんて言うけれど、本当のインクルーシブ教育を実現したいのならアナキズム的思考は必然だと思う。いや、控え目に言ったとしてもアナキズム的に考える事は少なくとも実現への近道である、とは言えるんじゃないだろうか。
障害を持っているなど多様な子どもたちを単に同じ教室に入れればそれがインクルーシブ教育になるなどと呑気に思っている人は流石にもういないとは思うけれど、ならば、何が必要か?
制度やら設備やらハード面についてはみんなよく考えるのだろうけれど、実は必要なのは人々の中にある「無意識の良心」というべきか。少なくとも上から権威的に押し付けられる通達や方針などでない事は確かだろう。儂ら一人一人のアナキズム的な相互扶助や寛容が教育現場にもたらされたときに実現されるものなのではないだろうか。

ぶっちゃけ、儂は焦っている。
何故なら、今子どもたちが学校に殺されているからだ。
わざとラジカルな物言いをしているけれど、決して大袈裟な話ではない。
著者も最後の最後にこう書く。
「(学校で構築される権力)関係の中で子どもたちが『死んでいる』」「体罰によって、あるいは指導と称して、これまでいったい何人の子どもたちが死に追い込まれてきたのか」
他にもイジメを苦に、学校からはみ出してしまった果てに自死した子もいる。学校内での性被害など悍ましすぎて正視に堪えない。

学校は子どもにとって他のどんな場所よりも安心安全な場所であって欲しい、というのが儂の1番の願いだ。そう、家庭よりも安心安全な場所でなくてはならないと思っている。なのにその場所が子どもを殺している、など到底許せないのだ。

著者は上記の記述がある最後のチャプターに「アナキズムの魅力」という優しい見出しをつけている。魅力。。。うん、かなり強力に魅力的だ。

でも、儂はこう言いたい気分なのだ。
「子どもたちの命を守るために、今すぐにでも学校にアナキズムを」
と。

あらためて言うと、
アナキズムは決してアブナイ思想なんかではない。
むしろ、人間の気持ちに根差した相互扶助に信頼する優しい社会の思想だ。

儂は修羅の価値観より温かい規範の世の中で生きていきたいのだ。


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