パンダ イン・マイ・ライフ

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究極の俳句

2022-03-06 | book
俳人で芭蕉研究家の高柳克弘の「究極の俳句」を読んだ。昭和55年1980年生まれの高柳が、俳句の本質を若いうちに書いておけと先輩にいわれたと「あとがき」にある。2021年刊行。数々の名句の鑑賞とともに、今の俳句の置かれている現状を明らかにした俳句論。

17音で世界を構築する俳句。序章では、俳人は言葉を信じないという。虚子の「白牡丹」、芭蕉の「蛙」、子規の「柿」。短歌から派生した俳句は、それまでの概念にとらわれていた。

第1章 季語を疑う
芭蕉は、貴族の短歌から、庶民の俳句になったとき、季語を疑った。「桜」、「ホトトギス」、「花の春」。芭蕉は、作り手が季語に異質な言葉をぶつけ、読み手に化学反応を起こさせ、季語に新たな側面を見出させた。それが「取り合わせ」という手法だ。しかし、読み手にはストレスがかかる。そこで近代、虚子は季語そのものを詠む「一物仕立て」の手法を広める。
しかし、高柳は、この「一物仕立て」も「取り合わせ」だという。俳句は、物と物ではなく。言葉と言葉の取り合わせだと。高柳は「季語」を殺すのは、季語を伝統にして、侵すべからざるものにして扱う意思だと言い切る。

第2章 常識を疑う
俳句の俳は、自分ではない別の人を演じるという事だと高柳は言う。そこで、性別、年齢、身分、貧富という人をより分ける常識というラベルは俳句の前では意味をなさないと。
作り手は時に宇宙や地球や動物や植物になる。埃や死までも。それが俳句の読み手のよろこびだとも。俳句は17音しかない短詩だ。つまり、作り手の意思が読み手にダイレクトに伝わることがない。そういう意味で、作り手は常に読み手を意識せざるを得ない。作品は作者だけのものではない。

第3章 俳句は重い文芸である
俳句は季語の他に主題がある。季語と主題の一致する「ホトトギス」は傍流だと。芭蕉の提唱した「軽み」について、表現の重みを避けることと、主題を「重く」ることは別だと。
その主題も「季語」」「風物」「人生」「社会」と変遷してきた。キャッチフレーズや標語の概念も取り込んでよいと。

第4章 重みのある俳句とは その題材
これまで「郷里」も主題だった。現代では「べた」として忌避されそうな四苦八苦や喜び美しさを目出ることを今こそ握り直せ。最近の俳画や写俳、紀行文や小説とのコラボの現状を伝える。

第5章 重荷のある俳句とは その文体
短歌では口語が主流になったが、俳句ではなぜならなかったか。現代では文語は生活から遠い。しかし、今の俳壇では意識的に口語体で書く作者は圧倒的に少ないと。や・かな・けりの切れ字や文語文体の季語との相性の悪さ。そして、17音の短詩において、あっという間に読み終えてしまう危うさを高柳は指摘する。俳句の作品価値は、いかに読者の中に残り続けるかだと。

終章 俳句は時代を超えられるだろうか
芭蕉の頃の俳句と現代の俳句は別物だといわれるかもしれない。しかし、作り手は人間である。時代や環境の変化、作り手の考え方によって俳句は姿を変えることを積極的に評価したいと。俳句の新しさは限界かもしれないが、読むべき主題は限りがない。高柳は主題の新しさの道を二つ提案する。新しい主題を見つけることと、古い主題をもう一度握り直すことだという。
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