光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

べったり湿気、竹のそそり立つ空間

2010-05-20 19:01:32 | 散策
  なんだかすごい湿気があって、これで調子が狂うかも、と思う。でもそれだけではなくて、なん
だか知らないが悩ましいものはある。一つは自分の問題で、これはしかし自分でどうにかしないと
いけない。あるいはほっておくという解決方があってこれの方が正解であると思う。それ以外に、いろ
いろ毎日悩まされるものはあって、これの一つは、母の認知症だ。昔は、老人性痴呆症という名で
呼ばれたようなで、そうするとなんだかあまりよくはない。それはそうだ。
  本人が好きでそうなったわけでなく、人も次第に歳をとると、おかしくもなるもので、私など
は、そうゆうことを早くから自覚して、それゆえ自分の正当性を確認していたりする。それなりの、効
果があるがしかしそれ以上に自分では苦しんで、損をしたようなで、でもこれは自分の責任だから
どうしようもないもので、誰にも文句をいえない。自分で、このことの責任は取らないといけな
い、という感じだ。
  まともかどうか、というのはあまりに漠然として、でも人はそれぞれ性格も違う。生まれも環境
も違う。でも、ある共通した考えに共感できて、あるいはそれに従うのが妥当というものも、法律
のことだが、それに逆らうのはこれはなかなか大変である。それだけのエネルギがあれば他に自分
に役立つことも出来たであろう。そうゆう方向で生きていけたはずだ。ま、どのような曲がり道を
経てきても、生きているというのに今のところ変わりはなく、しかし疲労も溜まってきている。こ
れは間違いない。痴呆症症状かも知れない。出来たことが出来なくなる。そうゆうことも多いし、
人の何倍もの時間が、ある簡単なことをやるのに時間がかかる。でも、それが間違いのない、いい
方法だと信じてやっているというものもある。

  痴呆症状にしろ、それから歳を重ねるにおいて、起きやすくなる病気はある。段々と疲れてくる
し、天寿をまっとうなど出来るのはかなり限られる。同じ時間に生まれて、それで同じように学校
を出て、それなりの生活をしていて、先に旅立った、という人間がいる。不幸というのはいつに人に
訪れるかわからないもので、この心配はしかしやり始めると、それこそ病気になる。
  認知症という概念は、これは書物とか、あるいは一般的な概念でやって来るものではなく、自分
の親がそうなった、ということでにわかにあわただしくなった。この病気は、それこそ心臓とか脳の、
重症な病気、あるいはわかりやすい「ガン」とかいうものではなく、ガンにもいろいろで、それこ
そよくは知らないが、なんだかそのときになる。つまり、あれおかしいなと思ったときは、ある程度
その病気も進行している、という状況で現われる。そう思う。
  そうでないと、ごくごく普通の人も、みな認知症となってしまう。物忘れ、もひどいし、それか
ら誰でも出来るそうゆうことが出来ない、でも認知症ではないという人は、大部分であって、これが
大体普通の人である。そうゆう人の中に、私の父もいた。昔から、少し変わっていて、それで他の
人よりもどっちだというともしかして、長生きしたかも知れない。ある程度、その病気になって、
なんだか夜中に起きたり、全然好きでなかった歌とかを楽しそうに歌っていたりもした。
  もともと、体は丈夫だったようで、でもそうはあちこち出歩くタイプでなく、静かに過ごすほう
だったけれど、でもあるときから、外に自転車で出かけることが多くなり、どこへゆくと言うこと
なく、出かけて帰っては来るがやっぱり心配であった。それ以上のことはなかったけれど、それで
も夜中に起きだされると、その周りの人間は困る。たしかに、人は昼間に活動してというのが基本か
と思う。そうでなくてもいいけれど。いろいろと思い出すこともあり、また忘れたこともある。

  その病気というのは人によって違うけど、それでも同じとは思えない、そうゆう症状が今度は
母に出て来たから、これはやはり驚いた。父の看護、あるいは介護というものもやっていて、しかし、
父は介護施設の方々、介護福祉士の方にお世話になる時間が増えて、母の方は、少しは楽になった
と思う。私もようやく、ことの重要性に気が付いたから、手伝うところも多少はあったはずで、でも
その当時は、なんだか知らないがやけに落ち着いていた。特にうろたえることもなかったのであ
る。

  それで、今度は母の方がこれは少しおかしい。父と似ていない、しかしおかしさが出て来
て、気が付くのも少し遅れていて、でもそれは本当だった。
  それでもまだどうにかなると思っていた感じはあるが、やはり父が亡くなって母の状況は大きく
変化した。その変化に戸惑うことの大きさは、これは自分の予想を超えるものがあって、大変も何
もないような気持ちの日々が続く。まったくここまで変わってしまうのかという感じだ。
  この辺りで、ようやく認知症の恐ろしさに気が付くが、さて治療といえど、誰もが知っている薬、
アリセプトを飲むことしか今はない。本人は毎日の記憶がほとんどない。でも、生活は朝が来れば
起きるし、夜になれば眠る。特にそれに問題はなく、でも大体今生きている時間の記憶はない。恐ら
く食事はとったというのはしばらくは覚えているだろうけど。それと昔のことは出てくる。よく今頃子
供のときのことを例に出して怒ったりもする。

  気の毒だというのは、なんども便意を感じるらしく、それでトイレにゆく。この回数というの
はなんだか途方もない数字になりそうで、その苦痛をときに私に訴える。
  いろいろ、最近書かないことを書いて、冷却作業をやっているようだが、こうゆうことを聞
いているほうの身、というか体もおかしくもなってくる。排泄はもっとも大切なことで、また敏感で
もあって、ストレスの影響が出やすい。反対にこちらの方がおかしくもなってくる。

  長くなりすぎた。こちらもおかしくなる、そうゆうところで打ち切るのがいいようだ。

  
  いつもの、外の風景で、一番面白いものは、竹の生長というものかも
  知れない。





  コバンソウがあちこちにある。ヒメコバンソウというのはこれとは違う
  ようだ。




  小判というと、何のことという感じだが、大判もあるのか。コバンソウ
  のこの花?を見ていると、なんだかサンヨウチュウのようなものを思い
  出す。虫にも似ている。不思議な草。




  イチョウ。大木、お寺のイチョウ。鐘撞き台。




  立派なイチョウの葉に生長。イチョウの実の、ギンナン。取り出すのが
  大変で、銘菓というものがある。




  これ、ヒメヒオウギズイセン、だと思う。この葉っぱからあの海老の尻
  尾みたいのが出るのだろうか。



  大きな竹。そのタケノコも段々と大きくなる。




  もう目よりも高い位置になった。ただ竹の数は少なめ。竹林ではない。




  高いなー。




  ようやく、一番天辺が見えた。




  地上に戻ると、右側にまだこれから大きくなる、タケノコがある。
  あー高い。

  

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