今日は、最近の台風と少し違って、朝も風が吹き、まだ雨も残っていたが、だんだんと
それもおさまって、先ほど少し日が出た。
珍しいかも知れない。
このところの台風で、非難準備とか避難勧告、避難指示、いろいろ出る。きのうのNHKの総合でも、
それがやたら出て、でも結局どのくらいの方が、さて避難所に行かれたのか。
映像を見ていると、同じものが流れる場合が多く、考えてみるとそうVTRをためても意味はないので
それはそれでいいのかも。
この辺の避難所というと、さほど近くない中学の名が思い浮かぶが、その中というのは私は
知らない。つまり、その中学の出身の方なら、大体はわかるような。でも建物などは、建て直しとか
されている場合もある。
で、教室は、普通考えられず、通常は体育館とか、講堂ということになるのだろうが、下は板だな。
敷けるものはなんだろうか。まさか布団を持ち込むわけにゆかない。どう考えても、板の上で
薄い何かを敷いて。たとえばダンボール、そこでじっとしている、寒いかも知れない。喉も渇く。
クスリを常飲しているので、水もいる。考えてみると、そうゆうところへ行ける可能性はゼロだ。
いざとなれば助からない。今の心境はそれでいいというものだが。
2011年3月の11日の出来事はまだ覚えているが、それは全体的なものでもなく、印象に残るものは
多いが、それにしても、震源に近いところだけでなく、大都会東京も完全に麻痺していた。
私の知り合いだと、ほとんどが会社に泊まった、という方が多い。それでも、TVはやっていて、
ごった返すターミナル駅の人のすごさ、歩く人、あるいは、どこか泊まるところがないか捜す人、
それ以上のもろもろがあったのだろう。中には、どのくらいに時間をかけてか、自宅まで歩いたとか
いう方もおられる。あの混雑で、道もあるかないか。橋が落ちていないか。液状化現象、
さらに東京湾でも津波。あんまり頭に浮かんでこないが、もし私がそこに、たとえその近くに
あるいは通勤圏内に住んでいても、はたして歩いていえに帰る、ということをやったかというと、
ありえないのである。会社勤めなら、やっぱりそこにいただろう。
甥っ子も、そのときには都内の会社にいたようだが、最近は会っていない。特に理由はないが、
私の母が認知症で、こっちに来てもらっても何にも出来ないし、それならとお正月などは、自分の
学校時代の友達など飲んだり遊んでいたりしたほうがましで、結局、たぶんだが、大震災以後
会っていない。
従兄弟に当たる人は、もう何度も来ている。彼の母、つまり私の母の妹で私の叔母は、もちろん
甥っ子よりも長く付き合いがあるから、それからもともと年に一回か二回、必ずといっていいほど
叔母の兄弟に当たる人のうちに遊びに来ていて、母が亡くなるすぐ前にも、たしか来ていたが、
母はもう涙を流すことしか出来なかった。
待てよ、そうゆう話を書くのではなかった。
あの震災に遭遇した人、多くのかたがたは、未曾有の体験をしたわけで、それでも生き延びて
いるので、ある程度の自信のようなものも持っていて当然だろうと思う。大震災で亡くなる、と
いう人数も、これも明確に基準があって、大体一日に日本全国で亡くなる人がいないわけでは
ないから、その日に、3月11日に病気とか事故でお亡くなりになった方もある程度おられる。
それを抜きにして、おそらく、宮城とか福島、茨城、岩手などで、津波の被害ももろにこうむった方、
建物の中に閉じ込められたとか、そうゆう地震直接の原因で亡くなられた方というのが、
大震災で亡くなられた方ということになるのだろう。
あれから3年と半年以上たつが、多くの方は何事もなかったように振舞っておられる。こうゆうことも
もし自分がその立場にあったらと考えると、たぶん出来そうにない。
従兄弟と叔母は今は宮城にいて、その3月11日に叔母はもう高齢ででも近くで一人で暮らしていて、
従兄弟家族とは離れて生活していた。でも幸いか、従兄弟は会社に出勤する時間ではなかった。いえの中の
ものはほとんど倒れたという。当然ライフライン、というものは寸断。近くに中学に避難して、
何日かたって、連絡はあった。私は私で、母の介護とかで、でも宮城には、父方の叔母も
いた。特に父方の叔母は、一人で暮らしていて、もしかしたら、だめかも知れない、など
今でも思ったことを覚えているが、これまた、戦争を生き抜いたということもあるからか、
もともと、ここの雪深いところの生まれで、幼少時を生き抜いた強靭な身体と、精神の持ち主でもあって、
やはり生き延びた。いえは壊れなかった。でももちろん、電気も水も、みな止まって、それでも
いえが高台で、津波の被害はなかった。寒くて、いえの中はグチャグチャだし、・・・。
でも気丈な人間はそうは簡単に音をあげない。
一部、同じようなことをすでに書いているが、要するに、最近の台風は、災害の発生しない
ことがない状態が続くので、雨降って風吹いている中で、一人考えることは、ここで大雨が降ると
仮定して、出来ることはないということと、またしばらく時間がたつと、そういえば大震災に遭遇したと
いえる圏内にいて、どうして生き延びることが出来たのか、ということを想像する。
多くの場合は、わからないなーという感想しか持つことが出来ないのだが。
冬場だけではないが、火事で亡くなる方がおられる。これも怖いことだ。生と死を分けるものは
何か。常に突きつけられている課題だが、全然策が見つからない。
途方に今日も半分くれていた。
これはきのうの雨が降っているとき、雨がガラスにまずは水滴としてつく。それが大きくなって
下へと流れる。水滴を撮る。これはときどきやっているが、でも最近はなかったが、久しぶりに
やってみると、こうゆうことは出来る、でもなかなかむつかしい。気を紛らすにはいいかも知れない。
その一。雨である。まだ余裕がある。で、この灰色の雨がきっかけ。
その二。鳥の糞だが、いつになったらなくなるか。
その三。待てよ、水滴が出来ている。これを撮るのも何かあとで役に立つ。
その四。集中力がいる。
その五。明るい感じもする、空の方向は、ここまで。
地面のほうはどうなるか。
その六。なんだという結果だが、水滴を表わすになかなかむつかしいものがある。
その七。
その八。
その九。ピントをオートで出しているが、わかりやすいものでピントを出して
レンズをその状態にして、目的のものをということを何度か。
その十。時計で、カメラの時間合わせも。
えらく時間がたって、晴れると思ったら、また暗くなって来た。
これはまずい。
それもおさまって、先ほど少し日が出た。
珍しいかも知れない。
このところの台風で、非難準備とか避難勧告、避難指示、いろいろ出る。きのうのNHKの総合でも、
それがやたら出て、でも結局どのくらいの方が、さて避難所に行かれたのか。
映像を見ていると、同じものが流れる場合が多く、考えてみるとそうVTRをためても意味はないので
それはそれでいいのかも。
この辺の避難所というと、さほど近くない中学の名が思い浮かぶが、その中というのは私は
知らない。つまり、その中学の出身の方なら、大体はわかるような。でも建物などは、建て直しとか
されている場合もある。
で、教室は、普通考えられず、通常は体育館とか、講堂ということになるのだろうが、下は板だな。
敷けるものはなんだろうか。まさか布団を持ち込むわけにゆかない。どう考えても、板の上で
薄い何かを敷いて。たとえばダンボール、そこでじっとしている、寒いかも知れない。喉も渇く。
クスリを常飲しているので、水もいる。考えてみると、そうゆうところへ行ける可能性はゼロだ。
いざとなれば助からない。今の心境はそれでいいというものだが。
2011年3月の11日の出来事はまだ覚えているが、それは全体的なものでもなく、印象に残るものは
多いが、それにしても、震源に近いところだけでなく、大都会東京も完全に麻痺していた。
私の知り合いだと、ほとんどが会社に泊まった、という方が多い。それでも、TVはやっていて、
ごった返すターミナル駅の人のすごさ、歩く人、あるいは、どこか泊まるところがないか捜す人、
それ以上のもろもろがあったのだろう。中には、どのくらいに時間をかけてか、自宅まで歩いたとか
いう方もおられる。あの混雑で、道もあるかないか。橋が落ちていないか。液状化現象、
さらに東京湾でも津波。あんまり頭に浮かんでこないが、もし私がそこに、たとえその近くに
あるいは通勤圏内に住んでいても、はたして歩いていえに帰る、ということをやったかというと、
ありえないのである。会社勤めなら、やっぱりそこにいただろう。
甥っ子も、そのときには都内の会社にいたようだが、最近は会っていない。特に理由はないが、
私の母が認知症で、こっちに来てもらっても何にも出来ないし、それならとお正月などは、自分の
学校時代の友達など飲んだり遊んでいたりしたほうがましで、結局、たぶんだが、大震災以後
会っていない。
従兄弟に当たる人は、もう何度も来ている。彼の母、つまり私の母の妹で私の叔母は、もちろん
甥っ子よりも長く付き合いがあるから、それからもともと年に一回か二回、必ずといっていいほど
叔母の兄弟に当たる人のうちに遊びに来ていて、母が亡くなるすぐ前にも、たしか来ていたが、
母はもう涙を流すことしか出来なかった。
待てよ、そうゆう話を書くのではなかった。
あの震災に遭遇した人、多くのかたがたは、未曾有の体験をしたわけで、それでも生き延びて
いるので、ある程度の自信のようなものも持っていて当然だろうと思う。大震災で亡くなる、と
いう人数も、これも明確に基準があって、大体一日に日本全国で亡くなる人がいないわけでは
ないから、その日に、3月11日に病気とか事故でお亡くなりになった方もある程度おられる。
それを抜きにして、おそらく、宮城とか福島、茨城、岩手などで、津波の被害ももろにこうむった方、
建物の中に閉じ込められたとか、そうゆう地震直接の原因で亡くなられた方というのが、
大震災で亡くなられた方ということになるのだろう。
あれから3年と半年以上たつが、多くの方は何事もなかったように振舞っておられる。こうゆうことも
もし自分がその立場にあったらと考えると、たぶん出来そうにない。
従兄弟と叔母は今は宮城にいて、その3月11日に叔母はもう高齢ででも近くで一人で暮らしていて、
従兄弟家族とは離れて生活していた。でも幸いか、従兄弟は会社に出勤する時間ではなかった。いえの中の
ものはほとんど倒れたという。当然ライフライン、というものは寸断。近くに中学に避難して、
何日かたって、連絡はあった。私は私で、母の介護とかで、でも宮城には、父方の叔母も
いた。特に父方の叔母は、一人で暮らしていて、もしかしたら、だめかも知れない、など
今でも思ったことを覚えているが、これまた、戦争を生き抜いたということもあるからか、
もともと、ここの雪深いところの生まれで、幼少時を生き抜いた強靭な身体と、精神の持ち主でもあって、
やはり生き延びた。いえは壊れなかった。でももちろん、電気も水も、みな止まって、それでも
いえが高台で、津波の被害はなかった。寒くて、いえの中はグチャグチャだし、・・・。
でも気丈な人間はそうは簡単に音をあげない。
一部、同じようなことをすでに書いているが、要するに、最近の台風は、災害の発生しない
ことがない状態が続くので、雨降って風吹いている中で、一人考えることは、ここで大雨が降ると
仮定して、出来ることはないということと、またしばらく時間がたつと、そういえば大震災に遭遇したと
いえる圏内にいて、どうして生き延びることが出来たのか、ということを想像する。
多くの場合は、わからないなーという感想しか持つことが出来ないのだが。
冬場だけではないが、火事で亡くなる方がおられる。これも怖いことだ。生と死を分けるものは
何か。常に突きつけられている課題だが、全然策が見つからない。
途方に今日も半分くれていた。
これはきのうの雨が降っているとき、雨がガラスにまずは水滴としてつく。それが大きくなって
下へと流れる。水滴を撮る。これはときどきやっているが、でも最近はなかったが、久しぶりに
やってみると、こうゆうことは出来る、でもなかなかむつかしい。気を紛らすにはいいかも知れない。
その一。雨である。まだ余裕がある。で、この灰色の雨がきっかけ。
その二。鳥の糞だが、いつになったらなくなるか。
その三。待てよ、水滴が出来ている。これを撮るのも何かあとで役に立つ。
その四。集中力がいる。
その五。明るい感じもする、空の方向は、ここまで。
地面のほうはどうなるか。
その六。なんだという結果だが、水滴を表わすになかなかむつかしいものがある。
その七。
その八。
その九。ピントをオートで出しているが、わかりやすいものでピントを出して
レンズをその状態にして、目的のものをということを何度か。
その十。時計で、カメラの時間合わせも。
えらく時間がたって、晴れると思ったら、また暗くなって来た。
これはまずい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます