高橋正衛氏著『二・二六事件』( 昭和40年刊 中公新書 )を、読み終えました。
氏は大正12年に青森県に生まれ、出版当時は、みすず書房の編集部に勤務しています。ネットで探しても、これ以上の詳しい略歴は不明です。
先日読んだ末松氏の『私の昭和史』も、みすず書房の出版でした。二人は親しかったのかと調べてみますと、『私の昭和史』の「前書き」の最後に、末松氏の説明がありました。
・なお本書の註は、読者の理解の一助として、みすず書房編集部の高橋正衛氏が付したものである。 「 昭和38年1月 末松太平」
高橋氏が存命なら、現在94才です。明治38年生まれの末松氏より、18才年下ということになります。高橋氏の著作は、「2・26事件」勃発後の陸軍と政府の動き、騒乱の平定から関係者の裁判、判決後の軍と政府による処置までが書かれています。
陸軍内部の派閥の流れが、山県有朋や乃木希典にまで遡って語られており、事件には様々な要因が絡み合っていました。
高橋氏と末松氏の著作を同時に読めば、事件の全容が掴めるということが分かりました。どちらを先に読むかでなく、両方を読んだ後に見えてくるものがあると、そんな発見でした。205ページの文庫本ですが、沢山の事実を教えてくれました。
著者は断言していませんが、「2・26事件」の核心部分は、事件直後に出された『陸軍大臣告示』にあると示唆していました。
事件発生後の午前9時30分に、川島陸相は天皇に拝謁し、「反乱軍を速やかに鎮圧するように」と言われ、恐懼退出しています。反乱軍が、陸軍省、参謀本部を中心に三宅坂一帯を占拠しているため、陸軍の首脳は宮中で、参事官会議を開きます。
出席者名は、次のとおりです。
陸軍大臣 川島義之 陸軍参謀次長 杉山元 東京警備司令官 香椎浩
軍事調査部長 山下奉文 軍事課長 村上浩
軍事参議官 荒木貞夫、 真崎甚三郎、 林銑十郎、 阿部信行、 西義一、 植田謙吉、 寺内寿一
会議の結果、とにかく青年将校たちを懐柔するという方針が決まり、『陸軍大臣告示』と呼ばれる文書が配布されます。その中の一節を紹介します。
「決起の趣旨については、天聴(てんちょう)に達せられあり、諸子(しょし)の行動は国体顕現(けんげん)の至情(しじょう)に基づくものと認む」
つまり、青年将校たちの行動は日本の国の体制を、天皇を中心とした、より強固なものにしたい真心にもとづくものであると認める、という内容になります。
決起した将校に強い共感を示していたのは、荒木、真崎の両大将と山下少将で、反乱軍として鎮圧すべしというのが、杉山参謀次長と香椎司令官でした。川島陸相は、すでに判断力を失い、他の出席者に責められるままだったと言います。
当日の午後3時30分に、実際に発せられた『陸軍大臣告知』は、次のように変化しました。分かりやすいように、少し現代風に直しています。
一、決起の趣旨については、天聴に達せられあり
二、諸子の行動は、国体顕現の至情にもとづくものと認む
三、国体の真姿顕現の現状 ( 弊風をも含む ) については、恐懼に堪えず
四、各軍事参事官も、一致して右の趣旨により、邁進することを申し合わせたり
五、これ以外は、一つに大御心に俟つ
ところが当日の夜、川島陸相が持っていた原案には、二項の「行動」が、実際には「真意」という言葉だったことが分かり、刷りなおした上で、これを正式文書としました。混乱した状況の中で、印刷され、憲兵司令部から、決起部隊に配布されたところで手違いが生じたのだと、著者は説明しています。
このあたりが何度読んでも、ハッキリしませんが、一項の「天聴に達せられあり」という文言も、初めは「天聴に達せられたり」であったといいます。
氏の解説によりますと、「天聴に達せられたり」は、陛下が完全に聞かれたとの意味になり、「天聴に達せられあり」となりますと、陛下にはとにかく申し上げているが、その後のことは分からないという意味になるそうです。
二項の「行動」と「真意」は、これもまた大変な違いです。
「行動」となりますと、反乱の事実を認めることとなりますが、「真意」ならば「ほんとうの気持ち、精神」を認めるという曖昧なものになり、後日に、どのようにも解釈される言葉になるのだそうです。
私には、微妙な表現の違いがよく分かりませんが、法に基づく仕事をする者にとっては大事なことのようです。曖昧な表現でしたが、末松氏も『陸軍大臣告示』に疑問を投げかけていました。つまり次の言葉です。
・「2・26事件」を赤と思い込ませ、一挙に不人気にして葬り去ろうとした浅知恵に対しては、今も心が平かでない。
・「兵に告ぐ 」の起案者の氏名が今もはっきりしており、NHKに残る録音盤が、折に触れ再三再四放送されている。
修正される前の『陸軍大臣告知』は、反乱軍将校に好意的な山下少将が、即座に彼らを訪ね、口頭で伝えました。従って、2月27日の午前中までは、将校たちの間に決起成功の気分が漲り、彼らは更に維新の遂行を進めようとしました。
君側の奸を全て排除し天皇親政のもとで、真崎大将を中心とした内閣を作るという計画です。
しかし、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定にあたらん。」という、陛下の強いご意思が伝わると、27日の午後以降、全てが一変します。
将校鎮圧派だった杉山次長と香椎司令官の意見が陛下のご意思となり、真崎、荒木大将の意見が通らなくなります。決起した将校たちは、「天皇の意を体した官軍」から、「勅意に背く逆賊」へと急変してしまいました。
陸軍首脳と決起将校との、最後の正式対談が陸軍大臣官邸で行われました。出席者は、真崎、荒木両大将、参謀次長、軍司令官を含む全参議官、そして反乱将校側は、香田大尉、村中、磯部、対馬、栗原各中尉でした。
しかしこの対談は、荒木大将の不用意な発言によって紛糾しました。将校たちは、荒木大将の説明と、『陸軍大臣告知』の矛盾を糾し、「われわれを義軍と思うのか、賊軍と思うのか。」と詰問しました。
軍首脳は誰も答えず硬い空気が張り詰めたまま、何ももたらさないウヤムヤな対談となって終わりました。
著者はここに、磯部中尉の遺した文書 ( 行動記 ) の一部を紹介しています。重要な部分なので、そのまま紹介します。
・歩哨の停止命令を聞かず、自動車が官邸に入ってきた。」
・近づいてみると、真崎将軍だ。「閣下、統帥権干犯の賊類を討つため、決起いたしました。」、と言う。
・「とうとうやったか。お前たちの心は、ヨオックわかっとる。」「ヨオック分かっとる。」と、答える。
・「どうか、善処していただきたい。」と告げる。大将は、うなづきながら邸内に消える。
これが事件発生当日の朝、磯部中尉と真崎大将の交わした会話です。
死を覚悟で決起したとはいえ、彼らの誰もが、内心に不安を抱いていましたから、真崎大将の言葉は大きな励ましと勇気を与えました。それなのに、何もかも分かっているはずの荒木大将が、「大権を私議」したと対談の冒頭で批判したのです。
彼らは陸軍上層部の卑怯な裏切りと、恃むべからざるものに恃んだ誤りを察知しました。
特攻隊を創設した大西中将は若い兵士を死なせた責任を取り、敗戦後自決しましたが、真崎大将も、荒木大将も、反乱軍将校の扇動者でありながら、武人らしい責任を取りませんでした。
述べておきたいことは、これが軍部内の派閥抗争の一つだったという事実です。世にいう「皇道派」と「統制派」の、闘いだったという側面です。
皇道派の軍人は、真崎、荒木両大将と山下少将、そして反乱軍将校たちです。統制派の軍人は、杉山参謀次長、軍事課長、参謀本部の幕僚たちです。野望を持った二人の将軍に青年将校が利用されたのか、利用して失敗したのか、いずれにしましても悲惨な事件です。
語り尽くせないことが、たくさん残りました。現在の日本にとって、無縁な昔の事件でなく、重要な教訓として私たち国民が引き継ぐべき課題です。
私が最も注目したのは、白石正義氏著『私の昭和史』です。末松、高橋両氏は触れていませんが、白石氏が語っていた「スターリン謀略説」です。昭和7年の「5.15事件」の関係将校として処分を受けた氏が、昭和63年に出版した著書です。末松、高橋両氏の著作の出版時と比較すると、私の述べている意味が分かります。
昭和63年 白石正義氏著『私の昭和史』
昭和40年 高橋正衛氏著『二・二六事件』
昭和38年 末松平太氏著『私の昭和史』
つまり高橋、末松両氏は、白石氏が語る「スターリン謀略説」を知らずに著作を書いているという事実です。付け加えるなら、昭和63年に出版された白石氏の著作は、既に「東京裁判史観」が浸透し、反日左翼メディアが力を持つ時でした。反日学者とメディアに無視され、世間に知られないままだったという事実です。
白石氏が語っていたのは、昭和10年の7月にモスクワで開催された、「コミンテルン第七回大会」での決議です。スターリンが決定した決議で、次の内容です。
1. 毛沢東の抗日宣言 ( 昭和10年 )
2. 西安事件 ( 昭和10年 )
3.「2・26事件」 ( 昭和11年 )
個別の項目は過去記事で紹介しているので省略しますが、世界史に残る重大事件として、上記3件は知られています。知られていないのは、昭和10年に開催された「コミンテルン第七回大会」での決議だったという事実です。
戦後史の見直しをするのなら、「2.26事件」を「コミンテルン第七回大会」の「スターリン決議」との関係で検討すべきではないのでしょうか。
本日はここまでとし、続きは次回にいたします。