昭和 7年の「5・15事件」、昭和10年の「国体明徴事件」と話が進みます。
武装した海軍の青年将校が総理官邸に乱入し、犬養総理を殺害したのが、「5・15事件」です。軍縮を支持した犬養首相が、海軍の将校に狙われていたのが一因だといわれています。事件をキッカケにわが国から政党政治が消え、軍人出身者が総理大臣となっていきます。
ネットでは、当時の世相が次のように語られています。
・大正デモクラシーに代表される、民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派は、あからさまに軍縮を支持し軍隊批判をし、それが一般市民にも波及した。
・軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は、肩身の狭い思いをしていたといわれる。
・昭和10年、美濃部達吉の「天皇機関説」を攻撃することで、政治の主導権を握ろうとした立憲政友会、軍部、右翼等の諸団体が、時の岡田内閣に迫って出させた政府声明 である。
・「天皇機関説が、天皇を統治機構の一機関としているのに対し、「国体明徴声明」では、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であると宣言した。
これについて、岡田首相が意見を述べています。
・総理大臣という立場にあって、しかも当時の国内の情勢からすると、まことにこういう問題は扱いにくいものだった。
・自分の心の中はともかくとして、言葉を表に出す時は慎重に構えて、些細なことで、言葉尻を捉えられないようにしなければならなかった。
・内閣の本来の任務を遂行する道で、こういう攻撃にあって中断するのは残念なことだし、むしろ自分のやるべきことは、こういう独裁的な動きを抑えて、立憲政治を守っていくことにあったのだから。
元海軍大将だった岡田首相でも、軍部の動きを独裁的という言葉で表現しています。国会答弁で、言葉尻を捉えられないよう苦労しているところは、平成の今も同じです。野党の議員の質が低いと私たちは批判しますが、国会質疑のレベルは、百年一日の如しで、変わっていないと教えられます。
「5・15事件」以来、軍部の若手将校のテロを恐れ、政治家はものが言えなくなったと、言われています。海軍出身の岡田首相も、結局は意に反し、
「私は機関説には賛成していない。」
と答えさせられています。
・これが、議会だけを相手にする問題ならば、信念通りハッキリしたことも言えるのだが、閣内の軍部大臣が機関説否定のほうへ賛成しているので、
・この方面と衝突を起こさず、それでいて、愛国尊皇の仮面をかぶった右傾勢力に対抗していくためには、自分の意にそわぬことも口にしなければならなかった。
野党だけでなく、閣内の軍部反対勢力にも気を使い、少しずつしか政策が進められない首相の姿は、現在の安部総理に似ています。大臣の金権疑惑を野党が攻撃し、偽物の証人まで連れ出し、この嘘がバレるという話も岡田氏が語っています。重要問題をスキャンダルですり替え、野党が倒閣に走るところも、今と同じ政治の有様です。
書き残しておきたいのは、「天皇機関説」騒ぎに関する昭和天皇です。陛下を知る良い資料だと思いますので、紹介します。
・陛下は、天皇は国家の最高機関であるから、機関説でいいではないかとおっしゃった。そして、困ったことを問題にしておる、というご様子だった。
・しかし私はこの御言葉を持ち出して、機関説を排撃する連中を、押さえようとは思わなかった。
・かりそめなことをして、累を皇室に及ぼすようなことは慎まねばならん。そう考えて、私の胸におさめておいた。
陛下の言葉を軽々しく他言しないという伝統が、平成の世では消滅しました。
今上陛下の軽さと、補佐する役人や政治家の思慮のなさに失望いたします。ご学友や床屋の主人までが、陛下のお気持を代弁し語るようでは、何をか言わんやです。
「開かれた皇室」という言葉を金看板とし、雑誌や週刊誌までが、あることないこと虚実取り混ぜて書き立て、現在の皇室は露出過剰となっています。このまま進めば、国民の「皇室への敬愛」が、霧散霧消するのでないかと心配になります。
「天皇の地位は、国民の総意に基づく」と「日本国憲法」に規定され、陛下も美智子さまも皇太子殿下も、その憲法を守ると述べれられています。けれどもそれは、「国民の総意によって皇室がなくなる日が来る。」という意味にもなります。
昭和天皇と首相の姿に、私は「立憲君主制」の日本をみる気がいたします。皇室を無くしたがっている共産党や民進党が、「日本国憲法」を順守せよと叫んでいますが、陛下も美智子さまは、疑問を抱かれないのでしょうか。
次回は、「2・26事件」について紹介します。元首相が一番力を入れて語っており、日本にとっても最重大事件の一つです。