市政をひらく安中市民の会・市民オンブズマン群馬

1995年に群馬県安中市で起きた51億円詐欺横領事件に敢然と取組む市民団体と保守王国群馬県のオンブズマン組織の活動記録

極北の不凍港湾都市・・・ムルマンスク(その2)

2011-03-07 00:50:00 | 国内外からのトピックス

■ムルマンスクと言えば、2000年8月12日に発生した原子力潜水艦クルスク沈没事故と、1978年4月21日に発生した大韓航空機銃撃事件が有名です。


ムルマンスクのあるコラ半島には無数の湖沼が点在している。銃撃を受けた大韓航空機はこうした凍結した湖に緊急着陸した。

 前者は、当時のロシアの攻撃型のオスカーⅡ型原潜「クルスク」(Kursk)が北緯69度40分、東経37度35分のバレンツ海において演習中、艦首魚雷発射管室で爆発が起こり、沈没した事件で、乗員111名、司令部要員5名、便乗者2名、総員118名が全員死亡した事故です。事故後、クルスクの船体は発射管室を切り離された後、2001年10月23日に引き揚げられ、ムルマンスク市近郊のロスリャコーヴォ町まで曳航され、そこの第82船舶修理工場の大型浮きドックに運び込まれ、同年末までに解体されました。このクルスクの母港は閉鎖都市のビジャエボでした。

 後者は、サハリン沖で発生した大韓航空007便撃墜事件より5年前に発生したもので、パリ発ソウル行き大韓航空902便がソ連領空を侵犯し、ソ連戦闘機スホーイSu-15のミサイル攻撃を受け、ムスマンスク近くの凍結した湖に強制着陸させられた事件です。007便墜落事件と良く似ていますが、この時は西側が強制着陸させられた事を即座に発表。着陸の衝撃で乗客2名が死亡しましたが、機長と航法士以外の残りの乗員乗客は事件の3日後に送還されています。

■こうして、いまでも、ムルマンスク市の北には、閉鎖都市と呼ばれる秘密都市が6つも集中しています。旧ソ連時代には、地図にさえ載らない秘密都市が数多く存在していました。そこでは住民は完全に隔離された状態で、その都市以外の住民とは手紙のやり取りはおろか、住所さえも知らせてはいけないという程の徹底ぶりでした。

 これらの「閉鎖都市」には軍需企業を配置し、機密保持のため数字を加えた暗号名で呼ばれました。都市に名称がないばかりか、地図にも載らず、統計資料にも数値が記載されませんでした。

ムルマンスク北部のコラ湾東岸にある閉鎖都市と思しき港湾施設。

 ソ連解体後のロシア連邦では、1994年にこれら「閉鎖都市」に従来の暗号名ではない正式な都市名が付与され、徐々に統計資料や地図にも記載されはじめましたが、現在でもこれらの都市は「閉鎖行政地域組織」と呼ばれる特別な地域行政機関です。2002年10月の国勢調査ではロシア全土には42地域、総人口1,271,672人を数えています。現在でも、42地域が閉鎖地区となっています。

 ムルマンスクの付近には、とりわけたくさんの閉鎖都市が集中しています。これらの都市はいずれも軍事用の閉鎖都市で、外国人はもとより、ロシア人でも入域には許可が要るそうです。

①ガジーボ市:北海艦隊基地。人口1万3075人。ムルマンスクの北45キロ、サイダ・グバ湾沿岸に位置。1956年建設、1981年市制。
②ザオジョールスク市:北海艦隊基地。人口1万3429人。ムルマンスクの北45キロ、サイダ=グバ湾沿岸に位置。1956年建設、1981年市制。
③パリャールヌイ市:北海艦隊基地、船舶修理工場。人口1万6295人。ムルマンスクの北33キロ、バレンツ海コラ湾西岸に位置。1899年建設、1939年市制
④セボロモルスク市(人口5万347人)、ロスリャコヴボ町(人口9787人)、サフォノボ町(人口5421人):北海艦隊基地。ムルマンスクの北東25キロ、バレンツ海コラ湾東岸に位置。1951年建設
⑤スネジノゴルスク市(人口1万4356人):北海艦隊基地、船舶修理工場。ムルマンスクの北38キロ、バレンツ海オレニヤ・グバ湾近くに位置。1972年建設、1980年市制。
⑥ビジャエボ町(人口7067人):北海艦隊潜水艦基地。ムルマンスクの北西80キロ、バレンツ海ウラ・グブィ湾に位置。2001年閉鎖行政地域に指定。

■こうした事故や事件や、閉鎖都市が今でも集中的に残っているのは、ムルマンスクが北極海に面した唯一の不凍港であり、戦略上、重要な位置付けがされているためです。


ムルマンスク旅客埠頭に停泊中の客船。たしかに海面は凍結しておらず、湯気が発生している。

 ムルマンスク港は入り江に沿って、軍港、旅客港、貨物港、漁港がずらりと並んでいます。入り江の水深はかなり深い模様で、数万トンクラスのタンカーや貨物船が入港しています。

ムルマンスク旅客埠頭の乗客用ターミナル。うしろに鉄道駅がある。

 旅客港は、鉄道駅のすぐ近くにあり、北方航路の拠点となっています。ここから定期船が対岸のアブラム・ムィースやミシュコボなどの町を結んでいますが、いずれも入域制限区域のため、外国人は往復はできますが、上陸することはできません。

 今回の取材では見られませんでしたが、ムルマンスク港は、世界最大のバーク型帆船「セードフ」の船籍港です。また、砕氷船による北極点航海ツアーも最近人気で、ここから出発するそうです。

 旅客港のすぐ北側には、大規模な石炭の貯蔵ヤードがあります。これらは、内陸の炭田から鉄道で運ばれてきた石炭を貯蔵し、ここからヨーロッパ諸国に輸出しています。


 ムルマンスクの産業としては、漁業、水産物加工(魚類加工・缶詰加工など)、海運、造船・船舶修理、鉄道、自動車輸送、梱包材製造、鉱業、産業機械製造、金属加工、食品製造のほか、北極海大陸棚の海洋地地質調査など極地ならではの仕事があります。

 北方航路を維持するため、砕氷船が欠かせません。旅客港の一角には、世界初の原子力商業船であり、砕氷船である「レーニン号」が係留され、公開されています。


■取材班はこのレーニン号を取材しました。子どものころ、科学雑誌で見た記憶があります。

 ムルマンスク港の旅客ターミナルビルの前の桟橋に係留されたレーニン号は、現在、原子力エネルギー情報センターとして一般公開されており、月曜から金曜までは学校の生徒を対象に午前10時から午後6時まで訪問することができます。ただしネット(http://centers.atomexpo.ru/)や電話などで予約が必要です。土曜と日曜は一般市民に公開されていて、事前予約は不要です。時間割りはネットで公表しています。また、訪問前や、訪問時にレーニン号の「船内ツアー」を希望する場合、対応が可能となっています。当会が取材したのは、月曜日の休館日でしたが、当会に内部を公開してもらいました。

 配布された資料によりますと、レーニン号のデータは次のとおりです。
 排水量19,230トン、全長134m、全幅27.6m、甲板までの高さ16.1m、喫水10.5m、原子力タービン発電、出力44,000馬力、最大速力19.6ノット、乗組員235名(1959当時)

 このレーニン号は、1957年にレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)で進水し、1959年12月3日に竣工し、その後30年間に亘り、ムルマンスクを拠点に砕氷船として北方航路ルートに従事し、貨物船を安全に北極圏の各港に導いてきました。

 累計で3741隻の船舶を誘導し、航行距離は65万4400海里で、そのうち氷海の航行距離は56万600海里(約100万km)に及ぶそうです。

レーニン号の船首部。砕氷のため船首部の鋼鈑の厚さは52mm。最大2mの厚さまで砕氷できる。

■原子力船は、採算を度外視した軍艦では潜水艦や空母など多数ありますが、民間の商船として建造された原子力船は、このレーニン号(1959-1966年改造後1970-1989年)が最初で、続いて米国の貨客船サバンナ号(運航期間1965-1970年)、西ドイツの鉱石運搬船オットー・ハーン号(運航期間1968-1979年)、そして日本の「むつ」でした。

 ご承知のとおり、「むつ」は1963年に建造計画がきまり、68年に着工、72年に核燃料が入れられ、74年から出力上昇試験を開始しましたが、1976年9月1日に青森県沖の太平洋で行われた初の航行試験中に放射線「漏れ」を起こし、16年にわたり日本の港をさまよい改修を受け、1990年から4度の実験航海後、96年までに原子炉部分は解体されました。莫大な税金がつぎ込まれた「むつ」は結局失敗に終わったとされましたが、唯一政治家だけがメリットを享受しました。

 こうして、原子力船は経済性の観点からロシア以外では、原子力船計画は全て中止されました。ロシアではレーニン号を含め、北極海を航行する砕氷船を主体に、これまでに計10隻の原子力船を建造し、就航させています。

レーニン号のブリッジ(操舵室)。4人の当直(士官2人、船員2人)が4時間交代で運転した。

■配布資料によると、レーニン号は、当初3つの原子炉で4基の発電タービンを駆動し、3つの電動モーターで3つのプロペラを回していましたが、就航から6年後に原子炉を2つに換装する計画が決まり、4年間かけて完成し、1970年に復帰してから89年まで運転されたとあります。

レーニン号が30年間に航行した北極海航路図。

 しかし真相は1965年2月に原子炉の冷却水が失われる原子炉事故が発生し、しかも炉心溶解寸前の深刻な事故で、このとき、乗組員が多数犠牲になったことが、ソ連崩壊後に判明しました。そして、事故を引き起こした原子炉は1967年に北極海のノヴァヤゼムリャ島付近の海中に投棄されたことも分かりました。配布資料にはこのことは一言も触れられていません。


蒸気タービン発電機。

推進機用電動モーター。

 この重大事故を機にレーニン号は大改装され、原子炉が新型に交換されたのです。換装工事は1970年春までに完了し、実際に復帰したのは、1972年と言われています。

機関制御室。

原子炉制御盤。

炉内監視カメラの画像モニター。当時としては画期的。事故を契機にこうした遠隔監視装置を充実させたものと思われる。

■結局、政治家を潤しただけの日本の原子力船「むつ」とは異なり、ロシアはなぜ、その後も、原子力砕氷船を建造し続けているのでしょうか。事実、89年にレーニン号が引退するまでに、4隻の大型原子力砕氷船「アルクチカ」(1975年就航、2008年引退)「シビーリ」(1977年就航、その後予備役で係留後、改装。2020年引退予定)、「ロシア」(1985年就航、2017年引退予定)「ソビエツキー・ソユーズ」号(1990年就航、2018年引退予定)と2隻の河川用浅喫水砕氷船「タイミール」号(1986年就航)、「バイガチ」号(1990年就航)が建造ないし就航していました。

レーニン号の船体断面図。

 その後、原子力砕氷コンテナ船「セブモルプーチ」号(1987年就航)、「ヤーマル」号(1993年就航、2019年引退予定)、「50ウィェート・ポベードゥイ」号(2007年就航)が建造され就航中です。

 北極海に面して長大な海岸線を有するロシアは、国土開発や経済活動のための物資の輸送を海側から行うため、どうしても砕氷船が欠かせません。砕氷船には強力な推進力と長大な航続性能、そして一定の喫水線の維持が要求されますが、ほぼ無限の航続力を有し、消費燃料による喫水線が不変の原子力船はうってつけです。

レーニン号の動力源である加圧水型原子炉の模型。

原子炉にはこのような燃料棒がそれぞれ40本ずつ装着された。写真は模型。

 また、砕氷船には、後部にヘリコプターを搭載しており、これを飛ばして前方の氷の状態を観測し、成るべく航行しやすい氷海条件を探索するのが役目です。

手術室も完備したレーニン号の医務室。

■配布資料では、これらの原子力砕氷船は全て民間の商船であることを強調しています。事実、現在の原子力船はすべてムルマンスク船舶公社「アトムフロート」に所属しています。しかし「アルクチカ」号には海軍用のレーダーが装備され戦時にはすぐに武装できるようになっていました。また、「アルクチカ」号は、1977年に北極点に初到達しています。

現在計画中の最新鋭原子力砕氷船の完成予想図。

 これらの原子力砕氷船の主要任務は、北極海の砕氷活動ですが、35名の船客を乗せる事もできるため、「ヤーマル」号や「ソビエツキー・ソユーズ」号は、1990年代から、外国人観光客向けに北極海観光クルーズ船としても活動しています。

 世界初の原子力船である砕氷船「レーニン」号は引退後、一時解体されそうになりましたが、キャプテン・ソコロフらの保存運動により、ムルマンスク港の一角を浚渫して2009年5月に係留され、2010年からは原子力エネルギーの啓蒙のための広報センターのひとつとして活用されています。

■この他にも、ムルマンスク周辺には、原子力潜水艦の秘密基地や原子力発電所、放射性廃棄物保管施設など、原子力関連の施設が多数ありますが、その殆んどは立ち入り禁止区域となっています。

ムルマンスクやコラ半島にある原子力関連施設の所在を示す地図。

 また、1965年2月のレーニン号の原子炉の事故で廃棄された原子炉が1967年に北極海に投棄されるなど、旧ソ連時代には、あちこちで原子炉にからむ事故が発生し、そのたびに、やっかいな原子炉の処理を海中投棄という形で行ってきたため、北極海にはどのくらい放射線廃棄物が捨てられているのか、誰も分かりません。

 事実、ロシア人は廃棄物に対する認識が薄く、平気でゴミのポイ捨てをします。核廃棄物もその感覚でやられてはたまりません。北極海に面した海岸線を有する隣国ノルウェーやバルト海をロシアと共有するフィンランドなどを筆頭に、EU諸国は、ロシアがきちんと核廃棄物を処理できるように、資金や技術面で支援しているのです。

子どもたちに原子力の理解を広めることを目的とした3Dシアター。EUの援助で設置されている。

■ロシアは、日本と異なり、強力な大統領制を敷いています。その意味では米国と似ています。ロシア国民は、ソ連のときのように、強いリーダーに憧れる傾向があります。リーダーもそれをわきまえて、国民のために強いリーダー像を演出しようとします。北方領土問題も、そうしたパフォーマンスの表れのひとつとみなすことができます。

 だから日本側も、政権がころころ変わっても、引き続き、粘り強く北方領土問題をロシア側にアピールしてゆくことが必要です。一方で、経済面や民間交流も盛んに行い、互いに言いたいことを言い合える環境作りが必要です。そうすれば、ロシアが日露戦争で失った領土を第二次大戦で奪い返したように、日本にとっても、いつか必ず、領土問題が解決するチャンスが巡ってくるはずです。

【ひらく会情報部・北極圏取材班・この項つづく】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする