市政をひらく安中市民の会・市民オンブズマン群馬

1995年に群馬県安中市で起きた51億円詐欺横領事件に敢然と取組む市民団体と保守王国群馬県のオンブズマン組織の活動記録

極北の不凍港湾都市・・・ムルマンスク(その1)

2011-03-06 13:10:00 | 国内外からのトピックス
■先日は、世界で最も暑い国を訪れたばかりの当会取材班は、2月下旬に、今度は世界でもっとも北にある大都市を訪れる機会があったので、レポートします。

 人口32万人といわれるムルマンスクは、北極圏にある最大の都市として知られています。北極圏というのは、真夏に太陽が一日中沈まない白夜と、真冬には一日中太陽が顔を出さない極夜という現象が起きる地域のことで、北緯66度33分39秒から北の場所を指します。ちなみに、ムルマンスクでは極夜は12月2日~1月11日まで続き、白夜は5月22日~7月22日まで続きます。だから、初日の出は1月12日ということになります。

 北緯69度にあるムルマンスクを2月下旬に取材する計画が決まった時には、殆んど太陽は拝めないのではないかと思いつつ、現地に赴きました。


↑成田空港第1ターミナル北ウイングのアエロフロート窓口。↑
■成田空港を午後1時に出発したアエロフロートSU576便は午後5時25分にモスクワのシェレメチェボ空港に着きました。時差が6時間あるため、飛行時間は10時間以上かかります。

 ちょうど隣の席の方がキルギスに行くという青年協力隊のOGだったので、退屈せずに過ごすことができました。その中で、興味深いのは、いまだに略奪婚が横行しているというイスラム圏諸国ならではの話でした。なぜ、日本から韓国の仁川経由で大韓航空などで最短距離のフライトを利用しないのかと聞いたところ、モスクワ経由のアエロフロート便のほうがはるかに安いのだそうです。たしかに、今回のムルマンスク往復に要したフライト費用は10万円で済みました。


かつては狭い遅い寒いの悪名高いシェレメチェボ空港だったが、2009年11月にターミナルD(=シェレメチェボ3)が完成し、同年11月15日から供用開始となった。ここはアエロフロート・ロシア航空と、同社が加盟するスカイチーム加盟各社の専用ターミナルであり、該当するすべてのフライトはこの最新ターミナルで手続きが行われる。写真はターミナルDの入国管理のパスポートコントロール。相変わらず、女性係官はガムを噛みながら隣の同僚と雑談に耽り、このとおり時間がかかる。設備は新しくなっても、人間は相変わらず。

 モスクワからムルマンスクには毎日12便が飛んでいますが、取材班が登場したのはモスクワ発午後9時15分のアエロフロートSU621便でノルダビア航空の機材を使用した共同運航で、この日最後のフライトでした。したがって、2時間20分のフライトの後、ムルマンスク空港に到着したのは夜中の11時35分でした。タラップを降りると零下20℃の世界がそこにありました。


真夜中のフライトだが一応夜食が出る。

■既にモスクワで入国手続きを済ませていたので、荷物を受け取るだけでしたが、極寒のためか、なかなか荷物がターンテーブルに出てきません。ターンテーブルといっても、小さいコンベアが半円を描いているだけで、残りの半円は建物の外です。壁に設置されたゴムシートの幕の隙間から、冷気が室内に入ってきます。頭から毛糸の帽子を被らないと寒くていられません。20分くらいしてようやく荷物が届きました。

 空港の建物の外に出ると雪と氷の世界です。樹氷が照明に映えてキラキラとしています。ムルマンスク空港から北にある市街地まで45キロほどあり、車で約40分で到着します。タクシーの相場は700ルーブル(約2100円)ないし1000ルーブル(約3000円)ですが、帰国時、ホテルで空港までタクシーを頼んだときは400ルーブルで済みました。

タクシー乗り場まで100mくらいあるが、地面は圧雪でカチカチのためキャスター付き荷物の移動には支障がない。

 タクシーは、凍結した道路を時速100キロ以上でとばします。月が地平線近くに見えましたが、街路灯もなく、車のヘッドライトに照らされた道路は、黒っぽく見える四本の轍の他は真っ白です。除雪はしっかり行われている様子ですが、いつスリップするのか不安で、とくに対向車とすれ違う時は思わず手足に力が入ります。

■今回、取材班が宿泊したのは、ムルマンスクの中心街から6キロほど南にあるホテルでした。チェックインを済ませて部屋に入ると暖房がよく聞いており、長旅の疲れがどっと出てそのまま熟睡しました。

 今回は3泊4日の滞在でしたが、チェックインが夜中の12時を回っていたので、なぜか2泊分の料金しか請求されませんでした。それでは、今回の取材地のムルマンスク市内とその郊外の主な見どころを紹介します。


取材班が宿泊したホテル「69 Parallel」。住所:Murmansk, Lyzhnyi st., 14。電話番号:+7 8152 25 37 00。料金:シングル1350RUB(朝食込)。支払:現金(ルーブルのみ)又はクレジットカード可。URL:http://www.69parallel.ru/

■ガイドブックなどをめくるとムルマンスクの観光スポットの筆頭に出てくるのが「緑の岬」(ゼリョーヌイ・ムィース)と呼ばれる市内中心部の北側にある丘の上にある大きなモニュメントです。

 ムルマンスクは、面積が138,98km2で安中市の半分程度ですが、北極海の一部のバレンツ海から50kmほど南北に深く切り込んだ入り江(コラ湾)の東側の岩場の沿岸に沿って20kmの長さに細長く広がっており、「緑の岬」の丘はその中央に位置しています。そのため、丘の上のコンクリート製の巨大な像は、ムルマンスク市内から目にすることが出来ます。高さは42.5mあるため、ちょうど高崎の観音山の観音像と同じくらいの高さに相当します。


ムルマンスク港から見える丘の上の像。

 慈悲深い曲線美の高崎観音と異なり、ムルマンスクのそれは無骨な兵士の像です。それもそのはず、ロシアでは大祖国戦争と呼ぶ第二次世界大戦で戦死した多数の兵士らの航跡を偲ぶために1972年に建立されたもので、防寒用の外套を羽織り、銃を背負って、極寒の中、じっと西を見つめています。





地元の人はこの兵士像を親しみを込めて「アリョーシャ」と呼んでいます。高崎観音と同じように、市街地から車で、10分程で行けますが、真冬のこの時期は、風が強いと非常に体感温度が下がり、長く居ることは出来ません。

 兵士の像をシンボルにしているムルマンスクにはそれなりの理由があります。

■ムルマンスクの位置するコラ半島は東をノルウェーとフィンランドに接しています。そのため、この半島には、かつてバレンツ海沿岸に古代ノルウェー人(ノルマン)がおり、彼らのことをロシアではムルマンと呼んでいたことに起因すると言われています。ムルマンスクは「ムルマンにある町」という意味です。

 町の歴史は新しく、北極圏にありながら、メキシコ湾流の影響で真冬でも凍結しないバレンツ海に面したこの場所を戦略的に重要視したロシア帝国が、1912年に地勢調査を行い。第一次世界大戦の1915年に現在の入り江の右岸にムルマンスク港が建設されたのが始まりです。背景には、当時、バルト海や黒海が封鎖された状況にあったため、北方の海の出口が必要だったことが挙げられます。

 1917年4月3日にロシア2月革命を迎えたため、ムルマンスクはロシア帝国最後の新都市となり、名前も、それまでの「ロマノフ・ナ・ム-ルマネ」から「ムルマンスク」という現在の町に改名されました。

■1917年のロシア10月革命で勝利した赤軍が当初ムルマンスクを支配後、一時、英米に支援された白軍が政権をとりましたが、1920年2月21日の暴動で、ソ連政権に戻りました。その後、第二次大戦までに、トロール漁船の基地や鉄道が建設され、さらに鉱業や造船業なども発展し、人口も12万人までに増えました。

 第2次大戦の発端となった1941年のナチス・ドイツ軍によるロシア侵攻で、ヒトラーはいち早くムルマンスクの戦略的重要性に気付き、同年7月と9月に陸と空から総攻撃を仕掛けましたが失敗し、その後はもっぱら空爆作戦に切り替え、トータル729回で18万5千個の爆弾が投下されたそうです。

 にもかかわらず、ムルマンスクは英米など連合軍側の補給物資の陸揚げ基地として機能し、最終的に1944年に10月7日にソ連軍の反抗により、ナチス・ドイツ軍は敗北しました。こうして終戦時には、ムルマンスクは独軍の空襲により壊滅状態となり、かろうじて港湾施設といくつかの建物が残っていた程度でした。

 そのため、ソ連政府は、終戦直後にムルマンスクを国内15都市のうち、モスクワ・ペテルブルクと並んで復興最優先の都市の1つに挙げて、巨額の復興予算を投入したため、ムルマンスクは急速に復興しました。

 戦後、産業施設、学校、幼稚園、託児所、映画館、クラブ、文化宮殿、テレビ局が整備され、1952年までには住宅建設が進み、人口が戦前のレベルに戻りました。その後、1960年代には、住宅の建築方法が、それまでのレンガ積み工法から、近代的な建築工法になり、ソ連政府は、北極圏にあるアルハンゲリスクとムルマンスクの更なる発展を決議しました。

 1970年代末から1980年代初期にかけて、さらにムルマンスクは成長し、9階建ての高層集合住宅が盛んに建設され、市の中心にはスターリン様式の建造物が立ち並びました。1980年代末期には人口は最大に達し、1989年に47万2300人のピークとなりました。

■こうして、産業生産の発達による貢献が讃えられ、1971年にムルマンスク市に労働赤旗勲章がソ連政府から贈られました。また、大祖国防衛戦争時、ナチス・ドイツ軍との戦いの中で住民が勇敢と不屈の精神を発揮したことを讃えてソ連政府は1982年に第一級祖国戦争勲章を贈りました。1985年には大祖国防衛戦争時の功績を讃えて、ムルマンスク市に対してソ連政府発行の勲章の中では最高章であるレーニン勲章と金星記章の授与と共に、「英雄都市」の称号が与えられました。


↑「アリョーシャ」の付近にある歩道わきの英雄都市を示す石碑群。英雄都市は次の12都市+1要塞が指定されている。、ロシア7都市(サンクトペテルブルク(旧レニングラード)、ヴォルゴグラード(旧スターリングラード)、モスクワ、ノヴォロシースク、トゥーラ、ムルマンスク、スモレンスク)。ウクライナ4都市(セヴァストポリ、オデッサ、キエフ、ケルチ)、ベラルーシ1都市・1要塞(ミンスク、ブレスト要塞)。なお、このうちミンスクは、他の都市や要塞に比べると抵抗の度合いが低いとされたが、ミンスクからの粘り強い要請でめでたく英雄都市として認められたという。

 しかし、これはソ連政府による最後の褒章であり、それから6年後にソ連邦は崩壊し、ムルマンスクはロシア連邦の所属となりました。ソ連崩壊後、首都圏に大量に移住した為、人口が減り続け、現在は32万人となっていますが、減少傾向は下げ止まりつつあります。


「アリョーシャ」の足元にある慰霊碑と灯の周りの雪かきをする作業員ら。

 というわけで、その戦略上、重要な位置であることから、わずか100年のあいだに激動の歴史を歩んできています。


緑の岬からみたムルマンスク北部の港と街の風景。

緑の岬から見たムルマンスク南部の港と街の風景。↑

緑の岬から見た対岸の風景。

【ひらく会・北極圏取材班・この項つづく】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする