かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

秘境なのか、「さいごの色街 飛田」

2012-04-01 01:01:20 | 本/小説:日本
 色街は、世界中どこにでもある。
 女性の春を売る仕事は、人類最初のビジネスだという説もあるほどだ。
 「さいごの色街 飛田」(井上理津子著、筑摩書房刊)は、いまだ残っている色街である遊郭地帯の飛田を取材した本である。飛田とは大阪西成区の天王寺の近くの地名で、今も約160軒の店が軒を連ねているという。最近の週刊誌では「日本の秘境」として紹介していた。
 この本の著者は女性だが、最初にここを訪れて以来胸騒ぎがして、この地へ通い関係者から話を聞き出して本にまとめた。
 樋口一葉の「にごりえ」や永井荷風の「墨東奇譚」のような世界があるというのだろうか。あるいは、吉行淳之介の「原色の街」のような物語があるというのだろうか。

 色街地帯として世界的に有名なのは、アムステルダムの「飾り窓」だろう。この「飾り窓」と称されるガラス張りの売春地帯は、ドイツから、ベルギー、オランダと北海沿岸の港町には、いまだ多く残っている。
 もっとも有名なアムステルダムの飾り窓は市の中心街のすぐ近くにあり、今では観光地帯である。運河に沿って飾り窓が並んで、窓の中では服を着た女性や下着の女性が佇んでいる。時に、歩いている男たちに秋波を送る。この飾り窓の並ぶ道を、女性の観光客も歩いている。
 アムステルダムを旅したときに、最初この地帯に入ったときは、やはり胸が高鳴った。観光地とはいえ、妖しげな雰囲気は消しようがない。僕も観光客として、散策したにすぎない。
 しかし何といってもこのアムステルダムの飾り窓といえば、映画「飾り窓の女」(La fille dans la vitrine、監督:ルチアーノ・エンメル、1961年仏・伊)で主演したマリナ・ヴラディの印象が強いから、悪いイメージがない。
 ベルギーの港町アントウェルペン(アントワープ)にも、海に続く川の近くに飾り窓の一角があった。
 これらの地帯はガイドブックには載っていないが、その近くに来ると妖しげな空気が漂っているのだ。

 僕が、初めて色街に出合ったのは、1985年、韓国への旅での釜山でだった。ホテルを探している途中、日本語で話しかけてきた中年のおっさんがいた。彼は戦前日本にいて、終戦の時に母国の韓国釜山に戻ってきたということだった。
 彼が、黙って僕を案内したところが不思議なところだった。そこは、映画のセットのような色街だった。薄明りの家の中にいる女性はチョマ・チョゴリの朝鮮の服だが、江戸時代の遊郭のようであった。
 そこは、今はもうないのかもしれない。
 
 *
 
 男は、思わぬ刺身のご馳走にありついたお礼のつもりか、私を案内すると言ってまた歩き始めた。男はどこへ行くかも言わないし、私はどこを歩いているかも分からなかった。どのくらい歩いただろうか。既に日も暮れて、あたり一面夜が忍び込んでいた。
 ある角を曲がったとき、ふと男は立ち止まり、私に諭すように言った。
 「あの角から先は、日本語を話してはいけません。カメラも隠してください。日本人だと分かったら付きまとわれ、厄介なことになります。私が朝鮮語で話しますから、あなたはただ頷いてください」
 男が言ったその角に入った瞬間、異様な空気が流れた。薄暗い道の両側に、ぼうっと明かりが灯った家が並んでいた。家の端の小さな出入り口には、まるで番人のように老婆がじっと坐っていた。建物の四角い部屋はガラス張りの素通しで、色とりどりのチョマ・チョゴリを着た女性が赤い絨毯の上に坐っていた。私たちが通るのを見てちらと目を向けた女性もいたが、女性たちはほとんどがじっと坐ったままであった。どの店もどの店も、妖しく艶かしい。
 そこは遊郭だった。まるで此の世でないような不思議な一角に入り込んだ私は、その妖しい空気に心臓が高鳴った。男は歩きながら、時々韓国語を誰に話すともなく口に出した。私は、言われたように頷きながら、なるべく悟られないように店の中をちらちらと覗いて歩いた。まるで、異空間にさ迷いこんだようであった。
 その一画を通り過ぎても心臓の高鳴りは止まらなかった。誰とも、すれ違わなかった。私たちの声以外、誰の声も聞くことはなかった。そこを過ぎても、男と黙ったまま歩いた。しばらくして振り返ると、あたりはもう普通の薄暗い街並みに戻っていた。まるで、『雨月物語』の一幕のようであった。
 私は歩きながら、そこがどこか住所の手がかりを探したが住所表示は見つからなかった。男にここはどこだと訊くと、そこは玩月洞と言い、かつて日本語で緑町と呼んだと言った。
 *「かりそめの旅」――ゆきずりの海外ひとり旅――(岡戸一夫著)第2章「釜山港へ帰れ、韓国」より。
 *この本の問い合わせは、ocadeau01@nifty.com
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