かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 死顔

2007-10-02 01:49:18 | 本/小説:日本
 吉村昭著 新潮社

 吉村昭最後の著である。
 癌の手術を終えた著者が、入院中自分の点滴およびカテーテルポートの針を抜き取って、それで自分の延命の拒否を示し、家人もそれを認めたと後に発表して話題になった。家人とは、妻の津村節子である。吉村、享年79歳。
 
 本書は、表題作の他5つの短編を収めたものである。この本を手にして読み始めて、それからだいぶん間が空いて最後の「死顔」を読んだ。次兄の死に直面した著者と長兄のやりとりが主な内容である。死が身近に感じられる年代の、淡々とした心情と有り様を描いたものである。
 読んでいてすぐに、これはもう前に読んだという錯覚を起こした。いや、錯覚ではなくて、この本に収めてある「二人」が、この作品とまったく同じテーマであったのである。初出発表に約3年余の間隔があるが、こうも似ている作品を並べるのも珍しい。

 私は彼の読者でなかったが、その死についてはやはり関心を抱かざるをえなかった。
 彼の申し出である、延命治療の不望、自分の死期を覚りそれを実行する意志の強さは、潔いと思える。
 人生、後半に入ったら、どのように死ぬかが重要になってくる。家人に見守られて、惜しまれつつ、静かに死ぬのは理想であろう。
 しかし、私のように独り者はそうはいかないであろう。
 死は、入院中のそれでない限り一人で迎える可能性も高い。誰にも覚られることなく、何日も過ぎるかもしれない。一人暮らしの老人のそのような報道は、よくあることだ。
 
 私と同じく独り身だった友人は、入退院を繰り返し長く病に伏せていたが、毎日、新聞配達人に自分の生存の確認を頼んでいたという。そのことは、後に彼の妹に聞いたことである。
 ある日、その新聞配達人がいつもの通り声をかけても返事がないので、部屋に入って彼の死を確認したという。
 彼は、いつか自分は寝たままの状態で死を迎えるであろうことを予感していたに違いない。次の日の朝が来ない日が来るという確かな予感。その朝を告げるのは新聞配達人であり、彼の声で、その日を生きて迎えたと思える生存の認識はいかばかりだったろう。私は、彼の豪放磊落な性格からして思わぬ繊細な配慮だと感じ入った。

 死の準備を早くすることはないが、死の覚悟だけは持っていたいと思うのである。格好良くといかないまでも、無様な死に方は迎えたくないと思っていても、いざその時が来たらじたばたするかもしれない。
 様々な持病を持っていた吉行淳之介は、最後は肝臓癌になった。癌と分かったとき、家人は本人には伏せていたが、死期が近まったと分かったときに医師がうっかりと病名を告げた。
 吉行は、一瞬間をおき、こう言った。
 「シビアなことを、おっしゃいますなあ」
 まだ、自分が死ぬとは思っていなかったのだ。吉行、享年70歳。
 死の直前、吉行は、「あと2冊、書きたい本がある」と言った。死を自覚したとき、もし書く時間があったなら、吉行ならどんな本を書いただろうかと想像するのだけど、その想像は愉しくもあり惜しくもある。
 
 死は、誰にでもやってくる。その時期は、自分では決められない。ふいにやってくるかもしれないし、ゆっくりと来るかもしれない。
 自分は、それをどう迎えるのだろうか。
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