11年ぶりと聞けば記録しておくべきだろう。
去る12月10日(土)の「皆既月食」である。日本全国で、皆既月食が始めから終わりまで起きたのは2000年7月16日以来という。
月食(一部が欠ける部分月食)は、起こらない年もあれば年に3回も起こる年もあるらしい。しかし、月に地球の影がすっぽり入る皆既月食はそうそうないのである。たとえその年起こったとしても、天候次第で見えるとは限らない。
月食は、満月の日に起こる。皆既月食は、まん丸い月が次第に欠けていって三日月になり、やがて痩せ細って全部がなくなってしまう。すると、次に反対側から細い弓のような光が出てきて、やがて三日月になり、次第に太ってきて、再びまん丸の満月に戻る。
満月から新月、そして再び満月という、普通は1か月かけて見せてくれる月の1周期をその日の2、3時間のうちに見せてくれるのである。
「月食」は、「月蝕」とも書く。月を食うより、月を蝕(むしば)むの方があっているように思う。少しずつ、それでいていつの間にか浸食されていくのだから。
皆既月食と書くと、普通の月食よりも、何だか一筋縄ではいかない神秘的な雰囲気を醸し出す。怪奇月食と書いてもよさそうだ。
古代は、いやそう古くない時代まで、月食や日食はオカルト現象として、祀りや占いの手段として利用されていた。月や太陽の運行による暦を把握している者は、祀りごと、すなわち政(まつりごと)をそれによって操り、権力をも握っていたのだ。
それが証拠に、今日の西暦であるグレゴリオ暦は、ローマ教皇グレゴリウス13世の名に依っているし、グレゴリオ暦の前のユリウス暦は、ローマ皇帝の礎をつくったユリウス・カエサルに由来している。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、暦の月にも自分の名前も入れてしまった。7月のJulyジュライがそうである。
「月」は、中国語では「月亮」あるいは「月球」。
台湾を旅していたとき、台南市をぶらぶら歩いていて「月球大飯店」というホテルを見つけた。小さくて、むしろうらぶれた感じだったが、名前が気に入ったのですぐにドアを開けて、そこに泊まったことがある。
月食は、中国語でも月食である。皆既月食を中国語でなんというか調べてみると、「月全食」とあった。ならば、部分月食はというと、「月偏食」である。何だか食い物のイメージがする。
月餅を全部たいらげたのが月全食(皆既月食)で、えり好みで食べたり食べなかったり、あるいは残したりしたのが月偏食(部分月食)のようだ。
漢字の本元は中国とはいえ、月全食より皆既月食の方が言葉に深遠さがある。
*
その日、12月10日、新宿に行くために夕方5時過ぎに家を出た。
多摩の公園に出たところで、ビルの向こうに大きな月が見えた。オレンジ色でそれは夕日ではないかと思うほど、とても大きかった。地表に近い月は実際よりも大きき見える目の錯覚だということは知っていたが、それにしても今日の月は大き過ぎるなと思ってデジカメに収めた。
新宿で買い物を済ませて、所用で小田急線の世田谷・経堂に出た。経堂は多摩の前に住んでいたところで懐かしい街だ。すぐに所用を済ませ、経堂に行ったときはいつも寄る、駅の近くの路地にある鰻屋(ここのは美味い)で鰻を食べて、飲みに行った。
飲み屋を出たのは夜の10時半ぐらいだった。
経堂駅に着いたら、何人かが上空を見ていた。なかには携帯で写真を撮っているような人もいる。僕も、みんなが見ている方を見上げてみると、そこには三日月が浮かんでいた。
うん? 今日、出かけるとき多摩で見たのは、忘れもしない丸い満月だったはずだ。
僕はその日、うっかり月食だということを失念していたのだった。
それから、僕はずっと月を見た。時々、デジカメのシャッターを押した。
駅の改札口を出てきた人は、そこで何人もが空を見ているので、止まって空を見上げる人が絶えない。すぐに携帯やデジカメを出す人もいる。
月は、だんだん欠けていった。月は欠けていくにしたがってオレンジ色が赤みを帯びてくる。月の明かりが薄くなり肉眼で見えにくくなっていく。ところが、デジカメでは目に見えない丸く月の輪郭までがおぼろげに見えるのだ。表面がデコボコしたクレーターとおぼしきあばたも見える。カメラの方が、肉眼よりずっと性能がいい。(写真)
こうなれば、月が消えるまで見ていないと落ち着かない。月が消えたころ、もう零時近いし、終電が近いので、仕方なく見るのを諦めることにした。経堂駅前で、1時間半も月を見ていたことになる。こんなに長く駅前で、月を見ていた人はいないようだった。
零時40分ごろ、多摩の駅で空を見た。反対側が欠けた三日月だった。見ていると、今度はだんだん三日月が太くなっていく。
午前1時20分ぐらいには、もとの丸い満月に戻った。
月は、それからは何事もなかったように太平とばかり、盆のように浮かんでいた。
次の日本全国での皆既月食は、2018年1月31日の大晦日だという。
また、見られるだろうか?
去る12月10日(土)の「皆既月食」である。日本全国で、皆既月食が始めから終わりまで起きたのは2000年7月16日以来という。
月食(一部が欠ける部分月食)は、起こらない年もあれば年に3回も起こる年もあるらしい。しかし、月に地球の影がすっぽり入る皆既月食はそうそうないのである。たとえその年起こったとしても、天候次第で見えるとは限らない。
月食は、満月の日に起こる。皆既月食は、まん丸い月が次第に欠けていって三日月になり、やがて痩せ細って全部がなくなってしまう。すると、次に反対側から細い弓のような光が出てきて、やがて三日月になり、次第に太ってきて、再びまん丸の満月に戻る。
満月から新月、そして再び満月という、普通は1か月かけて見せてくれる月の1周期をその日の2、3時間のうちに見せてくれるのである。
「月食」は、「月蝕」とも書く。月を食うより、月を蝕(むしば)むの方があっているように思う。少しずつ、それでいていつの間にか浸食されていくのだから。
皆既月食と書くと、普通の月食よりも、何だか一筋縄ではいかない神秘的な雰囲気を醸し出す。怪奇月食と書いてもよさそうだ。
古代は、いやそう古くない時代まで、月食や日食はオカルト現象として、祀りや占いの手段として利用されていた。月や太陽の運行による暦を把握している者は、祀りごと、すなわち政(まつりごと)をそれによって操り、権力をも握っていたのだ。
それが証拠に、今日の西暦であるグレゴリオ暦は、ローマ教皇グレゴリウス13世の名に依っているし、グレゴリオ暦の前のユリウス暦は、ローマ皇帝の礎をつくったユリウス・カエサルに由来している。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、暦の月にも自分の名前も入れてしまった。7月のJulyジュライがそうである。
「月」は、中国語では「月亮」あるいは「月球」。
台湾を旅していたとき、台南市をぶらぶら歩いていて「月球大飯店」というホテルを見つけた。小さくて、むしろうらぶれた感じだったが、名前が気に入ったのですぐにドアを開けて、そこに泊まったことがある。
月食は、中国語でも月食である。皆既月食を中国語でなんというか調べてみると、「月全食」とあった。ならば、部分月食はというと、「月偏食」である。何だか食い物のイメージがする。
月餅を全部たいらげたのが月全食(皆既月食)で、えり好みで食べたり食べなかったり、あるいは残したりしたのが月偏食(部分月食)のようだ。
漢字の本元は中国とはいえ、月全食より皆既月食の方が言葉に深遠さがある。
*
その日、12月10日、新宿に行くために夕方5時過ぎに家を出た。
多摩の公園に出たところで、ビルの向こうに大きな月が見えた。オレンジ色でそれは夕日ではないかと思うほど、とても大きかった。地表に近い月は実際よりも大きき見える目の錯覚だということは知っていたが、それにしても今日の月は大き過ぎるなと思ってデジカメに収めた。
新宿で買い物を済ませて、所用で小田急線の世田谷・経堂に出た。経堂は多摩の前に住んでいたところで懐かしい街だ。すぐに所用を済ませ、経堂に行ったときはいつも寄る、駅の近くの路地にある鰻屋(ここのは美味い)で鰻を食べて、飲みに行った。
飲み屋を出たのは夜の10時半ぐらいだった。
経堂駅に着いたら、何人かが上空を見ていた。なかには携帯で写真を撮っているような人もいる。僕も、みんなが見ている方を見上げてみると、そこには三日月が浮かんでいた。
うん? 今日、出かけるとき多摩で見たのは、忘れもしない丸い満月だったはずだ。
僕はその日、うっかり月食だということを失念していたのだった。
それから、僕はずっと月を見た。時々、デジカメのシャッターを押した。
駅の改札口を出てきた人は、そこで何人もが空を見ているので、止まって空を見上げる人が絶えない。すぐに携帯やデジカメを出す人もいる。
月は、だんだん欠けていった。月は欠けていくにしたがってオレンジ色が赤みを帯びてくる。月の明かりが薄くなり肉眼で見えにくくなっていく。ところが、デジカメでは目に見えない丸く月の輪郭までがおぼろげに見えるのだ。表面がデコボコしたクレーターとおぼしきあばたも見える。カメラの方が、肉眼よりずっと性能がいい。(写真)
こうなれば、月が消えるまで見ていないと落ち着かない。月が消えたころ、もう零時近いし、終電が近いので、仕方なく見るのを諦めることにした。経堂駅前で、1時間半も月を見ていたことになる。こんなに長く駅前で、月を見ていた人はいないようだった。
零時40分ごろ、多摩の駅で空を見た。反対側が欠けた三日月だった。見ていると、今度はだんだん三日月が太くなっていく。
午前1時20分ぐらいには、もとの丸い満月に戻った。
月は、それからは何事もなかったように太平とばかり、盆のように浮かんでいた。
次の日本全国での皆既月食は、2018年1月31日の大晦日だという。
また、見られるだろうか?
高校の同期会の後六本木のイベントに参加して
その帰りに空を見上げて真っ赤な月を目撃しました。
2018年の皆既月食は多分見れるでしょうが
多分多分京都で見ることになるでしょう。
月は、雲が出ていなければ、どこからでも見られます。この月を、遠く離れたところで(たとえ海外であろうとも)、誰かも見ているのだと想像するのは、なんとも不思議で楽しいものです。
京都に月は似合いそうですね。
京都に移住でしょうか。
次の皆既月食。僕は、どこで見られるか分かりません。
明日をも知らない身ですから。