桜庭一樹 文芸春秋社
「私の男」とくれば、「俺の女」だろうか。
人が自分の所有物といえる対象は、どんな関係で成り立つのだろう。「私のもの」「俺のもの」。そこに含まれるものは、固い絆とか血縁を超えたものを感じさせる。相手の存在そのものを抱え込むもの、飲み込まれるもの、同化できるもの、こう書き続けても、書ききれなく、それからはみ出るものが最も重要だと感じる。
男も女も、人を自分のものとなかなか言いきれない。それは、親が子に対してもそうで、ましてや夫婦間でも、そう言いきれないのは言うまでもない。
では、言いきれる場合は、どんな関係であろう。
そう、男と女の性的なものを抜きにして、この間系は言い表せないだろう。
「私の男」と言えば、女である私に夢中で、私の言いなりになる男で、「俺の女」と言えば、その主語が女性で目的語が女性になるだけだろうか。
おそらく、そうではないだろう。
言いなりになる人間は、所有物とは違う。
一方的に成立しているのは、関係として成立していない気がする。それは何かのときにすぐに崩壊する危険性を孕んだ、気紛れな関係である。
思うに、「私の男」と「俺の女」は対をなしていて、相互の不可分の関係にあるに違いない。
「私の男」と言い切るには、「俺の女」と言いきられる関係があってこそ、初めて成立するのではなかろうか。
本書は、本年度138回直木賞受賞作である。
これから結婚する24歳の私の男とは、まだ40歳の父である。
主人公の花は、9歳の時災害で家族をなくし、まだ若い親戚の男が養父となって引き取り、2人は一緒に暮らすことになった。
少し不良がかった父である男は、その日から彼女の男になった。
この経緯が、主人公の少女の目から、父である男の目から、主人公の婚約者の目から、男の元の恋人の目からと、各々の立場から少女と男との関係・心情が描かれる。
父と子の禁断の関係は、しばしば小説に登場するが、この小説は、舞台である海の匂いを醸し出すことに成功している。
「私の男」といえる対象を見つけ、それに耽溺する幸せと不幸が、北国の流氷のように迫ってくる。
作家、桜庭一樹は、危ういうまさがある。この作家とは、もう少し付きあわないといけないようだ。その危うい感性を快楽と感じるために。
「私の男」とくれば、「俺の女」だろうか。
人が自分の所有物といえる対象は、どんな関係で成り立つのだろう。「私のもの」「俺のもの」。そこに含まれるものは、固い絆とか血縁を超えたものを感じさせる。相手の存在そのものを抱え込むもの、飲み込まれるもの、同化できるもの、こう書き続けても、書ききれなく、それからはみ出るものが最も重要だと感じる。
男も女も、人を自分のものとなかなか言いきれない。それは、親が子に対してもそうで、ましてや夫婦間でも、そう言いきれないのは言うまでもない。
では、言いきれる場合は、どんな関係であろう。
そう、男と女の性的なものを抜きにして、この間系は言い表せないだろう。
「私の男」と言えば、女である私に夢中で、私の言いなりになる男で、「俺の女」と言えば、その主語が女性で目的語が女性になるだけだろうか。
おそらく、そうではないだろう。
言いなりになる人間は、所有物とは違う。
一方的に成立しているのは、関係として成立していない気がする。それは何かのときにすぐに崩壊する危険性を孕んだ、気紛れな関係である。
思うに、「私の男」と「俺の女」は対をなしていて、相互の不可分の関係にあるに違いない。
「私の男」と言い切るには、「俺の女」と言いきられる関係があってこそ、初めて成立するのではなかろうか。
本書は、本年度138回直木賞受賞作である。
これから結婚する24歳の私の男とは、まだ40歳の父である。
主人公の花は、9歳の時災害で家族をなくし、まだ若い親戚の男が養父となって引き取り、2人は一緒に暮らすことになった。
少し不良がかった父である男は、その日から彼女の男になった。
この経緯が、主人公の少女の目から、父である男の目から、主人公の婚約者の目から、男の元の恋人の目からと、各々の立場から少女と男との関係・心情が描かれる。
父と子の禁断の関係は、しばしば小説に登場するが、この小説は、舞台である海の匂いを醸し出すことに成功している。
「私の男」といえる対象を見つけ、それに耽溺する幸せと不幸が、北国の流氷のように迫ってくる。
作家、桜庭一樹は、危ういうまさがある。この作家とは、もう少し付きあわないといけないようだ。その危うい感性を快楽と感じるために。
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