かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

人生は長い暇つぶしなのか?を考える、「暇と退屈の倫理学」

2013-11-23 01:52:01 | 本/小説:日本
 佐賀に帰り、秋の祭りに興じた日々からすでに1か月が過ぎた。
 10月7日の長崎市のくんちから始まり、10月12日の佐賀市松原神社の日峯さん、10月18日の佐賀市白髭神社および勝宿神社の田楽、10月19日の大町町福母八幡神社の神輿行列、同日の白石町妻山神社のくんちの流鏑馬と続いた。(写真は妻山神社の流鏑馬)
 そして秋祭りではないが10月31日の佐賀バルーンフェスタを見た。
 その間の10月27日には鳥栖市で、サガン鳥栖のサッカーJ1、対セレッソ大阪戦を見にいった。この試合、不利な状況の中2-0で鳥栖は勝利し、J1残留に駒を進めた。

 佐賀の田園地帯は、春には麦が、秋には稲が穂をつけて広がる。この、時には青く、時には黄金色に染める田舎の田んぼの間の道を、風を感じながら自転車で走るのが好きだ。
 佐賀の田舎では、どこでも一日千秋の静かな空気が流れているが、秋の祭りの季節は特別の風が吹く。それが新鮮で、ときめきがある。

 田舎では、特に佐賀ではよく、「ここは何もなかですから」と、本気と謙遜を込めた自虐的な言葉を聞く。
 何もないはずはない。確かに地味ではあるが、いろんなものがあるのだ。僕は、そんな会話のたびに、佐賀にはこんなものがあるしこんな町がある、と語ってきた。
 僕は、今回気づいた。この「何もない」は、「何も刺激的なことがない」という意味なのだ。しかし、秋の祭りの季節は違うのだ。

 すでに東京での、田舎とは違った生活に戻り、祭りのない平穏な日常生活だが、月日だけは瞬く間に過ぎ去っていく。
 こうして東京でぼんやりと空を見ていると、他人からしてみると無聊をかこっているように見えるかもしれないが、僕自身は退屈を感じたことはない。しかし、「時」というものを考えると、ふと暇と退屈について考えてしまう。
 何もしていないから退屈とは限らない。何かしている時でも、退屈と感じることはあるだろうし、今までもあっただろう。そもそも、何もしていない時と何かしている時は、どう違うのだろうか。

 *

 永井路子は「うたかたの」(文芸春秋社)の中で、「それもこれも、みな死ぬまでの暇つぶしよ」と、物語の主人公に人生を語らせている。僕にはこの言葉が、心の奥にわだかまっている。
 「暇つぶしなら、退屈しのぎでしょ」という問いに、主人公は答える。
 「いや違う。退屈しのぎは一時のことだ。たまたま暇ができたのを埋め合わせするだけにすぎぬ。俺がいうのは、生まれてから死ぬまでのことだ。長いぞ、これは。覚悟を据えて暇潰しをせねばならん。退屈をもてあましてなどはおられんのよ」
 「人生は暇潰し」とは、認めたくないようでいて当たっているようにも思えるので、深く考えるのが恐ろしいという気にさせる。それを考えることは、「人生の意味とは何なのか?」という、根源的な問いに行きつくような気がするのだ。

 「銃・病原菌・鉄」で有名なジャレド・ダイアモンドは、「知の逆転」の中で、「人生の意味」という質問について、彼はこう断言する。
 「「人生の意味」を問うことに、私自身は全く何の意味も見出せません。人生というのは、星や岩や炭素原子と同じように、ただそこに存在するというだけのことであって、意味というものは持ち合わせていない」
 「人生に意味などないのだ」というのも、考えると当たっているようで恐ろしい。だとしたら、やはり「人生は長い暇つぶし」なのか?

 もともと、人類が長い間の食うや食わずの時代は、たとえ暇はあっても退屈は存在しなかったであろう。いやいや、原始時代は、暇という概念も存在しなかったはずだ。
 日の出とともに起きて、日が暮れると眠りにつく。その間は、食料を探し、獲物を追い、危険から身を守りながら子を育てる。何もしない安らかな時があったとしても、暇などは持っていなかったに違いない。ましてや、退屈など存在しなかったはずだ。
 暇と退屈は、稲作時代に入り、余剰生活が生まれてからのことだろう。

 *

 「人生は長い暇つぶしなのか?」とぼんやり考えていた、そんな時、おもむろに手にした「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎著、朝日出版社)は、それに応える極めて刺激的な本であった。
 本書は、パスカルからラッセル、ハイデッガーに到る古今の哲学者、経済学者の例文を主題として登場させるが、暇と退屈の関連性を軸とした哲学書である。それも、具体的にわかりやすい論調で、極めて今日的な問題点を探索した書である。
 著者は、好奇心をくすぐる例題を冒頭から掲げ、読む者を本題に誘い込む。数式を解くように論理的に、詐術師のように巧みに、命題に近づいていく。

 国や社会が豊かになれば、人には余裕が生まれる。一つは金銭的、経済的余裕で、そしてもう一つは時間的余裕である。
 豊かになった国の、その人たちは、その余剰となった金銭と時間をどう使っているのだろうか? 「自分の好きなこと」をする、という答えが戻ってきそうだ。
 好きなこととは何か? それは趣味とつながるのか?
 本書では、経済学者ガリブレイスの言葉として、次のように書いている。
 現代人は、自分が何をしたいのかも自分で意識することができなくなっているのではないか。自分の心の底にある欲望ではない、他から与えられたもの、つまりカタログや広告、テレビCMなどで提案された中から、自分の好きなことや趣味として、それらを選び、消費しているのだと。
 つまり、彼の言う「ゆたかな社会」では、生産者が消費者に、「あなたが欲しいものはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている、と。
 そして著者は、こう繋ぐ。
 「そもそも私たちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなど持っていたのか?」

 *

 まずパスカルの考える「人間の不幸の原因」を掲げ、「ウサギ狩りに行く人は、本当は何が欲しいのか?」という提題をあげる。
 ウサギ狩りは、ウサギを捕まえに行くのが目的である。だから、これからウサギ狩りに行こうという人に、ウサギを与えると喜ぶだろうか?
 答えは簡単である。彼は喜ぶどころか、不機嫌になるだろう。いや、怒り出すだろう。ウサギ狩りに行く人は、本当はウサギが欲しいのではないのだ。
 狩りとは何か? パスカルはこう言う。狩りとは買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを追いかけて、一日中駆けずり回ることである。人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から眼をそらしたいから、狩りに行くのである、と。
 対象はウサギでなくてもいいのだ。彼が欲しているのは、「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎ」なのだから。

 人は退屈から逃れるために、何を求めているのか?
 「人は楽しいことなど求めていない」と言う。
 人が求めるものは、刺激的な快楽と思いきや、いやいや、そうではないだろうと言う。退屈する人間が求めるものは、興奮できるものだと。ニーチェの言うように、苦しささえも求めてしまうのだ、と。
 言い換えれば、それだけ、快楽、つまり楽しいことを求めることがいかに困難なことかということだろうと、著者は言う。
 人は退屈ゆえに興奮を求めてしまうのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を求めることができる人である、と。

 本書は、単に退屈の中身を解説しているだけではない。
 本書の白眉は、ハイデッガーの思いもよらない退屈の分類と探究である。
 ハイデッガーは、退屈というものを、何かによって退屈させられることの第1様式と、何かに際して退屈することの第2様式の、2つに区別して考察する。
 第1様式は、自分の意にそぐわずに、ぐずつく時間によって引き止められている退屈。そこでは、気晴らし、暇つぶしを人は懸命に探すことになる。
 第2様式は、何かによって退屈させられるのではない。何かに際して、何かに立ち会いつつ、何となく、なぜか、いつの間にか、それと知らずに感じる退屈。
 例として挙げられているのは、予定された、それも何の落ち度もないパーティに参加して感じた退屈である。退屈を何となく回避する仕方で存在する気晴らしが、退屈と絡み合ってしまったのだ。現代人には無意識であっても多く存在する、日常の中の気晴らしである。
 これで終わりではない。さらに、ハイデッガーは、第3の退屈を挙げる。
 「何となく退屈だ」。これこそ、現代人の病だともとれるものである。

 「暇と退屈の倫理学」は、一筋縄ではいかない。
 もう少し、僕のなかで咀嚼しないといけない。なかなか興味深く刺激的で、退屈しない論題であるから。

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