かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

畏敬の念を抱かせる、「狼の群れと暮らした男」

2013-02-10 03:09:33 | 本/小説:外国
 狼は、その名の通り神々しい。人におもねることのない、威厳を漂わせている。それで、日本人は畏敬をこめてオオカミ(大神)と呼んだに違いない。
 西洋でも狼は特別だ。ローマで見られるオオカミの乳房に食らいつく双子の子ども像は、のちのローマの建国者だ。
 子どもの頃、野生のライオンや狼と友だちになれたらと夢想したものだ。ターザンのように。
 しかし、ニホンオオカミは絶滅したように野生の狼は減少しており、われわれも狼そのものをめったに目にすることはない。

 狼を飼った男が書いた「哲学者とオオカミ」(マーク・ローランズ著、今泉みね子訳、白水社刊)は、非常に興味深い書だった。この著者は、子どもの狼を引き取って育て、一緒に生活し観察したものだった。
 <2010年12.月4日ブログ>
 http://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/5d449260950bd3c7d9b03a5ab702695c

 ところが驚くことに、本当に野生の狼の群れの中に入って、狼とともに生きた人間がいた。
 かつてインドで、狼に育てられたという少女2人が発見されて、世間を騒がせたことがあったが(育てた神父の創作劇という説もある)、そのような話ではなくて、ちゃんと現代の文明社会に育ったイギリス人の男が、自らの意志で狼の群れに入り込んだのだ。
 現在、ロッキー山脈にあるアメリカ合衆国のイエローストーン国立公園では、絶滅したオオカミを再び導入し、野生の状態においている。男は、その森の中に1人入って、狼と接触し、その群れの仲間として生きたのだ。

 「狼の群れと暮らした男」(ショーン・エリス、ペニー・ジューノ著、小牟田康彦訳、築地書館刊)は、狼に仲間と認められた男の話である。
 その男ショーンは、森の中の狼の群れに入り、少しずつ距離を縮めていって、狼とのボディランゲージをとるのを試みる。
 人間に飼いならされた犬に対するように、エサ(食料)を与えて安心感と主従関係を作るのではない。彼は自らも野生の生活をし、何も与えるものも持たずに素手で狼に近づき、接触を果たすのである。
 仲間と認めてもらうために、何度も足や口を噛まれる。また、喉や腹を彼らにさらけ出さねばならない。一歩間違えば自殺行為である。いや、彼以外の人間だったら命はなかっただろう。
 さらに驚いたことに、群れに入った彼は、逆に狼から、彼らが狩から獲ってきたシカやウサギなど獲物の肉の1片を与えられるのである。彼は狼と同じように、その与えられた肉を食することによって、生きながらえていく。
 森での生活は、2年間も続く。
 狼に人間は怖いものでないという認識が植えつけられる前に、男は狼の群れから離れる。そのとき、男にとっても限界だったという。

 人間社会に戻ったときに、男がまず蜂蜜が無性に食べたくなったというのが印象深い。実際、すぐに瓶の半分を一気に食べたという。
 しかし、2年間の野生生活の間で、男は痩せ衰え、胃は小さくなっていて、現代社会の食事は受けつけなくなっていた。元の生活に戻るのに、かなりの時間がかかった。

 男は、吹雪の森の中で、腹が減り心身ともに壊れ始めたと思ったときのことを、次のように書いている。
 「どんな状況にいようと、どんなに絶望的に見えても、急いで選択肢を探さなければいけない―どうやって腹を膨らませるか、自分を守るために、あるいは傷の手当てに何を利用できるか。気持ちを強く持たねば、死あるのみだ。オオカミが同じだ。彼らは決して諦めない、決して自分をみじめだと思わない。彼らは致命傷を負っても走り続ける。だから私は何よりオオカミのようでありたかった。ほとんどの人間は愛玩動物を自分に似せようとしたがる。私は自分が大好きな動物のようになりたいといつも思った。」

 「オオカミは殺戮の力を持っておりいつでもそれを使えると示すが、どうしようもないときにしかそれを行使しない。」
 物語や空想ではない、本当に狼になりたい男の話を読むうちに、狼が愛おしくなり、会いたくなってくるから不思議だ。

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