かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ テヘランでロリータを読む ①

2007-04-25 00:20:52 | 本/小説:外国
 アーザル・ナフィーシー著 市川恵里訳 白水社

 本を読むということは、どういうことか。それは、生きるということにどう繋がっているのか。
 私たちは、漠然とその繋がりを思いながら読んではいるが、いつだって、読書を真剣な行為、それを掘り下げる行動としているわけではない。
 しかし、読書が真剣勝負だという世界があるのだ。
 そして、それこそ、本当の文学の世界と思えてくる。

 1979年のイスラーム革命後のイランのテヘラン。著者は、テヘラン大学の教員となるが、81年には、ヴェールの着用を拒否して大学を追われ、他の大学に移る。そして、95年、抑圧的な大学当局に嫌気がさして大学を辞し、自宅で自ら選んだ優秀な女子学生7人と、読書会を開く。アメリカの小説を読むという読書会。
 それは、まるで秘密結社のように行われた。活きいきと、過ぎゆく時を惜しむように。
 読む作家は、ナボコフ、フィッツジェラルド、ジェームス、オースチンなど。
 外の世界、イランでは、アメリカの小説を読むという雰囲気は次第に消滅していく。いや、それは敵愾心を持って見られていく。

 「小説は寓意ではありません。それはもう一つの世界の官能的な体験なのです。その世界に入りこまなければ、登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻き込まれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。」

 「夢というのは完全な理想で、それ自体で完璧なものなのよ。たえず移り変わる不完全な現実に、どうしてそれを押しつけるような真似をするの? そういう人間はハンバートになって自分の夢の対象を踏みにじるか、ギャツビーになって、みずから破滅することになるでしょう。」

 久しぶりに読み応えのある小説を読んでいる。
 ただし、まだ途中で閉じたまま置いてある。それでも、散りばめられた言葉が頭から離れない。
 著者が述べる、小説に感情移入するという言葉、それはもう学生時代に置き忘れたかのような新鮮な態度だ。若い時、おそらく小説は、そういう態度で読んでいた。映画だって、そういう目で見ていたはずだ。
 そして、こんな「ロリータ」の読まれ方があったのかと驚かされる。
 「ロリコン」の語源であるナボコフの「ロリータ」は、僕も大好きだった。それは、主人公である中年男のハンバートの目によって書かれた小説であるが故に、どうしても男の目でこの小説を読んでいたし、そのような書き方であったはずだ。
 しかし、ここで語られるのは、そうではない。まったく逆の目であった。

 いや、この本は、ここで語られる小説を読んでいなくても、充分に堪能できる内容であり、本を読むことの知的快感を刺激する本である。
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