かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

炭鉱の足跡、福岡・志免炭鉱

2012-10-01 22:48:27 | * 炭鉱の足跡
 何年か前に弟も帰省しているとき、佐賀から高速道路の九州自動車道で、福岡、北九州方面に向かって走っていたときのことだった。大宰府インターを過ぎたあたりで、左側にこんもりとした山が見えた。
 僕はその山を見てはっとした。弟もそうだったようで、思わず顔を見合わせた。
 「あれは、ボタ山だよね」と、お互い言った。
 炭鉱町に育った者は、すぐに分かる。掘り出した石炭の不良炭を積み重ねた山、その人工の山がボタ山だ。かつて石炭が日本エネルギーを背負っていた時代、炭鉱のある町にはよく見られた黒い炭の山である。特に北九州は、筑豊炭田が広がっていたので、多くの炭鉱町が存在していた。
 「地理的に見て、筑豊ではないね」と僕は言った。
 「志免あたりだ」と運転している弟は言った。
 地図を見ると、福岡市の南に志免(しめ)町があり、ハンマーを構えた鉱山のマークがある。こんなところにも炭鉱があったのか、いつか来なくてはと僕は思った。
 筑豊の田川には、若いとき一人歩いた。五木寛之の「青春の門」の舞台になったボタ山がはっきりと残っていた。炭住(炭鉱住宅)の名残りのある家並みを歩いた。
 炭鉱の跡は、石炭記念公園としてきれいに観光化されていたが、僕はこのように整備された施設には感動を覚えなかった。すでにこのようなハコモノは夕張で見ていたし、佐渡の金山跡でも足尾の銅山跡でもとっくに作られていたからだ。

 志免には、ボタ山を見に行こうと思いたった。すると、そこには竪坑櫓が残っていることを知った。
 志免の町役場がある街の中央に行くと、遠くからランドマークのように聳える四角い長方形のコンクリートが見えた。すぐにそれが、竪坑櫓だと分かった。石炭や坑夫を地下深く掘った坑道に運ぶための、昇降機械を設置した建物である。
 近くに行くと、それは予想以上に大きかった。竪坑櫓は、町を睥睨するように立っていて、威厳に充ちている。大牟田の三池炭鉱などの坑櫓跡を見てきたが、そのどれよりも大きい。
 役場でもらった町の紹介誌の表紙に写真が載っているように、竪坑櫓は町のシンボルで、町の顔であった。
 竣工が1943(昭和18)年とあるから約70年がたっているが、遺産というよりまだ現役の雰囲気さえある。高さは46メートルである。
 近くに、斜坑口跡がある。
 ボタ山はもう木々が繁り、形からもそれがボタ山だとすぐには分かりづらい。

 志免鉱業所は、明治に採炭が始まった全国唯一の国営炭鉱であった。閉山は、多くの炭鉱がその時代に集中している1964(昭和39)年である。
 志免町は、この竪坑櫓の存在で、顔を持った町となっている。
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