かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

海老坂武の世界① なしくずし未婚の予感、「シングル・ライフ」の時代

2012-06-13 01:18:35 | 本/小説:日本
 もう40歳に近い頃だった。その頃はよく僕は、「なぜ結婚しないのですか?」という質問を受けた。30代半ば過ぎから、その質問は多くなったように思うが、今でもその質問は、僕が独身だと知ると、初対面者からは常套句のように受け続けている。
 僕は独身主義者ではないし、いずれは結婚するだろうと思っていたので、僕自身もその返答には困った。大体が、「どうしてでしょうね」と言って、そのときに応じていろいろな返答をした。
 実際、そのうちいつかは結婚するだろうと思っていた。そして、結婚は恋愛の延長線上にあった。30代、 40代の僕は、恋愛はどこにでも落ちていると、傲慢にも今思えば安易に思っていたのだ。
 誰かが僕を女性に紹介する時は、相手が独身であろうと既婚者であろうと、最後に決まって「彼は独身ですから」と付け加えた。ということは、40歳近くで(それ以後だったらなおさらだが)独身でいることは、きわめて少数派だということを意味していた。どのような生活環境、どのような経済状況であれ、30代までは結婚するのが一般的であった。
 それゆえ、40歳近くまで独身でいるということは特殊な存在だといえよう。最近は高齢独身者が増えているようだが、それでも少数派であることには違いない。
 僕の同級生はほとんどが20代、30代で結婚しているし、独身の者も何人かいたが、彼らはなぜかあっけなく死んでしまった。男の独身者は、統計的にも早死にするものらしい。妻帯者に比べて勝手に気ままに生きているから、生活も不規則になり、どこかにしわ寄せがくるのだろう。

 先に、結婚しない、あるいはしていない理由を僕はさまざまに語ってきたと書いたが、自分で言ってきたそのどれもが中途半端で、的確に言い表せない不満と物足りなさを感じていた。
 「なぜ結婚しないのか?」あるいは「しなかったのか?」と自問してみると、いくつかの愛の物語を反芻することになる。結婚しよう、あるいは結婚したいと思った相手は何人かいた。実際、そのすぐ近くまで行ったこともあった。それらの僕の愛の遍歴と蹉跌もしくは挫折を、その後の結婚していない理由として説明するにはあまりにも長くなりすぎるし、いちいちそれらを語るわけにはいかない。
 だから、いろいろな答えになってしまう。
 「なぜ結婚しないのですか?」という、この手の質問は殆どは好奇心で訊いてくるもので、そこには、何か意味があるかもしれないという思いも含まれているのだろう。僕には、別に期待にそうような答えはない。
 そんな質問の輪の中に、僕をよく知る友人や知人などがいるときは、「彼は独身貴族だから」とか「女が多くて、気移りして一人に決められないのですよ」と彼らは面白半分に茶々を入れたりしたが、そんなとき僕は「遊び過ぎまして」と苦笑いして、その場を逃れていた。
 結婚しない理由なんて、どこにもなかった。

 そんな頃、海老坂武の「シングル・ライフ」(中央公論社)が出た。
 この本は、「なぜ結婚しないのですか?」という質問に対する筆者の回答だった。僕はこの本を読んで、その通りだと相槌を打った。海老坂武は大学のフランス語の教師で、僕よりさらに一回り年上で、この本を書いた当時50歳を過ぎていた。
 僕も、この本の中に出てくる「なしくずし未婚」に違いなかった。

 その後、海老坂が東大の学生時代、東京六大学野球でレギュラーだったこと、しかもあのスーパースターだった立大の長嶋、杉浦と同じグランドにいたというのを何かの雑誌で知り、フランス文学の研究者らしからぬ経歴に、人間として面白い人に違いないと興味を持った。フランス文学研究者で、草野球ならともかく、硬式の東京六大学野球で弱い東大とはいえ4番を打った人などいないのではなかろうか。
 しかしそれ以後、海老坂の本を読んだことはなかった。それが急に、彼は今どうしているのだろうと気になった。裏切って、今頃「シングル・ライフ」を捨てさっているのではないだろうかとも思った。
 それで、彼の自伝と言える3部作、「<戦後>が若かった頃」、「かくも激しき希望の歳月」、「祖国より一人の友を」(3作とも岩波書店刊)を読みだした。

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