谷崎潤一郎 角川書店刊
愛のシステムが脳の分析によって解明されつつあるとはいえ、愛の形態は様々で、不思議である。それは、感動的かと思えば滑稽でもある。
耽溺する愛がある。いや、そもそも愛とは耽溺するものなのだ。夢中になると、その人しか見えなくなるものなのだ。
恋をしている人間は脳から興奮するドーパミンが多量に出ていることは知られている。それに加えて、恋する相手のいいところだけを見て、欠点を抑制する作用のある脳が活動することも分かってきた。
要するに、恋すると相手の欠点が見えなくなるのだ。
恋が冷めたら相手の欠点が見えてくるということは、恋の魔法が解けて、つまり恋による脳の分泌がすでに働かなくなり、客観的に周囲が見えてくることを意味している。
だから、恋している時は普通でないのが、正常な恋のあり様なのだ。
恋する人間の常軌を逸した行動は、恋の最中の正常ともいえる行いと言っていい。
君子とも渾名されている真面目な会社員の譲治は、行きつけのカフェで女給をやっている、まだ幼い女の子のナオミを見初める。このときナオミは15歳で、譲治は28歳である。
譲治は彼女を自分の家に引き取り、英語を学ばせたり稽古事を習わせたりして、自分の理想の女に教育しようとする。
時には、彼女を背中に乗せて、「ハイ、ハイ、ドウ、ドウ」と言いながら、部屋の中を這って戯れたりする。
少し西洋人風のナオミは、次第にいい女になっていく。自分の容貌に自信のない譲治は、こうした彼女を見ているうちに、彼女へ次第にのめり込んでいき、次の年には結婚することにする。
彼は、彼女の欲しいものは何でも買ってやるし、望みを叶えてやろうとする。
ナオミは次第に派手な生活になり、ダンスホールにも出入りするようになるし、男友達もでき、家も留守がちになる。
気が気ではない譲治は、ナオミに説教し彼女を監視するが、彼女はその都度適当に弁解し、うまく譲治をあしらって、その行動はいっこうに改まる気配はない。
そして、ついに彼女の浮気が発覚する。それどころか、複数の男と関係があったことも分かる。譲治はナオミにもう決してこんなことはしないと言わせるが、それも長続きせず、譲治の目を盗んでナオミは男と遊び回っているようだ。
そんなことが度重なって、譲治はナオミと別れる決心をするが、結局別れられず、それどころかさらにナオミに頭が上がらない、逆にナオミのいいなりになる関係に陥るといった話である。
読んでいくうちに、男が女に溺れていく様が手に取るように分かる。男は女に、しかもまだ20歳にもならない女にいい年の中年男が、いいようにあしらわれて、浮気をされているのだから、どうしてきっぱりと別れられないのかとじれったく思わせるのだ。おまえは騙されているのだ、利用されているのだと、歯ぎしりしたくなる。
しかし、である。恋している男は、しかも耽溺している男は、相手の欠点を見る眼を抑制され、いいところだけを見るようになっていて、いつもドーパミンが噴出している状態なのだ。
考えてもみたまえ。
こんな状態、つまり耽溺愛は、人生のなかでもそう多くは経験できるものではない。その状態が客観的には滑稽で悲惨であろうとも、長い人生の中では、いや短い人生の中ではと言った方がいいであろう、僥倖なことと思えるのだ。
男にとって、このような女を「ファム・ファタール」(運命の女)と呼び、客観的には「悪女」とも「魔性の女」とも言われる。
原作は大正13(1924)年発表で、なんと谷崎39歳の時である。時代を相当先取りしていたといえる。
この小説は過去3度映画化された。
最初は、京マチ子、宇野重吉で(1949年)、その後、叶順子、船越英二(1960年)、安田(大楠)道代、小沢昭一(1967年)で。
愛のシステムが脳の分析によって解明されつつあるとはいえ、愛の形態は様々で、不思議である。それは、感動的かと思えば滑稽でもある。
耽溺する愛がある。いや、そもそも愛とは耽溺するものなのだ。夢中になると、その人しか見えなくなるものなのだ。
恋をしている人間は脳から興奮するドーパミンが多量に出ていることは知られている。それに加えて、恋する相手のいいところだけを見て、欠点を抑制する作用のある脳が活動することも分かってきた。
要するに、恋すると相手の欠点が見えなくなるのだ。
恋が冷めたら相手の欠点が見えてくるということは、恋の魔法が解けて、つまり恋による脳の分泌がすでに働かなくなり、客観的に周囲が見えてくることを意味している。
だから、恋している時は普通でないのが、正常な恋のあり様なのだ。
恋する人間の常軌を逸した行動は、恋の最中の正常ともいえる行いと言っていい。
君子とも渾名されている真面目な会社員の譲治は、行きつけのカフェで女給をやっている、まだ幼い女の子のナオミを見初める。このときナオミは15歳で、譲治は28歳である。
譲治は彼女を自分の家に引き取り、英語を学ばせたり稽古事を習わせたりして、自分の理想の女に教育しようとする。
時には、彼女を背中に乗せて、「ハイ、ハイ、ドウ、ドウ」と言いながら、部屋の中を這って戯れたりする。
少し西洋人風のナオミは、次第にいい女になっていく。自分の容貌に自信のない譲治は、こうした彼女を見ているうちに、彼女へ次第にのめり込んでいき、次の年には結婚することにする。
彼は、彼女の欲しいものは何でも買ってやるし、望みを叶えてやろうとする。
ナオミは次第に派手な生活になり、ダンスホールにも出入りするようになるし、男友達もでき、家も留守がちになる。
気が気ではない譲治は、ナオミに説教し彼女を監視するが、彼女はその都度適当に弁解し、うまく譲治をあしらって、その行動はいっこうに改まる気配はない。
そして、ついに彼女の浮気が発覚する。それどころか、複数の男と関係があったことも分かる。譲治はナオミにもう決してこんなことはしないと言わせるが、それも長続きせず、譲治の目を盗んでナオミは男と遊び回っているようだ。
そんなことが度重なって、譲治はナオミと別れる決心をするが、結局別れられず、それどころかさらにナオミに頭が上がらない、逆にナオミのいいなりになる関係に陥るといった話である。
読んでいくうちに、男が女に溺れていく様が手に取るように分かる。男は女に、しかもまだ20歳にもならない女にいい年の中年男が、いいようにあしらわれて、浮気をされているのだから、どうしてきっぱりと別れられないのかとじれったく思わせるのだ。おまえは騙されているのだ、利用されているのだと、歯ぎしりしたくなる。
しかし、である。恋している男は、しかも耽溺している男は、相手の欠点を見る眼を抑制され、いいところだけを見るようになっていて、いつもドーパミンが噴出している状態なのだ。
考えてもみたまえ。
こんな状態、つまり耽溺愛は、人生のなかでもそう多くは経験できるものではない。その状態が客観的には滑稽で悲惨であろうとも、長い人生の中では、いや短い人生の中ではと言った方がいいであろう、僥倖なことと思えるのだ。
男にとって、このような女を「ファム・ファタール」(運命の女)と呼び、客観的には「悪女」とも「魔性の女」とも言われる。
原作は大正13(1924)年発表で、なんと谷崎39歳の時である。時代を相当先取りしていたといえる。
この小説は過去3度映画化された。
最初は、京マチ子、宇野重吉で(1949年)、その後、叶順子、船越英二(1960年)、安田(大楠)道代、小沢昭一(1967年)で。
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