願はくは 花のしたにて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ
西行については歌以外に多くを知っていなかったが、この桜の季節、西行について書かれた文を偶然に読み始めた。
なぜ、西行の伝記を手にするという、思わぬ偶然がやってきたのだろうか。
西行の無常観漂う短歌は、時々気紛れに作る私の歌の、師匠というにはおこがましくてはばかれるが、手本であった。とはいえ、彼の歌以外には、西行がどのような人生を送ったかはほとんど知らずにいた。北面の武士だった彼が、何故(なにゆえ)にか若くして隠遁の生活に入り、歌に没頭したということぐらいの知識しか持っていなかった。
時折、彼の歌が綴られた本を、思い出したようにめくる程度であった。
2010年4月初旬、桜が咲きほころんだ。
昨年の末から、母の行方を案じ、私は以前にもまして東京と佐賀を行き来し、佐賀に多く滞在していた。
冬が終わり春の足音が聞こえてくる今年のこの季節、私は実家の佐賀にいた。振り返れば、この季節に佐賀にいたのは、学生時代以来となる。
であるから、今年、私は佐賀の桜をよく見ることとなった。
まずは、東京から佐賀に帰った翌日の3月20日の夜だった。
私が友人たちと武雄で飲んでほうけて、駅から家へ帰宅する途中の、ゆるやかな坂から不規則な石の階段になる細道を歩いているときだった。道は湿っていて、その日の夕から夜にかけて雨が降った名残りをとどめていた。私は足を滑らさないように、ゆっくりと下を見て歩いた。
私の家の裏の高台に来たところで、夜の薄暗い闇に染まった石段に紛れたように、白い斑点がいくつもあるのが目に入った。
私は、すぐに空を見上げた。すると、そこに大きな毛細血管のような幾様にも入り乱れた木の枝が、灰色の空を背景にした影絵のように広がっていた。
それらの枝々は高台の片隅の大きな木に繋がっていて、そこから枝は四方に伸びていた。その枝々は、たわわに花を湛えていたのだった。
やはり石段に染みていた白い斑点は、思ったように花びら、桜の花びらに違いなかった。
そのことを確認するために腰を屈めて、白いものを摘もうと指を伸ばし爪をたてたが、まるで石に染み込んだように貼り付いて取れなかった。すでに雨はやんでいたが、濡れた石段は、おそらく花びらを化石のように吸い取っていた。
実家の家の近くの、いつも通っていたところの片隅にあった木は、おそらく桜だというのを、その夜知ったのだった。こんなところに、ぽつんと桜があったのだ。
開花予想より、ずっと早く咲いていた。雨にうたれて、花びらはいくつか落とされたのだ。
翌日、その木のところへ行ってみた。
老木とは思えない威勢のよい桜が、花をつけた途端、われを忘れて天に伸びようとしているようであった。(写真)
普段は押し黙って佇んでいて、気にもとまらない凡庸にも思える木が、急にこの季節、突然と思えるように色めき、自己主張し、人々の目を奪う。おや、こんなところにもと、足を止めさせる。
しかし、今目の前に咲いている花は、急ぎ足で散っていく。華やかであればあるほど、孕んでいる儚さを予感させる。
華(はな)やぎは、いつまでも続かない、ということを自然と知らしめる。
それが、桜の木である。
そのきさらぎの 望月のころ
西行については歌以外に多くを知っていなかったが、この桜の季節、西行について書かれた文を偶然に読み始めた。
なぜ、西行の伝記を手にするという、思わぬ偶然がやってきたのだろうか。
西行の無常観漂う短歌は、時々気紛れに作る私の歌の、師匠というにはおこがましくてはばかれるが、手本であった。とはいえ、彼の歌以外には、西行がどのような人生を送ったかはほとんど知らずにいた。北面の武士だった彼が、何故(なにゆえ)にか若くして隠遁の生活に入り、歌に没頭したということぐらいの知識しか持っていなかった。
時折、彼の歌が綴られた本を、思い出したようにめくる程度であった。
2010年4月初旬、桜が咲きほころんだ。
昨年の末から、母の行方を案じ、私は以前にもまして東京と佐賀を行き来し、佐賀に多く滞在していた。
冬が終わり春の足音が聞こえてくる今年のこの季節、私は実家の佐賀にいた。振り返れば、この季節に佐賀にいたのは、学生時代以来となる。
であるから、今年、私は佐賀の桜をよく見ることとなった。
まずは、東京から佐賀に帰った翌日の3月20日の夜だった。
私が友人たちと武雄で飲んでほうけて、駅から家へ帰宅する途中の、ゆるやかな坂から不規則な石の階段になる細道を歩いているときだった。道は湿っていて、その日の夕から夜にかけて雨が降った名残りをとどめていた。私は足を滑らさないように、ゆっくりと下を見て歩いた。
私の家の裏の高台に来たところで、夜の薄暗い闇に染まった石段に紛れたように、白い斑点がいくつもあるのが目に入った。
私は、すぐに空を見上げた。すると、そこに大きな毛細血管のような幾様にも入り乱れた木の枝が、灰色の空を背景にした影絵のように広がっていた。
それらの枝々は高台の片隅の大きな木に繋がっていて、そこから枝は四方に伸びていた。その枝々は、たわわに花を湛えていたのだった。
やはり石段に染みていた白い斑点は、思ったように花びら、桜の花びらに違いなかった。
そのことを確認するために腰を屈めて、白いものを摘もうと指を伸ばし爪をたてたが、まるで石に染み込んだように貼り付いて取れなかった。すでに雨はやんでいたが、濡れた石段は、おそらく花びらを化石のように吸い取っていた。
実家の家の近くの、いつも通っていたところの片隅にあった木は、おそらく桜だというのを、その夜知ったのだった。こんなところに、ぽつんと桜があったのだ。
開花予想より、ずっと早く咲いていた。雨にうたれて、花びらはいくつか落とされたのだ。
翌日、その木のところへ行ってみた。
老木とは思えない威勢のよい桜が、花をつけた途端、われを忘れて天に伸びようとしているようであった。(写真)
普段は押し黙って佇んでいて、気にもとまらない凡庸にも思える木が、急にこの季節、突然と思えるように色めき、自己主張し、人々の目を奪う。おや、こんなところにもと、足を止めさせる。
しかし、今目の前に咲いている花は、急ぎ足で散っていく。華やかであればあるほど、孕んでいる儚さを予感させる。
華(はな)やぎは、いつまでも続かない、ということを自然と知らしめる。
それが、桜の木である。
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