
安井かずみという名前を聞くと、なぜか胸が騒ぐ。
訳詞から出発して、1960年代から70年代にかけて、安井かずみはヒット曲を連発している作詞家として、時代の最先端を走っている女性だった。
60年代の、伊東ゆかりの「恋のしずく」、ザ・タイガースの「シー・シー・シー」、70年代に入り、小柳ルミ子の「わたしの城下町」、アグネス・チャン「草原の輝き」、沢田研二「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」と、時代を刻む新しい感性を歌謡曲の世界にもたらした。
なかでも印象に残ったのが、71年に発売された「わたしの城下町」(曲、平尾昌晃)だ。
前年創刊された「an・an」に続いて、この年創刊された「non・no」と相まって、このころから後にいう「アンノン族」なる若い女性群が出現して、京都・奈良をはじめとする小京都を旅するブームが起こりつつあった。その心をうまくキャッチしたのが、「格子戸をくぐり抜け…」で始まるこの曲である。
この歌は、城下町の情景を歌ったものではない。タイトルが「わたしの城下町」であるから、すでに城下町が頭の中に組み立てられている状態で、この歌の中に入っていく。だから、城など歌のなかに出てこなくても、歌を聴く者には、もう城下町は浮かびあがっているのである。
この歌は、聴く者の頭の中にそれぞれに組み立てられた城下町と思える町の、そこに住む女の子の恋心を詠ったものである。
「好きだとも言えずに歩く、川のほとり、往きかう人に、なぜか目をふせながら、心は燃えてゆく」という詞は、とても詩的だ。
そして、2番では、「ゆらゆら揺れる、初恋のもどかしさ、気まずく別れたの」と、短い歌のなかに、儚く終わった恋の物語を作り出している。
安井かずみに会ったことはないと思っていたが、記憶違いだった。僕が男性雑誌の編集部で音楽や映画の担当をしていた1975年の夏、「私の好きなレコード」という欄でインタビューをしていたのを思い出した。記憶は曖昧なものである。
その時彼女は、好きなレコード(曲)として、バッハとフランスのシャンソン歌手のフランソワーズ・アルディーをあげている。
僕が加藤和彦に会ったのは、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを率いた宇崎竜童が「沖縄ベイブルース」を発表したあとだったと思うから、1977年だっただろうか。
そのとき、雑誌で、ほぼ同世代の宇崎竜童、加藤和彦にインタビューした。リーゼントでサングラスの宇崎と、スーツをさらりと着こなした、見るからに紳士然の加藤は対照的な印象だった。
その頃加藤は、サディスティック・ミカ・バンドを解散した後で、ソロ活動をしていた。
加藤にインタビューした後だっただろうか、僕は、彼のソロ・アルバム「ガーディニア」のなかの「時の流れ」を気に入って毎日聴いていたから、加藤は安井かずみと同棲あるいは結婚した頃だったのだろう。
加藤和彦はみたとおりに、静かで優しい印象の男だった。僕は、彼がイギリスのスタイリッシュなミュージシャン、「ロキシー・ミュージック」のブライアン・フェリーを意識いていると思った。
そのとき、彼が僕に「ジーンズははきたくないよね」と言った言葉が忘れられない。その頃僕も、カジュアルなジーンズをはくフォーク調、あるいはアメリカナイズ的なものは好きではなかったし、個人的にもジーンズは持ってもいなかった。僕の着ているものを見て、同じファッション傾向と加藤が思ったのだろう。僕も「そうだね」と同調した。
それから、何年もたった時、テレビでジーンズをはいている加藤を見て、あれっと思ったことがある。あれは、安井かずみが亡くなった後のことだったかもしれない。
僕も今では、普段はジーンズを重宝しているから、人の嗜好は変わるものである。
加賀まりこやコシノジュンコと若いときから仲がよく、多くの仕事もこなしたが、よく遊び、恋多き女だった安井かずみが、8歳年下の加藤和彦と結婚したのは彼女が38歳のとき、1977年だった。このとき、両方とも再婚だった。
加藤との結婚の後、安井のライフスタイルは全く変わってしまう。それまでの友人関係も絶ち、加藤との生活だけと向き合うようになる。作詞の仕事も加藤の曲だけになる。
そして、加藤に見守られて1994年、55歳で病死。
安井と死別した加藤和彦は、1年を置かずして中丸三千絵と再々婚する。しかし、5年後に離婚。
2009年、加藤和彦自死。
*
「安井かずみがいた時代」(島崎今日子著、集英社刊)は、安井かずみと深い関係があった人間たちによる証言から、安井とその時代を浮かびあがらせたものである。
証言者の本音の発言と筆者の確かな筆力により、安井かずみの生涯のみならず、1960年代から80年代の時代の風や雰囲気を味わうことができる。
本書によって意外な人物が安井と近しかったことを知った。中学時代、横浜で一緒にテニスをし、文化学院で肩を並べることになったデザイナーの稲葉賀恵。安井が彼の絵が好きで友人になった金子国義。フランスとグルメつながりといえる、エッセイストで長野でワインを造っている玉村豊男。
安井がジュリーこと沢田研二が好きで、片思いだったことも知らなかった。そう思えば、彼女が沢田のために書いた「年上の女(ひと)、美しすぎる…」と歌う「危険なふたり」は、味わいがある。その沢田は、年上の女、安井でなくザ・ピーナツの伊藤エミと結婚してしまう。
安井かずみがいた時代は、日本が青春から爛熟期に向かった時代、経済成長とともに日本が一瞬に駆け抜け、そして、すでに過ぎ去った花のある時代と言えるだろう。
訳詞から出発して、1960年代から70年代にかけて、安井かずみはヒット曲を連発している作詞家として、時代の最先端を走っている女性だった。
60年代の、伊東ゆかりの「恋のしずく」、ザ・タイガースの「シー・シー・シー」、70年代に入り、小柳ルミ子の「わたしの城下町」、アグネス・チャン「草原の輝き」、沢田研二「追憶」、郷ひろみ「よろしく哀愁」と、時代を刻む新しい感性を歌謡曲の世界にもたらした。
なかでも印象に残ったのが、71年に発売された「わたしの城下町」(曲、平尾昌晃)だ。
前年創刊された「an・an」に続いて、この年創刊された「non・no」と相まって、このころから後にいう「アンノン族」なる若い女性群が出現して、京都・奈良をはじめとする小京都を旅するブームが起こりつつあった。その心をうまくキャッチしたのが、「格子戸をくぐり抜け…」で始まるこの曲である。
この歌は、城下町の情景を歌ったものではない。タイトルが「わたしの城下町」であるから、すでに城下町が頭の中に組み立てられている状態で、この歌の中に入っていく。だから、城など歌のなかに出てこなくても、歌を聴く者には、もう城下町は浮かびあがっているのである。
この歌は、聴く者の頭の中にそれぞれに組み立てられた城下町と思える町の、そこに住む女の子の恋心を詠ったものである。
「好きだとも言えずに歩く、川のほとり、往きかう人に、なぜか目をふせながら、心は燃えてゆく」という詞は、とても詩的だ。
そして、2番では、「ゆらゆら揺れる、初恋のもどかしさ、気まずく別れたの」と、短い歌のなかに、儚く終わった恋の物語を作り出している。
安井かずみに会ったことはないと思っていたが、記憶違いだった。僕が男性雑誌の編集部で音楽や映画の担当をしていた1975年の夏、「私の好きなレコード」という欄でインタビューをしていたのを思い出した。記憶は曖昧なものである。
その時彼女は、好きなレコード(曲)として、バッハとフランスのシャンソン歌手のフランソワーズ・アルディーをあげている。
僕が加藤和彦に会ったのは、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを率いた宇崎竜童が「沖縄ベイブルース」を発表したあとだったと思うから、1977年だっただろうか。
そのとき、雑誌で、ほぼ同世代の宇崎竜童、加藤和彦にインタビューした。リーゼントでサングラスの宇崎と、スーツをさらりと着こなした、見るからに紳士然の加藤は対照的な印象だった。
その頃加藤は、サディスティック・ミカ・バンドを解散した後で、ソロ活動をしていた。
加藤にインタビューした後だっただろうか、僕は、彼のソロ・アルバム「ガーディニア」のなかの「時の流れ」を気に入って毎日聴いていたから、加藤は安井かずみと同棲あるいは結婚した頃だったのだろう。
加藤和彦はみたとおりに、静かで優しい印象の男だった。僕は、彼がイギリスのスタイリッシュなミュージシャン、「ロキシー・ミュージック」のブライアン・フェリーを意識いていると思った。
そのとき、彼が僕に「ジーンズははきたくないよね」と言った言葉が忘れられない。その頃僕も、カジュアルなジーンズをはくフォーク調、あるいはアメリカナイズ的なものは好きではなかったし、個人的にもジーンズは持ってもいなかった。僕の着ているものを見て、同じファッション傾向と加藤が思ったのだろう。僕も「そうだね」と同調した。
それから、何年もたった時、テレビでジーンズをはいている加藤を見て、あれっと思ったことがある。あれは、安井かずみが亡くなった後のことだったかもしれない。
僕も今では、普段はジーンズを重宝しているから、人の嗜好は変わるものである。
加賀まりこやコシノジュンコと若いときから仲がよく、多くの仕事もこなしたが、よく遊び、恋多き女だった安井かずみが、8歳年下の加藤和彦と結婚したのは彼女が38歳のとき、1977年だった。このとき、両方とも再婚だった。
加藤との結婚の後、安井のライフスタイルは全く変わってしまう。それまでの友人関係も絶ち、加藤との生活だけと向き合うようになる。作詞の仕事も加藤の曲だけになる。
そして、加藤に見守られて1994年、55歳で病死。
安井と死別した加藤和彦は、1年を置かずして中丸三千絵と再々婚する。しかし、5年後に離婚。
2009年、加藤和彦自死。
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「安井かずみがいた時代」(島崎今日子著、集英社刊)は、安井かずみと深い関係があった人間たちによる証言から、安井とその時代を浮かびあがらせたものである。
証言者の本音の発言と筆者の確かな筆力により、安井かずみの生涯のみならず、1960年代から80年代の時代の風や雰囲気を味わうことができる。
本書によって意外な人物が安井と近しかったことを知った。中学時代、横浜で一緒にテニスをし、文化学院で肩を並べることになったデザイナーの稲葉賀恵。安井が彼の絵が好きで友人になった金子国義。フランスとグルメつながりといえる、エッセイストで長野でワインを造っている玉村豊男。
安井がジュリーこと沢田研二が好きで、片思いだったことも知らなかった。そう思えば、彼女が沢田のために書いた「年上の女(ひと)、美しすぎる…」と歌う「危険なふたり」は、味わいがある。その沢田は、年上の女、安井でなくザ・ピーナツの伊藤エミと結婚してしまう。
安井かずみがいた時代は、日本が青春から爛熟期に向かった時代、経済成長とともに日本が一瞬に駆け抜け、そして、すでに過ぎ去った花のある時代と言えるだろう。
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