かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ アサッテの人

2008-04-11 00:22:45 | 本/小説:日本
 諏訪哲史著 講談社刊

 平成19年度上期、137回芥川賞受賞作である。
 内容は、失踪した叔父の日記を紐解きながら、叔父を解明しよう、知ろうともがく主人公の姿を小説とするならばどうすればいいかと自問しながら、書き進めたものである。
 吃音者だった叔父は、吃音が治ったあと、不思議な言葉を発するようになる。その典型的な言葉が、「ポンパッ」である。それらの言葉とは何か意味があるのか、どこから導かれたものなのかを、主人公は推理、探究、考察するのである。
 小説とは何なのか、書くということはどういう意味を持つのかを問う小説が、今も息づいているとは少し複雑な気持ちになった。このような大上段に構えた小説は、既に過去のものとなったと思っていたからだ。手法こそ違え、もう何度も繰り返されたテーマである。
 いや、社会が爛熟のあとの頽廃に足を踏み入れていると思える現代では、このようなテーマは必然なのかもしれない。新しい世代の、言語に対する葛藤、社会に対する対応矛盾の描写なのかもしれない。
 著者は、技巧を凝らしている。本書は、そのように作られた小説である。しかし、読んでいくうちに、玉葱の皮をむいているような半端な苛立ちも感じさせる。著者は二重三重に施した狷介な計算を逆手にとって、あからさまにその技巧を披露しているのだ。
 しかし、「■■■!」という表現手法。しかも3倍角の大きさになっている。あるいは、巻末に叔父の部屋の見取り図がある。この手法も、小説としては疑問である。
 言語を追求しながら、言語を放棄しているように思えてくる。いや、これが新しい表現手段だと言うのだろうか。
 
 小説は、進化しているのだろうか?
 少なくとも、純文学と言われるものに限っては、進化というより試行錯誤と思えるのだ。
コメント
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