原作:上田秋成 監督:溝口健二 出演:森雅之 京マチ子 田中絹代 小沢栄(栄太郎) 水戸光子 1958年大映
日本映画の代表作は、何歳の時に観ても新鮮で、新しい発見がある。
若い頃に「雨月物語」を観た時は、ただただ幻想的で美しい映像が心に残った。ヴェネチア映画祭で銀獅子賞をとった、東洋のエキゾチズムなどという思いに至りはしない。
しかし、ある程度年齢を過ぎてみると、製作者の意図や企みに目がいくようになる。
映画の出だしは、「雨月物語」という題字が映しだされ、続いて制作、出演などの配役の字幕の名前が並ぶ。それに並行して、笛、鼓などの能の謡いが流れる。
この映画は、能をバックボーンに映像化したものなのだ。
そう意識してみると、随所に舞台のように見える箇所がある。いや、総てが舞台とも思える。
能の主役は多くは亡霊であり、生身の人間は脇役である。確かに、映画の中に出てきた妖艶な姫君の顔は、能面のようにメイクをしてあり、当初は無表情に見える。生身の人間がこの亡霊の虜になるところが、この物語のクライマックスである。
戦国時代の、琵琶湖に近い村で暮らす2組の平凡な家族の生きざまがテーマになる。
妻(田中絹代)と子がいる源十郎(森雅之)は、焼いた壷や皿などの焼き物を売って金儲けを夢みている。
畑仕事の傍ら源十郎の仕事の手伝いをしている隣に住む藤兵衛(小沢栄)は、妻(水戸光子)がいるが、侍に仕えて出世することを夢みている。
二人は、琵琶湖を渡って町へ焼き物を売りに出かける。
町で、源十郎は美しい姫君(京マチ子)に見初められて、離れた立派な屋敷に招かれる。
瀟洒な屋敷の庭には1本の松が配置されている。屋敷で、源十郎は身に余る歓待を受ける。能面を被ったような姫君の京マチ子が舞いを舞う。
この屋敷で、源十郎は悦楽に満ちた夢のような日々を送る。
ふいに舞い降りてきた夢のような日々は、やはり現実ではなかった。虜になった美しい姫も立派な屋敷も、この世の物ではなかった。
現実に戻された源十郎は、薄の生える朽ち果てた跡に佇んでいるのであった。そして、そこの住人はとっくに今はなく、彼が一時ともに過ごした悦楽の宴は夢幻と化していた。
一方、侍を望んだ藤兵衛は、偶然に戦場跡で大将の首を拾い、願っていた出世が転がり込んでくる。ところが、家来を従えた凱旋の途中、宿場町で憩っていたときに出会ったのは、遊女に身を堕とした妻の姿だった。
目の前の遊女となった妻を見て、藤兵衛は成り上がりの侍を捨てる。
二人は村に戻り、前のように焼き物を焼き、畑を耕す。
この物語が訴えているのは、何だろう。浦島太郎の教訓もよく分からないのだが。
夢など見ずに、地道に働きなさいということだろうか。悦楽も名誉も金も、うたかたの幻というのだろうか。
中国でいう邯鄲の夢、もしくは日本の無常観であろうか。
しかし、最近は思う。
それが束の間の夢の一時だとて、この世のものとも思えない悦楽を経験したなら、それだけで良い人生を送ったといえるのではないか。
少し横道に逸れるが、ファム・ファタール、運命の女に一度でも出会ったなら、それで堕ちていったとしても、良い人生だったといえまいか。
日本映画の代表作は、何歳の時に観ても新鮮で、新しい発見がある。
若い頃に「雨月物語」を観た時は、ただただ幻想的で美しい映像が心に残った。ヴェネチア映画祭で銀獅子賞をとった、東洋のエキゾチズムなどという思いに至りはしない。
しかし、ある程度年齢を過ぎてみると、製作者の意図や企みに目がいくようになる。
映画の出だしは、「雨月物語」という題字が映しだされ、続いて制作、出演などの配役の字幕の名前が並ぶ。それに並行して、笛、鼓などの能の謡いが流れる。
この映画は、能をバックボーンに映像化したものなのだ。
そう意識してみると、随所に舞台のように見える箇所がある。いや、総てが舞台とも思える。
能の主役は多くは亡霊であり、生身の人間は脇役である。確かに、映画の中に出てきた妖艶な姫君の顔は、能面のようにメイクをしてあり、当初は無表情に見える。生身の人間がこの亡霊の虜になるところが、この物語のクライマックスである。
戦国時代の、琵琶湖に近い村で暮らす2組の平凡な家族の生きざまがテーマになる。
妻(田中絹代)と子がいる源十郎(森雅之)は、焼いた壷や皿などの焼き物を売って金儲けを夢みている。
畑仕事の傍ら源十郎の仕事の手伝いをしている隣に住む藤兵衛(小沢栄)は、妻(水戸光子)がいるが、侍に仕えて出世することを夢みている。
二人は、琵琶湖を渡って町へ焼き物を売りに出かける。
町で、源十郎は美しい姫君(京マチ子)に見初められて、離れた立派な屋敷に招かれる。
瀟洒な屋敷の庭には1本の松が配置されている。屋敷で、源十郎は身に余る歓待を受ける。能面を被ったような姫君の京マチ子が舞いを舞う。
この屋敷で、源十郎は悦楽に満ちた夢のような日々を送る。
ふいに舞い降りてきた夢のような日々は、やはり現実ではなかった。虜になった美しい姫も立派な屋敷も、この世の物ではなかった。
現実に戻された源十郎は、薄の生える朽ち果てた跡に佇んでいるのであった。そして、そこの住人はとっくに今はなく、彼が一時ともに過ごした悦楽の宴は夢幻と化していた。
一方、侍を望んだ藤兵衛は、偶然に戦場跡で大将の首を拾い、願っていた出世が転がり込んでくる。ところが、家来を従えた凱旋の途中、宿場町で憩っていたときに出会ったのは、遊女に身を堕とした妻の姿だった。
目の前の遊女となった妻を見て、藤兵衛は成り上がりの侍を捨てる。
二人は村に戻り、前のように焼き物を焼き、畑を耕す。
この物語が訴えているのは、何だろう。浦島太郎の教訓もよく分からないのだが。
夢など見ずに、地道に働きなさいということだろうか。悦楽も名誉も金も、うたかたの幻というのだろうか。
中国でいう邯鄲の夢、もしくは日本の無常観であろうか。
しかし、最近は思う。
それが束の間の夢の一時だとて、この世のものとも思えない悦楽を経験したなら、それだけで良い人生を送ったといえるのではないか。
少し横道に逸れるが、ファム・ファタール、運命の女に一度でも出会ったなら、それで堕ちていったとしても、良い人生だったといえまいか。