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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 告白

2010-07-22 00:58:54 | 映画:日本映画
 湊かなえ原作、中島哲也監督・脚本 松たか子、木村佳乃、岡田将生 2010年

 告白とは、秘密の開示である。
 告白するということは、それによってする方とされる方の関係が変わることを前提にしている。何の意味もない、何の効力もない告白は、告白とは言えないだろう。それは、呟きとも独り言ともとられかねない、単なる吐露である。
 だから、威力ある告白は、緊迫した中で、表面は静かに行われる。

 中学校の教室における、ホームルームでの担任の女教師の話で、「告白」は始まる。
生徒は、ひそひそと話していたり、メールを打っていたり、自分の席を離れて動き回っている者もいる。教師の話を半分も生徒たちは聞いてはいない。教師の話に、時々生徒が茶々を入れる。
 これが学校の教室かと愕然とする。学級崩壊などの話を聞くが、これでは教師もたまったものではない。映画だから極端に描いたと言えるのだろうか。これに似た光景が、実際にどこかの教室で行われているのかもしれない。
 先日の新聞報道によると、教師の途中退職する数が年間1万2千人と発表されていた。退職率は1.5%である。関西や首都圏の都市部ほど、退職率が高い。

 ざわめく教室の中で、「告白」の教師は、静かに!と怒鳴ることもなく、話を続ける。
 その騒がしい教室が、静まりかえったのは、教師の次のような言葉を発したときである。
 「私の娘は、皆さん知ってのように死にました。プールでの事故死となっていますが、本当は殺されたのです。その犯人が、この教室にいます」
 教師は犯人の実名は言わないが、すぐにその生徒は状況推定により特定される。
 「私は、その生徒に私自身の手で罰を与えました」
 こうして、悲劇の第2幕は切り落とされる。
 第1幕は、既に行われた教師の娘の死、生徒による少女殺人であった。

 原作は、湊かなえの小説である。
 この本に対する文は、「告白」(6月15日、ブログ)で読んでほしい。

 映画は、原作に忠実に、淡々と、ときにはダイナミックな映像で展開されていく。
 主人公の生徒たちは、普通の生徒をオーディションの中から選んだという。
 娘を殺された女教師に松たか子が扮し、表情を変えることなく復讐する女を淡々と演じている。
 犯人の生徒の母親役の木村佳乃も、エキセントリックな女を演じて新境地を見せた。

 原作では、現在の少年法によって、少年の犯罪が過剰に保護されていると訴えていた。映画では、少年の母親への愛情憧憬とコンプレックスの方が前面に出ていたように感じたが、それが事件の鍵となっている。
 とはいえ、原作と同様、現在の日本映画で秀でた作品であることは疑いない。
 見終わった後、モノクロ映画ではなかったかと思わせた。それほど、女教師の精神が、復讐という1点に集約された、いわゆるモノトーンの映画であった。
 
 映画館を出たら、そこは渋谷の雑踏だった。
 俗称スペイン坂からセンター街を経て、道玄坂に向かった。若者サブカルチャーの最も象徴的な、若者がたむろする街を歩きながら、日本の学校の現状の一部(暗部)を覗いたようで、心の底に暗い澱が残っているのを感じた。
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◇ 雪に願うこと

2010-01-28 03:14:41 | 映画:日本映画
 鳴海章原作 根岸吉太郎監督 伊勢谷友介 佐藤浩市 小泉今日子 吹石一恵 草笛光子 2006年

 去年(2009年)、根岸吉太郎の名前を久々に聞いた。映画「ヴィヨンの妻」(太宰治作、浅野忠信、松たか子主演)が、モントリオール世界映画祭の最優秀監督賞を受賞したとの報道である。

 根岸吉太郎が注目されたのは、日活ロマンポルノを撮っていた彼の、初めての一般映画「遠雷」(1981年)によってである。立松和平原作のこのATG映画は、東京近郊の農業に携わる若者を描いたもので、若々しいエネルギーに溢れていた。
 根岸吉太郎も立松和平もまだ若く、映画も原作の小説も彼らの代表作となった。その後根岸は「探偵物語」などを撮るが、この作品を超えるものがなかったと言うことであろう。
 それに、主演した永島敏行と石田えりもこの映画で一躍脚光を浴びることとなった。
 しかし、僕が注目したのは、この映画に出演していた横山リエという、ちょっと蓮っ葉な感じの女優だった。彼女は、すでに大島渚の「新宿泥棒日記」(1969年)で、横尾忠則と共演するなど、その特殊なキャラクターで知る人ぞ知る存在だった。

 *

 学生生活も後半になってきた頃、僕たちは何になろうか、どの方向へ進むべきかと、混沌とした中で模索していた。夢はどんな風にでもあったし、反対に挫折や蹉跌も隣り合わせにあった。
 いつも、僕たちは何になるというあてもなく、いつしか映画館に足が向いていたし、煙草の煙をまき散らしながら、薄暗い喫茶店で何かについて喋っていた。
 金もなく、未来に対する定かなる約束手形など何も手にしていないとはいえ、若さというものはあるときは無定見に、前に向かって歩き出すものだ。
 学生運動にも見切りをつけた僕の友人は、新劇の劇団に入り演出助手となり、学校にもあまり来なくなった。
 その劇団が栗田勇作「愛奴」という芝居をやった。友人に誘われて六本木の俳優座劇場で見たその芝居は、僕を陶酔させた。いやその前に、僕の友人もその作品に陶酔していた。
 若い男(学生)の妄想とも現実ともつかないその物語は、幻想的でエロチックで文学的でさえあった。
 今でも思い出す。幕が開くと、主人公の青年(斎木)が宙に向かって、呟くように叫ぶ。
 「もう二度と、あの女、愛奴に会えないのだろうか。あの肉の快楽(けらく)、いやいや、魂の愛…」
 愛奴を演じた当時早稲田の学生だった金沢優子は、たちまち僕たちの間のヒロインとなった。
 スタッフを見ると、演出・江田和雄、美術・金森馨、音楽・一柳慧、衣装・コシノ・ジュンコ、ヘアーデザイン・伊藤五郎と、当時錚々たるメンバーだった。

 僕の友人は「愛奴」の劇団人間座から劇団青俳に移った。
 その劇団に横山エリがいた。
 劇団では目立たなかったが、その後映画では異彩を放った。大島渚「新宿泥棒日記」のあと、斎藤耕一「旅の重さ」、藤田敏八「赤ちょうちん」、若松孝二「天使の恍惚」などに出演した。
 そして、根岸吉太郎監督の「遠雷」で、彼女は脇役ながらその存在感を見せていた。

 それから大分たって、ふらりと入った新宿三丁目のバーで横山エリと会った。彼女は、カウンターの中にいて、妹とその店をやっていた。
 僕の友人は、その後芝居ではメシが食えないと言って芝居をやめ、学者になるべく大学院に行った。そして、今は大学で教師をしている。

 *

 根岸吉太郎の「雪に願うこと」は、ばんえい競馬を舞台にした物語である。
 ばんえい競争とは、北海道だけで行われている、ソリなどを引きながら行われる競馬である。一般の競馬であるサラブレッドのスマートさと違い、がっちりずんぐりした馬が、速さばかりでなく、小高く山を作った障害物を乗り越える力比べ競争でもある。
 一般競馬が、短距離スプリンターのボルトやグリーンとすれば、ばんえい競馬は、相撲の魁皇や朝青龍などが荷を担いで走るようなものである。
 この映画の公開時、時を同じくして、ばんえい競争が行われていた旭川、北見、岩見沢市の、赤字によるばんえい競馬撤退が発表された。かろうじて、帯広市だけが残った格好である
 その帯広のばんえい競馬が舞台である。

 東京で事業に失敗し、すべてを失って借金を背負った矢崎学(伊勢谷友介)は、逃げるように故郷の帯広に帰ってきた。13年ぶりとなる故郷では、兄(佐藤浩市)がばんえい競馬の厩舎をほそぼそと経営していた。
 そこにしばらくやっかいになることになる学は、厩舎の人たちや馬と生活を共にするうちに、次第にその空気に溶けこんでいく。
 映画では、ばんえい馬の飼育や関係者の生活ぶりが丹念に描かれる。馬の吐く白い息が、寒さを超えて温かさを伝える。
 ここで、サラブレッドの競争にはいない女性ジョッキーがいることを知った。その女性ジョッキーを、吹石一恵が健気に演じている。
 学が、施設に入っているという母(草笛光子)に会いに行く場面がある。久しぶりに会った母は、息子に対して、「どなたか存じませんが、私の息子は国立大学を出て、今では会社の社長になって、忙しくて戻って来られないのですが…」と、息子の自慢をするのだった。
 その場面は、息子ならずとも胸がつまる思いがする。

 自分になついた馬が競走に走る日、その結果を待たずに学は帯広を出て東京へ向かう。あてもないのだが、再びスタートラインに立つために。

 この映画で、世界で帯広だけに在る、ばんえい競馬の実態を初めて知った。
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◇ おくりびと

2009-09-22 02:50:36 | 映画:日本映画
 滝田洋二郎監督 本木雅弘 末広涼子 山崎努 余貴美子 吉行和子2008年

 2008年、第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞して、突然脚光を浴びた作品である。
 おくりびと、つまり納棺師たる存在を知ったのは、初めてこの映画を見た外国人ばかりでなく、殆どの日本人もそうだったと思われる。
 納棺師とは、遺体を棺に収める前に、遺体である死者に装いをし、棺に送る職業である。映画の舞台が庄内山形であることから、知られてはいないが、この地方では古くからある職業だと思っていた。
 歴史的には、1954年の青函連絡船洞爺丸の沈没事故の際、葬儀業者の仕事の一環を独立させたというから、意外と新しい職業である。

 都会でチェリストだった小林大悟(本木雅弘)は、楽団が解散し失職したので、今は誰も住んでいない山形の実家に、妻の美香(末広涼子)を伴って帰ってくる。
 大悟が、まずは就職しようと新聞広告を見て訪ねた会社は、旅行会社と思ったら、棺が置いてある納棺師の会社だった。
 とりあえず、妻や周囲に実態を隠して勤め始めた大悟だが、妻美香に知れて、彼女は家を出ていく。
 そのとき美香の言った死者を扱う仕事を「穢らわしい」という台詞が、何とも痛ましい。
 幼友達も、彼に「もっとまともな仕事につけ」と言う。 

 戸惑いながらも、社長の佐々木(山崎努)と一緒に納棺師を続けていくうちに、大悟は仕事の意義を見いだしていく。そこには、様々な死があった。
 季節が変わっていく中で、大悟の周辺にも、様々な出来事が起こる。
 妻の美香が帰ってきた。理由は、納棺師の仕事を認めたからではなく、妊娠したからだと言う。だから、今の仕事でない、もっと別の仕事をするよう求める。
 そこへ、長年銭湯をやっていた、幼友達の母(吉行和子)が急死する。
 そして、家を出て30年行方が知れなかった父の死の知らせが来る。

 人は、生きている間、いろいろな死に出合う。そして、その死に向き合うことで、生きていることとも向き合うことになる。
 人は、身近な人の死に接して初めて、死の意味を知る。そして、生が死に繋がっていることも。

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◇ 浮草

2009-08-27 02:28:54 | 映画:日本映画
 小津安二郎脚本・監督 中村鴈次郎 京マチ子 杉村春子 若尾文子 川口浩 1959年大映

 浮草も浮雲も人生に例えるなら、根に足が着かない軽いイメージだ。それでいて、どちらも少しもの哀しい響きがある。
 情景としての浮雲は、それだけでほっといてもいいのだが、浮草は、どうしてもそれに絡みつく藻とか近づいてくるメダカなどの小魚が欲しい。そうでないと、浮草はたちまち枯れ果て、水に消えゆく藻屑になってしまう。
 浮草は水の上だから、水に濡れ少し湿っている分だけ、男女の絡みが感じられる。浮雲の方は乾いた空の中だから、男女の色恋はなくとも、それでもいいかと思わせる。
 少し達観した浮雲に対して、浮草はいつしか落ちぶれていく哀しい予感を抱かさせる。

 夏、ドサ回りの芝居の一座が、ある小さな港町にやってきた。町の家並みはおしなべて瓦の平屋で、路地から子供が出てきて遊び回っている。灯台の見える海辺で釣りをする人もいる。
 かつてどこにでもあった昔の街並みだが、今はない街が懐かしさを誘う。その頃流行っていたのだろう、「南国土佐をあとにして」の歌が流れる。
 その町には、一座の座長(中村鴈次郎)の昔の愛人(杉村春子)がいて、その女に生ませた、もう大きくなった息子(川口浩)もいる。息子には座長は父ということを隠して伯父さんということにしていて、上の学校(大学)に行かせようと、可愛がっている。
 その町に来たときは、座長は、その昔の愛人の家に腰を落ち着けるのだった。その家のささやかな庭に生えている、赤いハゲイトウが鮮やかだ。
 一座の看板女優で、座長の今の愛人(京マチ子)が、そのことに気づく。
 彼女は、仕返しをしようと思いをめぐらし、妹分の若い女優(若尾文子)に、息子を誘惑するように持ちかける。
 その誘惑は成功し、息子は本気になって若い女優と駆け落ちしようとする。
 座長は、息子と若い女優の不穏な関係を知り、それを企んだ今の愛人の女優に烈火のごとく怒り、二人は喧嘩別れをする。
 雨の降りしきる中、道を隔てて、座長の中村鴈次郎と愛人京マチ子の、愛と憎しみのこもった言い争いが美しい。いつだって、愛と憎しみは裏表だ。
 折りもおり、芝居一座は客が入らず、座長は一座の解散に押しやられる。
 一人になった座長は、年貢の収め時とばかり、この昔の愛人の家で、息子も含めて3人で住むことにするかと思い始める。
 その矢先、若い女優との仲を割かれそうになったのと、伯父でなく父親だと知らされた、帰ってきた息子に、今更父は要らないからこの家から出て行けと座長は言われる。
 彼は、そりゃそうだ、世の中回り持ちや、うまいことばかり事は運ばない、また、一から出直しだと言い残して、家を出るのだった。
 座長は、再び一人旅へ出ることにする。金もないし、もう若くはない。これからどうするのだろう、どこへ行くのだろう、と哀感を誘う。
 町を出るため駅へ行き、待合所で汽車(列車)を待ちながら、タバコを取り出す座長。懐を探したがマッチがない。そのタバコに、マッチの火を差し出したのが、喧嘩別れした愛人の女優だった。彼女も町を出るため、一人汽車を待っていたのだった。
 「どうにかなるわ」
 彼女は、男を促すのだった。
 そして、同じ町まで切符を2枚買うのだった。

 小津安二郎といえば、「東京物語」や「秋刀魚の味」に見られるように、しっとりとした父と娘の抑制された感情の流れを描いた作品には定評があるが、この「浮草」は激しさがある。淡々とした小津作品とは一味違った、男と女の情念が沸き上がり、人生の悲哀が押し寄せる。
 それに、小津は松竹での作品が殆どだが、唯一大映での作品である。

 浮草のような人生は、愛も哀しみもある。
 おしなべて、浮草は哀しみ含みの人生で、いつかは沈んでいく運命なのか。
 流されゆき、水に紛れる浮草は、軽やかに浮かぶ雲に妬みを持つことになるのだろうか。
 とはいえ、林芙美子の「浮雲」(成瀬巳喜男監督)とて、やりきれない哀しさに充ちているのだが。
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◇ 初恋

2008-12-23 01:45:32 | 映画:日本映画
 中原みすず原作 塙幸成監督 宮崎あおい 小出恵介 藤村俊二 2006年

 1960年代後半、大学は政治の季節であった。学生たちは、おしなべて反体制・反権力を標榜し、革命を語り、各大学や街では活発にデモが行われた。
 新宿では、岡林信康、高石友也、高田渡などによって、反戦フォークが歌われる一方、グループサウンズが徒花のように花咲こうとしていた。また、既成の芸術とは違ったサイケデリックやアングラ芸術が若者の間に浸透していった。
 60年代の日本は、雑草の中からいろいろな種類の花が咲こうとしていた時代であった。誰もが、大人も学生も子供も、ただ前を見ていた。それぞれが、これから来るであろう未来を、自分たちで彩るのだという思いでいた。
 夢は、目の前にあるように感じられる時代であった。例えそれが蜃気楼であろうとも、一人ひとりが夢を見ていた。

 そんな世相の中、1968(昭和43)年12月10日、東京都府中市で、銀行現金輸送車の3億円が強奪されるという事件が起こった。
 この事件は、白バイの警察官を装った男が、事故を装い現金輸送車を止め、自動車ごと持ち去るというものだった。
 3億円とは、それまでの現金強奪事件の最高額が3100万円であったので、いかに驚くような額であったかが分かろうというものである。それも、あっけない推理小説のような、トリックのようなやり方で、一人の怪我人を出すことなく現金車が持ち去られたのだ。
 すぐさま、犯人の似顔絵が全国に張り巡らされた。それは若い優男であった。
 これが、有名な3億円事件で、とっくに時効が成立しているが、いまだに伝説的な語り草となっている完全犯罪の迷宮事件である。

 その後、まことしやかに語られたのは、実際には事件は行われていなくて、現場の警察をも欺いていたというものである。当局の目的は、当時学生が多く住んでいた、事件のあった東京三多摩地域のローラー作戦により、過激派学生のアジトを徹底的につぶすのが目的だったというもの。実際、学生や若者が住んでいる地域の聞き取り調査が、何年もの間行われた。
 
 映画「初恋」は、この3億円事件の犯人は、当時女子高生だった少女だという物語である。
 ジャズ喫茶に出入りした女子高生のみすず(宮崎あおい)は、そこで東大生の男(小出恵介)を好きになる。少女はその男に秘密の共謀を持ちかけられる。
 それは、3億円を強奪するという計画だった。
 映画は、物語の間に、当時の学生運動のスナップが映し出される。
 女子高生役の宮崎あおいの演技力が光る。犯行を指示する東大生役の小出恵介が髪型といい当時の若者の雰囲気を醸し出している。
 事件から何十年か後、もう相当な年齢になった事件の実行犯の少女が、好きだった男の日記を見つけ、それを読むところで終わる。
 その日記には、こう書かれていた。
 1966年、僕は少女に出会った。その子は、真っ直ぐな目をしていた。
 彼女は僕に言った。「大人になりたくない」と。
 僕は恋をした。おそらく一生に一度の恋を。
 しかし、それを告げることはないだろう。なぜなら、僕は彼女を曇らせることしかできないのだから。
 
 事件後、男は行方不明である。
 少女はいつまでも男を待っていると言った。
 月日が過ぎていった。もう事件が、夢の出来事のように思えるようになってしまった今も、元少女は男を待っている。
 「初恋」
 それは、一生胸に深く刻まれた思い出というよりも、青春の証であり、消えることない深い傷である。いや、彼女の人生そのもののようである。
 3億円事件という有名な犯罪を手段に用いながら、60年代当時の純粋な若者像を描いた映画である。それは、現代人が忘れてしまった、甘酸っぱい恋物語である。
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