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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

外濠公園通りの青春➀ 1964年東京と本との関わり 

2019-09-12 01:16:35 | 人生は記憶
 街はいつでも 後ろ姿の幸せばかり……
  ――「ウナ・セラ・ディ東京」(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰)

 *「東京」の1960年代

 九州の佐賀の田舎の高校を卒業した私は、結局、東京の私立の大学に行くことになった。
 私が上京した年の1964年は、日本は経済成長の最中で、東京オリンピックの開催もあって“東京”がことさらクローズアップされていた。
 東京は、まだ輝いていた。
 レコード各社の競作となった「東京五輪音頭」をはじめ、ザ・ピーナツや和田弘とマヒナスターズらが歌った「ウナ・セラ・ディ東京」、「ワン・レイニー・ナイト・イン東京」、西田佐知子の「東京ブルース」、新川二朗の「東京の灯よいつまでも」など、東京を唄った歌が巷に流れていた。
 この年流行った「あゝ上野駅」も、ある意味東京賛歌と言えるだろう。

 私が入学した法政大学は、東京・市ヶ谷(東京都千代田区)にあった。
 今も残る外濠の高台に、当時はモダンな校舎が聳えていて(今では27階建てのタワーが聳えている)、学校の前には四谷から飯田橋まで延びる外濠公園の通りが広がっている。この外濠公園通りは、春になると桜の並木道となり、学生にとっては格好のキャンパスの役割を果たしていた。
 
 上京したその年の4月、駅の売店や本屋で今までのものとは毛色の変わった表紙の雑誌が目についた。ストレートの短いズボンに、髪を7/3に分けたアイビールックの若い男が並ぶイラストだった。
 描かれた顔のすべてが濃いチョコレート色なので、私はどうして真夏の海辺でもないのにこんな褐色にしたのだろうと思ったぐらいだった。
 それは芸能誌の「平凡」を出版している平凡出版社(現マガジンハウス)が新しく発行した、日本初の男性週刊誌「平凡パンチ」だった。その後、大橋歩のパステルで描く、その褐色の顔のアイビールックの表紙は、「平凡パンチ」の顔となって長く続いていく。
 そう言えば、このイラスト風の軽い男がクラスにもいるなあと私は思った。私はといえば、ジャケットやスーツなどは持っていないので、高校時代の延長の学生服で学校へ行っていた。当時は、体育会系でなくても、地方から来た学生のなかでは学生服は珍しくなかった。
 しかし、私の身近な者のなかには「朝日ジャーナル」を読んでいるのはいたが、「平凡パンチ」を読んでいる男はいなかった。

 *経済学部文学科へ

 私が大学で経済学部を選んだのは、経済学が好きでも経済学を勉強しようと意欲を持っていたからでもない。高校の進路決定の3年時、どう考えても物理と化学が苦手では理科系には向いてないと思い、文系にした。
 では文系のなかでは、学部はどうしょうと考える。当時の文系は今のように様々な学部があるのではなく、教育学部を別にすると、主に文学部、法学部、経済学部だった。
 文学部は、学問としてではなく本(文学)は自分で読めばいいと考えた。法学部は、膨大な法律書を暗記しないといけないようなので向いてないと感じた。となると経済学部が残った。
 つまり、消去法で経済学部を選んだにすぎない。

 大学では、第2外国語を選ばなくてはならなかった。経済学ではドイツ語を選ぶ人間が多かったが、僕はフランス語を選んだ。当時フランスが好きだったわけではなく、ドイツよりフランスが洒落ているなと感じている程度だった。

 私が大学に入って最初に買った本は、教科書、フランス語の辞書は別として、「世界十五大哲学」(大井正、寺沢恒信共著)である。
 この本は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの古代ギリシャ哲学者から、デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、それにマルクスとエンゲルス、サルトルまで、代表的な哲学者の思想が紹介・解説された、哲学入門書ともいえる本だった。
 専門的な経済学はこれから否応なく学ぶのであるから、それに偏ることなく哲学から裾野を広げようと思ったのだった。
 授業では経済学を学び、個人では文学を嗜好。それは私にとって心地よい選択だった。
 当時はまともな恋愛もしたことがなかったが、ずいぶん後にであるが、僕は遊び心で自分の出身(専門)を「経済学部文学科恋愛専科」と称していた。「恋愛専科」と言っても、若い女の子にはピンとこないだろうが、スザンヌ・プレシェット主演映画の「恋愛専科」から借りたものだ。

 *ほろ苦い思いの「富士見坂文学」

 入学して、すぐに「文芸研究会」というクラブの門を叩いた。何となく文学に関わっていたかったのだ。クラブでは、「富士見坂文学」という文芸創作誌を不定期に出していた。
 私は、その頃は詩を時折ノートに書いていたぐらいのもので、いずれ小説でも書いてみようかといった程度だった。

 大学の授業は、当時としては近代的な建築の「55・58年館」の教室で大部分が行われた。※「変貌する大学」①②(ブログ2019.4.)参照。
 大学の正面のフロント部分に、置き去りにされた遺跡のような六角校舎と呼ばれていた古い建物があった。1、2年の教養課程は、この中の教室で行われるときもあった。
 文芸研究会は、この六角校舎の各部室が集まっている地下室にあり、いつ行っても暗かった。
 それに僕は、中学時代は放課後図書館に通っていたぐらい文芸関係の本を読んでいたのだが、高校時代はまったく文芸本を読んでいなかった。3年間の文学的空白は大きく、部室に行っても、先輩たちの現代文学の話について行けずに、部室では無口な新入生だった。それに、「富士見坂文学」に掲載されている創作、作品は、私には理解不可能なものだった。
 入部したすぐ、10人ぐらいいた新1年生は何か作品を発表することになり、私は詩を提出した。まだ小説を書いて提出した新入生はいなかったと思う。
 「富士見坂文学」には、新入生の中から他の男の1編の詩が載った。それは会話体の、私から見たらふざけたような詩だった。こんな奇を衒った詩が評価されるのかと、決して僻みではない、ある種の落胆と失望が生じた。
 私のはセンチメンタルな詩だったが、もっとも煩(うるさ)そうな先輩が、どういうわけか、こういう詩は個人的には好きだなあと評価してくれた。といっても、その後その先輩と親しく話したことはない。

 その年(1964年)の上半期の芥川賞は柴田翔の「されどわれらが日々――」だった。この本は、日本共産党が武装闘争の方針を撤回した1955年の第6回全国協議会(六全協)前後の時代、学生運動に挫折した東大の学生を描いたものだった。
 60年安保闘争で挫折した学生運動であったが、各大学ではその火は燃え続けていたこともあり、学生の間では評判になりベストセラーとなった。
 当時私は学生運動に触れ始めた時期であり、前衛的で難解な大江健三郎を義務感のように読んでいたこともあり、この小説は物足りない印象だった。
 そして、その年の下半期の直木賞は永井路子の「炎環」だった。(安西篤子の「張少子の話」と同時受賞)
 後に出版社に入り、永井先生の本の出版に携わり、懇意にさせて頂くようになるとは思いもよらなかった。

 しかし、何といってもこの年(1964年)最大の話題作は、中央大生の河野實と同志社大生の大島みち子の往復書簡集である「愛と死を見つめて」(大和書房)であろう。
 またたく間に驚異的なベストセラーとなり、私も買ったのだった。
 のちに、大空眞弓、山本学主演でテレビドラマ化、吉永小百合、浜田光夫主演で日活にて映画化、青山和子で日本コロムビアにてレコード化された。
 当時小さな出版社にすぎなかった大和書房だが、この本のベストセラーによってビルを建てたといわれている。

 私は文芸研究会の部室には滅多に顔を出さない幽霊部員のような状態で、作品を書くこともないままに過ぎていった。やがて2年も終わりの頃、先輩から同学年の部員に、そろそろ創作(小説)を書いてくれ、と言われた。
 私は取り繕うように、「赤い苔地」という短編小説を書いて提出した。それはタイトルを見ただけでも訝しげな、ミケランジェロ・アントニオーニ監督、モニカ・ヴィッティ主演の映画「赤い砂漠」に影響を受けた、自分でもひどい内容と言える小説だった。
 当然のごとく私の作品は「富士見坂文学」に掲載されることなく、作品に対する何の反響もなく、それ以後、私は部室の扉を開くことなく、自然退部したのだった。
 この例のように、私はこの頃すでに、本(小説)より映画に影響を受けていた。
 そして「富士見坂文学」は、ほろ苦い思い出となった。

 *ため息のでるよな、大学新聞の「小指の思い出」

 1966年の秋、「法政大学新聞」(法政大学新聞学会発行)の「大学祭特集号」で、「文芸コンクール入選作」の創作(小説)、詩の2部門が掲載された。年に1度のこのコンクールは、ここ3年入選作がないという厳しい選考でもあった。
 大学新聞主催の文芸コンクールは、大江健三郎(東京大)、倉橋由美子(明治大)らを輩出したことなどで、学生独自の発表の場として注目されていた。
 時代は変わり、大学祭と言えば今では「ミス〇〇大」が話題となるが。
 
 創作入選作は、「海の榾火(ほだび)」で、三神弘。入選作者は第二経済学部の学生で、私と同学年だった。
 私には鮮烈だった。私は、その小説を味わうように何度も読んだのだった。
 「海の夏はとうに終わったはずなのに、美沙子はぼくのところへ帰ってはこなかった。
 ぼくは海へ美沙子を訪ねていった。
 夏のはじめに、美沙子の指を強く噛んで、まあるく歯の跡をつけて以来、ぼくたちはそのひと夏を逢ってはいなかった。」
 この出だしの文のように、小説全体に詩情があふれていて、私は巧いなあと感心するとともに、ため息をついた。印象派の絵画のような小説だった。
 このとき、伊東ゆかりの「小指の想い出」(作詞:有馬三恵子)は、まだ発売されてはいない。曲が発売されたのは、翌年である。
 創作部門の選者の中村真一郎は、いくつかの候補作のなかで「文学的に完成度の高いこの作品を入選とすることにした」としたうえで「この作者は既に作家になっていると感じられた」と、選後評で書いている。
 選者の中村真一郎は、当時すでに名は知れ渡っていたが、古今東西にわたる文学的教養をもとに、「四季」4部作を発表するなど、長く知的大御所として存在した。

 三神弘は、のちに「三日芝居」で「すばる文学賞」を受賞する。作品を書き続けていたのだ。

 ちなみに詩部門の選者は、大学でフランス語を教えていた詩人で法政大助教授だった清岡卓行であった。清岡は3年後の1969年に、小説「アカシアの大連」で芥川賞を受賞する。

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変貌する大学② 東京の大学へ

2019-04-12 03:10:01 | 人生は記憶
* 東京行きの急行「西海」

 僕が九州の小さな町から東京へやって来たのは、1964(昭和39)年の春だった。
 東京へは、佐世保発の急行列車「西海」で行った。寝台車に乗る経済的な余裕などはないので2等座席に座ったままの、東京までは1昼夜を超える約26時間を要する行程だった。
 僕が乗る駅は、急行列車が停まる隣町の肥前山口駅で、ここで「西海」は長崎発の「雲仙」と併結した。
 ところが、春の入学・就職のこの季節は、東京や大阪に行く列車はとても混雑し、途中の佐賀県内の駅ではもう車内の座席はいっぱいになるのだった。
 列車に乗り込んで空いている席がないと、通路に立ったままということになる。運がよければ広島か岡山あたりで座れるのだけれど、運が悪いと東京近くまで立ちっぱなしということもあるのだ。そうなると、いくら若いといえ辛い。
 だから、急行「西海」が佐世保駅を出発するのは夕方4時半ごろだったが、座る座席を確保するために、早めに佐世保まで行って、駅構内で列を作って並んだ。
 急行「西海」は、佐世保でほぼ満席になった。そして、ゆっくり東京に向かって出発したのだった。

 僕は、その年の春から東京の大学に行くことになったのだった。
 国立大学に適わなかった結果で、たまたま東京の私立大学に行くことになったのだが、初めから東京へ行きたいと思っていたのではなかった。高校生の頃は、ただ地元の佐賀を出ようと思っていたにすぎない。東京へ行くことになるとは、高校3年の3学期になったときにすら考えてもいなかった進路で行く末だった。
 経済的には国立大学しか行けなかったのだが、私立の大学に行けたのは、これもたまたまだが日本育英会の特別奨学生制度の試験に合格したからだ。高校3年時にあった大学進学のための特別奨学生の試験は、受験用の試験ではなく知能テストのような試験だったのが僕に幸いした。
 新しく、切り札のカード・ジョーカーを一枚与えられた思いだった。

 大学受験では散る桜を体感したのだが、何ら悔いも無念さも残さなかった。ただただ佐賀の家から出て、一人で独立できるということが嬉しかった。結果、その行く先が東京だったのだが、僕はそのことが予め決められていたことのように、東京へ行くことを自然に受けとめていた。
  
 まさに、様々な偶然で人の人生は変わっていく。そのなかで、大学受験は大きな分かれ道の一つだといえるだろう。
 分かれた道を右へ行くか左へ行くかで、まったく違った人生となる。その道はさらに分かれて、さらに違った方向へと向かうことになるかもしれない。人は次々と出くわす分かれ道で、どちらかの道を選ぶか選ばされて、人生を築いていくことになる。
 それは、当初の考えていた道とはまったく違った道で、異なった方向となっているかもしれない。いや、ほとんどの人がそうであろう。
 このように、一つひとつの人生は偶然の連続で創りあげられていく。

 * 東京の大学、「HOTEL UNIVERSITY」

 1964(昭和39)年4月の晴れた日だった。
 山手線の中央を縦断するように走る国鉄(JR)総武(中央)線の「市ヶ谷」駅から、外堀に沿って少し小高い通りを飯田橋方面に向かって歩いた。
 この「外濠公園」通りからは、左に濃いオレンジ色の中央線と黄色い総武線の電車が並行して行き交っているのが見える。その線路の向こうに、江戸の名残りの外濠(堀)が連なっている。

 この季節、外濠公園通りは、はらはらと花弁が舞い落ちる桜のアーチの並木道だった。
 とうに散り始めた桜の木々の梢の先に、写真で見た大学の校舎(53年館・大学院棟)が見えた。
 近代的なビルの建物の上部に「HOSEI UNIVERSITY」の文字が桜の枝の間から見え隠れした。当時、評論家の大宅壮一が中央線、総武線の夜の窓からこのネオンサインを見て、「HOTEL UNIVERSITY」と揶揄したものだ。
 僕は、その年の春からこの学校に通うことになった。
 
 「法政大学」は、大学のイメージである時計台があるのではなく、蔦の絡まる煉瓦造りの校舎があるのではなく、学生たちを睥睨しているかのような創立者の銅像が校庭に建っているのでもなく、半世紀以上前の1960年代から、すっきりとした近代的な高層(当時)の建物の校舎だった。
 外濠公園通りから見える大学院棟の53年館の横に、東西に「55年館」、「58年館」(建てられた年度によってこう呼ばれる)の7階建ての続きの建物が建っていた。横に広がるシンプルな高層な建物は、大学のイメージのクラシカルでも重厚な景観でもなく、ガラス張りの白に黒の格子状の建物だった。
 (写真は、東京都日比谷公会堂で行われた1964年度入学式の案内書に同封されてい外堀越しに見た法政大学景観)
 僕らは4年間ほとんどが、この建物の校舎で学ぶことになった。
 あとで知ったのだが、その建物は法政大の建築学科の教授の大江宏による設計で、モダニズムの代表的な建物と評価されていた。
 その中央の格子状の建物「55・58年館」が今年(2019年)3月から解体されることになったのだ。
 そのことは、前回ブログ「変貌する大学①」を参照。
 
 * 高層化する大学

 現在の法政大学は、「55・58年館」の右(東)側に交差するように建っている大学院棟の「53年館」の場所に、ボアソナード・タワーと呼ばれている27階建ての建物が建っている。(写真は、前回ブログ「変貌する大学①」を参照)
 大学のイメージは、すっかり変わってしまった。法政大は、さらにモダン化の加速度を上げているようだ。
 校内にはコンビニがあり、新しく正面玄関ファサードは大きなゲート(門)建築様式になっていて、ゲートの上段階にはカフェテリアがある。まさに「HOTEL UNIVERSITY」だ。
 建学以来の学風が「自由と進歩」なので、変わっていくのを良しとした校風が建物(校舎)にも息づいているのである。

 *
  
 ちなみに、大学の高層ランキングを調べてみた(専門学校は除く)。
 <1位> 工学院大学 新宿キャンパス
 地上28階/高さ127m(最高部133m)/東京都新宿区西新宿
 新宿西口の高層ビル群の中にあり、1988年竣工で大学高層化の先駆けとなった。
 <2位> 法政大学 ボアソナード・タワー
 地上27階/高さ122m/東京都千代田区富士見町
 2000年竣工で、25階には卒業生が気軽に食事を楽しめる「スタッフクラブ」、26階には卒業生の同窓会などに使われるラウンジがあり、窓からは皇居をはじめ東京都の景色が一望できる。また、26階の展望ロビーからは外濠、市ヶ谷・新宿ビル街の彼方に、晴れた日には富士山が見える。
 <3位> 明治大学 リバティタワー
 地上23階/高さ119m/東京都千代田区神田駿河台
 1998年竣工の、明治大学駿河台キャンパスの中心となる建物。

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変貌する大学① 桜の季節に散りゆく校舎

2019-04-02 02:02:01 | 人生は記憶
 「……于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香……」
 4月1日(2019年)に発表された新しい元号「令和」は、「万葉集」の梅花の歌、三十二首の序文からとのことである。
 今を盛りの桜ではなく、梅である。かつてわが国でも、花といえばもともと中国から来た梅であった。梅もまた味わい深い。
 しかし今の季節、桜はまさに散らんとしている。「平成」の元号のように。
 「平成」を惜しみつつ、桜を眺める。

 * 市ヶ谷「外濠公園」の、桜の向こうに聳えるタワー建築

 去る3月29日、恒例としている「千鳥ヶ淵」での桜見物にでかけた。
 いつも夕方頃、「市ヶ谷」駅に出る。市ヶ谷駅から飯田橋方面に向かって、JR中央(総武)線に沿って続く「外濠公園」の通りを歩く。
 この外濠公園通りの途中の「新目附」の法政大学のところから右折して「靖国神社」に周り、そこから目的地の「千鳥ヶ淵」に行く。桜の季節における、市ヶ谷から千鳥ヶ淵へのこのコースは、様々な違った風情の桜を満喫することができる。
 いや、その日は、千鳥ヶ淵が最終目的地ではない。黄昏時の千鳥ヶ淵の桜の下を通ったあとは、さらに皇居の濠に沿った「内堀通り」を半蔵門、桜田門と歩き進んで、「日比谷」まで行くことである。
 「市ヶ谷」から出発して、「外濠公園」、「靖国神社」を経て「千鳥ヶ淵」の桜を堪能した後、「日比谷」にたどり着く。
 日比谷に着いた頃には程よく空も暗くなっていて、そのあたりで軽く酒を飲みながらの食事をして帰るというのが、花見の全コースなのである。
 *
 まずスタートの、市ヶ谷駅前の「市ヶ谷見附」から飯田橋に向かって続く「外濠公園」の通りは少し高台になっていて、左手にJRの線路を見下ろすようになる。さらにその向こうには外濠(堀)が川のように続いている。
 外濠を挟んで外濠公園通り側(東)が皇居を抱く千代田区で、外濠の向こう側(西)は新宿区である。
 この「外濠公園」は桜並木の通りで、人知れぬ桜の名所でもある。
 その日、3月29日は、桜は満開であった。桜の木の下では、すでに宴会をしているグループもいるし、ビニールシートを敷いて席を確保し、所在なげにその番をしている者もいる。
 桜の枝がアーチのように天井に延びる外濠公園通りをゆっくり歩いていくと、しばらくすると桜の梢の間から、春霞に包まれて高い高層建築が見えてくる。
 そのまま公園通りを歩くと、その建物は次第に大きくなり、「新見附」の橋のたもとで優雅な全容を現す。それが、27階建ての法政大学の「ボアソナード・タワー」である。(写真)
 遠くから見ると、大学の校舎とは思えないだろう。大学も変わったと、時代を痛感する。

 * 法政大学「55・58年館」のモダニズム建築

 朝日新聞の2月15日(金)の夕刊に「さらば法大校舎@市ヶ谷」、および翌16日(土)朝刊(東京版)に「法政大55・58年館お別れイベント@市ヶ谷」なる情報記事が掲載された。
 この3月から法政大の「55・58年館」校舎が解体されるのに伴うイベントおよび講演の告知であった。この校舎は、法政大学の建築科の教授だった大江宏による設計で、校舎の名前は、1955年、および1958年に竣工されたことからきていて、連結した建築物である。
 大学といえば一般的には、時計台が厳かに構えていたり、蔦の絡まる煉瓦造りといったイメージのクラシカルな建築を思い浮かべるが、法政大のこの「55・58年館」は、白いガラス張りに黒の格子の、シンプルともいえる建物である。しかも、7階建て、東西120mの当時としては高層建築だった。
 この建築物は、竣工当時から「日本有数のモダニズム建築」として建築雑誌に紹介されているように高い評価を得ていた。
 当時の学生は、そんなことはまったく知らなかったのだが。

 この校舎の解体工事が始まるのに伴い、お別れイベントが2月の23、24日に、この校舎で行われたのだ。
 この校舎の写真や歴史的資料の公開と同時に、この55・58年館の建築的意義、建築家大江宏の業績に関するシンポジウムなどが行われた。
 僕はこの校舎で学んだ大学のOBなので、最後の校舎を見ておこうと大学のゼミの先輩と一緒に出席した。

 * 「55・58年館」における最終講義

 2月24日(日)の講演およびシンポジウムは、議題は、「大江宏と55・58年館」。
 場所は、58年間の3階にある833教室。いわゆる、「55・58年館における最後の講義」である。
 出席者は、建築学会の有名教授陣と言える、藤森照信(東京大学名誉教授)、藤岡洋保(東京工業大学名誉教授)、陣内秀信(法政大学特任教授)、大江新(法政大学名誉教授)である。

 藤森照信氏は、「建築探偵」のシリーズ本などで、僕を建築の面白さに目覚めさせた人である。藤森氏が設計した赤瀬川原平邸の屋根にニラを植えた「ニラハウス」を、雑誌で取材したこともある。氏の国分寺の自邸は、「タンポポハウス」である。
 陣内秀信氏は、言わずと知れたヴェネツィア建築研究の第一人者である。近年は、「江戸東京」の研究にも領域を広げていて、ブラタモリに出演したり、雑誌「東京人」では「外濠を歩く」などの企画に参画している。
 *
 最初に、大江宏氏の子息である大江新(法政大学名誉教授)氏による、「55・58年館」の建物に込められた理念と経緯、および人間大江宏に関する話が行われた。氏の話で、この「55・58年館」を何とか保存できないものかと、苦慮されたことが窺えた。
 この「55・58年館」の裏に新しく建てられた「大内山校舎」は、「55・58年館」のデザイン理念を引き継いだものである。
 藤岡洋保(東京工業大学名誉教授)氏は、大江宏の建築理念とその評価、モダニズム建築について丁寧に解説された。
 藤森照信氏は、大江宏と丹下健三が東大の同級生だったことをふまえ、お互いライバルで気にする関係であったと話し、大江宏に比し丹下健三が有名になったいきさつなどを特有の話術で語った。
 陣内秀信氏は、現在も法政大学の特任教授という役職からか、この会のシンポジウムではまとめ役に徹していた。
 個人的には、陣内氏の東京を水の街としての研究・観察は、ときおりヴェネツィアを差しはさんだりして、想像を駆りたてて興味深い。今も残る江戸城の「外濠」は、その興味の端緒となる。
 
 *
 
 あらゆるものが、移り変わっていく。
 今まであったものがなくなり、消え去っていく。その微妙な流れのなかに、甘酸っぱい感傷と共に、掴みどころのない儚い美を垣間見ることができる。

 変貌する大学……。学ぶ内容も、環境も時代と共に変わっていく。
 時代を振り返り、大学の校舎を改めて建築学的に見るという行為は、新鮮な感傷を含んだ興味深い体験でもあった。
 現役の学生の時は、考えても見なかったことだ。
 それにしても学校は、小学校も中学校も高校も、そして大学も、桜の花がよく似合う。
 学校は、入学して卒業する。そこは、自分というものが移り変わる、あるいは移る変わった原点なのだ。
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故郷の喪失――佐賀県大町町のこと

2018-12-07 03:10:10 | 人生は記憶

 * 二つの故郷

 誰もが故郷を持っている。
 「故郷」を辞書でひけば、第一義に「生まれ育った土地」とある。「こきょう」とも「ふるさと」とも呼ぶことができる。
 生まれたところと育ったところが同じか、近辺あるいは同一県内だったら、あなたの故郷は?の問いに容易に答えられるだろう。
 しかし、生まれたところと育ったところが違う場合は、どちらを故郷というのだろう。
 生まれは○○だが、育ったのは□□ですと、少し間を置いて答えることになるだろう。育ったところというのは、 おおよそ高校時代まで、あるいは自立するまでを言うのだろうから、その間に引っ越しを繰り返した場合は複数の場合にもなるだろう。
 僕の場合も、故郷は?の答えには、少しの心の逡巡を要する。

 * 第二の故郷、佐賀県杵島郡大町町

 先月の11月に佐賀の実家に帰った。
 実家といっても、両親がなくなったあとの佐賀の田舎には古い家だけが残ったままだった。東京に住む僕は時々そこに帰って、気が向くまま何日か滞在した。

 佐賀県杵島郡大町町。
 大町町は、佐賀の炭鉱王と称された高取伊好が経営した、北方・大町・江北町にまたがる佐賀県最大の炭鉱「杵島炭鉱」の本拠地があった、この地域の中心の町であった。地理上では、佐賀県のほぼ中央に位置する。
 日本の近代化・工業化とともに栄えた炭鉱の町は、僕がもの心つく頃、1950年代から60年代にかけての頃は、町は活気に充ちていた。

 町の脇には、なだらかなピラミッドのようなボタ山が、町を睥睨(へいげい)するかのように横たわり、町の中心には大きな2本の煙突が町を見張るスフィンクスであるかのように高く聳えていた。
 町の中心にある様々な店が軒を並べる商店街はいつも多くの人が行き交い、通りには大型トラックが走り抜け、石炭と鉱夫を乗せたトロッコ電車が町を横断していていた。
 町には2つの映画館とパチンコ店があり、通りには赤線だか青線もあった。赤(青)線については僕が精神的に幼すぎたのか記憶に薄いが、あとでこの一帯だと知り歩いたが、すでに面影はない。
 学校に通じる通りの横に、大きな野球グラウンド「杵島球場」があり、県下唯一のノンプロ球団「杵島炭鉱」の選手がいつも練習や試合を行っていた。ここから、元巨人のV9時代の内野手、黒江透修を輩出した。
 この球場で西鉄ライオンズ対東急フライアーズの試合が行われたこともあり、のちに当時の思い出を豊田泰光(元西鉄ライオンズ)が新聞に語っていた。

 街の賑わいを象徴するように、小学校の生徒数が4,000人を超え全国一のマンモス校と話題になったこともあった。教室が足りなく新校舎を造っている期間、朝からと午後からの2部制の授業が行われていた時期もあった。
 あれは、1960(昭和35)年だった。空からヘリコプターで撮った写真の、小・中学校の校庭で作った、人文字の溢れるような生徒のただなかに僕もいた。

 しかし振り返れば、僕が育ったその時代は、黒ダイヤともてはやされた石炭産業の最後の残照の季節であった。エネルギー変換の時代の流れのなかで、石炭産業は合理化を余儀なくされ、杵島炭鉱は1969(昭和44)年に閉山となり、街をも一変させた。
 それでも、周りの変化にもかかわらず、町は諦念とも超越とも思えるように淡々と移りゆく月日を生き続けてきた。
 今は町を歩いても、炭鉱の足跡も栄華の面影も見つけることは難しい。移り変わっていく季節に落とす影とともに、静かに流れる穏やかな風の香りを、僕は毎年実家に帰って感じ続けてきた。
 街並みは変わったが、北に見える「鬼が鼻」に連なる「聖岳」の山並みや、南に蛇行する「六角川」の川の流れは少しも変わっていない。

 高校までその地で育った僕は、佐賀県大町町が「故郷」という思いが強い。
 こうやって文を書く場合でも、帰郷や帰京という熟語の場合はともかく、東京から佐賀の実家に行く場合は「帰る」と、逆に佐賀から東京に行く場合は「戻る」と、使い分けてきた。
 そこは僕の帰るところ、僕の「ふるさと」、第二の「故郷」である。

 * 第一の故郷は、満州

 第二の故郷と言ったのは、僕が生まれたのは育った佐賀とは違うからである。
 僕が生まれたのは、旧「満州」(中国東北部)である。父が戦前、満州国の役人で、安東(現丹東市)および新京(満州国の首都・現長春市)にて勤務していて、戦後(第二次世界大戦後)、僕は安東市で生まれた。
 母と共に日本に引き揚げ帰国したのは1946(昭和21)年10月で、まだ1歳にもならない乳飲み子のときで、当然のことながらその時の記憶はない。敗戦により父はソビエト連邦(ソ連)のシベリアに抑留され、帰国したのは3年後であった。
 同じ満州引き揚げ体験をした作詞家で作家のなかにし礼(彼は当時8歳であった)と同じ時期に、中国の葫蘆島から出港し、佐世保港に着いた。
 女優の浅丘ルリ子は新京(長春)で生まれ、彼女の父親が僕の父と同じ満州国経済部(新京にある)に勤務していた時期があったようだ。彼女が新京(長春)を訪ね歩くというドキュメンタリー番組で、初めてそのことを知った。
 作家の五木寛之は1947(昭和22)年、15歳のとき、朝鮮から引き揚げてきている。
 しかし、何といっても「満州」と言えば李香蘭(山口淑子)であろう。敗戦時、「漢奸(かんかん)」の容疑で逮捕された彼女を救う鍵となったのが彼女の戸籍謄本で、そこには「佐賀県杵島郡北方町…」と書いてあった。彼女の父親が佐賀県北方町出身であった。

 2015年に旧満州地方の長春(新京)を中心とした中国東北部を旅行したが、満州のことはいまだちゃんと書いたことがない。いつか書くことになるだろう。

 * 佐賀の実家を懐喪失

 こうした経緯のあと、もの心ついたときは、僕は佐賀の大町にいた。高校を卒業するまで佐賀にいて、東京の大学に行くために佐賀を離れ上京した。
 それでも、東京に出てからも毎年休暇には佐賀に帰ったし、年末には必ず佐賀の実家で正月を迎えるのが慣わしだった。両親がなくなり誰もいなくなった後も、年末には帰り、そこで一人正月を迎えるのを常としていた。そうすることを自分に課していたし、悦びでもあった。
 しかし、当然のことだが次第に家は老朽化し、帰るたびに溜息をつきたくなるような雑草や木が蔓延る庭の手入れが重荷になってきた。それに、過疎化する町を象徴するように、かつて栄えた商店街は年々シャッターを閉める店が増えて、買い物や食事にも苦労がつきまとうようになってきた。
 それでも数年前までは、口笛を吹きながら自転車で隣町まで買い物に行っていたのだが。

 そういう経過もあって、2、3年前から思案していたのではあるが、老朽化した家を放置するわけにもいかず、今年、ついにこの家を解体し更地にすることにしたのだ。
 業者に依頼し具体的に解体することが決まると、やはり寂しさが募ってきた。
 もう帰る家がなくなるのかと思うと、ふるさとを突然なくしたような気になってきた。
 古い家も、見慣れた居間の窓からいつも見ている鬼が鼻(山)や聖岳の山々も、その山の上に広がる青い空に浮かぶ白い雲も、見える風景すべてがいとおしく感じるのだった。(写真)
 そして、家に連なる裏の細い石段の小道も、その石段を通るといつも吠える黒い犬がいる家も、家の脇に立つ電信柱さえも、この世から消えてなくなるのではないかという切なささえも湧いてくるのだった。
 
 生まれ「故郷」は、歴史という時代の大きな波のなかでの、失われた「満州」という幻影に塗(まぶ)されていた。それゆえ、遥か彼方への郷愁の想いだけが心の中に投影されていた。
 そして今、育った「ふるさと」もなくなるのかと思うと、現実的な大きなものを失ったような喪失感が生まれてきたのだった。
 しかし、だ。
 いつだって「故郷」はそこにある。人の心とは無関係に、あり続けているだろう。

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石坂敬一がいた時代③ 皆既月食の夜の「我がロック革命」

2018-02-02 03:20:21 | 人生は記憶
 
 地球の丸さが、僕を君に夢中にさせる
 地球が丸いから…
  Because the world is round it turns me on.
  Because the world is round…
   「Because」The Beatles(対訳:吉成伸幸)

 昨晩の2018年1月31日、皆既月食の夜だった。
 僕はいつものように遅い食事をしながら、時々外に出て空を見上げて月の動きを見守った。月は丸い満月で、色はいつもより濃いオレンジ色で、ウサギの影がより鮮明だ。
 皆既月食は、月全体が丸い地球の影に入るときに起こり、日本では2015年4月4日以来という。地球の大気で屈折された太陽光が月に当たるため、赤銅色、いわゆる濃いオレンジ色に見える。
 21時過ぎには月はゆっくりと欠けてきたが、全体の丸さを見失わないようにとも言うように、薄く月の表面にオブラートの光を残していた。
 僕の小さなデジカメを通してみると、肉眼で見るよりは濃いオレンジ色で、見まがうことなく立体的だ。レンズを通してみると、普段は平坦に見えるおぼろげな月は、しっかりと丸い球に見える。(写真)
 やはり、月はただ単に月でなく、月球なのだ。
 月の表面で静かに動いている弓のような影は、地球の影。ということは、地球もきっと丸いのだ。

 *

 皆既月食の夜、石坂敬一の「我がロック革命 それはビートルズから始まった」(東京ニュース通信社刊)を読んだ。
 東芝EMI時代はビートルズ、ピンクフロイドなどのディレクター、その後、ポリグラム、ユニバーサルミュージックの代表取締役社長、日本レコード協会会長などを歴任した音楽業界の第一人者だ。
 僕は彼との仕事上の付き合いは短かったが、彼がなくなるまで友人関係は続いた。そう、彼がなくなる直前に麻布で、吉成伸幸も含めて3人で会って飲んだのだった。
 あれから1年が過ぎたのだ。

 ※参照→「石坂敬一がいた時代」①「突然の別れ」ブログ、2017.1.29、②「目指したのは格好いい耽美派」ブログ、2017.2.16

 石坂敬一は、大学を卒業後、レコード会社に就職し、好きなレコード業界で活動し、そして突然いなくなった。
 この本は彼の死後、去年の秋に出版された。レコード業界で彼がやってきたことを生前に語ったのをまとめた、いわば石坂敬一の自伝である。死後になってもこうした本が出版されるのは、彼が優れたビジネスマンという枠を超えて、いかに個性的豊かな人間だったかを物語っている。
 ビートルズとの出会い、東芝EMI時代、その後のレコード業界での経営者時代を、酒でも飲みながら話しているような本だ。
 一貫しているのは、ビートルズ、とりわけジョン・レノンに対する純粋な少年にも似た愛だ。
 彼がJ・レノンに初めて個人的に会った時に、「この人のそばに長くいたい、電話番でも使い走りでも何でもいい、ジョン・レノンのためになら何でもするという気持ちが芽生えた」と話している。
 そして、ジョン・レノンの死に関連して次のように語っている。
 「ジョン・レノンが死んだ次の日から自分のことを「最後のエコノミック・アニマル」、あるいは「自分はギターのコードを3つしか知らないけど、世界中の誰よりも客席をドライヴすることができる」というジョン・レノンの言葉にあやかって、「ハード・ドライヴィング・ビジネスマン」と呼ぶことに決めた」
 彼の言葉によればこの時期を契機に、ビジネスマンとして数字を重視した、当初の目標でもあった社長に向かって仕事の舵を方向転換することになる。

 *

 面白かったというか、うん、そうだったねと頷いたのは、ビートルズが人気になりだして、日本公演(1966年)をした頃の日本での反応だ。
 当時、普通の人間が洋楽を知るソースは大体においてラジオの深夜放送においてであった。石坂も学生時代、深夜放送でビートルズを知り、徐々にビートルズに熱中していく。しかし、日本ではさほど大きな話題とはなってはいない。
 ビートルズの来日公演のときはマスコミも大々的に取り上げたが、彼は「大学の友だちは「へえ、ビートルズが来るんだ」というような淡白な反応で、盛り上がりを共有できる仲間は一人もいなかった」と述べている。そして周りの学生たちを称して、「彼らの興味の対象はロックよりフォークで、ビートルズよりPPM(ピーター・ポール&マリー)の方が人気があった」と付け加えている。
 今でこそ、多くのミュージシャンや音楽通を自称する人間が「ビートルズの出現は衝撃的だった、ビートルズに大きな影響を受けた」などと吹聴するが、一部を除けば当時はこのようにビートルズ旋風を巻き起こしていたわけではない。
 石坂より少し下の年代である亀和田武も「60年代ポップ少年」で、当時日本中の若者がビートルズに熱中していたという説に異論を唱えている。
 当時の同級生が同窓会などで、ビートルズへの熱狂を語ったりすることに、「オマエ、嘘をいっちゃいけないよ。オマエが休み時間に毎日、楽しそうに歌っていたのは、三田明の「美しい十代」と、舟木一夫の「高校三年生」じゃないか」と、思い出の捏造を冷笑している。
 当時、洋楽では、僕はビートルズよりベンチャーズが人気があったと思う。
 しかし、ビートルズはいつしか伝説のグループになっていく。

 ビートルズに大きな影響を受けた石坂だが、彼は早くからビートルズに傾倒し、学生時代に当時東芝EMIのビートルズ担当ディレクターだった高嶋弘之のところに出入りするほどだった。

 *

 石坂は直線的な人間だった。目的のためには全身で向かっていった。それが脂ぎったり汗水かいたりしないところが彼らしかった。
 「今度、常務になったよ」とか、「いわゆるヘッドハンティングでポリグラムの社長になったよ」と言ったときも、奢った素振りとか、態度の変化は何もなかった。あらゆることが、当然の成りゆきのようにふるまっていた。
 石坂の行動力からして、経営者として彼が部下に求めるものは、とてもハードだったことは想像に難くない。しかし、粉飾や衒いがないから反論はしにくかったであろう。確かに、「ハード・ドライヴィング・ビジネスマン」だったに違いない。
 しかし、僕と会うときはいつも穏やかで、忙しいのにそんな態度はおくびにも出さなかった。何より彼は、自分の仕事が好きだった。
 僕らが会うのは、東芝EMI時代の若いときは六本木のパブ・カーディナル、そのあとはホテルオークラのバーが多かった。

 初めて会った頃の、ウェーブをかけた長い髪、ロックアーチストの様な高いロンドンブーツ、幅広のパンタロンの君の格好が、業界の音楽ディレクターの、特に洋楽ディレクターのファッションを変えたね。
 ある時、会社の経営者になったと思ったら、髪は短くし、スーツにネクタイのビジネスマン・スタイルに変身していた。
 おや、おやと思った。バンバンの「いちご白書をもう一度」(作詞・曲:荒井由実)ですか。
 ともかく、何事も君は一直線の人間だった。

 君と会った最後の夜、僕が「もう音楽業界では充分やったでしょう」と言うと、君は「日本人アーティストを世界に送り出すことが…」と、言葉を飲み込んだ。
 僕が「あのアーティスト…」と言葉を繋ぐと、
 「うん、クリエイションのことだ。準備も段取りもやったんだが…」と悔しさを込めて、言葉を絞り出した。
 クリエイションは竹田和夫を中心としたロックバンドで、東芝EMI時代の石坂が洋楽のディレクターでありながら日本人のアーティストを売り出すということで、ことさら力を入れていた。1975年に初アルバム「クリエイション」をリリースした時、雑誌の編集者だった僕も彼らを取材した。そのとき、グループの彼ら4人を神宮の並木道を並んで横断している姿を写真に撮って載せたのは忘れられない。いわゆる、ビートルズの「アビイ・ロード」のオマージュだ。
 その後、クリエイションはどうなったのだろうか。

 全速力で走り切った石坂敬一。
 君だって、やり残したことがあった。その言葉に、人間味を感じた。
 満月ばかりではない。月も欠けたり満ちたりする。
 今(2月1日の深夜、正確には2日の早朝)外を見ると、おやおや、10日前に積もった残り雪がやっと溶けたと思ったら、また庭は真っ白になっている。

 *

 僕は、昨日(1月31日)皆既月食の日、ビートルズを聴きながら石坂敬一の自伝を読んで、彼を偲んだ。そして、今日1日家を出ることもなく、再びビートルズを聴きながらこうして書いていると、またしても雪が降ってきた。
 自然は、人が何を考え何をしようと、絶え間なく動いているのだ。
 
 
 ビートルズで僕が好きなのは、「アビイ・ロード」(ABBEY ROAD)。

 空の青さが、僕を泣きたくさせる
 空が青いから…
  Because the sky is blue, it makes me cry.
  Because the sky is blue…
   「Because」The Beatles(対訳:吉成伸幸)

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