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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

パンデミック・コロナの時代① 2020(令和2)年に起こったこと

2023-01-19 03:50:10 | 人生は記憶
 2023(令和5)年1月15日で、新型コロナウイルスが日本で確認されて、いつの間にか3年がたった。
 人生にはいろいろなことが起きるものだが、このような予期せぬ出来事であるパンデミック(世界的大流行)を経験・体験するとは思いもよらないことだった。
 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の風潮に呑み込まれないうちに、記憶を記録しておこうと思う。

 <1> 最初の新型コロナウイルスの記憶

 3年前の2020(令和2)年の1月3日、知人と川崎大師に初詣に行った。
 実はその前の年末に横浜を散策して中華街で食事する予定だったのだが、知人が喉を痛めてまだ咳が治まっていないということで、日を延ばそう、年明けなら川崎大師の初詣に行こうという成りゆきだった。
 まだ三が日ということで、川崎大師は参道から行列の人だった。
 その仲見世には、喉飴の店が並んでいる。知人は、縁起ごとでもあり咳止めの喉飴を買った。中米旅行からの喉の炎症が長引いているという知人に、「中国(武漢)帰りでなくてよかったね」と冗談・軽口を言おうと思った。
 というのは、そのつい先月の2019(令和元)年12月に、中国湖北省武漢市で「原因不明のウイルス性肺炎」の患者が出ている、というニュースを耳にしていたからだ。そのことは、毎日流されるニュースのなかの単なる気になる出来事という程度のことだった。
 この3年前の、コロナという言葉がまだ一般に流布していなかった時期の、言おうとして言葉にしなかった些細な記憶が、私の新型コロナウイルスに関する最初といえる扉・出来事だった。
 このときは、誰もが世界中を悩ませ苦しませる「パンデミック」(感染症の世界的大流行)になるとは思いもよらなかった。
 正月の初詣は混雑していたし、マスクをしている人は誰もいなかった。

 <2> 現在の新型コロナウイルス

 2023年1月現在、政府の緩和策も相まって新型コロナウイルスへの不安や恐怖は薄らいでいるが、いまだマスクをつける日常は続いており、日本はオミクロン株による第8波の最中にある。
 1日の感染者の数も死者の数も減っておらず、むしろ今年になって増えている。ここで、現在の新型コロナウイルスのデータを記しておこう。
 〇日本国内の感染者数・死者数
 国内感染者数、3174万7613人(前日比+12万3657人)、死者数、6万4296人(前日比+430人)。(2023年1月18日統計、朝日新聞)
 〇世界の感染者数・死者数(累計)
 感染者数、6億6753万2474人、死者数、672万6583人。(2023年1月18日統計、NHK特設サイト、ジョンズ・ホプキンス大学集計)
 なお、数字は当然日々変わるし、統計のあり方により異なることがある。

 <3> 2020(令和2)年、コロナの第1波到来のときの記録

 2019年12月に中国武漢市において確認された新型肺炎の感染者が、翌2020年1月の中旬ごろ、武漢市で急増する。
 さらに、韓国、日本、タイとアジア周辺に感染者が確認される。
 ・2020年1月16日、日本国内初の新型コロナウイルスの感染者を確認と厚生労働省が発表。
 国内初の感染者はニュースになったが、まだ深刻に問題にすることはなかった。
 ・2月5日、大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスで乗客・乗員10人の感染が確認され、その対応が議論を呼ぶ。
 ・2月13日、神奈川県にて国内初の感染症による死者。

 ヨーロッパでは、2020年1月末にフランスで最初の感染者が確認され、その後ドイツ、イタリア、スペイン、イギリス等においても相次いで確認された。
 1月末には、中国の累積感染者数が約1万人に膨れあがり、世界保健機関(WHO)は、1月30日に、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言した。

 新規感染者数は、イタリアでは2月末から、フランス、ドイツ、スペインでは3月に入り感染の急拡大が始まった。イギリスではやや遅れて、3月中旬以降に急拡大した。
 アメリカでは、1月中旬に初めての感染者が報告された後、3月に入り感染者が拡大し、3月下旬には累積感染者数が中国やイタリアを抜いて世界最多となった。
 ・3月11日、WHOが「パンデミック」(世界的流行)相当と表明した。

 <4> その名は「COVID-19」

 「新型コロナウイルス感染症」の正式名称は「COVID-19」。
 「COVID-19」は、それ自体が正式名称であり、略称ではない。「Corona Virus Infectious Disease, emerged in 2019」に由来する命名である。
 国際ウイルス分類委員会が感染症名を「COVID-19」と命名したのと同時に、WHOにより2020年2月11日に発表された。
 日本において「新型コロナウイルス感染症」と呼称されているのは、「COVID-19」が正式発表される前に、日本政府が政令で定めたので、この名を通している。

 <5> 第1波における日本の動き

 2020年1月16日に国内初めての感染者が確認され、その後2月に入り感染者数は微増を続ける。
 ・2月下旬、安倍首相が、大規模イベントの2週間自粛、小中学校などについて3月2日から春休みまでの臨時休校を要請。
 ・2月28日、北海道(鈴木知事)が、週末の外出自粛を求める独自の緊急事態宣言。
 3月10日ごろまで感染者数は全国で50人以下だったが、その後急増する。それまで中国・武漢関連の感染者が主だったのが、ヨーロッパなどからの旅行者や帰国者を通して各地に広がったとされる。
 ・3月24日、2020東京五輪・パラリンピックの延期決定。
 ・3月25日、東京都(小池知事)が、「不要不急」の外出自粛を要請。
 「不要・不急」の反対語は、「必要・緊急」である。要は、大した用でないのなら外出は控えるように、ということである。
 ・3月29日、志村けんさん(70歳)死去。
 ・4月1日、安倍首相が、1世帯当たり布マスク2枚の配布を発表。
 新型コロナウイルス感染者の増加にともない、国内からマスクが消えていた。中国産のマスクが販売され出したが、すぐに品切れの状態が続いた。それで、各自が手作りの独自のマスクを作るのが流行した。
 そんな最中での政府の起死回生とばかりのマスク配布の発表だったが、段取りに手間どり配布が遅れ、配布が終わった6月末にはマスクが市中に出回り始めていたことや、マスクのサイズがやや小さかったこと、マスク契約額が総額260億円にのぼっていることなど、世間からは不評でアベノマススと揶揄された。
 (写真は政府より送付されたマスク。「3つの密を避けましょう!」と見出しにある)
 ※当時、新型コロナウイルスへの対策として提唱された、避ける「3密」とは、「密閉」「密集」「密接」を指す。つまり、「換気の悪い密閉空間」、「多数が集まる密集場所」、「間近で会話や発声をする密接場面」のことである。

 ・4月7日、首都圏など7都府県を対象に、「緊急事態宣言」(1回目)を発出。
 ・4月17日、「緊急事態宣言」の対象区域を全国に拡大。
 ・安倍首相が、減収世帯向けの30万円給付を変更し、国民への一律10万円給付を発表。
 3月下旬から4月にかけて感染者数は急増したが、緊急事態宣言発出以降、漸次減少傾向に入った。
 ・5月14日、39県で緊急事態宣言を解除。
 ・5月25日、全域での緊急事態宣言を解除。

 2020年6月、新型コロナウイルス第1波は収束に入った。

 <6> 新型コロナウイルス発生の黎明期は、知識の宝庫か洪水か?

 新型肺炎である新型コロナウイルスが日本で確認されてから、コロナウイルスに対する情報、感染対策が専門家により、連日、テレビ、新聞などで解説・報道された。
 コロナの実態、感染経路、感染者の症状、感染を防ぐ方法など、実に多くの情報が出回り、過剰なまでに私たちは知識を得ることになった。
 ウイルスは、人間の口からどのように飛び散る(拡散する)のか、低い声と大きな声ではどのくらいの違いがあるのか。
 マスクはどのくらいウイルスの侵入を防げるのか、布や不織布など材質の違いによって、どのくらい防御の差があるのか、マスクはしないよりした方がましという程度の効果なのか(この実証は次第に取りあげられなくなっていった)。
 部屋の窓を閉めた場合と、開けて換気をよくした場合、ウイルスの流れはどう違うのか。
 これらの例が、専門家によって実験・実証され、テレビなどで私たちの前に次々と提示された。
 しかし、結局のところ、根本的なコロナウイルス対策は、ワクチンの作成を待つしかなく(それは置いといて)、マスクをつける、手を洗う、うがいをする、部屋の換気をよくする、人との間に一定の距離をとる、などの基本的な普段の行いに帰着したのだった。



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外濠公園通りの青春② “井上雅雄"とヌーヴェルヴァーグと愛奴

2022-10-28 02:19:55 | 人生は記憶
 先日、出版社から新刊の1冊の本が送られてきた。
 「戦後日本映画史―企業経営史からたどる」(新曜社)という書で、著者は井上雅雄。
 彼は2019(令和元)年3月に亡くなったので、この本は晩年力を入れて執筆していた遺稿集である。
 経済学者であった井上雅雄が、戦後の日本映画の隆盛と衰退を、映画産業という視点から分析した500頁に及ぶ力作である。
 彼が真の映画好きだったことを、私はよく知っている。誰よりも知っているといっていい。
 私に最も影響を及ぼした、かつて青春を共有した井上雅雄のことを書いておきたい。

 <断章1> 東京へ――人間万事塞翁が馬

 偶然と必然は、風に舞う落葉の裏と表なのか。
 人生は思っているように行くとは限らない。いや、予想通りにいかないのが人生であり、そこにも道が延びている。

 高校のとき、東京へ憧れていたわけでも、とりわけ東京へ行きたいと強く思っていたわけでもない。予期せぬ出来事なのか予定された行方なのか、佐賀の田舎から東京での生活が始まった。
 1964(昭和39)年春、私は佐賀の田舎の高校から結局、大学は東京の私立大に行くことになった。東京・市ヶ谷(東京都千代田区)にある法政大学経済学部である。
 半年前には予想だにしなかった行末であった。
 経済学部を選んだ訳は、当時、大学の文系学部といえば、今のように細分化されていず、文学、法学、経済学部ぐらいであった。文学は好きだったが小説や本は個人で読めばいいと思っていたし、法学は六法全書を暗記しなくてはいけないと思うだけで憂鬱になった。となると、結局、経済学部となる。
 入学して、第2外国語を選択しなくてはいけなかった。経済学部は圧倒的にドイツ語選択者が多かったが、私はドイツよりフランスの方が洒落ているというぐらいの気持ちでフランス語を選択した。他に、ロシア語、中国語を選択する人が何人かいた。
 クラスは第2外国語の選択によって分けられていて、マンモス大学のマンモス学部であるのにフランス語選択クラスは2クラスしかなく、そのなかで幸運にも私のクラスに女性が集っていた。といっても8人だったのだが。あと女性は、ドイツ語クラスに数人いたかどうかであった。
 つまり、当時、女性の進学先は文学部、教育学部や家政学部(女子大)がほとんどで、経済学部に行く女性は極めて少なかったのだ。
 経済学部に入ったものの、たいして読んではいなかったが詩や小説とは離れがたく、とりあえず文芸研究会のクラブに入ってみた。

 これらのいきさつは、ずいぶん前にこのブログで、「いつも本がそばにあった」の続編として書いた。
 ※「外濠公園通りの青春➀ 1964年東京と本との関わり」( 2019-9-12 )
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/c/dedb79e60a66ab2587d8b01ebecdc86a

 結果的に東京の法政大へ行ったこと、つまり東京での学生生活が、私の人生の大きな分岐点となり出発点となった。
 骰子は投げられた!
 放たれた矢は、何に向かって、どの方向に行くのか、定かではない。

 <断章2> 井上雅雄との邂逅

 人生は長い旅のようなもの。出会いは、旅の途中に出向いてくる。

 私は1964(昭和39)年の4月、佐世保発の急行列車「西海」に乗って上京した。
 その頃、日本は高度経済成長のただ中にいたし、東京はアジア初のオリンピックを迎えて覇気に満ちていた。
 今までの高校生活と違って、大学は個人の意思と責任に委ねられて自由だった。そこには、何かがあると感じさせた。
 大学に入って驚いたことは、クラスはあったが高校までの学校と違ってクラス教室がなかったことだ。つまり、個人の決まった教室・机はなく、教科によって予め指定された教室にそれぞれ出向くのだった。
 個人の教室はなかったが、あらゆる教室が自分の教室になりえた。
 授業・講義は必須の語学はクラス単位であったが、それ以外の教科はクラスを超えた人間が受講するので、マンモス大学ならではの数百人規模の大教室での講義も多かった。
 教科は1、2年の多くが必須の教養課程と3年からの専門課程に分かれていて、教養課程は経済学や哲学などもあったが、おおよそ高校の延長のようなものだった。
 教科は各人が自由に選択するようになっていて、どうしても時間はバラバラになり、同じクラスの人間といえども、必須教科以外は会わないこともよくあることだった。必須教科とて、顔を出さない輩も多くいた。

 *
 それは、入学後の間もない頃の、大教室での最初の「経済学」の講義での事だった。
 1960年代当時、経済学はマルクス経済学が主流だったが、1、2年の教養課程の必須の経済学は近代経済学だった。
 中年の丸い黒縁のメガネをかけた地味な教授の授業が始まった。
 教授は、まず初めに君たちに言っておこうみたいな調子で、現在のマルクス経済学への批判を始めた。それは徐々に大学への批判が絡み、品性を欠く嫌味と感じるに及んでいった。
 しばらくした時だった。一人の学生が突然立ち上がって、質問というより抗議をし始めた。それは近代経済学への批判から、それに続く教授そのものへの批判に進んでいった。
 教授は最初は軽くあしらうかのように返答していたが、熱く勢いがとまらない学生の理論的な抗議・質問に、次第に狼狽を隠せなくなっていった。
 私と同じ新入生なのに、凄いやつがいるなと思った。よく見ると、その男は私と同じクラスの男だった。それが、井上雅雄だった。
 この教授と学生のいきさつを、私と同じような一般学生は感心するように、あるいは感嘆するように見守るばかりだった。
 ところが、ここで終わらないのが、大学というところだと思った。
 この教授と学生の討論というか口論の間(ま)があいたところで、別の男が立ち上がった。そして、落ち着いた口調で井上にこのようなことを問うた。
 「君の言おうとしていることはわかる。しかし、僕たちはまだ学び始めたばかりの新入生なんだ。近代経済学もマルクス経済学も、両方学んだあとに各人が結論を出すべきじゃないか。だから、異論は別にしてここは講義を聴こうではないか」
 まだ経済学に対して白紙だった私は、その通りだ。いや、凄いやつはいるものだ、とまたまた思ってしまった。
 最初の経済学の講義は、こうして波乱のうちに終わった。
 井上雅雄との交友は、ここから始まったといっていい。
 ちなみに、授業が終わった後、立ち上がったもう一人の男に、廊下で私は声をかけた。彼はフランス語専攻の別のクラスの学生だった。落ち着いた言動の彼は、2年社会人を経て入学したというから、大人びているはずだ。

 <断章3> 1964年当時の法政大の教授陣

 「学而不思則罔 思而不学則殆」(学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し)
 現在の新しいビルに建て替えられる前の、55年館校舎の511大教室前の壁に掲げられていた、元大学総長の大内兵衛の揮毫による「論語」(為政篇)のなかの文である。

 私が法政大に入学した時の総長は、哲学者の谷川徹三(文学部)だった。当時の法政大には有名な教授が多くいた。一部だが、記憶に残るところをあげてみる。
 文芸評論家として一線で活躍していた小田切秀雄 (文学部)、荒正人(文学部)、本多顕彰(英文学)、福田定良(哲学)、乾孝(心理学)、千葉康則(生理学)、詩人でフランス文学の宗左近(フランス語)、詩人でのちに作家になる清岡卓行(フランス語)等々。
 経済学部は、東大の大内兵衛門下をはじめ錚々たる名が連ねられていた。
 宇佐美誠次郎、時永淑(経済学史)、中野正(経済原論)、日高普(経済原論)、芝田進午(哲学・社会学)、渡邉佐平(金融論)、良知力(社会思想史)、大島清(農業経済論)、鈴木徹三(経済政策論)、川上忠雄(恐慌論)、尾形憲(教育経済論)等々。
 宇野経済理論で有名な宇野弘蔵も社会学部の教授だった。

 「有朋自遠方来 不亦楽乎」(朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや)
 旧校舎58 年館の学生ホールに掲げられていた「論語」( 学而第一 )の一節である。

 <断章4> 政治の季節から文化カルチャーの季節へ

 二十歳、それが人生で最も美しい季節だと誰が言えよう。言えるとすれば、それが二度と戻ってこない儚い時だと知ってからのことだ。

 井上雅雄は情熱家であった。喋り出すと激して熱くなるが、普段は静かな神経質でナイーブな男だった。北海道・札幌の高校出身で、すでに高校時代から雑誌「世界」や「朝日ジャーナル」を読んでいる社会派だった。
 1960年代、大学は政治の季節でどこも学生運動が活発だった。大学は活気と熱気に充ちていた。
 理論派で熱弁家の井上は、すぐさま学内の活動家も一目置く存在となった。しかし、彼は運動に没入することを抑え、迸る情熱の出口を模索していた。
 井上は社会派ではあったが、彼は政治・経済だけに関心をもっていたわけではなく、文学的感性も隠すことはなかった。そういう感性に私は共鳴した。
 私たちは当時の潮流であった大江健三郎や吉本隆明も話題にした。そんななかで、井上が私に勧めた樺美智子の「人しれず微笑まん」と奥浩平の「青春の墓標」は、たちまち奥浩平の言葉を暗誦するほど、私の青春の書となった。
 樺美智子も奥浩平も学生運動に身をおき、若くして命を落とした。それぞれ、その二人の遺稿集である。

 *
 井上の影響でデモに行ったりしたが、彼はほどなく学生運動に見切りをつけて離れると、それに歩調を合わせるかのように好きだった映画に傾注し、それはすぐに私に感染した。
 当時、フランス・ヌーヴェルヴァーグが日本にも押し寄せていた。秘かな日活ファンだった私は、井上の影響もあってヌーヴェルヴァーグの波に呑み込まれるように、ジャン・リュック・ゴダールやアラン・レネ、フランソワ・トリュフォーの映画に熱中した。
 私は、今でもジャン・ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ主演のゴダールの「気狂いピエロ」は最高の傑作映画だと思っているし、ブリジット・バルドー主演の「軽蔑」は原題の「ル・メプリ(Le Mépris)」という言葉を繰り返し口ずさんでいたほどだった。
 また、レネの「去年マリエンバートで」は心の奥深くに澱を残している。
 文学的香りを持つトリュフォーは好きな監督で、「突然炎のごとく」「恋のエチュード」は忘れがたい。
 他に、フェデリコ・フェリーニの「甘い生活」、ミケランジェロ・アントニオーニの「女ともだち」、アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」、アンリ・コルピの「かくも長き不在」は記しておきたい。
 個人的に好きだった映画は、クラウディア・カルディナーレとジョージ・チャキリスが主演した「ブーベの恋人」(監督:ルイジ・コメンチーニ)である。

 日本の映画界でも大島渚をはじめ吉田喜重、篠田正浩ら松竹ヌーヴェルヴァーグと称される監督たちが松竹を飛び出し、次々と前衛的な映画を発表した。
 私たちは、名画座やATG(アートシアター)を見て周った。飯田橋や新宿の喫茶店の片隅で、井上はとうとうと映画芸術論を語りまくった。
 政治の季節の後にやって来たその季節、井上それに私は、映画の魅力に熱中していた。

 専門課程の3年になると、私は鈴木徹三ゼミに入った。ゼミに入るにあたっては何を研究・勉強するかは問題でなく、人間味のある先輩が多くいたからだ。
 井上雅雄は、2年時から難関ゼミといわれていた時永淑ゼミに入ったが、教授と喧嘩して途中でゼミをやめてしまった。厳格な花形教授が相手とて、井上は臆することなく自己主張をやめることがなかった。

 振り返ると、私は専門の経済学に対しては不本意ながら本腰で勉強しなかった。
 専門はと訊かれれば、自称「経済学部文学科」と言うように、文学や映画に精神的愉悦を得ていた。ときに酒の席では、「恋愛専科」だと付け加えた。スザンヌ・プレシェットの主演映画を揶揄してのことだが。
 私は、経済学はもとより文学(本)よりも、当時観た映画により多くの影響を受けたといってよい。

 <断章5> 演劇「愛奴」の衝撃

 私たちは、夢の在処を求めて模索していたのかもしれない。

 あるとき、井上雅雄が衝撃を受けた演劇があるといって誘った芝居が、劇団人間座の「愛奴」だった。
 スタッフを見ると、作:栗田勇、演出:江田和雄、美術:金森馨、音楽:一柳慧、衣装:コシノ・ジュンコ、ヘアーデザイン:伊藤五郎と、当時各界気鋭のメンバーだった。
 六本木の俳優座劇場で観た「愛奴」は、私にも衝撃だった。
 「もう二度と、あの女、愛奴に会えないのだろうか。あの肉の快楽(けらく)、いやいや、魂の愛……そうでもない。あの別の世界での悦楽をなんと呼んでいのか……」
 自宅に送られた教え子と称する学生の書いた手記を、老教授が語り出し、それに対する私見を呟きながら、「断章-」と記して分かれた手記の物語が芝居として展開する構成となっている。その学生が書いた手記物語は、現実のこととも妄想の話ともつかない、悦楽に彩られた話である。
 文学的で斬新な芝居もさることながら、主演した当時早稲田の学生だった金沢優子に、私たちは酔ったものだ。

 井上雅雄は、それ以後、俺は芝居の演出をやると言って、劇団人間座に入った。情熱で動く彼の行動力はいつも速かった。
 人間座に入った彼は、すぐに劇団青俳に移った。劇団青俳にはすでに名のある団員はいたが、彼と同じ演出部には蜷川幸雄がいた。俳優に、のちに大島渚監督の映画「新宿泥棒日記」や根岸吉太郎監督の映画「遠雷」に出た横山リエがいた。

 若いときは、夢はどんな風にもあり、実現可能だと思ったものだ。それがすぐにでも壊れる脆いものだと知ることになったとしても。

 <断章6> 演劇から学者の道へ

 夢で生きていた季節に終わりは来る。
 それでも、道を求めて歩き続けなければならない。

 学生生活も卒業を控えた時期になると、現実を見据えた就職活動となる。
 私は、退潮期に入っている映画界は募集もしていないこともあって、自分には向いていると思う出版界へ入った。
 劇団青俳に入っていた井上雅雄は、演劇では食っていけないと言って、定時制高校の教師をしながら大学院に行った。彼は、学者の道を目指したのだった。
 立教大学の経済学研究科修士課程を経て、東京大学の経済学研究科博士課程を出た。情熱家だけでなく努力の人間でもあった。
 その後、東京都立労働研究所研究員を経て、37歳で佐賀大学助教授になったときに彼は私に言った。
 「おれはここ10年以上、好きな小説や映画は全然見ていない。勉強でそんな暇はなかった」と、悔しさを滲ませながら心情を吐露した。
 そして、新潟大学教授を経て立教大学教授となり、定年まで立教大の教授を務めた。
 最初の著作「日本の労働者自主管理」(東京大学出版会、1991年)が刊行されたときは、はにかみながらも喜びを隠さなかった。
 専門は労働経済学だったが、彼の根にあった映画界へも専門分野からアプローチしていった。それは、まず「文化と闘争―東宝争議1946-1948」(新曜社、2007年)として刊行された。
 そして最後の本となった「戦後日本映画史―企業経営史からたどる」に、彼の映画界への情熱と精神の痕跡を見ることができる。
 この本は、井上雅雄が死を見すえながら、病床で「あとがき」を書いた遺稿集となった。

 人生は長いようで短い。
 苦(にが)みを含んだ熱い青春の季節は、過ぎてしまえば、青い果実と見紛うように甘酸っぱく変容している。
 限りなく夢を語っていた誰もが、老いてやがて消えていく運命にある。いつしか誰からも忘れられようとも、それぞれの儚い足跡を残して。
 風に転がる枯葉のように……。
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パンデミック下の東京五輪

2021-09-03 03:38:52 | 人生は記憶
 *① 1年遅れの東京五輪2020

 第32回オリンピック競技大会東京大会(東京五輪)が、2021(令和3)年8月8日、17日間の幕を閉じた。
 2020年開催の東京五輪は、世界に感染が拡大した新型コロナウイルスのパンデミック影響により、史上初の翌2021年に1年延期となった。1年延期にもかかわらずパンデミックは収まらず、大会が開催された2021年の7月は、東京都は4度目の緊急事態宣言下となっていた。
 「コロナに打ち勝った証しとして…」を標榜に、都や政府は五輪開催実施の旗を振っていたが、7月23日の大会が始まる直前まで、日本国内では反対の意見が大勢を占めていた。
 こうした多難なハンディを抱えて、本当に開催できるのであろうかという暗雲の漂うなか、東京五輪は開催された。それは開催というより、決行されたといってもよい。
 海外から参加する選手やスタッフの行動は規制され、大会競技もほとんどが無観客で行われるという、史上稀な大会となった。
 この希少で貴重な五輪大会のことは、個人的にも記録しておかなくてはいけない。
 
 なお、「コロナ禍」と記されることが多いが、ここでは、コロナ状況のもとという意味で「コロナ下」と記した。

 *② 1964年の東京五輪の記憶

 前の東京五輪が開催されたのは1964(昭和39)年である。
 私は大学入学で上京した、その年であった。
 巷では井沢八郎の「ああ上野駅」が流れ、「雨の外苑、夜霧の日比谷…」と東京の街を甘く歌った新川二朗の「東京の灯よいつまでも」が私の心を浮き浮きとさせていた。
 この年開催された東京五輪は、アジア初のオリンピックということもあって、今思えば日本国中熱狂的であったのだ。
 とはいえ振り返ってみれば、私は九州の田舎から出てきて初めての東京暮らし、何より初めての一人での自由な生活で、初めて人生の第一歩を踏み出したという思いが強かった。そのなかでのオリンピックは、色濃い季節の移ろいのなかで夏の終わりの打ち上げ花火のように過ぎていった。

 開催式の日(1964年10月10日)、五輪の丸い輪が、フワフワと青い空に浮かんだ。そして、強く印象に残っているのは、最終聖火ランナーが私と同じ年の早稲田の学生だったことだ。
 空気のように感じていた五輪でも、競技が始まれば次々とニュースは入ってくる。
 当時、西武沿線の豊島園の一軒屋の二階での下宿生活で、私はテレビを持っていなかったので情報といえば新聞がほとんどだった。が、同じ下宿の他の部屋の学生がテレビを持っていたので、時々見せてもらいに行った。
 その頃、一人暮らしの学生がテレビを持っていたのは珍しいことだった。半世紀たった今の若者も、ネット情報世代でテレビ離れになりつつあるようだ。

 オリンピックの競技が始まり、まず日本選手最初の金メダリストとして耳目に入ってきたのは、重量挙げの三宅義信の名前だった。そして、みんなが騒いでいたのは、東洋の魔女と称された日本女子バレーボールで、大松監督の「おれについてこい」の指導文句も話題となった。それと、ウルトラCと名付けられた技を連発した男子体操だった。
 優美な女子体操のチェコスロバキアのチャスラフスカは、「東京五輪の華」と呼ばれた。
 この大会から新しく採用されたのが柔道。日本の武術からきている柔道は本来体重別ではなかったが、この大会では軽・中・重量に無差別の4階級制(現在は7階級制)で行われた。
 柔道はまだ世界にさほど普及していなかったこともあって、日本が全階級金メダル独占と思われていた。ところが無差別級決勝で神永昭夫が敗れ、オランダのヘーシンクが金メダルを勝ち取った。このことが、その後の柔道の国際化への大きな要因となったといえる。

 *③ 最初で最後の五輪ライブ観戦は、伝説のアベベ

 1964年10月21日、男子マラソンが行われた。
 コースは、代々木の国立競技場をスタートし、ひたすら国道20号線(甲州街道)を走り、調布で折り返して再び国立競技場へ戻ってくるというものだった。
 私が住んでいた2階の下宿は4部屋で、3部屋が大学は違うが私と同じ地方からやって来た大学1年生で、なぜか一人だけ東京出身という若い会社員が住んでいた。その彼が近くに住んでいる私の大学の先輩2人を連れて来て、私に一緒にマラソンを見に行こうと誘った。
 断る理由などない。私は二つ返事で了承し、一緒にオリンピックのマラソンを見に行くことにした。一人の先輩は岐阜県恵那市出身で、気のいい人だった。
 こうして、4人で代々木の国立競技場に向かった。国立競技場に続くコースの道路の周辺は見物客でいっぱいだった。私たちはゴールのある競技場内の入場券を持っているわけではないので、当然競技場の外のコース道の脇で比較的見やすい場所を選んで、選手が来るのを待った。

 男子マラソンは、エチオピアのアベベ・ビキラ選手が出場するというので大きな話題になっていた。アベベ選手は、前回五輪の1960年ローマ大会ですい星のごとく現れ、当時の世界新記録で優勝し、しかも彼は裸足で走っていたという、一躍世界中でヒーローとなった人である。
 裸足で走り、史上最高の舞台の五輪大会で、世界最高記録で、優勝金メダルとは、現在話題のタイムを縮める効果を追求した厚底シューズやスーパーシューズの氾濫するマラソン現状から見ると、考えられないほどの素朴といおうか原点の走りを見せられたのだった。

 待ちに待ったトップランナーがやって来た。
 やはりアベベだった。彼は、私たちの前を、やや俯き顔の哲学者のような顔をして、あっという間に通り過ぎていった。大本命がトップで来たことを、私たちは当然の出来事のように受け取っていた。そのときの、アベベの走る写真が今でも私の手元に残っている。
 後ろに迫ってくるものはいない、アベベの独走だった。だいぶん(4分ほど)たって、2番手で日本人の円谷幸吉選手が姿を見せた。それからちょっとしてイギリスのベイジル・ヒートリー選手が続いた。
 そして、次々と選手が走り過ぎて国立競技場に吸い込まれていった。
 後でニュースで知ったのだが、アベベの優勝タイムは、それまでのヒートリーの記録を1分44秒縮める2時間12分11秒2の世界最高記録であった。そして、史上初のマラソン五輪2連覇を記録したのだった。
 競技場前で2位で走った円谷は、競技場の中のトラックでヒートリーにかわされて3位銅メダルであった。これは、陸上競技唯一のメダルであった。
 男子マラソンには日本人選手は3人出場し、君原健二選手が8位、寺沢徹選手が15位であった。

 *④ 不協和音のなか、東京五輪の高い視聴率

 今回2021年の東京五輪は、57年前の五輪のように、みんなから何の疑いもなく祝福を受けるとか、大きな期待を持って迎えられるという現象はなかった。
 それでも、大会が始まると、みんなテレビやネットでそれを見た。複雑な空気のなかで始まった。
 7月23日夜に東京五輪開会式を生中継したNHKの平均世帯視聴率(ビデオリサーチ調べ)は、関東地区で56.4%を記録した。これは、夏季五輪の開会式としては過去最高の1964年東京大会の61.2%に迫る、思いもよらぬ高視聴率だった。
 予想を超える人々がテレビで五輪を観ていたことに、少し驚いた。

 競技別のテレビの視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区、世帯)でも、高視聴率が続出した。主な競技をあげてみる。
 「野球・決勝・日本×アメリカ」37・0%。
 「陸上・男子マラソン」31・4% 
 「サッカー・男子準決勝・日本×スペイン」30.8%。
 「卓球・女子団体決勝・日本×中国」26・3% 
 「柔道・3位決定戦・男子60kg級」24・2%

 8月8日の閉会式の世帯平均視聴率が46・7%だった。夏季大会の閉会式では、1972(昭47)年のミュンヘン大会の46・9%に次ぐ数字だった。2012年ロンドン大会が11・6%、2016年前回リオ大会が7・5%だったことを見ると、いかに高い数字だったかがわかる。
 なお、1964(昭和39)年の東京大会の閉会式は63・2%を記録している。

 *⑤ 野球、念願の金メダル

 私も、野球とソフトボールは全試合テレビで観る結果となった。
 野球は、日本は準決勝で韓国を5-2、決勝でアメリカを2-0で破り、初めて金メダルを獲得。正式競技になった1992年バルセロナ五輪から6度目の出場での悲願達成となった。
 結果は、金・日本、銀・アメリカ、銅・ドミニカ共和国であった。
 女子のソフトボールは、日本は決勝でアメリカに2-0で勝ち、13年前の北京大会以来となる金メダルを獲得した。主戦投手は、北京大会に続いて上野由岐子選手。
 女子のソフトボールの試合をちゃんと観たのは初めてで、野球と少しルールが違うところがあるが、一塁ベースが2つあるのには驚きの発見だった。
 しかし、野球、ソフトボールともにヨーロッパ、とりわけフランスではあまり普及していないこともあって、2024年のパリ大会では実施されない予定となっている。

 野球日本代表チーム<侍ジャパン>の主なるスターティング・メンバーと代表24選手を記しておこう。
 <監督> 稲葉篤紀
 1番(指)山田哲人(ヤクルト)
 2番(遊)坂本勇人(巨人)
 3番(左)吉田正尚(オリックス)
 4番(右)鈴木誠也(広島)
 5番(一)浅村栄斗(楽天)
 6番(中)柳田悠岐(ソフトバンク)
 7番(二)菊池涼介(広島)
 8番(三)村上宗隆(ヤクルト)
 9番(捕)甲斐拓也(ソフトバンク)
 (野手)近藤健介(日本ハム)、源田壮亮(西武)、栗原陵矢(ソフトバンク)、梅野隆太郎(阪神)
 (投手)山本由伸(オリックス)、森下暢仁(広島)、田中将大(楽天)、千賀滉大(ソフトバンク)、伊藤大海(日本ハム)、大野雄大(中日)、青柳晃洋(阪神)、岩崎優(阪神)、山﨑康晃(DeNA)、平良海馬(西武)、栗林良吏(広島)

 *⑥ 2021年の東京五輪の記録

 2021年に行われた第32回オリンピック競技大会(東京五輪)は、205の国・地域(ロシアは個人資格での参加)と難民選手団合わせて約1万1千人の選手が参加した。
 日本は、史上最多の金メダル27個を含む計58個のメダルを獲得した。
 上位の国のメダル獲得数は、アメリカの金39個を含む計113個、中国の金38個を含む計88個、イギリスの金22個を含む計65個、ROC(ロシア・オリンピック委員会)の金20個を含む計71個、があげられる。
 なお、1964年東京五輪では、日本はそれまでの記録を大幅に破る金16個を含む計29個のメダル獲得数だった。

 また、印象に残ったことは、
 開会式にて、オリンピック発祥の地として毎回最初に入場するギリシャに次いで、シリア、南スーダン、イラン、アフガニスタンなど11カ国出身の代表による、難民選手団が2番目に入場した。
 ロシアは組織的ドーピングの影響を受け、国名は使われずROC(ロシア・オリンピック委員会)のもとで参加した。
 大会合宿先からウガンダの男子ウエイトリフティング選手が失踪。4日後に見つかり大会に出場することなく本国に帰国させられた。動機は「日本で働きたかった」ということ。
 ベラルーシの女子陸上選手が帰国直前に、政権の弾圧を怖れてポーランドに亡命した。

 8月24日、東京2020パラリンピックの開会式が行われ、同大会が始まった。

 *⑦ コロナ下のワクチン接種と、アイスランドのある五輪の風景

 そして東京五輪では、「ホストタウン」という日本の全国の自治体と東京五輪に参加する国・地域の選手との多様な交流を実現させようという取り組みがある。
 コロナウイルスによるパンデミックで、今東京大会ではおそらくどこも思うような活動はできなかったと思うが、私の住む東京都多摩市では、アイスランド共和国のホストタウンとなっている。
 アイスランドは日本とのなじみは薄いが、国名の漢字表記は氷島、氷州、愛撒倫などである。北大西洋の島国で、グリーンランドの東、イギリスの北西、北極圏の南に位置し、島の大きさは韓国(大韓民国)とほぼ同じ面積である。
 首都はレイキャヴィクで、総人口は約35万人と少ない。漁業が盛んで、日本と同じく鯨漁も行っている。地熱発電をはじめ再生可能エネルギー発電を積極的に行っており、エネルギー政策先進国である。
 多摩市の広報誌では、アイスランドの参加選手の紹介も掲載している。それによると、事前キャンプを行っている選手もいるようだが、コロナ状況下で地元交流も控えているようである。

 コロナのワクチン接種は、先進国と途上国の格差が問題になっているなか、遅れていたわが国でも医療関係者から一般の高齢者、続いてそれ以下の年齢者へと漸次速度を上げて接種が進んでいる。
 一般者接種においては、5月に入り、自治体ごとに高齢者より予約接種券が配送され、電話とネットによる予約受付が行われ、それに伴い接種が始まった。ワクチン供給数が限られたこともあり、当初は予約電話は繋がらず、ネットによる予約もすぐに受付終了となるなど、その騒ぎがニュースとなった。
 多摩市では、高齢者先行の予約受け付けが5月6日に始まり、私も受け付け開始の9時すぐにネット接続を試みたが、あっという間に受付終了。3日目にやっと予約が取れ、5月22日1回目、3週間後の6月12日に2回目のワクチン接種を終えた。

 そのワクチン接種会場が、市の公民館の他、「リンクフォレスト」のホールで行われた。
 リンクフォレストとは、多摩センター駅と唐木田駅の間に、去年できたばかりのKDDIの宿泊施設のビルで、私にはいつも通る馴染みの通りにあることもあり、この会場で受けた。
 現在多摩市では、ここのみがワクチン接種会場となっている。
 この多摩センター駅から続く、歩行者専用の通りの真ん中に立つ街灯には、アイスランドの国旗と、「多摩市はアイスランドのホストタウンです」と書かれた市章が並んで掲げられ風になびいている。
 東京五輪が開催されている証しを、静かに宣言しているかのようである。
 その街灯の柱に、「新型コロナワクチン接種会場」の看板が設けられている。その先の右(西)側に聳える真新しいビルが、ワクチン接種会場である。(写真)

 東京五輪とワクチン接種会場……コロナ下での東京五輪を象徴する風景であり、この年、この時期だけの景色である。

 *⑧ 五輪のレガシー(遺産)とは?

 世論が二分するパンデミック下で行われた2021年の東京五輪の評価は、後世、何年か何十年か経って決まるものだろう。時がたった後、歴史の評価は定まっていく。
 8月17日の朝日新聞の紙上で、佐藤卓己(京都大学大学院教授)氏は、今回の五輪のレガシーについて、こう述べている。
 「レガシーとは、時間の中でつくられていくものです。何をレガシーとするのかという作業は今から始まります」
 そのレガシーをつくるために、何をどう記録し、記憶するのか。それが重要であると。

 *追伸
 9月3日の昼、パンデミック下の東京五輪の開催決行の原動力となった菅義偉総理大臣が、突然のことだが、差し迫った自民党総裁選(9月17日告示、27日投開票)に立候補しないと表明した。
 この人の評価も、歴史に委ねたい。



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「ドレスメーキング」の時代② 1968年、変革、ファッションの季節

2020-08-27 19:17:08 | 人生は記憶
 Where have all the flowers gone,long time passing?
 Where have all the flowers gone,long time ago?
 花はどこに行ったの?
 ずいぶん時が過ぎたけど
 花はどこに行ったの?
 もうずいぶん前のことだけど
 「Where have all the flowers gone?(花はどこへ行った)」 (Pete Seeger)

 *1968年という熱い波

 1968(昭和43)年、私は服飾誌「ドレスメーキング」の編集者として社会人の第一歩を踏み出した。私のなかで政治の季節は終わっていたが、1960年代の後半という時代は大きな変革の季節であった。
 巷ではママス&パパスの「夢のカリファルニア」やスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」が流れ、若者たちの自由さと軽やかそうな振る舞いは、仄かなアメリカへの憧れを抱かせるものであった。
 このような軽やかな風潮の裏側には、アメリカのヴェトナム戦争の泥沼化が潜んでいて、そこから漏れてくるものは、ヒッピーに象徴される若者による反戦や退廃を含んだカウンターカルチャーだった。
 「ラブ・アンド・ピース」を唱える彼らはフラワー・チルドレンと呼ばれ、それはいつしかフラワー・ムーヴメントと譬えられた。
 そのなかで、長髪やフォークロア調の服装、Tシャツにデニムのベルボトム、マリファナやサイケデリック、などの多様なファッション、社会現象・風俗を生み出した。

 このような動きは、ストリートを中心に若者の特異なファッションを生み出しスインギング・ロンドンと呼ばれていたイギリスにも漂っていたし、フランスでは学生を中心にくすぶり続けていた反体制へのエネルギーの燃焼が、1968年にはパリのフランス5月革命を生みだした。
 こうした欧米の動きは、日本にも飛び火し、若者の文化や学生運動にも影響を与えていた。
 中国では、当時は実態が不明だった中国文化大革命が進行していて、「造反有理」という言葉が流れ来ていた。
 1960年代後半、既存の政治や文化に対するアンチテーゼのムーヴメントは、今でいうグローバリゼーション化していたと言っていい。
 しかし、あの時代の象徴的だった花、フラワーはどこへ行ったのか?

 Where have all the flowers gone?
 Young girls have picked them everyone.
 Oh, when will they ever learn?
 花はどこへ行ったの?
 若い女の子はそれを摘んでしまった
 あぁ、いつになったらわかるの?
 「Where have all the flowers gone?(花はどこへ行った)」

 *ファッションは既製服の時代へ

 戦後、ファッションはフランスのパリを中心に動いてきた。日本のファッションはフランス・パリのモードに影響を受けながらも、というよりパリを中心とした欧米のモードを吸収しながら、洋裁とともに発展していった。
 パリのモードといえば、パリのオートクチュールのことといってよかった。ディオール、バレンシアガ、シャネル、ジバンシィ、バルマン、カルダン、最初はディオール店にいたのち独立したイヴ・サンローラン、クレージュなどをはじめとする、クチュリエたちによる春夏行われるパリ・コレクションの発表が、世界のファッションの流行を左右した。

 1960年代に入り、アメリカを主流とした消費者層の増大に伴いアパレル、既製服産業は急速に発展し、オートクチュールは衰退化を見せ始める。
 それまで、ファッションは、貴族や富裕層、映画スターのものであり、パリのオートクチュールや一部のハイファッションの人たちによって造られ流布されていた。一般の人にとってファッションとは、上から降ってくるもので雑誌や映画の中のものだった。
 しかし、既製服の普及とともに、街中から若者を中心に独自のファッションが生まれてくる。オートクチュールと関係のないモッズ、ヒッピー、ジーンズ、ミニ・スカートなどストリート・ファッションが現れたのだった。
 ファッションは服装のみならず、若者の行動・風俗・文化に影響を与えつつ、1960年代は大きな変革の流れの中にいた。

 こうしたファッションの変化は、自ずとパリのオートクチュールにも表れた。プレタポルテの出現である。
 「プレタポルテ」とは、フランス語で「準備ができている」という意味の「プレpret」と「着る」という「ア・ポルテa-porter」を合わせた造語で、すぐに着られる服、つまり既製服という意味である。英語での「ready-to-wear」である。
 ちなみに「オートクチュール」(haute couture)は、フランス語で「高い」「高級な」を意味する女性形容詞「オートhaute」と、「縫製」「仕立て服」の女性形名詞「クチュールcouture」で、高級仕立服を意味する。基本的に、パリ・クチュール組合(通称サンディカ La Chambre Syndicale de la Couture Parisienne)の加盟店である高級衣裳店を指す。

 この新しく現れたプレタポルテは、それまであった既製服と差別化を図るために使われた。そのため、日本では「高級既製服」と言われる。
 プレタポルテを最初の発表したオートクチュールのクチュリエはアンドレ・クレージュだが、衝撃を呼んだのは、1966年、イヴ・サンローランがプレタポルテのブティックを、オートクチュールのメゾンが並ぶセーヌ川右岸の反対側にオープンしたことである。名前もあえて左岸「リヴ・ゴーシュ」を付した「Yves Saint- Laurent rive gauche」とした。
 その後、多くのクチュリエがプレタポルテに力をいれるようになっていった。

 *ミニ・スカートの出現

 1960年代に入り、スインギング・ロンドンと呼ばれたロンドンのストリートを中心に短いスカート丈は見られていたが、65年にマリ・クワントがミニ・スカートを発表する。
 翌年には、クレージュがパリのオートクチュールで発表したこともあって、ミニ・スカートは一部の若者のものから幅広く公認されたものとなっていった。ストリートから発したミニ・スカートは、オートクチュールも呑み込み、全世界に広まっていったのだ。
 わが国でも1967(昭和42)年に、「小枝のような」という意味を持つイギリスのファッション・モデルのツイッギーが来日し、ミニ・スカートは一気に人気が広がっていった。
 さらに、スカート丈によって、ミディ、ミモレ、マクシとスカートは細分化した呼び方が生まれてくる。

 *

 私たち、私とカメラマンが入社した1968年、「ドレスメーキング」も、その波の中にいた。服飾誌が戦後日本のファッション誌の役割として、最後の光芒を放っていた季節であった。
 「an・an」(平凡出版)が創刊される2年前のことだ。

 ※写真は、「ドレスメーキング」1968(昭和43)年8月号、モデル:プラバー・シェス、カメラ:藤井秀喜
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「ドレスメーキング」の時代① 洋裁の時代

2020-06-28 02:02:27 | 人生は記憶
 * 同期の桜

 散る桜 残る桜も 散る桜
         ――良寛

 桜はとうに散り、梅雨の最中の東京だが、わが同期の桜が散った。
 大学を卒業して、最初に入社した時の会社の同期の友人である。服飾誌、女性誌を中心に雑誌・書籍を発行していた出版社で、出版物の性格上、女性が圧倒的に多い会社であった。
 1968(昭和43)年4月春、新入社員14人のうち、男性は編集の私とカメラマンの彼の二人だった。唯一の男の同期の桜であった。発展途上にあった会社は、その年の7月、さらに14人の女性を中途採用した。

 その会社、鎌倉書房は1941(昭和16)年創立した当初は文芸書を出版していたが、戦後1949(昭和24)年、服飾誌「ドレスメーキング」を出版し、1964年(昭和39年、)婦人誌「マダム」を出版して、1960年代私が入社した頃は、服飾・料理関係書を中心とした生活書を出版して急成長をしていた。
 私は、会社を牽引してきた看板雑誌「ドレスメーキング」の編集部に配属された。編集部員は概ね各専門担当に分かれていたが、新人の私はファッション・カラーページおよびモノクロ1色情報ページの、ほゞ全方位のアシスタントから出発した。
 彼の所属するカメラ部には会社の専属カメラマンはすでに5人いて、彼は先輩カメラマンのアシスタントから出発した。当時一流カメラマンは、多く服飾誌で活躍していた。
 新人同士の二人は性格も思考形態も女性の好みもまったく違ったが、なぜか気が合い、仕事が終わったあとよく遊びまわった。二人は会えば、いまだありもしない自分たちの大器を壮語し、根拠もない才能を語りあった。
 彼は3年半ほど勤めた後、会社を辞めアメリカ放浪の旅に出発し、8か月ほどして帰国し、フリーランスのカメラマンとなった。
 その後、会うことも少なくなったが、人生の過去を振り返る年齢になった頃より、再び頻繁に会うようになった。幸か不幸か、彼もずっと独り身で、会うとすぐに入社した時の、若くて不遜な思考形態に戻ることができ、一過性とは知りつつも訳もなく元気になるのだった。
 後年、デジカメの普及もあってカメラマンとしての仕事は漸減していたが、カメラマンの魂はずっと持ち続けていた。
 その彼が、今年2020年の6月3日、癌がもとで死んだ。
 「ドレスメーキング」で出発した、同期の桜が散った。

 * 日本のファッションは、洋裁学校とミシンともに

 女性の洋服、つまり洋装は戦後急速に発展していった。
 戦前にも洋装はあったもののそれはほんの一部で、大部分の人は着物、和装だった。それが戦後のアメリカナイズと合理的便利さも伴って、またたく間に洋装は日本中に普及していった。
 まずは手作りのシンプルなデザインの簡単服のようなものから、次第にデザイン性のあるものにグレードアップしていくのだが、それを引っ張っていったのが、洋裁の技術を教える洋裁学校と洋裁に必要なミシンの普及であった。

 その洋裁学校は、ドレスメーカー女学院と文化服装学院が2大勢力で、他に田中千代服装学園、桑沢デザイン研究所などがあった。
 1960年代、いわゆるファッション雑誌といわれているものはなく、「ドレスメーキング」、「装苑」に代表される服飾雑誌がそれを担っていた。他に、「服装」(婦人生活社)、「若い女性」(講談社)を加えて服飾4誌と呼ばれることもあった。
 「ドレスメーキング」は鎌倉書房が出版していたが、ドレスメーカー女学院を創立した杉野芳子を監修としていたし、「装苑」は、文化服装学院出版局であった。また、「服装」は田中千代による監修であった。
 つまり、主流の服飾誌は、戦後、花嫁修業の一つとまで言われるようになった洋裁学校をバックボーンにしていて、洋裁人口の増加とともに部数を伸ばしていった。
 それはなぜかというと、服飾誌はファッション・スタイルの紹介とともに、洋服の作り方が掲載されていたからである。
 洋服の作り方には、基本としての原型があり、その原型は大きく分けてドレスメーカー女学院のドレメ式と文化服装学院の文化式があった。
 全国に系列校を増やしていった洋裁学校は、これらの原型に則っていたし、服飾雑誌もそれ抜きではなかった。

 ※2016(平成28)年度上半期放映のNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」(高畑充希主演)の主人公は、戦後、「暮しの手帖」を創刊した大橋鎭子がモデル。この雑誌で、編集長の花森安治による、ドレメ式や文化式の原型・型紙を使わない、シンプルな直線裁ちによる和服の布などを使った洋服作りの提唱も、時代の趨勢として特筆したい。

 *家庭にミシンがあった頃

 洋裁の技術手段としてのミシンは戦前からあったが、飛躍的に発展・普及したのは洋装化の波がきた戦後である。
 1949(昭和24)年に部品が規格統一化されたことによる生産性の合理化、さらに手回し式や足踏み式から電動式への機械の発達が拍車をかけた。
 まだ女性の社会進出が限られていた時代、洋裁技術の習得は女性が自立し、手に職を持つ大きな手段であった。それは、女性にとって家計の手助けになるのはおろか、一家を支える収入にもなっていった。また、そのなかから自分の洋裁店(洋装店、後のブティック)を持つ女性も現れ、さらにデザイナーとして羽ばたいていく女性も出現していった。それにはミシンが必要であった。
 しかし、当時ミシンは決して安いものではなかった。月賦で買う人も多かった。
 ミシンがいかに人気があったかという証に、1950(昭和25)年から始まったお年玉付き年賀はがきの特等は、ジューキ社のミシンであった。後に、ミシンは花嫁道具の一つとまで言われるようになる。

 私の母も洋裁をやっていた。
 家には、庭に面した縁台の近くにつぎ足しで造ったミシン室があり、学校から帰ってくると奥からミシンを踏む音が聞こえてきた。母は、注文を受けた服をせっせとミシンで作っていた。そしてその部屋には、「ドレスメーキング」が置いてあった。
 子どもの頃、その本を出版している会社に入社するとは思いもよらなかったのだが、人生は分からないものである。

*写真は、創刊時1949(昭和24)年発行の「ドレスメーキング」No.2、3、4号

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