goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

三崎めぐり…

2017-07-07 01:02:04 | * 東京とその周辺の散策
 「…岬めぐりの バスは走る…」
 山本コウタローとウィークエンドのこの歌が流れていたとき、僕は初めての北海道で、一人知床を旅していた。
 羅臼(らうす)の見晴らしのいい高台に来ると、海の彼方に国後島が見えた。鄙びた水族館があり、北方領土返還の看板も見うけられる。
 季節はずれの秋だったせいか観光客は誰もいなかったが、近くに住んでいると思われる小学生になるかならないぐらいの年齢のあどけない少女が、遊び相手がいない淋しい表情も見せずに一人で遊んでいた。僕たちは、同じひとり者同士のよしみで、何気ない言葉をひと言(こと)ふたこと掛けあった。
 しばらく海を見た後、僕が「さよなら」と少女に声をかけて、バッグを持ち上げて立ち去ろうとする後ろ姿に、少女は表情を変えずにこう返事した。
 「また、会えるかもしれないね」
 通りすがりの旅人とは、もう会うことはないと言ってもいい。まだいたいけない少女の、この達観したような言葉は、いつまでも僕の心に残った。
 見知らぬ街を旅していて、見知らぬ人と会話を交わし、その場を去ったあと、もうこの人とは二度と会うことはないだろうと思いながらも、しばしばこの少女の言葉が甦った。
 「また、会えるかもしれないね」

 *

 梅雨前線が不安定ななか、6月の終わりの日、同好の士と「三崎」へ行った。東京湾の西側の先端に位置する三浦半島の神奈川県・三崎港である。
 丘や山の突き出た先端を「崎」、あるいは崎(さき)に接頭語の「み」をつけて「岬(みさき)」と言ったから、三崎は岬であろう。あるいは、三(み)の崎なのだろう。
 昨年5月に行った三浦半島の横須賀の延長線上、さらに先(南)になる。横須賀の東端には観音崎があり、その南端に三崎は位置する。
 三崎港はマグロが有名なので、マグロを食いに行こうというのが口実である。

 士が、旅の雑誌で京浜急行電鉄の「みさきまぐろきっぷ」なるお得な企画チケットがあるのを見つけてくれたので、それを利用することにした。
 乗車駅(横浜)から三崎口までの電車の往復と、三崎口・城ヶ島周辺のバスフリーのチケット、それに選べるレジャー施設の利用券、選べる近辺の食堂・食事施設でのまぐろ食事券などがセットになって2960円である。
 横浜~三崎口の電車の往復が1140円、三崎口~三崎港がバスで往復600円、それにレジャー利用券で乗れる水中観光船が1200円である。これだけで元の料金相当で、食事代はサービスのようなものだ。

 *

 正午、京急線横浜駅を出発して約1時間で終点三崎口へ。
 三崎口から三崎港へのバスに乗りこんだらバスの窓ガラスに水玉がぶつかりだした。この日の天気予報には傘マーク(畳んだ傘)がついていたし、家を出る前の朝は雨が降っていたので、少しぐらいは降るかもしれないと念のために折り畳み傘はバッグに入れてきた。

 しかし振りかえってみれば、僕は旅先で雨に降られたことがほとんどない。だいたい、家を出るときに雨が降っていないと、長い旅であろうと傘を持たないで出る。雨のことなど考えたこともないのだ。
 かつてヨーロッパ1か月の旅を2度行ったが、そのなかでも1度だけパリの街中で急な雨に出くわしたぐらいである。あとは、バリ島とインドのカルカッタ(コルコト)で、スコールにあったが、これはその土地の風物詩みたいなものですぐにやむし、また楽しからずや、である。
 今思えば、僕の旅は天気に関しては幸運であったとしか言いようがない。それに、降ったら降ったで少しぐらい濡れてもいいやという、若気の楽天的思いもあった。それも旅の一部だと思っているのだ。

 三崎港へ着いたら、空は曖昧な色模様だが雨はほゞやんでいた。
 すぐに港が見え、あたりに「マグロ」を掲げた店が点在している。まずは、昼食をとるために港の周辺を歩き、裏通りの割烹旅館「立花」別館に入る。例の食事券で、「カマトロ陶板焼とお刺身セット」を注文。とりあえず、マグロを口にした。
 割烹旅館だけあって、館内の落ち着いた雰囲気の食堂と料理はしゃれた味だ。イカの塩辛の小鉢もついている。夜だったらビールでも飲みたいところだが、昼から飲む習性はない。
 
 腹ごしらえをした後は、港から水中観光船「にじいろさかな号」に乗る。
 三浦半島と城ヶ島を結ぶ城ヶ島大橋が見える。その先に影のような黒い三角形は、何と富士山ではないか。こんなところで、富士山を見ることができるとは。しかも、この天候でだ。
 大橋を渡ったところで、船底へ移ることに。船底の水中展望室は左右がガラス張りの窓になっていて、淡い緑色の海に泳ぐ何匹もの魚が見える。まるで、魚が回遊している水族館のようである。いや、こちら側も回遊しているのである。
 湾からさほど遠くないところで、こんなにも多くの魚の群れが泳いでいるのが不思議な気がする。船内の解説により、魚のなかで尾鰭に切込みが入った特徴があるスズメダイは覚えた。

 *

 港に戻って、次にバスで城ヶ島に行くことにした。
 すぐに城ヶ島灯台に登った。白い灯台はシンプルでクラシックだ。最初の灯台は1870(明治3)年に竣工というから、相当古い歴史だ。
 崖上の灯台のふもとから海が見渡せる。岩肌の磯の先に水平線が連なり、その上の空には雲がおおっている。
 北原白秋は、ここで「城ヶ島の雨」を作ったのか。
 「雨はふるふる 城ヶ島の磯に…」
 先ほどまで雨は降っていたが、あいにく今はやんでいる。いやいや、幸いにも。
 それにしても、次に続く詞の「利休鼠の雨がふる」とは、どんな色なのか。白秋も凝りすぎた色名を使ったものである。
 海を覆うような雲の上に、またしても富士山が姿を見せた。海のかなたの富士。雲の上に浮かんだような富士。こんな富士は、滅多に見ることはない。(写真)
 灯台の下の海辺の海岸に降りてみた。荒い岩が続き、先に岩を丸く刳り抜いたような「馬の背洞門」が見える。

 *

 城ヶ島からバスで三崎港まで戻り、三浦半島の総鎮守として創建された海南神社へ行くことにする。街の路地を迷いながらも、裏門からたどり着いた。
 本殿前に丸い茅の輪が設営してある。この日は夏越の大祓(なごしのおおはらい)とのことで、輪のなかを∞の形にくぐって参拝をした。半年に一度の日とは知らなかったが、いい日に出くわしたものである。
 ずいぶん前に行った千葉の香取神宮でも、この大祓の茅の輪に遭遇したことを思い出した。

 その足で、見桃寺へ向かった。読みは「けんとうじ」である。
 「桃の御所」として源頼朝がしばしば来遊したというから、桃の木が茂る庭を持つ古刹をイメージしたが、門も本堂も一見お寺には見えない普通の家の造りである。桃の木も入口にわずかに植えてあるだけで、予想外の寺であった。
 昔はもっと違った風景だったに違いない。

 少し日が暮れだしたので、夕食をとるために港あたりを散策した。地元の人に訊いて、魚を食べさせる店に入った。
 刺身定食は、マグロや鰯も入って量もそこそこ豊富であった。

 *

 食事をすませ外に出ると、もう日も暮れて空は暗い。それで、三崎港からバスで京急線の三崎口駅に戻ることにした。
 時折雨が降る気紛れな天候のなか、三崎めぐりの外を散策している間は、幸運にも雨も降らず傘をさすこともなかった。
 夜の三崎口駅前は、鄙びた印象ではあるが何軒か明かりがついていて店も開いている。お茶でも飲もうかと歩いているうちに、喫茶店は見つからずインド料理店に入った。
 インド料理店に入ったからには、カレーも食べたくなるではないか。実を言えば、夕食の刺身は食べたが、僕にしては珍しくご飯に箸が伸びなかったので、少し腹が減っていたのだ。
 日本滞在も長いという店主のネパール人の話を聞きながら、カレーとナンを食べ、マサラティーを飲む。

 三崎めぐりは、なんとインド・カレーで終わった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日枝神社への初詣は、演奏会のあとで

2017-01-09 03:04:35 | * 東京とその周辺の散策
 1月7日、赤坂サントリーホールでの演奏会に行った。
CD制作と連携するスタイルで昨年2月から始められた、国際的に活動している吉野直子のハープ・リサイタルである。ブルーローズ(小ホール)とはいえチケットはすぐに満席になり、臨時の補助席が設けられるほどの人気である。
 プログラムは、ハープだけのために書かれたブリテン作曲の組曲、ヒンデミットおよびクシュネクのソナタ、そして後半が、ハーピストであるサルツェードの3曲であった。
 吉野直子さんの夫と親しいこともあって彼女の演奏はもう何度も聴いているが、これだけハープだけのソロで聴かせてくれる演奏家は、日本では彼女の右の出る者はいないのではなかろうか。

 *

 演奏会が終わったときは、まだ日も暮れていない夕暮れ時だ。
 7日といえばまだ松の内だ。演奏会を聴きにいった学生時代の同窓友人たちと、日枝神社に初詣に行くことにした。
 日枝神社は、サントリーホールのあるアークヒルズの前の六本木通りを溜息に向かい、ぶつかった外堀通りを左に赤坂見附の方に行ったすぐの山王下にある。
 通りに面して鳥居があり、階段の参道を登った先に社殿がある。菊の御紋が目についたと思ったら、ここはかつて官幣大社だった格式上位の神社なのである。
 そして、明治に定められた東京10社に指定されている。

 ちなみに、東京10社とは以下の通りである。
 ・根津神社
 ・神田明神
 ・亀戸天神社
 ・白山神社
 ・王子神社
 ・芝大神宮
 ・日枝神社
 ・品川神社
 ・富岡八幡宮
 ・赤坂氷川神社
 ※白山神社は、多摩市にある神社ではなく文京区白山にある神社である。

 三が日を過ぎたとはいえ、都心の真ん中にある神社だけあって参拝者はまだ多い。賽銭をあげるのに、並ばないといけないほどである。(写真)
 杯にお神酒をいただいた。
 日枝神社といえば、昨年9月におわら風の盆の踊りを見に富山に行ったおり、富山市内を散策しているとき日枝神社に行きついたことを思い出した。そのとき、東京にもあるしどこが本家なのだろうと思ったが、調べたら埼玉県川越市の日枝神社が最も古いようだ。
 しかし、今ではこの東京赤坂の日枝神社が最も有名だろう。東京にあるということは、そういうことなのである。とはいえ、東京の日枝神社がこれだけ人気があるのなら、歴史ある川越市の日枝神社にはもっと注目を浴びてほしいし、敬意が払われないと腑に落ちない。

 *

 日枝神社の裏参道を出て通りに向かって歩いていると、情緒ある少し云われのありそうな塀が目に入った。そこが都立日比谷高校だった。
 僕が受験生の頃、全国高校生の間で燦然と輝いていた超名門高校だ。旧制の府立1中で、ずっと東大合格者は断トツ1位だった。しかし、学校群制度の導入により東大合格者は急激に減少したが、近年復活しつつある。

 日比谷高校と聞いて思い出すのは、「赤ずきんちゃん気をつけて」で1969年の芥川賞作家となった庄司薫だ。庄司は日比谷高校・東大法学部卒の絵に描いたような当時のエリートコースの経歴で、ベストセラーになった一連の薫君シリーズの小説の主人公も著者と同じく日比谷高生である。
 彼は当時人気の美人ピアニストの中村紘子の名を小説の中に登場させ、のちにちゃっかり彼女と結婚してしまった。
 僕は作意的に饒舌で軽薄な文体とした庄司薫の小説はまったく好きになれなかったが(読むのもいやになったぐらいであったが)、「赤ずきんちゃん気をつけて」より10年前の、彼がまだ20歳の時に本名の福田章二で書いた「喪失」は衝撃だった。この小説は、僕にとって20歳の感性の標本となり、その後いつまでも不遜と自己嫌悪の間で揺れ動く僕の前に立ちはだかった。
 庄司薫の本は世間受けするために計算ずくで書いたもので、僕の本質は福田章二だよ、と冷笑しているように思えたものだ。しかし、彼は作家福田章二に戻ることなく、庄司薫を続けることもなく、中村紘子の夫になってしまった。

 日比谷高校の先には議員会館や自民党本部があり、ビルの間から国会議事堂が見える。
 日比谷高校の門が開いていたので入ってみた。この日は土曜日だし、それにまだ冬休みなのか授業は休みのようだ。
 門を入った正面の建物の中央頭部には時計があり、やはり風格が漂っている。その時計は大きさこそそう大きくはないが、東大の安田講堂の時計を想起させるものだ。生徒に、このまま東大へ行きなさいよと囁いているかのようである。門を入ったときから、情操教育を行っているのだ。
 日比谷高生は、このような環境で勉強していたのか?
 僕の通った、素朴な佐賀の温泉町の高校とはずいぶん違うなあ。

 *

 日も暮れてきたので、赤坂に出て昨年の暮れに行って美味しかった鰻屋に行くことにした。新年会を兼ねて、鰻を肴に熱燗の日本酒を飲んだ。
 正月の松の内も明け、今年も始まった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

港・横須賀・物語

2016-06-15 01:52:29 | * 東京とその周辺の散策
 横須賀へ行った。
 べつに「ヨー子」を思い出したからではない。
 「ちょっと前なら憶えちゃいるが、40年前だとチトわからねえなあ…」というところか。

 港の横須賀に、軍艦三笠が置かれているというのは知っていた。それを見てみようと思いついたからである。
 昨年、中国の旅順に行ったとき、二〇三高地や水師営といった日露戦争にゆかりのある史跡を周ったので、日露戦争が気になっていたこともある。
 今年の初詣には、明治神宮から東郷神社、乃木神社へも行ったことだし。
 日露戦争はもう歴史の中の出来事になったけど、夏目漱石の「吾輩は猫である」に「旅順陥落」の号外が出たとあり、各地で提灯行列が行われたということからも、当時の日本の狂騒ぶりが窺えよう。

 5月24日、昼頃、京急線・横須賀中央駅で降りた。そこから、港にある三笠公園に向かって歩いた。
 横須賀の街は初めてで、思ったよりきれいで洗練された街並みなので驚いた。アメリカ軍の基地もあるので、もう少し泥臭い街かと思っていたのだ。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のイメージが強いのかもしれない。
 ヨー子のような紅い口紅の女の娘はいない。そういえば、佐世保の街も普通の街になっていたのを思い出した。
 「髪の長い女だって、ここにゃ沢山いるからねぇ。わるいなあ、他をあたってくれよ…」

 *

 急な坂道を登らないまま、街中のいくつかの角を曲がって港に着いた。
 港に着くと、東郷平八郎の銅像が立っていて、湾に張り付くように置かれた軍艦三笠が見えた。(写真)
 港からは、海の向こうに緑の島が見える。東京湾にある無人島・猿島で、この島は戦前日本軍の要塞だったところだと知った。
 島には定期的に船が出ていて、10分ほどで着くというので、三笠を見学する前に猿島へ行くことにする。無人島で、要塞地。何と魅惑的な島か。
 島の入口には、「SARUSHIMA Adventure Island」の洒落たアーチの装飾がある。
 島に入って歩き始めるとすぐに、煉瓦に覆われた塀、トンネル、兵舎、砲台跡と、まるで絵に描いたような廃墟史跡が現われてくる。
 途中に展望台もあり、岬の先には灯台も見える。とすると、あれが観音埼だろう。映画「喜びも悲しみも幾年月」で、主人公の灯台守(佐田啓二)が新婚後最初に赴任した舞台だ。
 猿島は変化に富んでいて、歩いて1時間ぐらいでゆうに周れる島だから、格好の島巡りだ。島には、若い女の娘の観光客も目につく。
 歩いているうちに、子どもの頃の無人島、宝島を思い出した。

 小学生の子どもの頃、僕は家に帰ると、よく無人島を紙に描いていた。
 大体が四国のような形で、1日で周れる程度の大きさであった。その島はいくつかの湾とリアス式海岸を持っていて、中央部はジャングルの森で、島の全体を把握するには到らない奥深さを秘めていた。ジャングルを分け入って、マングローブに覆われた川が蛇行していた。
 南の湾には、遠くの海から見えない位置に僕が流れ着いたヨットが停泊していた。
 つまり、僕は船が難破して一人この無人島にいるという設定なのだ。一人、島で生きていくためには何が必要かを考えていた。
 釣り針が何本、火をおこすためにマッチが必要だ。いや、マッチがなくなった場合のため、火打ち石がいる。木や枝を切るために小刀(肥後守)もしくは短剣がいる。家を作るためにはナタがいるだろう。
 難破する前に船に積み込む物を、列挙しないといけないのだ。
 僕は、島での生活に必要なものを紙の余白に書き付けた。犬も1匹いた方がいいかなとも思った。
 そして、宝のあり場をその地図に印した。無人島の地図にはなぜか不可欠な要素だった。その秘密の場所は、人が入り込めそうもないジャングルの奥地だが、地図によってゴルフのピンの位置のように場所を変えた。
 その頃、僕は「十五少年漂流記」、「ロビンソン・クルーソー」、「ターザン」、「宝島」などの影響で、頭の中は無人島の冒険でいっぱいだった。
 僕は、その宝島の地図を、そっと誰にも見つからないところへ、といっても箪笥の下や床の下、あるいは瓦の下に隠すのだった。そして、次の日に誰にも盗まれていないのを確かめるために、またそっと取り出して、新しい宝島、より詳細な宝島を描くのだった。
 無人島・猿島の散策は、難破して流れ着く、忘れていた宝島を想い起させた。
 「ハマから流れて来た娘だね。 ジルバがとってもうまくってよお…」

 *

 猿島から港に戻り、軍港巡りもあるのだが、現在の艦船にはあまり興味がないのでスルーして、軍艦三笠を見学する。
 軍艦三笠は、日露戦争における東郷平八郎が指揮する連合艦隊の旗艦で、1905(明治38)年、日本海海戦での戦いでロシアのバルチック艦隊を破ったことで有名である。
 三笠は海に浮かんでいるのではなく、コンクリートで固定されていた。なんだかギブスで固定されているようで気の毒に思えた。無理もない、今は遠き日露戦争時の艦船なのだから、横浜港・山下公園桟橋に浮かぶ日本郵船氷川丸とは違うのである。
 三笠は第二次世界大戦後、キャバレーになったりダンスホールと化したり不本意な時期もあったというが、今は元の形に近いように整備され、きれいすぎるほど塗装されている。
 船内は、展示室になっていて、日露戦争の資料や軍艦のプラモデルなどが並んでいた。
 東郷平八郎の衣服や当時の写真が飾ってあるが、意外と小柄である。身長が153、4センチで、当時の日本人の大人の平均身長もこの程度だったらしい。
 甲板に出ると、三笠が大きいのがわかる。全幅23、全長132メートルとある。備え付けてある大砲も、近くで見るとかなり大きい。
 前甲板の主砲の後ろには、艦長などが操艦および先頭の指揮をする「艦橋」があり、そこには、船の進行方向を変える操舵輪、羅針儀(羅針盤)、速力指示器などが見える。
 上を見上げると、かの有名なZ旗も風になびいている。
 老いた三笠はきれいに着飾られていた。

 港を出た後、日も暮れかかった横須賀の街を歩き、行くときに目をつけていた駅前通りの中華店に入った。
 店で注文を取りに来たのは、中国人の女の娘でシン(清)さんと名のった。不愛想なところがいい。
 料理をつまみながら、久しぶりに紹興酒を飲んだ。
 「あんた、あの娘の何なのさ…」

 *

 帰りは、JR横須賀駅に出た。
 ここは、1889(明治22)年開業の駅で歴史は古い。港に近く、横須賀は海軍があり昔から重要な地点だったことがわかる。
 しかし、京急線の横須賀中央駅周辺と違って明かりが少なく人も少ない。夜なので、侘しささえ漂っている。横須賀の中心街はここから移ったのだ。
 でも、ここがヨコスカの原点という空気が感じられた。
 駅の改札を入ると、二股に分かれたホームが平たんに長く続いている。長崎駅も、階段がなくこうだったなと思った。ホームは、空母の甲板のように伸びている。
 何となく終着駅の雰囲気だ。東京からさほど遠くないのに、どこか地方の街へ来たような気になった。
 「たった今まで坐っていたよ、あそこの隅のボックスさ…」



 *
 <参考>「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、詞:阿木燿子、曲: 宇崎竜童.


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の初詣④ 乃木神社

2016-01-14 00:29:54 | * 東京とその周辺の散策
 1月2日、明治神宮参拝のあと、東郷神社に出向いた。そして、続いて乃木神社に行くことにした。すでに日は落ちているけど、時刻はまだ夕6時である。
 乃木神社は、これまた言わずと知れた明治の軍人、乃木希典を祀った神社である。
 乃木希典も海軍の東郷平八郎と同じく、日露戦争で日本を勝利に導いた陸軍大将である。明治天皇の崩御の後、殉死したこともあって、知名度では東郷より乃木の方が上だろう。
 それに、乃木坂という東京の地名にも名を残している。最近、この地に因んだ乃木坂46というアイドル・グループも存在している。

 六本木に近い乃木坂には国立新美術館ができたこともあって何度も行ったことはあるが、乃木神社は行ったことがなく、どこにあるかも知らない。
 東郷神社の境内で、社務所の人に乃木神社に行くにはどう行けばいいか訊いてみたところ、少し困った顔をして次のように答えた。
 「歩いてですか、結構かかりますよ。電車の地下鉄千代田線の乃木坂駅からすぐなんですけどね。ここから歩いてだと、ちょっと複雑だなあ」と言って考え込んだので、分かりましたと言って東郷神社をあとにしたわけである。
 少し遠いといっても、やはり乃木神社へは一筆書きのように一本に繋いで歩いて行かないと意味がない。意味がないということはないが、明治神宮(明治天皇)-東郷神社(東郷平八郎)-乃木神社(乃木希典)と、3つを繋げることによって意味が増す。

 *

 地図を見ると、このまま明治通りを進むと確かに道は複雑だ。いったん表参道に出てそこを南下すると、道なりに迂回しながら乃木坂にたどり着きそうだ。
 表参道の交差点で青山通りを横切って、そのまま直進すると、だんだん人通りが少なくなってきた。曲がり角のところに根津美術館という名前が見えた。南青山にどうして根津美術館があるのだろうとちらと思ったが、そのまま道なりに左、つまり東の方へ進むことにした。
 この道は初めて通る道だ。都心だというのに、3が日だからか通る人がほとんどいない。明治神宮ではあんなにいたのに。
 人のいない暗い都心は、少し不気味だ。誰もいない通りを黙って歩いていたら、突然視界が開き、橋が表れた。アーチ型の欄干が続いている。こんなところに川が流れていたのかと不思議に思い、橋の下を見たらビルが建っていて、その向こうに道路が走っている。通りはいつしか大きな陸橋になっていたのだ。
 この橋が青山橋というのも知らなかった。
 それにしても、大きな陸橋がこんなところにあったとは。ビルの上の橋を歩いているような、不思議な感覚だ。濃紺の夜空の下の、遠くビルの間に赤く明かりの付いた東京タワーが見える。
 橋を過ぎると、さらに静かで不気味な雰囲気になった。静かなのも道理だ。そこに、いくつもの墓が出現したのだ。そこで、やっとここが青山墓地だとわかった。いくら好奇心が旺盛な僕でも、暗い中の墓地を散策するのは控えよう、また明るいうちにでも来てみようという気になった。夜の墓地はやはり気持ちいいものではない。
 青山墓地を過ぎると、ほどなく乃木坂の地下鉄入口に出た。この六本木から続くコーナーに、絵本に出てくるような白いブライダル・ファッションビルがある。
 ここ乃木坂駅周辺は交差する道路が2重構造になっていて、わかりにくい。来た道の下に交差する道があり、いったん地下道に降りて赤坂方面に渡ったところに、乃木神社があった。

 *

 乃木神社は、日本各地にいくつかあるが、ここ乃木坂にある神社は乃木希典が住んでいた邸宅跡である。

 乃木希典は、1904(明治37)―1905(明治38)の日露戦争における旅順攻囲戦で指揮を執った陸軍大将である。
 旅順攻囲戦とは、日本軍により、ロシア帝国が第一太平洋艦隊の主力艦隊の母港としていた旅順港を守る旅順要塞を陥落させた、両国の命運を決めた戦いである。その時の戦いは203高地の攻防で有名で、のちに映画「二〇三高地」(監督:舛田利雄、主演:仲代達矢、1980年)にもなった。
 ロシアがこの旅順攻防戦で降伏し、乃木希典将軍とロシアのステッセル将軍による会見が行われたのが水師営である。
 子どもの頃、僕はお祖母さんに、このことを歌った「水師営の会見」(作詞佐々木信綱、作曲岡野貞一)という文部省唱歌を教えてもらい、今でも歌えるほど覚えている。
 「旅順開城約なりて、敵の将軍ステッセル、乃木大将と会見の、所はいずこ水師営。庭に一本(ひともと)ナツメの木、弾丸あともいちじるく……」

 昨年2015年の5月、中国東北部、いわゆる旧満州の主要都市に行った。その時のことはまだ何も書いていないが、旅順にも行き、水師営や203高地にも登った。
 水師営は、あまた資料などの写真で紹介されている通りの古い平屋の家だったので、当時のままの姿で残っていると感動したが、後に再建されたものだと聞いてがっかりした。家の中は写真などが飾られた資料館となっていて、庭には歌にもあるナツメの木があったが、これも何代目かだろう。
 水師営には陽気な中国人の女性ガイドがいて、ここは日本人観光客しかやって来ない、久しぶりの日本人で嬉しいと、流暢な日本語をしゃべった。
 203高地は、標高203メートルからきた名で、今ではきれいに整備され軽いウォーキングを兼ねた観光地となっている。

 日露戦争の勝利でヒーローとなった乃木希典だが、ロシア軍をはるかにしのぐ多大な戦死者を出したこともあって、自責の念も強かったという。

 乃木神社に着いた時は、すでに夜7時だった。
 すぐの入口のところに、両脇に狛犬を従えるように大きな鳥居がある。(写真)この神社の横に、乃木が住んでいた邸宅がある。
 参拝者がポツリポツリとやってくる。神社の人が、普段はもう門を閉めている時間ですが、今日は参拝者が来られる間は開けていますと言う。
 神社の中に、やっと人が入れるほどの小ぶりの赤い鳥居と赤い幟が続いているので近づいてみると、赤坂王子稲荷神社とあった。鳥居の中に入ってみると、奥行きは意外と短い。
 何人かいた参拝者もほとんどいなくなったので、拝殿で参拝したあと乃木神社をあとにした。
 さてと、神社の周りに店はないので、六本木まで出て食事をして帰ることにしよう。
 
 明治神宮―東郷神社―乃木神社という、東京での初めての初詣は、日露戦争に関わりある小さな旅(散策)となった。空疎に感じていた東京の元旦も、こうして歩いてみるとまんざら捨てたものではないようだ。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の初詣③ 東郷神社

2016-01-11 01:57:06 | * 東京とその周辺の散策
 1月2日、明治神宮での初詣を終えて、原宿駅前に戻ってきたは夕方5時過ぎだった。
 明治神宮といえば明治天皇を祀った神社で、この近くに東郷平八郎を祀った東郷神社があることは知っていた。ここは、東郷神社にも行かねばならないと思った。
 東郷平八郎といえば、日露戦争において日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った海軍大将である。明治天皇とのつながりは大きい。

 映画「明治天皇と日露大戦争」(監督:渡辺邦男、1957年新東宝)は、公開当時まだ戦後の復興途上にあった日本全国で大ヒットした。明治天皇役の嵐寛十郎がはまり役で、僕ら少年たちはロシアを破った日本がとても偉大に思えたものだ。
 力道山に熱狂したのと同じく、無垢な少年たちの心は強いものに単純に熱くなり、心躍ったのだった。学校の教科書でなく、僕らは映画で日露戦争を知った。
 「いちれつ談判破裂して、日露戦争始まった、さっさと逃げるはロシアの兵……」といった歌もあった。
 今思えば、戦後の昭和の時代にどうしてあんな歌をいまだに歌っていたのだろう。お祖母さんから教わったのだろうか。あの歌は、女の子が両方から伸ばしたゴムに足を掛けたり外したりしてリズムカルにはねる、ゴム跳びの遊びの時に歌っていたように思う。
 なお、東郷平八郎が乗り込んで日本海海戦を指揮した戦艦三笠は、現在も神奈川県横須賀市にて保存されている。

 原宿駅前から表参道に出ると、祭りの夜のように飲食の出店が並んでいた。店を眺めながら通りをそぞろ歩き、すぐの交差点の明治通りを左折する。竹下口を過ぎるとパレフランスがあり、その先に東郷神社の幟が立っていた。
 庭園のように曲がった参道を歩き、奥の拝殿に出た。
 正面に、茅草(かやくさ)で作られた人の背を超えるほどの大きな輪の「茅の輪」(ちのわ)が目に入った。(写真)
 これは厄払いのための輪くぐりをするもので、この輪を初めて見たのは千葉・佐原市の近くにある香取神宮に行ったときだった。∞の形に左右に3回くぐって回ると解説があり、そのようにして参拝をした。
 明治神宮と違って、東郷神社は時間も遅いからか訪れる人もまばらで静かだ。

 さてと時計を見ると、夕6時だ。
 東郷神社に来たからには、乃木神社に行かないと不公平というものだろうと思った。日は暮れて暗いけど、東京の夜は明るくて長い。まだ時間はある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする