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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

ブラームスはお好き!服部百音 

2023-10-02 03:03:23 | 歌/音楽
 *ブラームスが流れる「さよならをもう一度」

 「ブラームスはお好き」( Aimez-vous Brahms? )は、フランスの作家フランソワーズ・サガンの、映画化されても有名になった小説である。
 映画はフランス・アメリカ合作映画として1961年作られ、日本では「さよならをもう一度」(英:Goodbye Again、仏:Aimez-vous Brahms?、監督:アナトール・リトヴァク)というタイトルで上映された。
 パリを舞台に一人の中年女性に中年の男と若い男が絡む、いわゆる男女三角関係の物語は、サガンらしい甘酸っぱさが薫る繊細な人間模様で、映画ではイングリッド・バーグマン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンスという当時の人気スター(イヴ・モンタンはシャンソン歌手でもあった)が共演した。
 作品の中で、主人公の女性をコンサートに誘う口実に、若い年下の男が書いた手紙の一文に使われているのが「ブラームスはお好きですか?」という文句である。
 映画では、女性(I・バーグマン)に一目で恋心を抱いた若い男性(A・パーキンス)が、初めて二人で外でランチを食べた後、仕事に向かうため歩き去ろうとする女性に「ブラームスはお好き?」と問いかける。
 立ち止まった女性に「プレイエルホールで日曜に演奏会がある」と誘う。彼の視線の先の、パリの街の通りに「ブラームス演奏会」のポスターが貼ってある。
 実際、映画のなかでもブラームスの「交響曲第3番」の「第3楽章」が様々なシーンで流れる。

 若いとき、私は最初サガンのこのタイトルを目にしたとき、内容はともかく、洒落たタイトルだなあと感心した。
 クラシック音楽は退屈でどこに魅力があるのかさっぱりわからなかったその頃、私が最初に買ったレコードがブラームスの「ハンガリー舞曲」と「夏の日の思い出」(作詞・作曲:鈴木道明、唄:日野てる子)だった。どちらを先に買ったのかもう曖昧だが、両方ともドーナツ盤で、「ハンガリー舞曲」は第5番と第1番だったと思う。
 ブラームスはこの「ハンガリー舞曲」しか知らなかったのだが、それで充分だった。
 「ブラームスはお好きですか?」と訊かれれば、私は昔から「えゝ」と答えた(だろう)。残念ながら、こう訊かれたことは今までなかったのだが。

 18歳のとき、「悲しみよこんにちは」(Bonjour Tristesse )で彗星のごとくデビューしたサガンは、当時世界的に人気のある作家だった。フランスでは文化人との交流も多彩で、時代の寵児だった。特に女性には熱狂的といえるファンがいるほど人気が高かった。
 あのフランソワーズ・サガンが囁く。 
 「ブラームスはお好き?」

 *オーケストラ・サウンドをバックに、服部百音のヴァイオリン演奏

 2023年9月26日、都響による「輝ける名曲、珠玉のオーケストラ・サウンド BRAHMS」と題したコンサートが行われた。
 会場:調布市グリーンホール(東京都調布市)
 出演:ローレンス・レネス(指揮)
    服部百音(ヴァイオリン)
    東京都交響楽団(管弦楽)
 曲目:「ブラームス:協奏曲 ニ長調 作品77」
    「ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 作品98」

 服部百音は、24歳の若手ヴァイオリニストである。生の演奏を聴いてみたいと思っていた矢先に、あのブラームスを、しかも近くの調布市で演奏するというので喜んで出かけた。
 彼女ははっきりしたメイクで意外と小柄だった。しかし、演奏はエネルギッシュで力強い。
 ローレンス・レネスの指揮による東京都交響楽団をバックに、メイン曲のブラームスの「協奏曲ニ短調」を熱演。
 演奏のあと、アンコールで演奏した曲は、いきなり指で弦をはじくピチカートという技法で始まった。ピチカートと弓で弦を弾くアルコの技法が力強く入り混じる曲は現代的で、初めて聴く曲だった。
 帰りに出口に貼られていたアンコール曲名を見ると、ファジル・サイ作曲の「クレオパトラ」とあった。
 彼女のメイク、動きの大きい芝居がかった演奏スタイルが合点できた。

 服部百音は、父が服部隆之、祖父が服部克久、曽祖父が服部良一という音楽家系である。
 古い私らに馴染みのあるのは、淡谷のり子の「別れのブルース」、霧島昇・渡辺はま子の「蘇州夜曲」、高峰三枝子の「湖畔の宿」、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」、藤山一郎・奈良光枝による「青い山脈」など、戦前・戦後を通じてヒット歌謡曲を数多く作り、国民栄誉賞を寄与された服部良一だろう。

 *
 公演の後半は、ローレンス・レネス(指揮)、東京都交響楽団による、ブラームス「交響曲第4番ホ短調」である。
 アンコールは、「ハンガリー舞曲」第1番。
 最後は、ブラームスのあの私のスーヴェニール曲だった。

 *
 出向いた調布市の駅前は、京王電鉄が地下に潜ったこともあって以前より広々とすっきりとした。調布市の駅近くの「調布市グリーンホール」や「調布市文化会館たづくり」では、ときどき音楽公演や映画上映が行われているので、気に入った催しにはこうして出向くことがある。
 多摩市の「パルテノン多摩」のホールでも、かつてはしばしば有名な交響楽団やアーティストによるクラシック音楽の公演が行われてきた。クラシック音楽ではないが、あの沢田研二も2017年にパルテノン多摩にやってきたことがあるのだ。
 しかし、昨年(2022年)7月のリニューアル・オープン以来、企画主催者の演劇シフトしたことにより、寂しいかな以前に比べてクラシック音楽がさっぱり催されなくなった。
 
 こうして近郊のホールへ出向くことも、また楽しからずや、である。
 
 <参考>
 ブログ「沢田研二、ジュリーが多摩にやって来た ヤア!ヤア!ヤア!」(2017-12-19)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/e/e3ca6664b14ef21f1dbdd77e36f90cc0


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ポーランドの少女合唱団の歌声

2023-09-27 01:55:59 | 歌/音楽
 少年合唱団といえばウィーン少年合唱団が有名だが、ポーランド・カテドラル少女合唱団の「プエラエ・オランデス」が日本で初のコンサートを行った。
 この公演の実現に尽力したのは、世界的に活動し楽団フィルハルモニア多摩の指揮もされている今村能氏である。

 ポーランドは、ヨーロッパにおける西に近い東の国に位置し、この地理的状況からか政治的にも多くの波乱で苦難の歴史を辿ってきた。
 北はバルト海に面し、西はドイツ、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキアと国境を接する。首都はワルシャワ。
 かつては旧ソビエト連邦傘下にあったが、現在はEU(欧州連合)およびNATO(北大西洋条約機構)に加盟しており、ロシアのウクライナ侵攻に際しては直ちに隣国ウクライナ支援を発表し、実際、武器給与や多くの脱国したウクライナ人を受け入れている。

 一般的にポーランドといって思いつくのは、作曲家のショパンと化学・物理学者のキュリー夫人ではなかろうか。
 個人的に付け加えるならば、制約の多かったであろう共産国にありながら、1950年代後期から1960年代前期の映画界に燦然と輝いた、いわゆる“ポーランド派”の、「地下水道」「灰とダイヤモンド」のアンジェイ・ワイダ、「尼僧ヨアンナ」「夜行列車」のイェジー・カヴァレロヴィチ監督は忘れがたい。

 *ポーランド・カテドラル少女合唱団「プエラエ・オランテス」
 日本デビューコンサート

 現在、隣国が戦争の渦中におかれていて、少なからず複雑な影響下にあるポーランドである。
 私はポーランドをよく知らないので、ポーランドで歌われている歌(曲)はどういうものだろう、少女合唱団によるポーランドの曲を聴く機会はそうないと思ったので、聴きに行った。
 カテドラル少女合唱団「プエラエ・オランテス」は、1985年に設立されたポーランドを代表する少女合唱団である。資料によると、今まで多くの合唱コンクールで優勝や優秀賞を受賞していて、ヨーロッパを中心に公演活動を続けている。

 2023年9月 23日、会場:たましんRISURUホール (東京都立川市市民会館)。
 [曲目]
 <第1部>ポーランド音楽(カテドラル少女合唱団「プエラエ・オランテス」合唱、ピアノ伴奏)
 ポーランド民謡:「緑の木立の中で」、「ねえ、クラクフ・マーケット広場で」、「マズルカ」、「森へ行きましょう」。
 ショパン:「ノクターン嬰ハ短調」、「英雄ポロネーズ変イ長調」(ピアノ独奏)、ほか
 <第2部>世界の名曲(少女合唱団「プエラエ・オランテス」合唱、ピアノ伴奏)
 台湾民謡、「青く塗られた青の中」、「レット・イット・ビー」、「ライオンは寝ている」 
 <第3部>日本・ポーランド共演(フィルハルモニア多摩参加)
 モニューシュコ:「宵の唄」、「紡ぎ唄」、歌劇:幽霊屋敷より「針の下から花が咲く」
 ファルチンキェヴィチ:「祖国のためのミサ」
 <出演>
 カテドラル少女合唱団「プエラエ・オランテス」(合唱)
 今村能(音楽監督・指揮)
 ヴワディスワフ・パホータ(「プエラエ・オランテス」創始者、指揮)
 ウカシュ・ファルチンキェヴィチ(作曲・編曲、合唱ピアノ伴奏)
 ヴェロニカ・ガルヂェル(ピアノ独奏)
 フィルハルモニア多摩(管弦楽)

 *
 今回参加のカテドラル少女合唱団は総勢26人で、華やかな髪飾りに民族衣装(おそらく)で、見た目も可憐で派手やかだった。
 歌声も若さゆえの清らかが会場に響き渡る。
 1部のポーランド民謡で、聴いたことがある歌が出てきた。すると、ポーランド語で歌い終わった後、日本語が出てきた。
 「森へ行きましょう 娘さん(アハハ)、鳥が鳴く(アハハ)、あの森へ(ラララララ)……」日本の童謡と思っていた「森へ行きましょう」は、実はポーランド民謡だったのだ。
 合唱、演奏が終わった後、少女合唱団のメンバーが会場の外で並んで写真撮影の応じてくれていた。(写真)

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坂本龍一、「僕はあと何回、満月を見るのだろう」

2023-05-27 02:28:04 | 歌/音楽
 坂本龍一による「僕はあと何回、満月を見るのだろう」が雑誌「新潮」に連載開始されたのは2022(令和4)年7月号からで、翌2023(令和5)年2月号(1月7日発売)で終わった。(写真「新潮」2022年9月号)
 タイトルに使われた「僕はあと何回、満月を見るのだろう」は、ポール・ボウルズ原作、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「シェルタリング・スカイ」(1990年)の台詞からとったとある。坂本は「ラストエンペラー」に続き、この映画の音楽も手掛けている。
 この「僕はあと何回、満月を見るのだろう」の連載終了後の間もなく、3月28日に坂本龍一はガン闘病の末亡くなった。この自伝でもある連載文は聞き書き(聞き手・鈴木正文)で、坂本は自分の最後の姿を遺書のつもりで話し、残しかったのだろう。71歳だった。

 私は、坂本龍一のファンでも彼の音楽をよく聴いたものでもない。
 私が彼のことについて知っていることは、以下のような一般的なことだけである。
 坂本龍一は、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のグループでテクノポップスをヒットさせたこと。その後、第2次世界大戦下の南方捕虜収容所を舞台にした大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」での捕虜収容所所長役で俳優出演をし、その映画音楽で英国アカデミー賞・作曲賞を得たこと、その後もいくつかの映画音楽を手掛けたこと。
 (蛇足だが付け加えるなら、「戦場のメリークリスマス」の所長役は当初、何人かの候補のなかで沢田研二に白羽の矢が立ったが沢田のスケジュールが合わず結局坂本になった。後に、この映画に出演していた内田裕也は、デヴィッド・ボウイとジュリーのヨーロッパと日本の妖艶なスーパースター共演を実現させたかったと述べていた。その時、坂本は出演に伴い音楽もやらせてくださいと注文を付けて、結果的にその映画音楽で世界的名声も得ることとなった)
 坂本は東京芸大出身ということもあって“教授”と呼ばれ、当然クラシック音楽にも深い知識があり、「スコラ」と題した教育テレビ番組ではバッハからロックまで講義形式の番組をやっていたこと。
 私生活では、同じミュージシャンの矢野顕子と結婚したこと。
 原発や改憲への反対や環境問題など、社会問題へのメッセージの発信や活動をも行っていて、つい死ぬ直前にも神宮外苑地区の再開発に伴う樹木伐採に反対意見の手紙を東京都知事あてに送っていたこと、などである。

 *「僕はあと何回、満月を見るのだろう」

 では、坂本龍一の最後の発信集成ともいえる「僕はあと何回、満月を見るのだろう」を見てみよう。
 ・第1回、「ガンと生きる」
 2014年に中咽頭ガンが発覚してから以降の、ガンの治療、医者との関係などの経過を踏まえ、自身の病気や周りへの意識や考えの移ろいを淡々と語っている。
 コロナ下での入院中のことで、次のようなことを愛おしく述懐している。
 病院の食事がまずいので、特別に毎日のようにパートナーが差し入れをしてくれた。コロナのせいで面会謝絶なので、夕方、病院の道の向かいから、スマホのライトをつけて手を振り合図をし、「ロメオとジュリエットみたいだね」と言い合った。辛いときにこそ愛に救われると思った。
 私は先に書いたように、坂本のプライベートのことに関しては何も知らなかったので、彼が矢野顕子と離婚後パートナーなる女性がいたことに、内心少し驚いた。パートナーなる女性は恋人であるとともに坂本のマネージャー、プロデューサーでもあったようだ。以後も、この連載にパートナーなる女性は何度も出てくる。
 私が知らなかっただけで、彼に離婚後、恋人、同居女性がいたとしても何ら不自然ことではないし、いたほうが自然であろう。ちょっと調べてみると、若い時から彼は恋多き男だったようである。女性好きなことは、彼も自身で語っている。
 このことは坂本を新たに違った側面から見ることができたと感じたし、“教授”呼称もさもありなんと思った。

 ・2回、「母へのレクイエム」
 2009年刊行の坂本龍一の自伝「音楽は自由にする」以降のことについて語っている。
 仕事に関連したことや、個人的な忘れがたいこととして、海外への旅や国内の旅などが語られる。
 大貫妙子さんとのコラボレーション・アルバムをリリースしたことの追記として、20代前半の一時期に彼女と暮らしていたことを告げている。
 私は全く知らなかったが。

 ・3回、「自然には敵わない」
 2011年3月11日、東北・福島を中心にした東日本大震災が起こった。
 坂本龍一は、被災地訪問、演奏による支援や支援募金活動など、様々な支援活動をする。
 「……それでも、応援している気持ちを少しでも音楽を通じて伝えられたらと考え、自分のできる範囲で、様々な取り組みをした2年間でした」と語っている。
 坂本は、反核・反原発活動も行っている。
 イギリス、オックスフォード大学での吉永さゆりさんの核廃絶の朗読会でのピアノ伴奏での共演。ドイツのテクノ・バンド、クラフトワークを呼んでの、「NO NUKES」フェスティバルのこと、などが熱く語られている。
 このころ、頻繁に行われていた首相官邸前での脱原発デモへの参加。彼は、音楽活動だけでなく社会的に発言・活動する人でもあった。

 ・4回、「旅とクリエーション」
 まず北の島国、アイスランドに行った時の印象を思い出深く語っている。確かに、あまり行く機会のない国であろう。
 能楽の仕事を通じて知り合った小鼓方の大倉源次郎さんに誘われて、奈良県の段山神社まで「翁」の上演を見に行く。そのとき、能楽の歴史的完成経路を夢想したりするのだった。

 ・5回、「初めての挫折」
 老眼を感じたが、40代の後半になって、ことさら老いを感じたわけではないとしつつ、ふとしたことによる大貫妙子さんの勧めで整体を始める。
 その後、闘病中も、食養、鍼灸、漢方、整体は、「全身状態」の維持や向上のため、病院でのガン治療と並行して続けている。
 2015年には養生も兼ねて行ったハワイが気に入り、別荘を買う。しかし、翌年には売ってしまうことに。
 そして、メキシコ人の映画監督イニャリトゥの「レヴェナント」、山田洋二監督の「母と暮せば」の映画音楽を作る。

 ・6回、「さらなる大きな山へ」
 初めての韓国映画「天命の城」の映画音楽、坂本自身の記録映画「CODA」の撮影経過を語る。
 そして、NHK「ファミリーヒストリー」放送に基づいて、彼のルーツが語られる。父方が福岡、母方が長崎という、両親とも九州がルーツであった。彼の父は東京へ出て、河出書房の編集者となった。

 ・7回、「新たな才能との出会い」
 憧れの台湾の李孝賢監督と、初めて会い食事を共にすることができたと嬉しく語っている。私も大好きな映画監督である。
 そして、人生を決定づけた恩人を二人あげるとすると、大島渚とベルナルド・ベルトルッチになると思う、と次のように語る。
 役者として「戦場のメリークリスマス」(1983)へ出演を依頼してくれた大島監督に対し、若い頃の僕は生意気にも「音楽をやらせてくれるなら出ます」と言い放った。今でこそ、数多くの映画音楽を任されていますが、その第一歩が「戦メリ」でした。
 さらに、この作品がカンヌに出品されることになり、映画祭のパーティ会場で大島さんにベルトリッチに引き合わせてもらった。数年後に、そのパーティ会場でも熱く構想を語っていた「ラストエンペラー」(1987年)の音楽を、ベルトリッチ監督はオファーしてくれた。
 ジャズシンガーの山下洋輔さんとの思い出を語る。彼には、同じように音楽大学でクラシックを学んだという根底にある共有感があったようだ。
 沖縄の辺野古の新基地反対のための吉永小百合さんの詩の朗読会では、ピアノ伴奏の共演をしたことを、吉永さんへの思いを込めて語っている。
 2020年、新型インフルエンザ、コロナが世界中に蔓延する。
 ニューヨークに活動拠点を移していた坂本だが、日本に帰っていたその年の4月、再びニューヨークに戻る。出国の成田も到着のJFK空港もがらんとしていたと述懐する。
 外出を控えながらも、ニューヨークのスタジオで音楽作りの生活をする。
 新型インフルエンザ、コロナに関しては、以下のように語っている。
 「3.11のときもそうでしたが、世の中が急激に変化するのは非常にショッキングなことです。しかし一方でぼくには、このショックを忘れてしまいたくはない、という強い思いがありました。こうした100年に一度のパンデミックは、我々のほとんどにとって、きっと人生で最初で最後の経験でしょうし、そうであってほしい。さらに言うと、コロナのグローバルな規模での感染爆発は、人間たちが過度な経済活動を推し進め、自然環境を破壊してまで地球全体を都市化してしまったことが遠因とて考えられる。その反省を未来に生かすためにも、自然からのSOSで経済活動に急ブレーキがかけられたこの光景を、しっかり記憶しておかなくてはいけないと思うのです」
 そして、2020年6月に受けた検査で直腸ガンが発覚し、再び闘病生活を余儀なくされる。

 ・8回(最終)、「未来に遺すもの」
 2021年、コロナ下のなかで、東京での手術後の闘病生活が始まる。
 治療に関しては、彼の幅広い友好関係をもあってセカンド・オピニオンを含め、最強のサポート体制でもって西洋医療と代替医療の両輪で続けられたことが窺われる。
 闘病生活の中で、同時に仕事もやっていく。衰えない制作意欲である。
 2022年2月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まる。
 そんな中で、彼はウクライナのヴァイオリニスト、イリア・ボンダレンコのために、曲を書く。
 そして、東日本大震災後の活動が発展して生まれた「D2021」にも参加する。
 2023年1月、71歳の誕生日にアルバムをリリース。闘病生活のなかで、徒然(つれづれ)に録り溜めした音源を12曲ピックアップしたもので、これが最後のアルバム「12」となった。

 *

 坂本龍一が好きであった言葉、
 Ars longa, vita brevis. 「芸術は永く、人生は短い」

 やりたいことをやっていく。
 好きなことをして生き抜いていったのは、素晴らしいことだ。

 私たちは、あと何回、満月を見ることだろう!

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ベートーヴェンの「ラ・フォル・ジュルネ 2023」

2023-05-18 03:26:46 | 歌/音楽
 もしも美しいまつげの下に、涙がふくらみたまるならば、
 それがあふれ出ないように、強い勇気をもってこらえよ。
  ――ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

 まだベートーヴェンを、“ジャジャジャ、ジャーン…”の「運命」のリズムと、ロマンチックなメロディーの「エリーゼのために」しか知らなかった高校生になったころ、私はこのベートーヴェンの言葉を見つけ、ノートに書き残していた。
 言っている内容は何てことはないのだが、思春期の心には響く言葉だった。
 これが、「もし目に涙がたまったなら、それがこぼれ落ちないように……」と訳されていたら、後世に残る言葉にはなっていなかっただろう。
 まず、「もしも美しいまつげの下に」で、胸にグッとくるのである〈序奏・Adagio sostenuto〉。ここで、「美しいまつげ」を持つ者が誰かは問うことはない。
 そして「涙がふくらみたまるならば」で、(何かがあったわけだが)どうする?と迫ってくる〈提示・Grave〉。それから、「それがあふれ出ないように」と方向が指し示され〈展開・Adagio cantabile〉、「強い勇気をもってこらえよ」と、ほっと心を落ち着かせてくれる〈結尾・Rondo, Allegro con brio〉。

 ベートーヴェンだからこその、今でも素直に受け止めることができる言葉である。
 ベートーヴェンは、“惨憺たる幸福”を引き受けた偉大な芸術家であった。

 *今年の「熱狂の日」は、その「ベートーヴェン」

 5月の黄金週間の4~6日に、3年ぶりに「ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2023」が、丸の内、有楽町駅近くの「東京国際フォーラム」で開催された。
 この「熱狂の日」は、発祥の地フランス・ナント市はじめ、世界各都市で行われているクラシック音楽の祭りである。
 その年のテーマにそって、海外からと国内のミュージシャンによる演奏会が、朝から夜まで東京国際フォーラムの3会場、および近辺の特設会場で、滞りなく行われるのが特長だ。しかも、料金が格安ときているから気軽に行けるのだ。
 この季節、九州の佐賀に帰らなくて東京にいるときは必ずぶらりと聴きに行っていた。
 東京以外の地方都市でやった年もあり、2011年に鳥栖市で行われたときは、私は佐賀に帰って田舎の空気とともに「ラ・フォル・ジュルネ」も楽しんだのだった。このときは、私の親しかった彼の奥さんであったハーピストの吉野直子さんと、ピアニストの仲道郁代さんの演奏が聴けたのは忘れられない。

 そんな今年、2023(令和5)年の「ラ・フォル・ジュルネ」のテーマは、「ベートーヴェン」である。タイムテーブルには、ベートーヴェンの曲が目白押しであった。

 5月4日、東京国際フォーラムに次の2演奏を聴きに行った。
 〇15:30〜16:15、会場:ホールA
 ――ヴァイオリンが紡ぐ美しき歌〜傑作・第5交響曲と並んで打ち建てられた協奏曲の金字塔。
 曲目:「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61」
 出演:オリヴィエ・シャルリエ (ヴァイオリン)
    日本センチュリー交響楽団 (オーケストラ)
    角田鋼亮 (指揮者)
 ・オリヴィエ・シャルリエ(紹介)
 パリ国立音楽院でフルニエ、ドゥカン、ユボーに師事。ブーランジェ、メニューイン、シェリングから才能を讃えられた。ミュンヘン国際コンクール第3位。パリ管、ロンドン・フィル、ベルリン響、チューリヒ・トーンハレ管等と共演。2020年にアルバム「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ集」(Mirare)をリリース。

 〇18:00〜18:50、会場:ホールA
 ――ベートーヴェンが憧れのパリの流行に乗った華麗な協奏曲と、高弟ツェルニーが補筆した遺作を。
 曲目:「ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調 Wo06」
   :「ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための三重協奏曲 ハ長調 op.56」
 出演:谷口知聡 (ピアノ)
    辻彩奈 (ヴァイオリン)
    伊東裕 (チェロ)
    レミ・ジュニエ (ピアノ)
    東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 (オーケストラ)
    松本宗利音 (指揮者)
 ・辻彩奈(紹介)
 岐阜県出身。2016年モントリオール国際音楽コンクール第1位。2018年「第28回出光音楽賞」、2023年「第24回ホテルオークラ音楽賞」を受賞。2020年、自らが権代敦彦に委嘱した「Post Festum」を世界初演。コロナ禍にあって国内公演の代役で幅広く活躍。使用楽器は、NPO法人イエローエンジェルより貸与のJoannes Baptista Guadagnini 1748。

 *
 5月5日に行われたヴァイオリニストの神尾真由子と前橋汀子の演奏を聴きに行こうと思ったのだが、会場が大ホール(A)でなくCホールだったこともあってか、私が予約を入れた段階ですでに満席完売になっていて諦めた。

 東京国際フォーラムの会場は、まだマスク姿が目立つもののコロナによる自粛から幾分解放されたのか、大勢の人で賑わっていた。
 私も、久しぶりの音楽の祭りを楽しむことができた。

 *
 近くの丸の内界隈は、祝日で会社は休みのはずだが「ラ・フォル・ジュルネ」の余波であろうか、結構な人が行きかっていた。
 演奏会が終わった後、近くの丸の内の「三菱一号館」内の中華料理店で夕食を。酒は紹興酒で。
 
 *私的ベートーヴェン Best3

 私の個人的に好きなベートーヴェンの曲をあげてみた。
 1.ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」
 2.ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調「月光」
 3.ヴァイオリン・ソナタ第5番 へ長調「春」

 *あなたが選ぶベートーヴェン Best 10

 2020年、TV「らららクラシック」で、ベートーヴェンの生誕250周年を記念して、「あなたが選ぶベートーヴェン ベスト10」の投票を行った。結果は以下の通り。

 第1位 交響曲第9番「合唱つき」
 第2位 交響曲第7番
 第3位 ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
 第4位 ピアノ・ソナタ第14番「月光」
 第5位 交響曲第5番「運命」
 第6位 交響曲第6番「田園」
 第7位 ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
 第8位 エリーゼのために
 第9位 交響曲第3番「英雄」
 第10位 ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」

 ※ 日本人は「第九」が好きなんですね! 

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青春歌謡、御三家の時代② 青春歌謡を走り抜けた歌手たち

2022-08-16 02:36:32 | 歌/音楽
 1960(昭和35)年、「潮来笠」橋幸夫、1963(昭和38)年、「高校三年生」舟木一夫、1964(昭和39)年、「君だけを」西郷輝彦、デビュー。
 橋幸夫が青春歌謡の先頭を走り、舟木一夫が学園ソングで新しい大河を作り、西郷輝彦の合流によって新しい広がりを見せた青春歌謡は、「御三家」という代名詞のなかで大きく花開いたのだった。

 *御三家、誕生の背景となった三田明、梶光夫、安達明、久保浩…

 舟木一夫の学園ソングのブームのなか、舟木に続く青春歌手が雨後の筍のように生まれた。その第一人者は、その年の1963年11月に「美しい十代」(作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正)でビクターからデビューした「三田明」だった。
 甘いルックスで、男性アイドル歌手の先駆けといえよう。
 三田は、翌1964年には、橋幸夫とのデュエットによる「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞した、吉永さゆりとのデュエット曲「若い二人の心斎橋」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)を、1965年には「明日は咲こう花咲こう」(作詞:西沢爽、作曲:吉田正)を出し、ヒットさせている。
 吉永は三田より年上であるが、橋に続いて三田を、当時、映画や歌で青春女優のトップを走っていた吉永小百合と組ませたあたりに、ビクターの力の入れ方がわかる。

 数多く誕生した青春歌手のなかで、この他に時代を彩った歌手をあげると、
 1963年12月「黒髪」でデビューし、翌1964年「青春の城下町」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実)がヒットした「梶光夫」。
 同年「潮風を待つ少女」(作詞:松田ルミ、補詞:吉岡治、作曲:遠藤実)でデビューした「安達明」。青春歌謡に残る「女学生」(作詞:北村公一、作曲:越部信義)では学生服姿で歌った。
 そして、「霧の中の少女」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)の甘いヴォイスの「久保浩」、をあげることができる。

 その他、「叶修二」、「川地英夫」、「望月浩」、「有田弘二」、「太田博之」とルックス先行のアイドル歌手路線が続いたが、大ヒットとはいかなかった。
 そうした青春の甘い歌の流れのなかで、それに逆らうかのように、子役から活動していた目方誠が「美樹克彦」として、「俺の涙は俺がふく」(作詞:星野哲郎、作曲:北原じゅん)で個性派歌手として再デビューしたのは特筆に値するだろう。
 「新聞少年」(作詞:八反ふじお、作曲:島津伸男)の「山田太郎」も、このジャンルに入れていいかもしれない。

 ※青春歌謡も落ち着きだしたころ、当時珍しい大学生の歌手が記憶に残った。
 1965年、大島渚の映画「悦楽」の主題歌「悦楽のブルース」(作詞:吉岡治、作曲:船村徹、コロムビア)でデビューした、法政大生、島和彦。この歌の歌詞は何てことはないのだけど大島映画だということか、放送禁止になった。しかし翌年、「雨の夜あなたは帰る」がヒットし紅白にも出場した。
 もう一人は、「京都の夜」(作詞:和田圭、作曲:中島安敏、ポリドール)を歌った、日本大生、愛田健二。
 二人とも、すでに青春歌謡を卒業した大人の歌を歌っていた。

 学園ソングを織り交ぜた青春歌謡が花開いたそのなかで、ポップ調のリズム感を持った青春歌謡で躍り出たのが、先にあげた1964年2月に「君だけを」(作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)でデビューした西郷輝彦であった。
 そして、彼の登場によって、「御三家」が誕生した。(「青春歌謡、御三家の時代①」参照)

 *
 この青春歌謡のブームを受けて、御三家が生まれたエピソードがいろいろ語られてきた。そのなかの説をあげてみる。
 当初、御三家には、橋幸夫、舟木一夫、三田明があげられていた。ところがレコード会社は、舟木がコロムビアだが、橋、三田はビクターである。これではレコード会社のバランスがとれないというので、新興のクラウンの西郷輝彦となったという説である。
 また、当時、歌の内容と流れから、舟木一夫、三田明、西郷輝彦と3人並べると、青春歌謡の顔としてぴたりと当てはまるという空気があった。3人の年齢差も近いし、レコード会社も分かれている。しかし、ビクターとしては、当時エース格だった橋幸夫を外すわけにはいかなかったという説である。
 業界内の思惑がいろいろあったのだろう。

 *吉永小百合に続く…女性青春歌手、本間千代子、高石かつ枝、高田美和…

 この時期、女性も青春歌謡に参入した。
 先にあげた日活の女優であった「吉永小百合」は、1962(昭和37)年、高校生の時に主演した映画「キューポラのある街」(監督:浦山桐郎)で、人気・実力ともに同時代のトップスターとなった。
 同年4月、映画「赤い蕾と白い花」の主題歌「寒い朝」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)でビクターから歌手デビュー。これは、石坂洋次郎の小説の原作が歌と同じ「寒い朝」で、日活の映画のタイトルが「赤い蕾と白い花」である。
 「北風吹きぬく寒い朝も、心ひとつで暖かくなる……」
 この吉永小百合の「寒い朝」が、女性の青春歌謡の先駆けだと思う。
 そもそも、日活には石原裕次郎や小林旭など、「歌う映画スター」と呼ばれる俳優が活躍していたように、吉永小百合がレコードを出す土壌は整っていたのである。
 その後、吉永は橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」「若い東京の屋根の下」や「泥だらけの純情」「光る海」などヒットを重ねた。

 同じ日活の若手女優だった「松原智恵子」も、ヒットには至らなかったがレコードを出したし、「和泉雅子」は山内賢とのデュエットで、ベンチャーズの曲「二人の銀座」をヒットさせた。

 「本間千代子」は、舟木一夫との共演「君たちがいて僕がいた」や西郷輝彦との共演「十七才のこの胸に」の青春歌謡映画に出ているように、東映の人気の清純女優だった。
 青春歌謡でも、1963年、「若草の丘」(作詞:北里有紀生、作曲:米山正夫)でコロムビアからデビュー。その後、「純愛の白い砂」(作詞作曲:米山正夫)や、映画「君たちがいて僕がいた」の挿入歌「愛しあうには早すぎて」(作詞:丘灯至夫、作曲:山路進一).など、傑作を多く出している。
 清純さと愛嬌のある顔の本間千代子は、当時やくざ映画に力を入れていた東映ではなくて日活だったら、もっと輝いていたに違いない。

 「高石かつ枝」は、1962(昭和37)年、松竹「愛染かつら」の再映画化に際して、ヒロイン名「高石かつ枝」の歌手募集に合格し、同映画の主題歌「旅の夜風」(作詞:西條八十、作曲:万城目正)でコロムビアからデビュー(のちにクラウンに移籍)。
 1963年、彼女が歌った、映画「林檎の花咲く町」(監督:岩内克己、東宝)の主題曲「林檎の花咲く町」(作詞:西條八十、作曲:上原げんと)は、名曲である。

 「高田美和」は、往年の時代劇スター高田浩吉の娘で、姿美千子とともに大映の清純派スターであった。
 時代劇の娘役のほか、「高校三年生」(監督:井上芳夫、大映)などの青春映画にも出演し、1964年、石坂洋次郎原作の「十七才は一度だけ」(監督:井上芳夫)に主演する。彼女がコロムビアから出した、この映画の主題曲「十七才は一度だけ」(作詞:川井ちどり、作曲:遠藤実)は、青春歌謡の代表曲となった。
 ほかに、「アロンスイー雨の街」(作詞:木村葉子、作曲:宮川泰)や梶光夫とのデュエット「わが愛を星に祈りて」(作詞:岩谷時子、作曲:土田啓四郎)などのヒット曲がある。
 のちに日活ロマンポルノ「軽井沢夫人」(監督:小沼勝)に出演して話題となった。

 *青春歌謡の先駆け、松島アキラ……

 青春歌謡は、いつから、どの曲から始まったというのはない。
 御三家生成のなかであえて言えば、核となった1963年、舟木一夫の「高校三年生」の学園ソングから遡って、1962年、橋幸夫の「江梨子」からではなかろうか、と先に書いた。
 橋幸夫がデビューした1960年頃、大きな歌謡曲の流れのなかにも青春歌謡の兆しはあった。
 リバイバルを歌った「無情の雨」の佐川満男、「雨に咲く花」の井上ひろしなどは、その雰囲気を持っていた。
 井上ひろしは、その後ロシア民謡の「山のロザリア」がヒットした。この曲は女性3人組コーラス・グループのスリー・グレイセスも歌ったし、当時歌声喫茶でもよく歌われた。
 佐川満男は、その後忘れられた頃の1968年に、髭面で歌った「今は幸せかい」(作詞・作曲:中村泰士 )をヒットさせた。

 そして、1961(昭和36)年9月、「松島アキラ」が「湖愁」(作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信)でビクターからデビューする。橋の「江梨子」発売の前年である。松島アキラ、17歳。
 「悲しい恋のなきがらは、そっと流そう泣かないで……」で始まるこの歌は、自分の心を顧みる失恋の心情が、内省的な絵画のように歌われている。
 この歌が流れた当時、私は恋を知り始めた年頃の高校1年生で、今までにない自分に近い歌謡曲だと感じたものだった。つまり、思春期の観念的な恋心に響いたのだった。

 この歌とほゞ同時期に発売された、仲宗根美樹の「川は流れる」(作詞:横井弘、作曲:桜田誠一)に通じるものがある。「川は流れる」も失恋の歌で、印象派の絵画を思わせる。
 「病葉を、今日も浮かべて、街の谷、川は流れる、ささやかな、望み破れて……」
 出だしの「病葉」を「わくらば」と歌わせるところに、この歌の妙がある。これが「枯葉」か「落葉」だったら、歌の持つ味わいは薄れていただろう。
 そして、この「川は流れる」は、翌年発売の吉永小百合の「寒い朝」より早い時期であったのをみると、女性の青春歌謡の先駆けといえるかもしれない。

 翌1962年、「湖愁」は映画化もされている。「湖愁」(監督:田畠恒男、出演:瑳峨三智子、鰐淵晴子、松島アキラ、松竹)。記憶にないところをみると、青春映画が得意ではない松竹だったからか。あるいは、佐賀の田舎の映画館には配給されなかったのかもしれない。
 「湖愁」のあとの松島のヒット曲、「あゝ青春に花よ咲け」(作詞:宮川哲夫、作曲:渡久地政信)は、まさに青春を真っ向から歌ったものである。
 松島アキラは、デビューするやすぐさまアイドル的人気になって、その当時ペットとして人気の高かった白い犬の「スピッツ」の愛称で親しまれた。

 この松島アキラの登場によって、同じビクターの橋幸夫および橋の作詞・作曲を担っていた佐伯孝夫、吉田正が青春歌謡を意識し、「江梨子」の誕生に繋がったのではと、勝手に深読みするのである。

 *忘れないさ、北原謙二

 当時、もう一人青春歌謡の匂いがする歌手がいた。
 1961年デビューした北原謙二で、「忘れないさ」(作詞:三浦康照、作曲:山路進一)を歌っていた。鼻に抜けた高い声が、清々しい印象を与えた。
 1962年5月、北原が歌った「若いふたり」(作詞:杉本夜詩美、作曲:遠藤実)は、もう青春歌謡の王道である。
 「君には君の夢があり、僕には僕の夢がある、ふたりの夢をよせあえば、そよ風甘い春の丘……」
 北原の「若い二人」は、橋幸夫の「江梨子」、吉永小百合の「寒い朝」と、ほぼ同時期に流れていた。私の高校1年生から2年生になった頃だった。
 それから約1年後、舟木一夫の「高校三年生」が登場したのだった。
 北原謙二はその後、「初恋は美しくまた悲し」(作詞:三浦康照、作曲:市川昭介)や「ふるさとのはなしをしよう」(作詞:伊野上のぼる、作曲:キダ・タロー)などの、清々しい曲を出している。
 北原謙二も、忘れはしないさ。

 *

 このように、1960年代、青春歌謡は花開いていった。
 こうして振り返ってみれば、当時は作曲家はレコード会社と専属契約であった。そのことからも、御三家である、ビクターの橋幸夫は吉田正門下、コロムビアの舟木一夫は遠藤実門下、クラウンの西郷輝彦は北原じゅん門下であった。
 このことからも、青春歌謡は吉田正、遠藤実、北原じゅん、それに米山正夫などが牽引していったことがわかる。
 そして、次の来たる歌謡曲の黄金時代を担う、すぎやまこういち、筒美京平、鈴木邦彦、川口真、都倉俊一などへと繋がっていくのであった。

 (写真は、松島アキラ、デビュー盤「湖愁」、吉永小百合、デビュー盤「寒い朝」)
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