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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

青春歌謡、御三家の時代① 西郷輝彦、星空に消ゆ…

2022-08-11 03:04:22 | 歌/音楽
 *1964年の出来事

 1964(昭和39)年という年は、格別な年であった。
 戦後、高度の経済成長を成し続けていた日本は、この年開催される東洋初の東京でのオリンピックをバネにした経済成長のピークを迎えていた。
 東京オリンピックは成功裏に終え、それにあわせて稼働させた東海道新幹線、首都高速道路は、その後の社会の加速度化の原動力として不可欠の手段となる。
 米ソの冷戦が続く世界の状勢では、ベトナム戦争の端緒が切って落とされた。
 欧米で人気となっていたビートルズの、初めての日本版のレコードが発売された。
 日本の歌謡界では、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家を中心とした青春歌謡が最盛期を迎えていた。

 *
 1964(昭和39)年4月、私は大学入学のため九州・佐賀から上京した。
 まずは部屋を探すことになるが、まかない(夕食)付きの下宿と決めて、大学の紹介で探した。当時は(今は知らないが)、学校でアパート・下宿、アルバイトなどを紹介していた。
 食事つきの下宿にしようと思ったのは、高校時代の日活映画の「赤い蕾と白い花」「泥だらけの純情」「青い山脈」など、石坂洋次郎の原作に負う影響である(「泥だらけの純情」は藤原審爾原作)。
 そこは、下宿を営む普通の家庭で、料理をまかなう家の女将(奥)さんは適当にさばけていて、その主人(亭主)は無口だが人のいいサラリーマンで、その家には年頃の娘(大学生か高校上学年生)がいる。その下宿屋の家族との屈託のない団らん、その家の年頃の娘との喧嘩を交えた淡い交流……。
 「そんな考えは不潔だと思うわ…」と、吉永小百合か和泉雅子風の娘は言う。「そうかなあ…」と、私はうつむきがてらに反論するようにつぶやく。
 私の妄想は果てしない。

 大学の紹介で、豊島園駅(高田馬場から西武線)近くの、まかない付き下宿を決めた。部屋は、当時の学生の平均的部屋住まいである4畳半一間である。
 そこは、2階建ての普通の新しい家で、1階に大家さん一家が住んでいて、2階に私を含め4部屋に、大学生(1人社会人)が下宿していた。
 大家の家族には、私の思った通り一人、娘がいた。それも、1学年下となる高校3年生であった。
 しかし、階下におかれた食膳を自分の部屋に持っていき一人で食べるシステムで、当然のことだが一家団らんを知ることもなく、大家のおばさんは楠侑子か渡辺美佐子風ではなく、箒に跨れば魔女みたいな雰囲気の、不愛想な人だった。娘もその影響か、細面の美人顔ではあったが愛嬌がなく、話すこともなかった。言っておくが、彼女が話さなかったのは私とだけではなく、下宿している誰とでもであった。

 お互いの顔も覚えたまだ春の頃、外で彼女と偶然出会い、一度声を交わしたことがある。
 そのとき、彼女が「西郷輝彦が好きです」と言ったのを今でも覚えている。好きな歌手は誰ですか?とでも訊いたのだろうか。
 私はそのとき初めてその名前を聞いたのだが、またたく間にデビュー間もない西郷輝彦の名前と「君だけを」の歌が、ラジオからテレビからと流れるようになった。若い弾むような声に、ちょっぴり哀愁が潜んでいた。
 ※ちなみに、豊島園のまかない付き下宿は、食事(夕食)の門限が20時と早いのもあり、自由を知った私は、半年後にその下宿をやめて越したのだった。

 *西郷輝彦のデビューで、御三家が誕生!

 西郷輝彦。1947〈昭和22〉年、鹿児島県谷山町(現・鹿児島市)出身。
 1964(昭和39)年2月、「君だけを」(作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)でクラウンよりデビュー。
 「チャペルに続く白い道」、「星空のあいつ」、4枚目のシングル「十七才のこの胸に」(以上いずれも作詞:水島哲、作曲:北原じゅん)およびデビュー曲「君だけを」の両曲で、その年の第6回日本レコード大賞新人賞を受賞。
 同年「十七才のこの胸に」(監督:鷹森立一、西郷輝彦、本間千代子、東映)で映画デビューし、スター歌手の地位を不動のものとした。
 先にスター歌手として活動していた橋幸夫、舟木一夫とともに、のちに歌謡界の「御三家」と呼ばれる。

 西郷輝彦は、翌1965年に浜口庫之助作詞・作曲によるリズムカルな「星娘」、それに続く「星のフラメンコ」「願い星、叶え星」と星の3部作をヒットさせる。
 他に「星空のあいつ」や「星と俺とできめたんだ」など、思えば、星の似合う歌手だった。
 その間、「涙になりたい」(作詞:杉本好美、作曲:北原じゅん)、「僕だけの君」(作詞:星野哲郎、作曲:北原じゅん)、「初恋によろしく」(作詞:星野哲郎、作曲:米山正夫)と、甘く切ない青春を歌った。
 1967年の「潮風が吹きぬける町」(作詞:奥野椰子夫、作曲:米山正夫)は抒情的な曲で、個人的には好きな曲だ。
 このあと、ロック調の激しさのある曲に路線を変えたように思う。

 西郷輝彦は、我修院建吾、銀川晶子、五代けんなどの名で、作詞、作曲をするなど、多才さを発揮した。
 しかし、1973年の「どてらい男(ヤツ)」以降、ドラマに重点を置き、歌から遠ざかったのは個人的には残念な思いであった。私は、西郷輝彦の歌が好きだった。

 今年、2022年2月20日逝去。享年75。
 青春歌謡、御三家の一角が消えた。

 *青春歌謡のトップランナー、橋幸夫

 橋幸夫。1943(昭和18)年、東京都荒川区出身。
 1960(昭和35)年、17歳の時、「潮来笠」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)でビクターからデビュー。
 青春歌謡の全盛期を築いた御三家の先頭ランナーであるが、デビュー曲は演歌である。
 とはいえ、デビュー盤のジャケットは、イラストで股旅姿が描かれてはいるが、橋は着物姿でなく背広姿であるのが、その後の彼を象徴している。歌いっぷりも若々しく、それまでの演歌、股旅調とは一線を画していた。
 そして、同曲で日本レコード大賞新人賞を受賞した。
 その後、「おけさ唄えば」や「南海の美少年」など、それなりのヒットをとばしていた橋幸夫が青春歌謡に踏み入れたのは、1962(昭和37)年1月の「江梨子」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)からであろう。
 悲恋を歌ったこの曲で、それまでの着流しあるいは背広スタイルから一変して学生服で歌った。舟木一夫が「高校三年生」で学生服でデビューしたのが1963(昭和38)年6月であるから、1年半も早い。
 このとき同名の映画「江梨子」(監督:木村恵吾、橋幸夫、三条魔子、大映)も上映され、当時高校1年だった私は、街に貼られた詰襟姿の橋と三条魔子の寄り添う映画ポスターを見つめながら学校へ行ったものである。
 共演した三条魔子は、この映画のヒットを受け芸名を三条江梨子に改名。のちに、日活の浜田光夫とのデュエット曲「草笛を吹こうよ」がヒットしている。

 1961年、当時青春映画の女性のトップ・スターだった吉永小百合が、作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正のコンビによる「寒い朝」で、ビクターから歌手デビュー。
 1962年、橋幸夫は「江梨子」のあと、同作詞作曲コンビによる吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」を大ヒットさせ、この曲によりこの年のレコード大賞を受賞。このあとも、同じく吉永とのデュエット曲「若い東京の屋根の下」をヒットさせ、押しも押されもせぬ青春歌謡のリーダーとなった。
 そして、「白い制服」「赤いブラウス」など、青春歌謡の正道を歌いこむ。

 その後、橋は「恋をするなら」「チェッチェッチェッ」「あの娘と僕」など、新しくリズム歌謡を取りこんでいく。

 *学園ソングのブームを起こした、舟木一夫

 舟木一夫。1944(昭和19)年、愛知県一宮市出身。
 1963(昭和38)年、「高校三年生」(作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実)でコロムビアからデビュー。高校3年生という限定した年代を歌うという、画期的な歌謡曲であった。
 舟木一夫の前髪を額に流し学生服で歌うこの曲は、年代・世代を超えて歌われ大ヒット。続く「学園広場」(作詞:関沢新一、作曲:遠藤実)、「仲間たち」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実)などの学園ソングで、舟木は新しい音楽シーンを作ったのだった。
 この年、舟木はレコード大賞新人賞を受賞し、映画「高校三年生」(監督:井上芳夫、舟木一夫、倉石功、姿美千子、高田美和、大映)も封切られた。

 *
 「赤い夕日が校舎をそめて、ニレの木陰に弾む声…」と始まる「高校三年生」。その2番では「…あ~あ、高校三年生、ぼくらフォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ黒髪が…」と続く。
 この舟木の「高校三年生」が流れ出てきたとき、私はまさに高校3年生であった。この年、体育祭で初めて実施されたフォークダンスで、初めて同級生の手をとったのだった。まるで、ぼくたちのための歌のようで、くすぐったい思いだった。

 舟木一夫は、その後も、「あゝ青春の胸の血は」「花咲く乙女たち」「北国の街」「東京は恋する」「哀愁の夜」など、青春歌謡の王道を歩いていく。

 *

 橋幸夫が青春歌謡の先頭を走り、舟木一夫が学園ソングで新しい大河を作り、西郷輝彦の合流によって広がりを見せた青春歌謡は、1960年代、御三家という花形を中心に大きく花開いたのだった。

 (写真:御三家のデビュー盤、左より、橋幸夫「潮来笠」、舟木一夫「高校三年生」、西郷輝彦「君だけを」)

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「ラ・ボエーム」は、オペラで? 映画で? シャンソンで?

2021-06-29 01:07:19 | 歌/音楽
 「ラ・ボエーム」(La Bohème:オーストリア・ドイツ合作映画、2008年)を観た。
 ジャコモ・プッチーニのオペラを映画化した作品である。
 その元は、アンリ・ミュルジェールの小説・戯曲「ボヘミアン生活の情景」(Scènes de la vie de bohème)(1849年)である。
 ボヘミアンとは、本来はボヘミア地方(現在のチェコ)に住むボヘミア人という意味であるが、主にロマ(ジプシー)を指す場合もあった。その後、自由で奔放な生活を送る貧しい若者、とりわけ芸術家志向の若者を称するようになった。

 舞台は19世紀のパリ。物語は、屋根裏部屋に住む貧しい芸術家志望の若者たちの生活、恋愛模様を描いたものである。
 主な登場人物は、詩人(の卵)、ロドルフォ( ローランド・ビリャソン)。
 お針子の、ミミ(アンナ・ネトレプコ)。
 画家(の卵)の、マルチェッロ(ジョージ・フォン・ベルゲン)。
 マルチェッロの恋人、ムゼッタ(ニコル・キャベル)。

 映画は劇場の舞台ではなく実際のロケでの撮影で、出演者は実際のオペラ歌手である。つまり、オペラを映画で楽しめる。

 *舞台の一場面、歌の台詞

 「ラ・ボエーム」は、大まかなあらすじを知っていたのと、その何曲かのアリアを劇場で聴いたことがあったが、実際のオペラは観たことはなかった。
 物語は、パリに住む芸術家志望の若者たち、そのなかの、詩人の卵のロドルフォとお針子のミミの出会いと、ミミの死という悲恋を中心とした恋物語である。
 全編、普通の話し言葉による台詞はなく、歌うことで語られる、いわばオペラである。
 心に残ったところ、言葉を記してみよう。

 ――ミミとロドルフォとが出会った場面での、ミミの言葉(歌)。
 人は私をミミと呼びます。でも、私の名はルチーアです
 私の話は短いですわ
 家や外で布や絹に刺しゅうをしています
 私は平穏で幸せです
 楽しみはユリやバラを育てること
 好きなものは、甘い魅力を持っているもの
 愛や春を語ったり、夢や幻想を語ってくれるもの
       (私の名はミミ)

 ミミの重い病気を知り、自分が身を引いた方がミミのためにいいと、別れを決意するロドルフォ。それを知ったミミは悲しみにくれる。一方、ロドルフォの友人、画家のマルチェッロも恋人ムゼッタと仲たがいになる。
 ――雪の降る街角で
 抱きあい、泣き顔で別れるロドルフォとミミに対し、ムゼッタとマルチェッロの恋人同士の喧嘩別れは清々しい。
 Mu(ムゼッタ):そんな恋人は大嫌い。恋人のくせに亭主づらなんて!
 Ma(マルチェッロ);軽薄な尻軽女め。 
 Mu:そうです。好きな人と愛を楽しみます。
 Ma;どうぞご出発を。おかげでお金持ちですよ。
 Mu & Ma: では、ごきげんよう。
 Mu:ご主人様、さようなら。喜んでお別れを申し上げます。
 ――二人、背を向け歩き出す。
 Mu:三流画家!
 Ma;毒ヘビ!
 Mu:カエル!
 Ma; 魔女!

 *シャルル・アズナヴールの「ラ・ボエーム」
 
 「ラ・ボエーム」というと、僕はどうしても彼自身の作曲によるシャルル・アズナヴールの歌を思わずにはいられない。
 若いとき、シャンソンを好きになった曲である。
 内容は、プッチーニの「ラ・ボエーム」のボヘミアンの男性が、年をとり、若いときに住んだモンマルトルの街角にやってきて、遠い青春を回顧する物語になっている。
 アルマニア系のアズナブールには、若いときパリでは異邦人、ボヘミアンの感覚があったのではなかろうか。
 曲は4章節になっていて、長さは4分を超え、歌詞は全編にわたり韻に富んでいて美しい。
 一部を紹介してみよう。

 ぼくは話そう
 二十歳にならない人たちには
 わからない時代のことを
 Je vous parle d'un temps
 que les moins de vingt ans
 ne peuvent pas connaitre

 ラ・ボエーム
 それは君がきれいだってことさ
 ラ・ボエーム
 ぼくたちはみんな才能に溢れていた
 La bohème,
 ça voulait dire tu es jolie
 La bohème,
 et nous avions tous du genie

 ある日ふらりと 僕はやって来た
 昔の住みかあたりを見に
 僕の青春を知っている あの壁も通りももうみつからない
 Quand au hasard des jours
 je m'en vais faire un tour
 a mon ancienne adresse.
 Je ne reconnais plus,
 ni les murs ni les rues
 qui ont vu ma jeunesse

 ラ・ボエーム
 昔は若くて、愚かにも血気にはやっていたものだ
 ラ・ボエーム
 その言葉は、今はもう何の意味もない
 La bohème,
 on etait jeunes on etait fous
 La bohème,
 ça ne veut plus rien dire du tout

 ――La Bohème「ラ・ボエーム」(ジャック・プラント作詞、シャルル・アズナヴール作曲)
 (写真は、レコード・アルバム「シャルル・アズナヴール・ゴールデン・プライズ」(キングレコード)の裏表紙)
 
 ロマ(ジプシー)音楽を奏でるハンガリー出身のヴァイオリニスト、ロビー・ラカトシュは、CD「ラカトシュ 超絶ヴァイオリン弾き」で、アズナブールの「ラ・ボエーム」を入れている。
 
 *

 若いときは、ボヘミアンに憧れた。
 さすらい人、デラシネ、根無し草、流浪、渡り鳥…楽器一つ持って知らない街へ流れていく……
 ラ・ボエーム……今は、もう何の意味もない。

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なかにし礼の世界② 歌作りの源流、「それからのわたし」

2021-01-27 03:15:28 | 歌/音楽
 *作詞家を愛した一人の女性

 なかにし礼(本名中西禮三)は後半に小説も書いたが、何といっても歌謡曲の作詞家である。歌謡曲のなかに文学の風を持ち込んだ特別な作詞家だと、私は思っている。
 なかにし礼の歌作りの出発点は、立教大の学生時代に、シャンソン喫茶「ジロー」でのアルバイトがきっかけで始めたシャンソンの訳詞からである。
 なかにし礼の結婚は、作詞家全盛時の1971(昭和46)年に、デビューしたての新人歌手の石田ゆりとの結婚が有名で、ヒットメーカーの作詞家と新人歌手との結婚ということで当時週刊誌を賑わした。石田ゆりは、「ブルーライトヨコハマ」(1968年)の大ヒットで有名歌手だったいしだあゆみの妹で、なかにし礼と婚約した時はまだ18歳だった。
 なかにし礼は、それ以前、まだ無名の頃一度結婚している。
 当時誰にでも知られ盛大に行われた石田ゆりとの結婚は、なかにし礼にとっては二度目の結婚だった。この石田ゆりとの結婚に比べ、最初の結婚はあまり知られていない。

 去年2020(令和2)年の12月、なかにし礼が他界した際、私は彼を偲び「なかにし礼の世界①」で、好きだった彼の歌「歌謡曲 私的BEST10」を書いた。そのとき、なかにし礼と最初に結婚した女性が本を出版していることを知った。
 その本は「それからのわたし」という題で、(語り)清水秀子、(文)高山文彦、(出版)飛鳥新社、2004年出版である。

 *波乱の人生、「それからのわたし」

 その人は、清水秀子という名の人であった。タイトルの「それから…」の意味するところは、なかにし礼と別れてから、という意味である。
 彼女が語ったのを、大宅壮一ノンフィクション賞作家の高山文彦が本として書いたものである。
 芸能人や政治家などの有名人では、話を聞いて名前が出ないゴーストライターが書くという本は多々あるが、ちゃんと書き手の名前を出したものとして、山口淑子・藤原作弥「李香蘭 私の半生」がある。書き手の名を出すことで、内容への責任と自負が表れている。

 「彼女」が、学生でシャンソンの訳詞をしているなかにし礼と結婚したのは1963(昭和38)年で、なかにし礼25歳、彼女23歳であった。
 1966(昭和41)年に長女誕生。そして、1968(昭和43)年に離婚している。
 彼女は、それから、単身アメリカに渡り、本が出版された2004(平成12)年時、ハワイに住んでいる。なかにし礼との間に生まれた娘は、彼女がアメリカに渡った当初は日本の養父母の家で育てられていたが、娘が12歳のときアメリカに引き取り、その後一人で育てた。
 こう大筋を書いただけでも、彼女の波乱に満ちた人生が想像できる。

 *なかにし礼の、鏡の向こうの青春

 「それからのわたし」は、清水秀子という一人の女性が精いっぱい生きた、「女の人生」が描かれている。そして、なかにし礼との出会いと別れが。
 「彼女」は高校を卒業すると、知り合いの人の会社に勤めるが、すぐにそこをやめて帝国ホテルのグリルのウェイトレスとして働く。ここから彼女の人生が展開していく。
 帝国ホテルに客といて来ていた実業家、安宅産業の御曹司の安宅照弥や、東洋郵船の横井英樹に声を掛けられ、彼女の知らない世界を垣間見ることになり、新しい世界に足を踏み入れる。
 その後、モデル事務所SOSのモデルになり、新聞・雑誌の広告やテレビCMのキャラクターモデルとして活動する。羽振りがよかったのだろう、その当時、彼女は黄色いルノーに乗っていた。

 そして、お茶の水にあったシャンソン喫茶「ジロー」でなかにし礼と出会う。なかにし礼は立教大の学生で、アルバイトでシャンソンの訳詞をやっていた。
 知りあって半年後の1963(昭和38)年、二人は結婚。彼女、22歳。なかにし礼、25歳。
 二人が行った新婚旅行先の伊豆・下田東急ホテルには、堀江謙一をモデルとした「太平洋ひとりぼっち」の映画撮影のために石原裕次郎が来ていた。
 バーのカウンターで石原プロモーションの中井専務と飲んでいた石原に、二人は手招きで呼ばれる。そこで、君ら新婚かい、どんな仕事をしているのという話から、シャンソンの訳詞なんかしているより日本の歌の方が…、といった話を石原にされる。
 そのことがきっかけで、なかにし礼は、歌謡曲を書くことになる。
 そして、約1年後にできたのが、なかにし礼作詞・作曲の「涙と雨にぬれて」である。歌を吹き込んだテープを石原プロに持っていくが、すぐには返事がもらえず曲は預かられたままだった。

 *恋にまみれて、なかにし礼作詞家として一気に頂点へ

 シャンソンの訳詞をしていた延長上で、なかにし礼は、菅原洋一が歌う歌の訳詞を頼まれる。A 面は、エンリコ・マシアスのシャンソン「恋心(L'amour, c’est pour rien)」で、B面は「たそがれのワルツ」という題ですでに菅原が歌っていた英語版「I really don't want to know」を新しい詞にするというものだった。それが、「知りたくないの」という曲になった。
 「あなたの過去など知りたくないの……」という歌は、彼女がなかにし礼に口癖のように繰り返していた言葉で、そのまま歌になっていた。
 レコードは1965(昭和40)年発売され、競作だったA面の「恋心」は、永田文夫訳詞の岸洋子版や越路吹雪版はヒットしたものの、菅原洋一の曲はまったく反応がなかった。

 なかにし礼と彼女の結婚生活は順風満帆とはいかなかった。生活費にまつわる経済問題、なかにしの女性問題、将来のことなど、諍いが絶えない。
 中絶、流産の後、1966(昭和41)年、娘誕生。彼女は子育てのため仕事を休むことになり、車も売り生活は困窮していく。

 発売当初はまったく反応がなかった菅原洋一の曲だったが、菅原が「知りたくないの」に絞って歌い続けた努力もあって次第に知れ渡っていく。
 さらに、その反応もあって石原プロに預けてあった「涙と雨にぬれて」が、1966(昭和41)年、裕圭子とロス・インディオス、そして田代美代子&和田弘とマヒナスターズの競作という形でレコード化される。
 この「涙と雨にぬれて」が、なかにし礼の初のヒット曲となる。

 ヒビが入ったなかにし礼と彼女の間は、次第に悪化の一途をたどっていく。
 そんな時の1967(昭和42)年に書かれたのが、「今日でお別れね、もう逢えない…」という出だしの曲、菅原洋一の「今日でお別れ」であった。この歌は、後の1969年末に再発売され、1970年度のレコード大賞となるなど大ヒットし、菅原洋一の代表曲となる。

 売れだしたなかにし礼が赤坂のマンションに事務所を構えていることを知った彼女は、その部屋に突然行ってみた。そこは、事務所というより女性が暮らしている部屋のようだった。彼女は、そこにいる女性となかにしがいる前で、部屋の家具類や窓ガラスを思いきり壊して出ていく。
 二人の関係は修復不可能となり、ついに離婚調停に到る。
 その頃、なかにし礼ものちに自作「夜の歌」で書いているが、なかにしは銀座のクラブのママ田村順子と恋人関係にあった。
 1968(昭和43)年12月、正式離婚。
 翌年、やつれはてた彼女のアパートに、すでに売れっ子になっていたなかにし礼がひょっこりやって来た。部屋には、娘に買ってあげた人形が埃をかぶったまま転がっていた。彼女は打ちひしがれる。
 1969(昭和44)年、巷から弘田三枝子の歌う「人形の家」が流れだし、彼女の心を苦しめた。

 *ヒット曲の底流にある、彼女との恋

 なかにし礼の主なヒット曲を、年代をおって見てみよう。
・1966(昭和41)年
 「涙と雨に濡れて」(裕圭子とロス・インディオス、田代美代子&和田弘とマヒナスターズ)
・1967(昭和42)年
 「恋のハレルヤ」「霧のかなたに」(黛ジュン)、「知りたくないの」(菅原洋一)、「恋のフーガ」(ザ・ピーナツ)
・1968(昭和43)年
 「天使の誘惑」「夕月」(黛ジュン)、「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ)、「いとしのジザベル」(ザ・ゴールデンカップス)、「愛のさざなみ」(島倉千代子)
・1969(昭和44)年
 「人形の家」(弘田三枝子)、「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「夜と朝のあいだに」(ピーター)、「君は心の妻だから」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)
・1970(昭和45)年
 「あなたならどうする」(いしだあゆみ)、「手紙」(由紀さおり)、「雨がやんだら」(朝丘雪路)、「今日でお別れ」(菅原洋一)
・1975(昭和50)年
「石狩挽歌」(北原ミレイ)、「こころのこり」(細川たかし)
・1982(昭和57)年
「北酒場」(細川たかし)
・1985(昭和60)年
「まつり」(北島三郎)

 なかにし礼は、シャンソンの訳詞も含めると約4000曲もの歌を書いたという。彼の特徴は、女性の気持ちを歌った恋の歌だと思う。
 こうしてみると、今も残るヒット曲の多くは、特に恋の歌は1970(昭和45)年までに集中している。1970代の後半以降は、文学的な「石狩挽歌」を除いて演歌風が多い。
 なかにし礼は、1963年に彼女と結婚してから1968年に離婚するまで、恋の燃焼と消滅、その間の男と女の修羅場を体験した。そのときの体験が歌作りの骨格となり感性の養分になったとするのは想像に難くなく、他の多くの芸術作品の例をひくまでもないだろう。
 その土台となった恋の物語とエゴイズムは、「それからのわたし」のなかで、彼女からの一方向性であれ随所に描かれていた。それは、今まで見ていたなかにし礼のカードの、あるいはコインの、見ていなかった裏を返して見るようだった。
 なかにし礼と別れたあと、彼女はアメリカに行った動機について自著のなかで、「ただ、礼が私の魂を蛭(ひる)のように吸い取って創り上げた流行歌の聞こえない場所に行きたかった」と述べている。

 1970年になかにし礼は、石田ゆりと二度目の結婚をする。
 1971年以降、恋の歌のヒット曲が減少したのは、金も名誉も得、さらに幸せな家庭を築いた彼のなかから、男と女の軋轢から生まれる微妙で複雑な、胸を刺すような恋の言葉が生まれ難くなったのではないかと想像する。
 とはいえ、彼のなかでは歌作りの魂は消えることはなかった。

 *あいつは髪の毛ふり乱し、涙をいっぱい目にためて……

 1977(昭和52)年、なかにし礼は、フォーライフ・レコードの吉田拓郎の依頼で、全て作詞・作曲、そして自分で歌った、「時には娼婦のように」を含めたアルバム「マッチ箱の火事」を出す。
 このアルバムこそ、なかにし礼が己の魂を注ぎ込んだ曲はないだろう。
 当時のやさしさに包まれたフォーク系のニューミュージックに対する抗いと同時に、ぬくもりに包まれた家庭からの精神的脱却の意図があったのかもしれない。
 アルバム掉尾を飾る「ハルピン1945年」は、彼の永遠ともいえる満州への憧憬を歌ったものだが、他のほとんどが男と女の関係を、短編恋愛小説のように歌に閉じ込めたものである。
 第二の結婚後、心底に沈殿していた若かりし日の恋の傷の澱が、マグマのように溢れ出た感じで、誰かこんな歌を書いてみなと言わんばかりの、挑発的で歌謡曲としては画期的な歌が並ぶ。

 たとえは、このような歌である。
 見出し文に書いた、「あいつは髪の毛ふり乱し、涙をいっぱい目にためて…」は、男女の修羅場が情景として浮かぶ、「白い靴」の冒頭の台詞である。
 表題作の「マッチ箱の火事」では、「俺が他の女と一緒にいるところを、お前に見られたあのときほど、驚いたことはないね…」とドラマチックな出だしで、これも男女の大火事の情景だ。
 「猫につけた鈴の音」は、歌には不相応なまでの、「あなたの子どもができたと君は言った、きびしい冗談はよせよと僕は言った…」という出だしで始まる、極めてシリアスな内容だ。
 若かりしときの愛の修羅場、失われた恋のむき出しを再現したかのようである。
 アルバム発売から40余年。
 発売当時からこのアルバムに対する私の高評価と好感度は変わらないが、ここに描かれた曲の多くが、彼女との愛と別れを根源としていると感じさせられたのは、彼女の「それからのわたし」を読んだからだ。
 愛と諍いの嵐の中の男と女。ここを源流に、文学の風をおびた歌謡曲が生まれた。

 *それからの彼女…

 それから……
 つまり、なかにし礼と別れた彼女は娘を実家に預け、一人で歩くことを始める。
 1970(昭和45)年1月、知りあったアメリカ人のつてで単身アメリカに渡り、最初はカリフォルニア州バークレーの語学学校に通うが、すぐにニューヨークに行く。そこで語学学校のあと、目的だった美容学校へ通い、美容とメイクアップの資格を取得し、ニューヨークで本格的に美容の仕事を始める。
 1978(昭和53)年、正式に娘をニューヨークに呼び寄せる。娘は大学卒業後、日本の企業に就職し、日本人男性と結婚し、日本に住んでいる。
 彼女はその後も、ニューヨークで、一人でキャリアウーマンとして仕事を続けていく。そして、何度かの癌を乗り越えながら仕事を続けていたが、2001(平成13)年、勤めていた会社を退職し、安らぎの地として選んだハワイに移り住む。
 2004(平成16)年、「それからのわたし」出版。

 なお、なかにし礼は、1989(平成1)年、自伝「翔べ!わが想いよ」出版。
 2020(令和2)年12月23日、なかにし礼は翔びたった。

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なかにし礼の世界① 歌謡曲 私的BEST 10

2020-12-31 23:59:25 | 歌/音楽
 *なかにし礼のなかの異邦人

 あの日からハルピンは消えた
 あの日から満州も消えた……

 作詞家、なかにし礼が去る2020(令和2)年12月23日他界した。享年82。人生後半は、小説にも情熱を入れた作家でもあった。
 なかにし礼は1938(昭和13)年、旧満州国の牡丹江市生まれ。ハルピンで敗戦を迎え1946(昭和21)年、日本に引き揚げ帰国した。
 1966(昭和41)年、「涙と雨にぬれて」で作詞家デビューしたあとは、数々のヒット曲を生み出し、時代の寵児となり多くの浮名を流した。映画も自作自演で撮り、小説を書いては直木賞を受賞した。
 自分に忠実で喜怒哀楽を隠すことなく出した、とても人間臭い愛すべき人間といえた。

 最初に挙げた文は、1977(昭和52)年、なかにし礼が作詞・作曲し自身で歌った曲のアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ)のなかの1曲、「ハルピン1945年」の詞の冒頭の1節である。
 この歌は、次にこう引き継がれる。

 幾年時はうつれど
 忘れ得ぬ 幻のふるさとよ

 なかにし礼にとって満州は、忘れようとも忘れられない傷跡とともに、自己形成の根幹ともなった。彼にとっての幻のふるさとは、終戦後旧満州生まれで何の記憶も残ってはいない私にも、共有できる思いが伏流水のように心底に漂っている。五木寛之がいうところの、デラシネのスピリットが心の奥にある。
 歌の詞は、さらにこう語る。

 私の死に場所はあの街だろう
 私が眠るのもあの地だろう

 私はなかにし礼に2度会ったことがある。
 彼に会いたいがために、婦人雑誌編集者時代の1991年、モーツアルト没後200年ということで「モーツアルトの快楽」という企画をたて、彼にインタビューした。彼はクラシックの愛好家でもあるのを知っていた。
 そして次に会ったのは、2007年、シャルル・アズナブールの公演時の東京国際フォーラムホールの会場で、偶然出くわした。歌謡曲の作詞家として名を売る前は、彼はシャンソンの訳詞をしていた。おそらくアズナブールが好きだっただろうし、公演を見終ったあとの会場では彼はにこやかだった。
 目が合ったとき、私を覚えてくれていたのかニコッと頬を崩した笑みが返ってきた。そのときは彼には同伴者がいて軽い会釈の挨拶だけで終わったが、それが彼を見た最後だった。
 それだけだったが、それで充分だった。

 なかにし礼は、自己の体験を基に満州を舞台にした小説をいくつか生み出している。それに関連して、私は過去いくつか書き残した。
 *なかにし礼の満州の残照、「夜の歌」(blog 2017-10-29)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201710
 *なかにし礼と「赤い月」(blog 2007-01-27)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/200701
 *恋愛と映画(読書)と旅が、「人生の教科書」(blog 2012-10-22)
 https://blog.goo.ne.jp/ocadeau3/m/201210

 *歌謡曲に文学の風を吹き込んだ、なかにし礼

 何といってもまず、先に紹介した「ハルピン1945年」が入っている、なかにし礼が作詞・作曲し自身で歌ったアルバム「マッチ箱の火事」(フォーライフ、1977年)をあげねばならない。
 当時フォーライフの社長だった吉田拓郎の要請で作ったというこのアルバムは、ふだんテレビで歌われているような歌謡曲とは一線を画した、画期的な作品である。当時台頭してきたニューミュージック界の水彩画的で内向的な歌に対する反感、挑発からこのアルバムは生まれたという。
 エンターテインメントを排除した、なかにし礼の個人的な歌作りの希求と快楽から生まれた、最も彼自身を表現した曲だといえる。
 「ハルピン1945年」を除いて、男のわがままで哀しい恋のエゴイズムを歌った曲は恋愛小説を暗示させ、小説でいえば、純文学的私小説といえようか。
 例えば、表題作の「マッチ箱の火事」は、「俺が他の女と一緒にいるところを、お前に見られたあのときほど、驚いたことはないね…」という歌謡曲らしからぬ出だしである。歌い手の彼は、女同士の諍いを見ながら、「たかがマッチ箱の火事さ…」とうそぶく。
 「白い靴」では、「あいつは髪の毛ふり乱し、涙をいっぱい目にためて…」という、いきなりドラマチックな出だしだ。
 このアルバムは、シングル・カットされた「時には娼婦のように」が入ったA・B面併せて12曲なので、なかにし礼作のBEST10をあげるとすると、このアルバムの曲だけで十分なのだが、以下にあげることにするが、やはりBEST10となるとシングル盤となったものとしよう。
 ちなみに、なかにし礼の作詞・作曲で自身が歌ったアルバムとして、「マッチ箱の火事」の第2段ともいえる「黒いキャンバス」(東芝EMI、1979年)も発売した。
 (写真、左「黒いキャンバス」、右「マッチ箱の火事」)

 *なかにし礼作詞の、私的BEST 10

<1>「涙と雨に濡れて」裕圭子とロス・インディオス、田代美代子とマヒナ・スターズ、(作曲:なかにし礼、1966年)
 涙と雨にぬれて、泣いて別れた二人……なかにし礼の、歌謡界でのデビュー曲である。それまでシャンソンの訳詞をしていたが、この曲から歌謡界に躍りでる記念すべき特別な曲といえる。
 なかにし礼、最初の結婚の新婚旅行先のこと。伊豆下田のホテルのバーで、たまたま来ていた石原裕次郎に会う。興味を持たれた石原に、シャンソンの訳詞なんかより歌謡曲を書きなよと言われて、約1年後に石原プロに持参したのがこの曲である。
 曲も自分で作り、作詞・作曲のデビュー作となった。メロディーもシンプルだが、哀愁を持った初々しさのある曲だ。石原裕次郎自身が歌ったら、大ヒットしたかもしれない。その後ヒットメーカーになったなかにし礼は、裕次郎のために多くの作品を書くが目を見張るヒット作は生まれなかった。

<2>「時には娼婦のように」なかにし礼、黒沢年男、(作曲:なかにし礼、1978年)
 なかにし礼による作詞・作曲・歌のアルバム「マッチ箱の火事」のなかのシングル・カットで、アルバムに先駆けて作られた。なかにし礼本人版と黒沢年男版との競作とした。
 なかにし礼言うところの「去勢されたような声を出して歌っていた」当時台頭するニューミュージック界の歌手に対するアンチテーゼとしてか、猥褻ともとれるエロティシズム溢れる内容は、歌謡曲にいかがわしい文学の世界を持ち込んだ画期的作品といえる。谷崎潤一郎か、はたまた吉行淳之介の小世界である。
 最初作品を見てレコード会社も危惧したというが、よく発売禁止にならなかったと思うし、それどころかカラオケでも歌われるように一般に受け入れられたのも意外であった。

<3>「恋のハレルヤ」黛ジュン、(作曲:鈴木邦彦、1967年)
 なかにし礼を歌謡界のメジャー作詞家に押し上げたのは、この黛ジュンの歌だろう。その後のヒット作、「霧のかなたに」、「天使の誘惑」(1968年、第10回日本レコード大賞受賞)、「夕月」のどれをとってもいいのだが、やはり渡辺順子から改名して再デビューした黛ジュンを一気にスター歌手にした「恋のハレルヤ」を代表作としたい。
 最初この歌を聴いたとき、「ハレルヤ」の言葉に違和感を覚えた。カトリックのミサ曲でもないのに、と。しかし、後になかにしは、この歌についてこう語っている。
 少年のとき、敗戦後満州から日本へ帰る引き揚げ船が出る中国・葫蘆(ころ)島で、長い間待たされた。そして、やっと帰れるというときの思い、叫びを、この歌の「ハレルヤ」という響きに託した。そして、歌のなかの「愛されたくて、愛したんじゃない、燃える思いを…」は、日本国に対する愛憎半ばする複雑な思いを男女の恋愛に譬えた、と。
 じゃあ、ハレルヤでいいか。いや、なかにし礼にとっては、ハレルヤでなくてはならなかったのだ。

<4>「今日でお別れ」菅原洋一、(作曲:宇井あきら、1967年)
 菅原洋一の歌では「あなたの過去など…」で有名な1965年に発売していた「知りたくないの」のヒット作があるが、この歌はなかにし礼の作詞ではなく訳詞である。
 「今日でお別れね、もう逢えない…」の方が情感があり、男女の別れの歌の代表作だろう。この歌は、1970年に第12回日本レコード大賞を受賞した。

<5>「石狩挽歌」北原ミレイ 、(作曲:浜圭介、1975年)
 「海猫(ごめ)が鳴くからニシンが来ると…」石狩の海のニシン漁を舞台にした曲で、これぞ、まさに文学的作品である。
 満州から引き揚げてきたなかにし一家は、その後北海道の小樽で暮らす。その時、なかにしの兄はニシン漁に博奕的に金をつぎ込み、結局すべてを失い一家離散の結果になる。そんな兄に対する複雑な思いが、ニシン漁の情景として結実した。
 最後の歌詞は、何と言っていいだろうか。「変わらぬものは古代文字、わたしゃ涙で、娘ざかりの夢を見る」
 兄には金銭をたかられ生涯悩まされたなかにし礼だが、1998年にその兄を描いた小説「兄弟」で、本格的な作家の道を歩くことになる。

<6>「手紙」由紀さおり、(作曲:川口真、1970年)
 前年に出した「夜明けのスキャット」の大ヒットに続き、由紀を確固たる歌手に確立させた曲。
 「…何が悪いのか今もわからない、だれのせいなのか今もわからない」。こんな恋の別れもある。かつては、恋の最良の伝達手段は恋文だった。リフレンされる「…涙で綴りかけた、お別れの手紙」が切ない。

<7>「エメラルドの伝説」ザ・テンプターズ、(作曲:村井邦彦、1968年)
 1966年頃から始まったグループ・サウンズ(GS)ブームの最後の輝きを放っていた時期の、テンプターズ最大のヒット曲。ギリシャ神話のナルシス(ナルキッソス)伝説を想起させるロマンティシズム溢れる曲で、少女たちを熱狂させた曲群の代表だといえよう。
 歌謡史に一時代を築いたGSブームだが、翌年には急速に衰退化していくことになる。

<8>「いとしのジザベル」ザ・ゴールデン・カップス、(作曲:鈴木邦彦、1967年)
 翌年「長い髪の少女」が大ヒットした、横浜で活動していたGS、ゴールデン・カップスの最初のシングル盤。
 最初聴いたとき、「ジザベル」は「イザベル」の聴き間違いではないかと思った。というのも、シャルル・アズナブールの歌に「イザベル」があるからだ。
 「…愛していたのに、愛していたのに」そして、「ジザベル、ジザベル、ジザベル」と繰り返す。この歌は、きっとアズナブールへのオマージュだ。
 「イザベル」はフランスで多く見られる女性の名前で、ちなみにジザベルは旧約聖書に登場する古代イスラエルの王妃で、イザベル、イゼベルともいう。

<9>「恋のフーガ」ザ・ピーナッツ、 (作曲:すぎやまこういち、1967年)
 ん?バッハを持ってきたか、と思った。「トッカータとフーガ」である。この曲自体は楽曲形式のフーガ(追走曲)と関係ないが、あえて言えば「追いかけて、追いかけて…」と、繰り返すことだろう。
 翌年、シリーズを暗示させる「恋のオフェリア」を出すが、次の「恋のロンド」では作詞は橋本淳となった。

<10>「花の首飾り」ザ・タイガース、(作詞:菅原房子、補作詞:なかにし礼、作曲:すぎやまこういち、1968年)
   「港町ブルース」森進一、(作詞:深津武志、補作詞:なかにし礼、作曲:猪俣公章、1969年)
 この2曲はいい曲で好きな曲だが、なかにし礼は補作詞なので、あえて最後に補足風に入れた。「花の首飾り」は雑誌「明星」の募集歌で、「港町ブルース」は雑誌「平凡」の募集歌である。
 
 この後方を見ると、「あなたならどうする」いしだあゆみ(1970年)、「夜と朝のあいだに」ピーター(1969年)、「愛のさざなみ」島倉千代子(1968年)が、はるか彼方に見えるが届きはしない。

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「カルテット」という名の……Quartet Fioreによせて

2019-06-08 02:43:07 | 歌/音楽
 室内楽が好きだ。
 大規模な編成のオーケストラによる大きなホールでの豪壮な感じではなく、少人数の室内楽団による、演奏者の吐息や体温が伝わりそうな空間のなかでの、しっとりと耳を傾けて聴くという演奏会である。
 演奏者の壇上と聴く者の会場の共有する空間認識。時に演奏者と目が合ったりする感じがおこるのもいい。
 秘密結社の集まりという雰囲気があれば、なおいい。

 *宮廷音楽会の香りを持つ室内管弦楽

 かつてヴェネツィアを旅していたときだ。
 昼間、アカデミア橋のたもとで、モーツァルトの格好をした女性から1枚の案内状を受け取った。それは夜行われる音楽会への案内状で、僕はすぐにその場でチケットを購入した。
 夜になり、会場となるパラッツォ・ゼノービオを探し歩いた。地図を頼りに何とか辿り着いた先は、よくあるコンサートホールとは違い、運河(海)のほとりにある風格ある古い建物だった。
 17世紀に建てられた貴族の館だったというその建物の、1階の受付を通ると中庭が広がっていた。そして、演奏が行われる2階の間(ま)に上っていくと、そこは華麗な装飾に彩られたきらびやかな部屋であった。
 外の運河(海)に向かった窓は彫刻が施され、部屋の両サイドには大きな鏡が張られていて、一見奥行きが見通せない造りとなっている。吹き抜けの高い天井には、ラファエロの絵のような天使が描かれていて、美術館か聖堂に来た感じである。建物のなかで張り出しているバルコニーでは、かつて楽士が演奏していたという。
 そこで、ヴァイオリンを中心とした少人数の室内弦楽秦団、Orchestra di Veneziaによる演奏が始まった。まるで、中世の宮廷音楽会のようだ。
 聴きに来た人も少人数だった。ヴェネツィアらしく、ビバルディの「四季・プリマヴェーラ(春)」が流れた。
 僕は、時の流れにすっかり酔っていた。見知らぬ人に混じって、感激で舞い上がる気持ちを必死で抑えながら、その奏でる演奏を聴いていたのだった。かつて、一部の貴族のためにあった音楽は、こうして聴いたのだろうかと想いをめぐらした。
 演奏会が終わったあと、建物の窓の明かりが運河の水に揺らめくのを眺めながら、酒も飲んでいないのに酔いながら街を歩いた。こんな夜が終わらなければいい、と思いながら。
 多分、この夜からだろう。室内管弦楽に魅かれたのは。

 *カルテットの夢

 「カルテット」、何と魅惑的な響きだろう。カールテット、キャルテット、カ・ル・テ・ッ・ト、……口ずさんでみるといい。
 「トリオ」(Trio三重奏)でも「クインテット」(Quintet五重奏)でもない、「カルテット」(Quartet四重奏)。
 2本のヴァイオリン、1本ずつのヴィオラ、チェロによる、4人の構成による弦楽四重奏。
 4つの弦楽器が作り出す微妙なハーモニー、絡みあい紡ぎあう、その流れでる音に耳を傾けると同時に、その演奏者の表情を垣間見る。4人はお互いに音と音をまさぐりあいながら、4人の距離を測っているように見える。
 僕は、ふと想像する。その4人の距離は音だけだろうか、と。そして、この4人の知りもしない各々の音楽人生を。
 今、ここで演奏しているこの人は、どのような練習をし、どのような試練にあい、どのように悦び、そして4人はどのような会話をしているのだろうか、と思いは巡る。もちろん、多くが名前だけで何も知らない演奏者なので、単なる淡い想像にすぎないのだが。
 こう考えるのは、カルテットを組んだ若い日本人アーティストの夢と葛藤を描いたドキュメンタリー・ドラマ、「カルテットという名の青春」が強く印象に残っているからかもしれない。
 夢を追いかけ、海外に飛び出し壁にもぶつかった弦楽奏者は、その後どのような人生をたどったのだろうか、そして現在は、と夢想する。
 アーティストは孤独だ。そして、目の前で演奏している人は……と。

 *「カルテット・フィオーレQuartet Fiore」

 5月25日、古賀政男音楽博物館・けやきホール(東京都渋谷区)で、「Quartet Fioreカルテット・フィオーレ」の演奏会が開かれた。(写真)
 東京芸術大学卒業生を中心とする女性による弦楽四重奏団で、メンバーは、中村ゆか里(Vn)、中村里奈(Vn)、西村友里亜(Va)、八代瑞希(Vc)。今回は、ピアニストの坂本真由美さんをゲストに迎えてである。
 実は、ヴィオラの西村友里亜さんはかつて音楽教室での僕のヴァイオリンの先生だった人だ(ひどい落ちこぼれの生徒だったが)。
 それが縁で先生の演奏するコンサートは何度か聴きに行ったが、2017年12月に新宿・ガルバホールで行われた「東京藝術大学130周年記念応援公演」と銘うった「カルテット・アーミーQuartet Army」の演奏会以来である。
 この時、ヴァイオリンの中村ゆか里さんも出演されていて、その熱情溢れる演奏が印象に残っていた。

 この日の演奏曲目は以下の通り。
 ・シューベルト:弦楽四重奏曲第14番ニ短調<死と乙女>
 ・ブラームス:ピアノ五重奏曲ヘ短調

 *シューベルトの「弦楽四重奏曲第14番ニ短調<死と乙女>」

 まず、クァルテットによる、シューベルト「弦楽四重奏曲第14番ニ短調<死と乙女>」が始まった。
 31歳という若さで死んだシューベルトが死ぬ2年前に作ったのが「弦楽四重奏曲第14番ニ短調」で、第2楽章のテーマが彼の歌曲「死と乙女」の伴奏部分を引用していることから、この曲も「死と乙女」と呼ばれている。
 シューベルトが迫りくる死を意識していたからか、出だしから緊迫した命の鼓動が伝わってくる。衝動、緊迫、孤独、哀切、絶望に紛れて、希望、躍動も顔を出す。
 カルテットの4人の鼓動が聴こえてきそうだ。4人の個性が音を超えた空気のハーモニーを作り出している。
 失礼を顧みずに、譬えてみた。
 第1ヴァイオリンの中村ゆか里さんは「疾風」。中村ゆか里さんの妹で第2ヴァイオリンの中村里奈さんは「清爽」。師であるヴィオラの西村友里亜さんは「安寧」。「カルテットの呼びかけ人と称されたチェロの八代瑞希さんは「悠揚」。
 皆さん、勝手な想像もしくは妄想でごめんなさい。
 シューベルトの「死と乙女」は、今の僕の暗い心によく響き、染み渡る。先はそう長くはない。急がなければならない。

 *ブラームスの「ピアノ五重奏曲ヘ短調」

 2曲目は、カルテットの各々が、緑、赤紫、青、朱のドレスに、白いドレスのピアノの坂本真由美さんを迎えての、ブラームスの「ピアノ五重奏曲ヘ短調」。
 F・サガンのように、「ブラームスはお好き、Aimez-vous Brahms?」と訊かれたら、「もちろん、Oui. bien sur.」と答えるだろう。
 映画「恋人たち Les amants」(監督:ルイ・マル、主演:ジャンヌ・モロー)で流れた「弦楽六重奏曲第1番」第2楽章は、何とも言えなくムーディーだけれども、この「ピアノ五重奏曲ヘ短調」も、素敵だ。
 室内楽演奏にピアノが入ると雰囲気が違ってくる。ピアノの存在感は大きい。弦楽だけの豹やカモシカだけのサバンナに象が現れた感じだ。とはいっても、ここではあくまで控えめだ。
 ブラームスは渋い。「自由に、しかし孤独に…」である。

 アンコールの、チャイコフスキーの曲のメドレーというのもいい企画だ。
 また、さらなるアンコールでの、坂本真由美さんがピアノ・ソロで弾かれたリストの「ラ・カンパネラ」は、パガニーニばりの超絶技巧だった。「ラ・カンパネラ」って、こんな力強い曲だったのか。

 *古賀政男音楽博物館・けやきホール

 会場のけやきホールのある、小田急線・代々木上原駅の近くの井の頭通りにある「古賀政男音楽博物館」は、かつてよく車で通ったところである。
 当時は通りの少し小高いところに作曲家古賀政男氏の私邸があったが、いまは近代的な洒落た音楽博物館となっている。
 古賀正男は、昭和の戦前から戦後まで長きにわたり、数々の歌謡曲の名曲を残した国民栄誉賞の作曲家である。彼の作る「古賀メロディー」は、少年時代に朝鮮に住んでいたこともあって「演歌の源流」とも唱えられた。
 そんな歌謡曲の縁の地で、シューベルトやブラームスを演奏するのも乙(おつ)なものだ。

 演奏会が終わったあと、「古賀政男音楽博物館」を見学して帰った(入館料が必要)。
 館内では、大衆歌謡の資料展示と古賀政男の部屋の再現および彼の残された楽器や資料が展示されていた。

 佐賀から隣の福岡県の柳川に、黄金週間時の水天宮祭りや鰻を食べによく行った。
 そのとき途中、筑後川を渡ったところの大川(家具の街である)の街の通りで、バスの窓から「古賀政男記念館」という洒落た建物が見える。大川市が彼の生まれた町で、生家のあるところに記念館が建てられているのだ。
 そこを通るたびに、この次にでも途中下車して、古賀政男記念館を見てみようと思ったものだが、それもないままここまで来てしまった。

 *「キアロスクーロ・カルテット Chiaroscuro Quartet」

 ということで、手元にあるCDのシューベルト「弦楽四重奏曲第14番ニ短調<死と乙女>」をよく聴いている。
 演奏者はというと、このコンサートの「カルテット・フィオーレ」のちょうど1か月前の4月25日、パルテノン多摩(東京都多摩市)で公演した「キアロスクーロ・カルテット (Chiaroscuro Quartet)」による演奏である。
 このカルテットは、ロシア生まれのヴァイオリニスト、アリーナ・イブラギモヴァを中心としたスペイン、スウェーデン、フランスと国際的なメンバーによるカルテットである。
 
 このときのコンサートは、2016年3月に、A・イブラギモヴァが無伴奏のヴァイオリン・ソロ(バッハ「パルティータ第2番ニ短調」ほか)の公演以来、3年ぶりの多摩来演であったので、僕は聴きに行ったのであった。
 その日の、「キアロスクーロ・カルテット」による演奏は以下の通りである。
 ・バッハ:フーガの技法より
 ・メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲第1番変ホ長調
 ・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番ヘ長調「ラズモフスキー第1番」
 
 このとき購入したCDが、「キアロスクーロ・カルテット」による、シューベルト「弦楽四重奏曲」第14番ニ短調<死と乙女>、第9番ト短調ということである。

 カルテットは……自由で孤独な夢を見る。



 
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