goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ セックス・アンド・ザ・シティ Sex and the city

2010-06-11 03:56:05 | 映画:外国映画
 マイケル・パトリック・キング監督 サラ・ジェシカ・パーカー クリスティン・デイヴィス シンシア・ニクソン キム・キャトラル 米 2008年

 アメリカで人気のある連続テレビドラマの映画化である。この度、第2弾「セックス・アンド・ザ・シティ2」が公開された。
 原作は、ニューヨーク在住のライター、キャンディス・ブシュネルが週刊ニューヨーク・オブザーバーに連載していたコラム「セックス・アンド・ニューヨーク」である。
 いわゆる、ニューヨークに住む4人のアラフォー、つまり40歳前後の女性の恋と仕事と友情の物語である。

 いかにも都市生活者のための映画、物語である。それも、ニューヨークの。
 ニューヨークの、高級なアパート、レストラン、仕事、恋、家庭。それらを一つの皿に入れてかきまぜて、女の友情という、(女にとって)とっておきのスパイスをふりかける。
 仲良し4人組の顔ぶれを見ると、各々華やかな職業である。
 この映画における主人公とも言える女性キャリーは、自分の本も出している売れっ子のライター(コラムニスト)で、ほかの3人の女性は、弁護士、アート・ギャラリーのディーラー、PR会社の社長である。
 ここでは、アメリカの持つ本質的な矛盾や悩みは登場しないし捨象されている。ニューヨークの、ほどほどの高みにある快楽ある生活が、全編をおおっている。
 悩みと言えば、愛、つまりここでいう広義のSexだけである(テレビドラマではいろいろ描かれているかもしれないが)。
 となると、物語にとって大切なのは一人ひとりの人生の機微をどう描くかである。一人ずつ、長い人生を語るわけにはいかないから、断片を切り取り、その人物をどう浮かび上がらせるかが映画の決め手となる。
 振りかえれば、このような人間の機微を生活や恋愛の中で描くというのは、ヨーロッパ映画が得意としたものだった。
 しかし、ヨーロッパの場合は、そこにおそらく影が存在した。
 華やかなパリやローマが舞台の映画とて、憂鬱な影が垣間見えたものだ。それは、長い歴史の影といってもよかった。それによって、恋や友情に陰影をもたらしていた。

 この映画「セックス・アンド・ザ・シティ」では、4人の愛(セックスを伴った)のエピソードを織りまぜながら、4人のなかの中心的人物であるキャリーの恋に焦点が絞られる。 これがこの映画のピークというか骨格となっている。
 ライター(コラムニスト)であるキャリー(サラ・ジェシカ・パーカー)は、以前から付きあっていた裕福な実業家のミスター・ビッグと結婚することになる。ところが、結婚式にビッグが来なかったことで、式は行われなくなり、恋は破綻したかに見える。
 このような出来事は多くはないが、これに近い体験をした人はないことはないだろう。
 僕は、4人のパッチワークのような継ぎ接ぎの映画から、キャリーとビッグの恋物語へ、いやこの映画が、恋の深淵を描くところへ行き着くのかと思ってみていた。
 結婚式の不履行で、キャリーは落ち込み、他の友人は同情し、何とか彼女が回復するのを願う。
 二人はどうなるのかと想像を巡らして見たが、唐突な恋の破綻も、突然の恋の修復も深淵には到らず、あっけなくハッピーエンドの友情でまとめあげられてしまった。
 ここでは、最初から(スクリーンの中で)彼らが言うように、結婚する理由も、それ故に 別れる原因も、復縁する結果も、あらゆるものが希薄なのだった。あたかも部屋を決めるように、ファッションの服を選ぶように、愛は吐息しているのだった。
 アメリカのテレビドラマの映画化だから仕方ないことなのであろう、と納得せざるを得ないのだが。

 それにしても、「セックス」がタイトルに付くとは、それだけで引いてしまいそうなネーミングである。タイトルだけ見ると、アダルト映画と勘違いしそうだ。
 しかもこのタイトルでテレビドラマであったというから、アメリカは進んでいるというか大胆というか、情緒や奥ゆかしさがないと思ってしまう。
 といっても、かつて「セックスと嘘とビデオテープ」(スティーブン・ソダーバーグ監督1989年)なる評判になった映画もあった。
 日本でも、山崎ナオコーラの「人のセックスを笑うな」というタイトルの小説が出て(芥川賞の候補にもなった)、映画化(2008年)されたのだから、アメリカのことばかりは言えないが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇ プラダを着た悪魔

2010-01-17 03:04:56 | 映画:外国映画
 デヴィッド・フランケル監督 メリル・ストリープ アン・ハサウェイ エミリー・ブント スタンリー・トゥッチ エイドリアン・グレニアー 2006年米

 自分のなりたい職業に就ける人は僥倖である。すんなり就ける人は、滅多にいないと言っていい。
 なりたい職業、仕事に就けなくても、人はそれなりにそれに近い環境を求め、それに近い仕事に就くものだ。そして、いつしかそこから脱却しよう、あるいは階段を上がり、自分のいるべき場所に行き着きたいと思う。

 ジャーナリストになりたいと思っているアンディー(アン・ハサウェイ)は、期せずして有名なファッション誌の出版会社に勤めることになる。彼女は、あくまでもジャーナリスト志望だから、ファッション誌に携わったからといって、ファッションが好きなわけでもない。しかし、それはジャーナリストへの第一歩である、と考えている。
 仕事は、業界でも顔で発言力のあるカリスマ編集長のアシスタント。
 そのカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)は、悪魔のような女性だった。仕事の命令はおろかプライベートの指図も、絶対守らなければいけなく、それが守れなくて辞めたアシスタントは数知れないのだった。
 ミランダは、分刻みの生活をしていて、仕事の指示は的確で、1度言ったらそれ以上言わないので、それを聞き逃してはならないのだった。どんな無理難題でも、できないとその瞬間から落第、無能の烙印が押されるのだった。それは、例えコーヒー一杯でも、言われた時間に彼女の前に持っていかないといけないのだった。
 ファッション雑誌は、企画、取材、撮影、デザイン・レイアウト、コピー(ネーム)、編集ページ構成、と次々と仕事の流れが押し迫ってくる。雑誌の発売日は決まっていて、締め切りは固定されているので、そうそう仕事は延ばすことはできないのだ。
 それでも、編集長が気に入らない取材や撮影をしてきたら、やり直しの命令が下る。30万ドルの経費をかけて、撮り直すこともあった。そのことに何の意味があるかと、問うてはならない世界なのだ。
 ファッションとは無縁の野暮な服装をしたアンディーは、我慢と忍耐をしてミランダについていく。華やかな世界の裏では、過酷な競争が渦巻く世界であった。
 やがて、彼女の平凡でチープな服装もブランドものに変わり、仕事のスピードにも馴れていく。
 そして、ついに、編集者として認められたとも言える、編集長ミランダと一緒にパリ・コレクションの取材に同行することになったのだった。

 原作は、ファッション雑誌「ヴォーグ」の編集アシスタントだったローレン・ワイズバーガーの体験をもとにした同名小説である。

 *

 「サン・ミッシェルの新しいホテルで目を覚ました。外は少し騒がしいが、この喧噪さはこの街の特徴でもある。窓の外を見ると、絹のような細い雨が降っている。
 午後は、多くのオートクチュールの店が集まっているフォーブル・サントノーレへ行った。 数々のクチュリエやクチュリエールが生まれ育ったところだ。
 出版社に入社したて、私はファッション誌に配属された。春と秋のパリ・コレクションが発表される時期には、今シーズンのサン・ローランはどうの新しいシャネルはこうのと、編集部はいつも大騒ぎだった。その頃、私はフォーブル・サントノーレなどは別の世界のことと思っていた。
 オートクチュールの高級店が並ぶフォーブル・サントノーレを歩いたが、やはり私には身近な存在には思えなかった。」
 ――「かりそめの旅」(岡戸一夫著)第1章「初めての旅、パリ」より

 僕もまた、「プラダを着た悪魔」の主人公アンディーと同じく、学校を卒業すると、ファッション誌の編集者として出版社に勤めることになった。
 自分のやりたいことはほかにあったが、そんなことを言ういとまはないし、社会に出たばかりの若造にその実力もない。自分のやるべき仕事は別のことだと思いながら、僕はファッション業界の中に身を委ねていた。不満はどこにでもあるものだ。また、それがエネルギーに転化する場合もある。
 
 「1968年」が学生運動の分岐点として、近年若手を含めた評論家の間で論議が華やかだし、この時代を扱った本が何冊か出版された。閉塞感の漂う時代には、活気溢れた時代の、回顧だけではなくそのエネルギーの根源を知りたいのだ。
 当時の学生運動の流れは日本だけでなく世界的潮流であったし、1968年、フランスでは学生を中心とした5月革命が起こっている。
 
 学生運動と同時に、この時代は日本のファッションも大きなうねりのただ中にいた。
 当時、日本のファッションの牽引者は、ドレメ・文化の2大洋裁学校の先生たちから独立したデザイナーに移りつつあった。すでに森英恵、芦田淳はトップを走っていたし、三宅一生、コシノ・ジュンコ、やまもと寛斎、高田賢三などが若手として脚光を浴びていた。
 日本のファッション産業は、オーダーメイドから既製服に急速に移行する過程にあったし、原宿や青山に新しいファッション・スポットであるブティックが生まれていた。
 立木義浩、篠山紀信、沢渡朔などが雑誌の写真を撮り、モデルでは沙羅マリエ、トミー武部、丁秀芬、加藤昌代・直代、山中真弓、小泉一十三などが誌面を飾った。(写真)
 編集室は、撮影のための服や小物で埋まっていた。
 日本のファッション出版業界も、スケールの違いこそあれ、この映画「プラダを着た悪魔」の世界に近い。
 編集長のひと言で、撮影の取り直しが行われたし、ストレスや過労で辞めていった人も多い。鬼の編集長とて、販売部数の動向には気を張り巡らした。
 また、春秋年2回のパリ・コレクションは大きな影響力を持っていた。「パリ・コレ」と、編集スタッフは憧憬を滲ませて語った。シャネルもサン・ローランも、別世界のスターだった。
 ファッションは、成熟していなかったにせよ、今どきの「カワイイ」と表現されるほど幼稚ではなく、社会の表象現象であったと同時に文化の担い手でもあった。
 と言っても、移りゆき、虚しく流されゆくのもファッションの宿命であった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇ 7年目の浮気

2009-10-08 01:50:19 | 映画:外国映画
 ビリー・ワイルダー脚本・監督 マリリン・モンロー トム・イーウェル 1955年米

 この映画を見たことのない人でも、マリリン・モンローの白いフレアー・スカートが下からの風で上へめくりあがり、それを彼女が押さえている写真なら見たことがあるだろう。
 その有名なシーンが出てくるのが、この映画である。

 井上章一は、「性欲の文化史」(2)で、彼の体験談を書いている。
 1977年、彼がまだ22歳の時、ヨーロッパを旅した際、パリに建築を見るために寄った。そのとき、例の地下鉄の排気口からの風で、女性のスカートがめくれてパンツ(下着)がのぞくシーンに出くわした。
 彼は、このシーンと、そのときの女性の薄緑色のパンツが今でも心に強く残っていると書いている。とは言っても、彼はこのパンチラ場面に出くわしたことを幸運だったと言おうとしているのではない。彼が忘れられなく、その後の研究にまで影響を及ぼしたというのは、そのときのフランス人の反応である。
 彼と同じくこの情景を見た、彼の横にいたフランス男が、さらりと「メルシー・マダム」と声をかけたのである。「ありがとう、おねえさん」といったニュアンスで。
 さらに、井上が感服したのは、そう言われたパンチラのおねえさんが、怒った風でもなく、「見たわね」となじる風でもなく微笑み、その情景を見た井上らにウインクまで返して、また何気なく立ち去ったことである。
 日本でなら、決してそうはいかなかっただろうと、井上はフランス人の成熟した大人の対応と、日本人との文化の隔たりを痛感したと述懐している。
 建築のことは忘れたが、そのパンチラの情景は忘れられず、それ以後、井上はその方面(パンチラの文化史的方向)の研究に傾いたとすら言っている。

 さらに面白いのは、井上の中国・上海に行ったときの体験談である。
 1988年の時だというから、もう人民服を着ている人は少なく、殆どの女性はスカートをはいていた。そして、ご存じのように、当時は中国では道路は自転車でいっぱいであり、通勤でも自転車に乗る人が多かったときである。
 ところが、長いスカートでは自転車は乗りづらい。スカートがチェーンに絡むことがある。それで、上海女性は、スカートの裾の片方をハンドルにかけて、その上からハンドルを握って運転する女性がいた。いや、左右のスカートの端をハンドルに乗せて、スカートごしにハンドルをつかむ女性も多く見かけたのだった。
 そうすると、正面からは風でふくらんでスカートの中が丸見えの状況ができたりする。パンツ(下着)まで見える情景である。そのことが気になった彼は、何人かの中国人に、訊いた。
 そのときの一人の青年の答が、忘れられないと書いている。
 その男は、「パンツをはいているから、大丈夫ですよ」と言ったのだった。
 うーん、と僕も唸ってしまった。
 パンツがちらと見えるのに、性的想像をかきたてられ胸が揺れ騒ぐ人間が普通だと思っていたら、そうとばかりは言えないのである。「パンツをはいているから、大丈夫ですよ」、つまり直接性器が見えるわけではないから、下着が見えることぐらい大したことではないと言いきる中国人も、懐が深いといえるのかもしれない。
 パンツがちらと見えることと男の性的妄想については、民族が違えば違った感受性があるようだ。その方面の研究も興味深い。

 *

 それはさておき、この映画「7年目の浮気」は、結婚7年目になる出版社勤務の中年男(トム・イーウェル)が、妻と子供が夏休みに田舎に出かけた留守中、同じアパートの2階の留守宅に一時やってきた美女(マリリン・モンロー)に、心が揺れ動き、そこから巻き起こる騒動の物語である。
 男は、家族がいないのをいいことに、2階の女に、自分の部屋で一杯どう?と誘う。そこから、想像を超えた男の妄想で、ハラハラドキドキのユーモアな展開に発展していく。
 言うまでもなく男の妄想の原因は、モンローの素直であどけない言葉(声)と、アンバランスなグラマーな肉体の魅力である。この映画では、モンローの魅力が充分に発揮されている。
 主人公の男が、これから本を出すことになっている精神分析学者の原稿の中に、「既婚男性の浮気傾向と7年目のかゆみ(itch)」という文章を読む件がある。この内容は、既婚男性を調査した結果、結婚7年目に浮気が急上昇するというものだ。
 それで、浮気心が芽ばえてきた男は、かゆくなると比喩表現しているのだ。
 この7年説は、科学的根拠があるかどうかは分からない。データーも確かなものかどうかも分からない。夫婦の倦怠期が、このあたりがピークという推察なのかもしれない。
 原題は、「The seven year itch」。つまり、「7年目のかゆみ」である。この何とも味気ないタイトルを、「7年目の浮気」と訳したのは素晴らしい。

 ところが、その後1993年、「4年目の浮気」説が発表された。
 いや、浮気どころか、結婚「4年目の離婚」説が発表された。
 この説を著した人は、アメリカの人類学者ヘレン・フィッシャーで、彼女は著書「愛はなぜ終わるのか」で、もともと人間は4年で離婚するように遺伝子的にプログラムされているのだという説を展開した。
 この根拠を、人類の誕生から説きほぐし、子供の離乳(子供の親離れ)との関連で説明しているのは興味深いし、画期的な学説だ。
 フィッシャーは最近来日し、いわゆる「婚活」に関する活動を行って、帰っていった。

 最近では、男と女の愛や恋に対する発想の違いを、脳科学から研究する分野の進歩は著しい。
 「7年目の浮気」説は、映画の物語とはいえ、男と女の生理的違いに(科学的ともいえる)焦点を当てた走りかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇ 恋をしましょう

2009-10-04 03:18:22 | 映画:外国映画
 ジョージ・キューカー監督 マリリン・モンロー イヴ・モンタン トニー・ランドール フランキー・ボーン 1960年米

 原題は、「Let’s make love」(レッツ・メイク・ラヴ)である。
 ということは、「make loveをしましょう」ということで、アメリカ映画とはいえ直接的な表現である。日本語に約すれば、「恋をしましょう」でいいのだが、言うまでもなく、make loveは、セックスをも含んだ恋である。いや、恋がなくてもセックス行為そのものをも指す。
 それなのに、このようなタイトルが大手を振って公開されていいのだろうか、と思ってしまうのである。いやいや、もはや半世紀もこの題名のまま押し通してきた(当然だが)、有名な映画なのである。
 この映画は1960年公開だが、やはり何事もアメリカは進んでいたのである、と解釈して納得しよう。
 日本ではそれよりだいぶん遅れて、1966年ヒットした坂本九の歌「レット・キッス」(ジェンカ)が、せいぜいであった。
 なぜかこの曲が、中学校あたりの運動会でフォークダンスとして日本で広く流布したのが、いまだに解せない。「レッツ・キッス、頬よせて……レッツ・キッス、眼を閉じて……」この歌詞は、どうしてもキス(口づけ)の内容である。
 さらに、である。「小鳥のように、くちびる重ねよう」と続く。やはり、「キスをしましょう」の歌である。
 このような歌詞だからといって、運動場などで、踊りながらキスをするのではないのである。そんなことが学校で許されるはずがない。ましてや、1960年代である。そんなことをしているのを(羨ましいことだが)見つけられたら、お説教はおろか、PTAものであったろう。
 にこにこ踊るだけで、決してキスにはならなかった。眼を閉じることも、頬をよせることもなく、ただただ健康的ということを意識的に前面に出すように、元気よく踊ったのである。歌の内容をあえて無視しながら踊るので、「レッツ・キッス」という九ちゃんの歌声だけが頭の上あたりに浮かんでいるという、中途半端な違和感だけが残ったものだ。
 ところが、この曲は、正しくは「Letkiss」で、フィンランド語で、列になって踊る、という意味らしい。だから、後ろから前の人の肩に手を置いて、足を上げて踊るわけである。
 キスをしようと、列になって踊ろうとは、そう簡単には、それに、そう単純には結びつかない。だから、どことなくちぐはぐ感がぬぐえなかったのである。
 これは、訳詞家(永六輔)が、間違って「キスをしましょう」と強引に訳したのか、確信犯的にレコード会社と一緒になって、「Let’s kiss」と曲解しかか定かではない。

 話は、逸れたが、映画「恋をしましょう」は、マリリン・モンローとフランスのシャンソン歌手、イヴ・モンタン共演の、典型的なアメリカン・ラブ・コメディーである。
 フランス出身の大富豪家で世界的実業家のクレマン(イヴ・モンタン)は、ニューヨークでもプレイボーイで有名であった。その彼が、自分のことを茶化した芝居を、小劇場でやろうという計画があるというニュースを耳にする。彼は、その芝居小屋に、芝居がどんなものかをこっそり偵察に行ってみる。
 小劇場に入ってみると、舞台稽古が行われていた。
 舞台の上では、スポットライトの中で、グラマラスだがコケティッシュな女が踊り始める。だぶだぶの紫のセーターをはおり、下は網タイツ。
 彼女は、観客席を見つめながら、身体をくねらせ、飛び回り、こう言う。
 「私の名前は、ロリータ」
 そして、歌い始める。
 ……ダメって言われているの、男の人と遊ぶのは。
 私の心はパパのもの。だってパパは、とっても優しいの……
 と、とろけるような声で、ジャズナンバーの「私の心はパパのもの」(My heart belongs to daddy)を歌うのだった。
 クレマンは、この女、名前はアマンダ(マリリン・モンロー)の歌と踊りを見た瞬間から、「クレマンの心は、アマンダのもの」になってしまった。

 「私の心はパパのもの」の歌を、ロリータ(劇中劇だが)が歌うとは知らなかった。
 「ロリータ」は、ウラジーミル・ナボコフの有名な小説である。初版がパリで出版されたのが1955年で、アメリカで英語版が出たのが1958年。スタンリー・キューブリック監督による映画「ロリータ」は、この「恋をしましょう」の公開時は、まだ制作されていない。
 映画「ロリータ」が公開されるのは、この「恋をしましょう」の2年後の1962年だから、ロリータを映画出演させたのは、この「恋をしましょう」が第1作となる。
 映画「ロリータ」のロリータ役のスー・リオンは、制作当時15歳で、原作に近かったが、マリリン・モンローは当時30歳をとうに過ぎていた。それでも、その砂糖菓子のような甘い歌声は、ロリータと言っていい。
 僕が持っているCD「ジャズ・ベスト・オムニバス」の中に収められている「私の心はパパのもの」は、アーティ・ショーのもので歌はうまいが、やはりモンローの甘さの方がいい。

 芝居の稽古風景を偵察に来たクレマンだったが、演出家にクレマン役の応募者と勘違いされ、そっくりだということで役者として採用されてしまう。そこで、クレマンは実物の大富豪家ということを隠して、新米役者になりすましてアマンダと仲よくなる算段を企てるのだが……。

 マリリン・モンローの色っぽさが充分に発揮された映画である。
 そして、本来はシャンソン歌手であるイヴ・モンタンの、男としての色気も充分に発揮されている。すでにイヴ・モンタンはシモーニュ・シニョレと結婚していたが、この映画撮影中、映画の内容と同じく、モンタンとモンローは熱い仲になったという。
 それも仕方ないだろう。題名からして、Let’s make love なのだから。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇ 荒馬と女

2009-09-30 03:30:42 | 映画:外国映画
 ジョン・ヒューストン監督 アーサー・ミラー脚本 マリリン・モンロー クラーク・ゲーブル モンゴメリー・クリフト イーライ・ウォラック 1961年米

 「荒馬と女」は、マリリン・モンローの最後の出演映画である。いわゆる、遺作である。
 また、クラーク・ゲーブルの最後の映画でもある。
 このことだけでも、映画史に名を刻まれる映画となった。

 ストーリーは、荒涼としたネバダに、離婚をするためにやってきた女ロズリン(マリリン・モンロー)が、修理工グイード(イーライ・ウォラック)と、少し老いた元カウボーイのゲイ(クラーク・ゲーブル)に出会い仲よくなる。彼女を好きになった元カウボーイの家に、勧められるまま彼女はやっかいになる。
 そして、3人で街のロデオに行くときに出会った、気のいい流れ者の男パース(モンゴメリー・クリフト)が仲間に加わることになる。男3人は、金儲けのために野生の馬狩りに行くことにし、彼女も狩についていくことになる。
 彼女の目の前で、男たちと荒馬の格闘が繰り広げられる。

 内容はともかくとして、目をみはるのは、スタッフ・キャストの名前である。
 監督のジョン・ヒューストンは、「マルタの鷹」(1941年)で監督デビューして以来、ハリウッドの王道を行く男性的な映画を作った男である。特にハンフリー・ボガードとは仲がよかった。
 「アフリカの星」(1951年)では、アフリカ・ロケの際、撮影そっちのけで、像狩り・ハンターに夢中になった。そのとき出演したキャサリン・ヘプバーンは、よほど不満を抱いていたのか後になって「アフリカの女王とわたし」という本を出版したくらいだ。
 いや、彼女だけでない。ロケに同伴した脚本家のピーター・ヴァテルまでも、そのときのヒューストンを描いた「ホワイトハンター・ブラックハート」という本を出し、それをさらに自ら脚本し、クリント・イーストウッドが主演・監督で映画化(1990年)した。
 ジョン・ヒューストンの一生を描いた「王になろうとした男」(日本版2006年)を読むと、彼は根っから狩猟が好きだったことが分かる。波乱に富んだ豪快な人生を送り、私生活では5度の結婚をし、晩年は70歳を過ぎて子供のぐらいのメキシコ女と一緒に棲らしていた。
 この「荒馬と女」では、ロデオのシーンや馬狩りに異常な力を入れていて、彼の狩に対する偏愛を窺い知ることができる。

 「セールスマンの死」などで知られる劇作家で、この映画の脚本家のアーサー・ミラーは、この映画撮影時は、マリリン・モンローと結婚中だった。彼は自作の短編に、この映画のためにモンローの演じたロザリン役を加えて、新しく脚本を書いた。
 しかし、この映画の撮影時には既に仲は冷え切っていたといわれ、映画公開後に離婚している。

 主演のマリリン・モンローは、いうまでもなくアメリカ・ハリウッドの代表的な女優で、セックス・シンボルだった。
 最初の夫は、野球選手のジョー・ディマジオ(ニューヨーク・ヤンキース)で、新婚旅行を兼ねて日本にも訪れている。
 2度目の夫がアーサー・ミラーで、彼との離婚前後から(時期は不明だが)、当時アメリカ大統領だったJ・F・ケネディーと不倫関係にあったと、後に報道された。
 この映画の撮影後に急死し、その死はいまだに謎とされている。

 クラーク・ゲーブルは、ハリウッドを代表する男優である。
 代表作となった大ヒット作「風と共に去りぬ」(1939年)で、「キング・オブ・ハリウッド」と呼ばれるようになる。彼も5度結婚をしている。
 この「荒馬と女」の撮影時は60歳近い年齢であったが、共演したモンローに熱くなったのか、荒馬と格闘する場面もスタントマンなしのハードな演技を行っている。その無理がたたったのか、この映画撮影直後に亡くなった。
 この映画の前半でモンローに出会ったときの、彼のモンローを見つめる顔が貧相でにやけていて、往年の大スターもこれでは台なしだと思ったものだ。

 この映画では脇役ともいえるモンゴメリー・クリストであるが、端正な顔立ちの二枚目俳優で、1950年代を代表する人気スターだった。
 「陽のあたる場所」(1951年)ではエリザベス・テイラーと共演し、彼女が熱を上げたといわれている。しかし、彼が同性愛だったこともあって、二人の関係は悲恋に終わったと言われている。
 その後、「愛情の花咲く樹」(1957年)の撮影中、交通事故にあって顔面に重傷を負う不幸に見舞われ、この時以降彼はアルコールと薬に悩まされるようになる。
 そして、この映画「荒馬と女」公開の5年後、彼も急死する。

 *

 この映画には、モンローにかつての溢れ出るフェロモンと屈託のない活気が感じられず、ゲーブルは老体にむち打つような無理な演技が目立ち、クリフトも往年の凛々しい輝きがなく、モノクロ映画のせいか全編淀んだ空気が流れている。
 それでも、一貫して気を緩めさせないのは、脚本を書いたアーサー・ペンのモンローに対する愛情ともいえる、しばしば放される洒落た台詞である。

 ゲーブルが、モンローに、かつて妻の浮気を見て離婚したときの話をする。
 「結婚して安心していたんだ」と、過去を振り返りながら言う。それ以来、ゲーブルは一人暮らしなのだ。
 モンローは、ぽつりと呟く。
 「悲しいけど、すべて変わるのね」

 モンローの笑顔を見て、男は言う。
 「君が笑うと、太陽が昇るようだ」

 ロデオで、暴れる馬や牛から男(クリフト)が落ちて、倒れ込むのを見て、モンローがゲーブルになぜ助けないの、死んじゃうわと叫ぶ。
 ゲーブルは自分に話しかけるように言う。
 「人はいつか死ぬんだ」「死を恐れたら、生きていけない」
 もちろん、男は傷を負ったが死んではいなかった。
 ゲーブルは言う。
 「若さは強いな」そして、付け加える。「しかし、こうも言う。若さは年齢にあらず」

 なかなかモンローの心を掴みきれないゲーブルは、彼女に訊く。
 「君は、誰のもの?」
 モンローは、ぼんやりとした表情のまま答える。
 「分からない」
 「物事って、起こってみて初めて分かるの」

 乱暴な馬狩りを見て、馬への同情でいたたまれなくなって怒ったモンローだが、ゲーブルは彼女のやめてと言う言葉にもがんとして耳を貸さず、馬を追い、縄で縛り、翌日には売りに出すことにする。
 この馬狩りによって、うまくいきそうだった二人の仲は一変し、決定的ともいえる破滅を迎える。モンローは、「明日、この町を出るわ」と言って、別れは必然となる。ゲーブルも、頷くしかなかった。
 しかし、最後に、馬との格闘を終えたゲーブルは、仲間の男のなぜという顔を無視して、「馬狩りはやめた」と、縛った馬の縄をときながら呟く。
 「夢に縄はかけられん」

 日も落ちて、夜の草原を車で帰途につく二人。
 「真っ暗で迷わない?」と、尋ねるモンローに、ゲーブルは夜空を見上げてにこやかに言う。
 「あの大きな星を目指すのだ。その星の下に道はある」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする