マイケル・パトリック・キング監督 サラ・ジェシカ・パーカー クリスティン・デイヴィス シンシア・ニクソン キム・キャトラル 米 2008年
アメリカで人気のある連続テレビドラマの映画化である。この度、第2弾「セックス・アンド・ザ・シティ2」が公開された。
原作は、ニューヨーク在住のライター、キャンディス・ブシュネルが週刊ニューヨーク・オブザーバーに連載していたコラム「セックス・アンド・ニューヨーク」である。
いわゆる、ニューヨークに住む4人のアラフォー、つまり40歳前後の女性の恋と仕事と友情の物語である。
いかにも都市生活者のための映画、物語である。それも、ニューヨークの。
ニューヨークの、高級なアパート、レストラン、仕事、恋、家庭。それらを一つの皿に入れてかきまぜて、女の友情という、(女にとって)とっておきのスパイスをふりかける。
仲良し4人組の顔ぶれを見ると、各々華やかな職業である。
この映画における主人公とも言える女性キャリーは、自分の本も出している売れっ子のライター(コラムニスト)で、ほかの3人の女性は、弁護士、アート・ギャラリーのディーラー、PR会社の社長である。
ここでは、アメリカの持つ本質的な矛盾や悩みは登場しないし捨象されている。ニューヨークの、ほどほどの高みにある快楽ある生活が、全編をおおっている。
悩みと言えば、愛、つまりここでいう広義のSexだけである(テレビドラマではいろいろ描かれているかもしれないが)。
となると、物語にとって大切なのは一人ひとりの人生の機微をどう描くかである。一人ずつ、長い人生を語るわけにはいかないから、断片を切り取り、その人物をどう浮かび上がらせるかが映画の決め手となる。
振りかえれば、このような人間の機微を生活や恋愛の中で描くというのは、ヨーロッパ映画が得意としたものだった。
しかし、ヨーロッパの場合は、そこにおそらく影が存在した。
華やかなパリやローマが舞台の映画とて、憂鬱な影が垣間見えたものだ。それは、長い歴史の影といってもよかった。それによって、恋や友情に陰影をもたらしていた。
この映画「セックス・アンド・ザ・シティ」では、4人の愛(セックスを伴った)のエピソードを織りまぜながら、4人のなかの中心的人物であるキャリーの恋に焦点が絞られる。 これがこの映画のピークというか骨格となっている。
ライター(コラムニスト)であるキャリー(サラ・ジェシカ・パーカー)は、以前から付きあっていた裕福な実業家のミスター・ビッグと結婚することになる。ところが、結婚式にビッグが来なかったことで、式は行われなくなり、恋は破綻したかに見える。
このような出来事は多くはないが、これに近い体験をした人はないことはないだろう。
僕は、4人のパッチワークのような継ぎ接ぎの映画から、キャリーとビッグの恋物語へ、いやこの映画が、恋の深淵を描くところへ行き着くのかと思ってみていた。
結婚式の不履行で、キャリーは落ち込み、他の友人は同情し、何とか彼女が回復するのを願う。
二人はどうなるのかと想像を巡らして見たが、唐突な恋の破綻も、突然の恋の修復も深淵には到らず、あっけなくハッピーエンドの友情でまとめあげられてしまった。
ここでは、最初から(スクリーンの中で)彼らが言うように、結婚する理由も、それ故に 別れる原因も、復縁する結果も、あらゆるものが希薄なのだった。あたかも部屋を決めるように、ファッションの服を選ぶように、愛は吐息しているのだった。
アメリカのテレビドラマの映画化だから仕方ないことなのであろう、と納得せざるを得ないのだが。
それにしても、「セックス」がタイトルに付くとは、それだけで引いてしまいそうなネーミングである。タイトルだけ見ると、アダルト映画と勘違いしそうだ。
しかもこのタイトルでテレビドラマであったというから、アメリカは進んでいるというか大胆というか、情緒や奥ゆかしさがないと思ってしまう。
といっても、かつて「セックスと嘘とビデオテープ」(スティーブン・ソダーバーグ監督1989年)なる評判になった映画もあった。
日本でも、山崎ナオコーラの「人のセックスを笑うな」というタイトルの小説が出て(芥川賞の候補にもなった)、映画化(2008年)されたのだから、アメリカのことばかりは言えないが。
アメリカで人気のある連続テレビドラマの映画化である。この度、第2弾「セックス・アンド・ザ・シティ2」が公開された。
原作は、ニューヨーク在住のライター、キャンディス・ブシュネルが週刊ニューヨーク・オブザーバーに連載していたコラム「セックス・アンド・ニューヨーク」である。
いわゆる、ニューヨークに住む4人のアラフォー、つまり40歳前後の女性の恋と仕事と友情の物語である。
いかにも都市生活者のための映画、物語である。それも、ニューヨークの。
ニューヨークの、高級なアパート、レストラン、仕事、恋、家庭。それらを一つの皿に入れてかきまぜて、女の友情という、(女にとって)とっておきのスパイスをふりかける。
仲良し4人組の顔ぶれを見ると、各々華やかな職業である。
この映画における主人公とも言える女性キャリーは、自分の本も出している売れっ子のライター(コラムニスト)で、ほかの3人の女性は、弁護士、アート・ギャラリーのディーラー、PR会社の社長である。
ここでは、アメリカの持つ本質的な矛盾や悩みは登場しないし捨象されている。ニューヨークの、ほどほどの高みにある快楽ある生活が、全編をおおっている。
悩みと言えば、愛、つまりここでいう広義のSexだけである(テレビドラマではいろいろ描かれているかもしれないが)。
となると、物語にとって大切なのは一人ひとりの人生の機微をどう描くかである。一人ずつ、長い人生を語るわけにはいかないから、断片を切り取り、その人物をどう浮かび上がらせるかが映画の決め手となる。
振りかえれば、このような人間の機微を生活や恋愛の中で描くというのは、ヨーロッパ映画が得意としたものだった。
しかし、ヨーロッパの場合は、そこにおそらく影が存在した。
華やかなパリやローマが舞台の映画とて、憂鬱な影が垣間見えたものだ。それは、長い歴史の影といってもよかった。それによって、恋や友情に陰影をもたらしていた。
この映画「セックス・アンド・ザ・シティ」では、4人の愛(セックスを伴った)のエピソードを織りまぜながら、4人のなかの中心的人物であるキャリーの恋に焦点が絞られる。 これがこの映画のピークというか骨格となっている。
ライター(コラムニスト)であるキャリー(サラ・ジェシカ・パーカー)は、以前から付きあっていた裕福な実業家のミスター・ビッグと結婚することになる。ところが、結婚式にビッグが来なかったことで、式は行われなくなり、恋は破綻したかに見える。
このような出来事は多くはないが、これに近い体験をした人はないことはないだろう。
僕は、4人のパッチワークのような継ぎ接ぎの映画から、キャリーとビッグの恋物語へ、いやこの映画が、恋の深淵を描くところへ行き着くのかと思ってみていた。
結婚式の不履行で、キャリーは落ち込み、他の友人は同情し、何とか彼女が回復するのを願う。
二人はどうなるのかと想像を巡らして見たが、唐突な恋の破綻も、突然の恋の修復も深淵には到らず、あっけなくハッピーエンドの友情でまとめあげられてしまった。
ここでは、最初から(スクリーンの中で)彼らが言うように、結婚する理由も、それ故に 別れる原因も、復縁する結果も、あらゆるものが希薄なのだった。あたかも部屋を決めるように、ファッションの服を選ぶように、愛は吐息しているのだった。
アメリカのテレビドラマの映画化だから仕方ないことなのであろう、と納得せざるを得ないのだが。
それにしても、「セックス」がタイトルに付くとは、それだけで引いてしまいそうなネーミングである。タイトルだけ見ると、アダルト映画と勘違いしそうだ。
しかもこのタイトルでテレビドラマであったというから、アメリカは進んでいるというか大胆というか、情緒や奥ゆかしさがないと思ってしまう。
といっても、かつて「セックスと嘘とビデオテープ」(スティーブン・ソダーバーグ監督1989年)なる評判になった映画もあった。
日本でも、山崎ナオコーラの「人のセックスを笑うな」というタイトルの小説が出て(芥川賞の候補にもなった)、映画化(2008年)されたのだから、アメリカのことばかりは言えないが。
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