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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ

2009-09-11 00:58:56 | 映画:外国映画
 スティーヴ・クローブス脚本・監督 ボー・ブリッジス ジェフ・ブリッジス ミシェル・ファイファー 1989年米

 いつも、気になるのは恋のゆくえ。
 恋に落ち、二人が夢中になり、幸せを感じたとて、それは束の間のこと。咲いた花が次の日も咲いていたとて、いつまでも咲き誇ってなどいない。
 いつだって恋は、ブランコのように揺れて、行きつ戻りつするし、胸はわくわくするだけでなく、締めつけられもする。恋は、掴んだと思ったら、目を離した瞬間、シャボン玉のようにちょっとしたことで壊れたりする。ラグビーボールのような硬い恋なんて……グランドの外に蹴り上げて、見えなくなればいい。
 だから、ハッピーエンドの恋物語ほどつまらないものはない。それは、第1章の終わりであって、そこから第2章が始まるのだから。第2章こそが、恋のゆくえ。

 フランク(ボー・ブリッジス)とジャック(ジェフ・ブリッジス)の兄弟は、しがないホテルのピアノ・デュオ。毎回、おそらくここのところ毎年、同じ曲を弾いている。
 兄のフランクは機転が利きマネージメントをしていて、弟のジャックはピアノはうまいが気難しい男だ。まったく性格も顔も似ていない二人だが、うまくいっていないことはない。ただ、仕事がジリ貧なのだ。
 そんなマンネリを打破するために女性ヴォーカルを入れようと思いたち、オーディションを行う。そこで、遅刻をしてきた蓮っ葉だが何となく気になるスージー(ミシェル・ファイファー)という歌い手を雇うことにする。
 スージーの枯れたような歌とセクシーな雰囲気が予想外に客に受けて、3人のトリオは人気者になる。
 いつしか、弟のジャックとスージーは惹かれ合う。兄のフランクは2人の接近に猛反対する。ピアノの腕はいいが何となく世間に背を向けているジャックと、やはり流れ者の生い立ちを隠せないスージーは、お互い好きになりベッドインするのだが、最後まで素直にはなりきれない。
 この頃より次第に、3人の間に微妙なすきま風が吹き出す。
 そして、スージーがこのトリオから抜け出し、ジャックとも別れることになる。 再びしがないホテルのピアノ弾きになった2人だが、ジャックとフランクも大げんかし、ジャックは兄フランクにデュオをやめると言いだす。
 結局3人は、ばらばらになってしまう。

 フランクの家に、ピアノ・デュオをやめると言いに来たジャックと家を整理していたフランクは、家にあった小さな向かい合ったピアノで、思いきりデュオを弾く。それは、子どもの頃、2人で弾いたときを思わせるように、最も嬉しそうな表情だった。
 別れたスージーに会いに来たジャックだが、2人はまだ愛し合っていると感じながらも、よりを戻そうとはっきり言わずに、「またいつか会うだろう」と言ったまま別れる。これがラストシーンである。
 2人がまた会って、恋を復活させるのかどうかは分からないまま、映画は終わる。
 
 兄と弟は、もうデュオを組むことはないのだろうか。
 兄は、これからは子供たちにピアノを教えて生計をたてると言っていたが、うまくいくのだろうか。
 弟は、あのプライドが高く気むずかしい性格のうえにアルコール依存症気味だから、才能はあっても兄がいなくて一人で生きていけるのだろうか。
 女は、また違った男と曖昧な関係になって、結局その土地にいられなくなって、さまようことになるのではなかろうか。
 ラストシーンは、次の物語のファーストシーンだ。映画の終わりとともに、次の物語の想像を掻きたてる。物語は、頭の中でちりぢりに飛んでいく。
  
 恋のゆくえ。それは、果てしなく続く物語だ。
 原題は、何とも味気ない「素晴らしきべイカー兄弟THE FABULOUS BAKER BOYS」。
 ミシェル・ファイファーの歌は決してうまくないが、最後の字幕と同時に流れる「マイ・ファニー・バレンタイン」は、余韻を伴って切ない。
 物語の筋はありきたりだが、3人が役柄にはまっていて、このラストシーンのお陰で、印象深い映画になっている。
 シャルル・アズナブールから人生の皺を抜きとったような、ニコラス・ケイジからアクをすくい取ったような、兄フランクを演じた、実際ジェフの兄でもあるボー・ブリッジスがいい。

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◇ 女ともだち

2009-07-27 16:48:57 | 映画:外国映画
 「女ともだち」とは、不思議な響きがある。
 女同士の友だち、特に三人以上の複数のグループの女ともだち。そこには、男にとっては微妙な想像をふくらませるものがある。
 思春期の女ともだちは、美しい若さと儚い友情の陰に、嫉妬や性や、そのほか男が想像できない感情が揺らめいているように思える。
 女ともだちの中には、同じ男を好きになっていたり、女ともだちに友情を超えた恋に似た感情を持っていたり、友だちというグループにいながら孤独を抱いている子もいるだろう。
 女と女の間には、男の間とは違った湿度があるように思えてならない。だから、女ともだち、女の姉妹の物語はよく小説や映画で描かれた。「女ともだち」の中には、おそらく男が想像できない秘密の花園があるように思えるのだ。例えば、日本映画では、「櫻の園」(中原俊監督、1990年)の、危うい女子高生の揺らめきのように。
 もちろん、「女ともだち」の存在は、思春期だけの特権ではない。大人の女ともだちだって、思春期の持つ想像性を掻きたてるものを損なってはいない。

 *

 ミケランジェロ・アントニオーニの映画「女ともだち」(1955年イタリア)は、イタリアのトリノが舞台の女ともだちの話だ。男と女の輪舞(ロンド)とも違う、もっと複雑で湿り気のある男と女の情愛が絡む。
 出演は、エレオノラ・ロッシ・ドラゴ、イボンヌ・フルノー、マドレーヌ・フィッシャー他。
 女ともだちというより、偶然知りあった年齢も職業も違う数人の女たち中で繰り広げられる物語。
 その中の一人の女が自殺未遂をする。そのことをめぐって、女性たちはかしましい。その原因は、当然男との関係である。
 それは、一人の女のエピソードに過ぎず、「女ともだち」の各々も、各々の恋物語を進展させている。仕事か恋かを考える女、妻ある男を恋した女、遊び心で男に近づく女。女たちの周りには、いつもというか、いつしか男がいる。
 女ともだちが、乾いた冬の海辺に出向くシーンがある。何人かの男もついてくる。みんな、それぞれの思いを抱いて海を見て、そして海と戯れる。
 その穏やかそうなシーンの裏では、ある恋が生まれ、ある恋が消えている。友だち同士が知っているようで知らない物語が、いつしか進んでいるのだった。
 「女ともだち」で浮かび上がってくるのは、友だち関係が脆くも儚いというのではない。人間は、結局ひとりぼっちであると感じさせるのだ。

 M・アントニオーニは、60年代、当時の欲望と倦怠を描いたイタリアの監督第一人者だった。この「女ともだち」は、かつて日本のATG(アート・シアター・ギルド)で公開され、最近BSで放映された。
 この映画のあと、「さすらい」、「情事」、「夜」、「太陽はひとりぼっち」と、話題作を連発する。そして、愛の不毛を描いたとして物議を醸し、ヴェネチア映画祭大賞も取った難解な映画「赤い砂漠」(モニカ・ヴィッティ主演、1964年)を発表する。
 その後も、M・アントニオーニは、「甘い生活」「81/2」などのフェデリコ・フェリーニと共に現代イタリア映画を牽引した。

 *

 この「女ともだち」という言葉を耳にすると、いつもあのときの情景が浮かぶ。
 1974年、20代の時パリに旅した。初めての海外への旅だった。そこで、知り合いのパリジェンヌに連れられて、彼女の友人の別荘であるノルマンディーの田舎に行くことになった。その別荘には、女性、つまり女ともだちを中心として10人ぐらいの若者が集まった。
 みんなでノルマンディーの海へ歩いて行ったり、海でカニを捕ったりした。夜はそれを料理して食卓に並べた。女性たちは何やら語らっていた。それは、僕には青春の一こまのように見えた。(写真)

 「夜は、語らいながらの宴が行われた。
 食事のあと、みんなでリビングで談笑していたときの情景がいつまでも忘れられない。ポール、ジャクリーヌ、イボンヌ、サリーヌ。そして、私と同じく唯一フランス人でないイギリス人のパトリシア。彼女たちはコーヒーを飲みながら何やら談笑していた。そのとき、ふとイボンヌのこぼした涙。あれは何だったのだろう。
 このとき、私はミケランジェロ・アントニオーニの「女ともだち」という映画を思い出していた。楽しげなパーティーや友好関係の間に垣間見せた、もう一つの表情。彼女たちは、これからどのような人生を歩むのだろう。」
 ――近刊『かりそめの旅』(岡戸一夫著、グリーン・プレス発行)第1章「初めての旅、パリ」より。

 僕は、「女ともだち」とは、今でもよく分からない秘密の花園である。男友だちにはない、少し甘いけど、少し湿った空気が漂っているように思える。その花園の周りには、蜂が飛んでいるのではなかろうか。

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◇ トゥルーナイト

2009-07-16 18:18:19 | 映画:外国映画
 ジェリー・ザッカー監督 ショーン・コネリー リチャード・ギア ジュリア・オーモンド ベン・クロス 1995年米

 アーサー王と円卓の騎士の伝説は、イギリス(イングランド)では古くから伝えられていて、いくつもの物語があるようだ。
 歴史上の英雄は、その過程で脚色され、伝説となっていく。歴史の道程で、あらゆるものが付加されて、次第に物語は複雑になったり、歪曲されたり、粉飾されたりする。
 アーサー王の物語も、時代とともにいくつもの変化を遂げていく。どこの国の伝説も神話も、少なからずそうなのだろう。
 伝統と格式を重んじるイギリスは、ぜひともこの理想的な国王の伝説を必要としたのだ。イギリスと、フランスを代表とする大陸のヨーロッパ各国は、お互い影響を受け合い、そこから騎士道の物語も派生してくる。さらに、ロマン主義も生まれてくる。

 「トゥルーナイト」とは、「True knight」で、真の騎士といった意味だが、原題は「ファースト・ナイト」で、「First knight」、つまり第一級の騎士、第一の騎士(円卓の騎士は12人で構成されていた)である。
 この物語は、流れ者ランスロット(リチャード・ギア)と、のちにアーサー王妃に迎えられるグウィネヴィア(ジュリア・オーモンド)の恋物語である。
 父が死に衰えている国の姫グウィネヴィアは、理想の法治国家を目指すイングランドのキャメロットを治める王、アーサー(ショーン・コネリー)と結婚することを決める。その儀式のために自国を出たときに、アーサー王から袂を分かったマラガント(ベン・クロス)の一味に襲われる。そのとき彼女を救ったのが、めっぽう剣のたつ流れ者ランスロットだった。
 キャメロット国に行ったランスロットは、王にその腕の技量を買われ円卓の騎士に迎えられる。
 アーサー王を尊敬し結婚の約束を交わしていたグウィネヴィアだったが、ランスロットの愛に惹かれ二人がキスをし抱きあっているところをアーサー王に見られてしまう。
 怒った王は二人を人民の前で裁判にかけることにするが、そこへ仇敵マラガントが攻め込んできて、裁判どころではなく戦いとなる。アーサー王は敵方の剣を受け深傷を負うが、ランスロットがマラガントを下し、キャメロットは守られる。
 アーサー王は、キャメロットとグウィネヴィアの将来をランスロットに託して息を引きとる。

 「アーサー王」の、単純でサスペンス冒険に充ちたラブロマンスの映画だ。
 日本のチャンバラ映画のような、殺陣の闘いが繰り広げられる。しかし、日本の時代劇の場合もそうなのだが、どうして主役と相手役(悪役)の首領(王とも言えるボス)と一対一の闘いになるのか、不思議である。戦の最中、部下がいっぱいいるのに、そのときは誰も自分の大将(王)を援助しないのである。
 そもそも、戦の最中に、王が大勢の兵士と一緒になって、渦中で剣を振り回していたとは思えない。

 ここではランスロットが、万能の剣士として描かれている。にやけたリチャード・ギアが少し心許ないが、好感は持てる。悪役のベン・クロスがいかにも悪そうなので、好対照になって助かっている。
 相手役のヒロイン、ジュリア・オーモンドは、一目で心奪われるような美女ではないところがもの足りない。
 アーサー王のショーン・コネリーは、貫禄勝ちである。年をとって少し表情が軟らかくなり、物わかりがいい好々爺の印象になってきたのが不満である。もっと、「007」のボンドの頃のチョイ悪の印象を残して欲しいと思うのは、無理な注文か。

 また、騎士道恋愛の基となる、騎士が位の上の人妻(王の后)に恋するという、愛の原型が見てとれる。これは不倫であり、日本の封建時代では考えられない御法度であるが、ヨーロッパの騎士道では恋愛の基本となっていく。
 実際に肉体関係にまで行き着くかどうかではなく、身分の違う憧れの人に対する恋慕が騎士道の恋愛、つまり純愛だったのだ。
 では、横恋慕された妻の夫(多くは位の上の貴族や王)は、どんな心境だったのかというと、これが面白く、それほどの魅力ある妻を持っているというプライドをくすぐったというから、不思議で微妙な関係を形つくっていたのだ。
 日本では、例えば下級武士が、大名や家老の奥方に恋心を抱き、熱い視線を送ったり、恋文を渡したりしたのがばれたら、切腹ものだっただろう。
 ヨーロッパの花咲ける騎士道は、恋心に充ちている。
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刑事

2009-07-07 04:05:37 | 映画:外国映画
 ピエトロ・ジェルミ脚本/監督 ピエトロ・ジェルミ クラウディア・カルディナーレ ニーノ・カステルヌオーヴォ フランコ・ファブリッツィ エレオノーラ・ロッシ・ドラゴ 1959年伊

 いきなり、あのメロディーがやってくる。
 Amore amore amore, amore-miyo. アモーレ、アモーレ、アモーレ、アモレ・ミヨ……。
 若いときにその曲を聴いたとき、イタリア語は分からなかったが、恋の切実さが伝わってきた「死ぬほど愛して」の歌。
 「死ぬほど愛して」とは、「Sinno me moro シノ・メ・モーロ」。アリダ・ケッリが歌った映画「刑事」の主題歌で、映画音楽と言えば、「太陽がいっぱい」と争うぐらい、この歌が真っ先にでてきた有名な歌だった。
 当時まだ本当の恋など知らなかった少年には、死ぬほど愛してとはどんな気持ちだろうかと、その言葉だけで心がふるえた。

 映画「刑事」オープニング・シーンは、広場の噴水が映しだされ、このメロディーから始まるのだった。
 ヨーロッパではよくある、大きな通りが交わるところにある広場。その広場に中心にある憩いの噴水。その噴水の前の路地を入ったところに玄関の階段がある古いアパートで起こった強盗事件が、ことの始まりだった。
 強盗事件は、隣の部屋の夫人の殺人事件に発展する。
 この序盤で殺される夫人が、ミケランジェロ・アントニオーニの「女ともだち」に出てくるエレオノーラ・ロッシ・ドラゴだった。
 その容疑者とおぼしき殺された夫人の夫と、夫人の遠縁のいかがわしい医師。さらに、お手伝いの若い女とその恋人。
 誰が犯人か分からないまま物語は進むが、やり手の刑事がついに真犯人を割り出し、捕まえる。
 映画のラスト・シーンも、逮捕された犯人の護送車を追って走るクラウディア・カルディナーレの姿に、覆いかぶさるように、この「死ぬほど愛して」の歌が流れる。
 「シノ・メ・モーロ」は、恋人が引き裂かれる歌なのだ。
 
 この映画で一躍スターになったクラウディア・カルディナーレ(C・C)は、その後の名作「ブーベの恋人」に共通する一途な女の魅力を、すでに発揮している。そう、「ブーベの恋人」の映画音楽もまた、ひたすら哀愁的なのだ。
 C・Cは、野良猫のような魅力がある。
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◇ わらの女

2009-05-31 02:15:21 | 映画:外国映画
 カトリーヌ・アルレー原作 バジル・ディアデン監督 ジーナ・ロロブリジーダ ショーン・コネリー ラルフ・リチャードソン ジョニー・セッカ 1964年英

 今、もっともセクシーな女優は誰かといえば、アンジェリーナ・ジョリーだろうか。さらにスペイン女のペネロペ・クルス。セクシーとは違うけど美女のイギリス女キーラ・ナイトレイ。少し遡ってイタリア女のモニカ・ベルッチ、アメリカ女のシャロン・ストーン。
 さらに遡れば、イタリア女のC・Cことクラウディア・カルディナーレ、フランス女のB・Bことブリジット・バルドー、そしてアメリカ女のM・Mことマリリン・モンローなどに行き着く。
 それに、キム・ノヴァクやジャンヌ・モローなどの成熟した女、正統派美女のカトリーヌ・ドヌーブやドミニク・サンダ、はたまたジーン・セバーグやジャクリーヌ・ササールなどの美少女イメージを付け加える人がいるかもしれない。
 忘れてならないのは、50年代から60年代と長い間ヨーロッパではこの人がセクシーの代名詞だった時代があった。それは、イタリア女のジーナ・ロロブリジーダ。
 伝説の美男子ジェラール・フィリップと共演した「花咲ける騎士道」、「夜ごとの美女」で名声を不動とするや、その後はそのグラマラスな肉体で男どもを虜にした。

 セクシーな男優といえば、ブラッド・ピッド、キアヌ・リーブス、ヒュー・ジャックマンetc.etc.
 しかし今は髪も薄くなりすっかり渋くなったが、やはり「007」の初代ジェームス・ボンド役で一世を風靡したショーン・コネリーをあげなければならない。この人には、アラン・ドロンにはないゼントゥルマン、紳士の雰囲気があった。

 セクシーな女とセクシーな男である、この二人が共演した映画が「わらの女」である。
 内容は、大金持ちの初老の実業家である男(ラルフ・リチャードソン)は車椅子の生活だが、まだ第一線で指揮をとっていて、意気軒昂で女性への強い関心もある。
 その甥である男(ショーン・コネリー)は、子供がいない叔父の仕事を受け継いでいるのだが、遺産はわずかしかもらえず、叔父が死んだらその大半は慈善事業に寄付すると遺書にあるのが不満である。
 その叔父のところに、お抱え看護師として美女(ジーナ・ロロブリジーダ)がやってきた。甥は看護師に叔父に取り入れられるようにし向ける。叔父は一目で看護師を気に入り、やがて結婚するに到る。そして、妻に遺産を譲るように遺書を書き替える。
 そして、叔父である男と今は妻になった看護師と甥の三人は、船で海に出かける。そこで、叔父の男が突然死ぬ。
 男は病死なのか殺害なのか、もし殺されたとしたら誰がどうやってというミステリー仕立ての映画である。
 
 「わらの女」、変わったタイトルだと思っていた。
 かつて高校時代に、このようなタイトルの映画を見たのだが、もっと地味な暗い映画だったように思った。それに、ロロブリジーダのような魅力的な女性が出てきたという印象はない。
 だとすると、「わらの女」ではなく「わらの男」(ピエトロ・ジェルミ監督)だったのだろう。
 映画の原作は、「Woman of straw」。もともとカトリーヌ・アルレーの原作は、フランス語で「La femme de paille」。直訳通り、わら、つまり藁の女である。
 もともと、わらの男は、取るに足らない人間を言ったようである。それに操り人形、傀儡を意味したようだ。
 それは、この映画の主題を意味しているのだが、男と女、どちらが藁なのか分からないというのが人間の本質のようである。

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