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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

そして、私たちは愛に帰る

2011-01-31 20:04:04 | 映画:外国映画
 脚本・監督:ファティ・アキン 出演:バーキ・ダヴラク トゥンジェル・クルティズ ヌルセル・キョセ ヌルギュル・イェシルチャイ パトリツィア・ジウルコフスカ ハンナ・シグラ 2007年ドイツ・トルコ・イタリア合作映画

 トルコはヨーロッパとアジアを結ぶ地にあり、かつてのオスマン帝国からトルコ共和国へとなった国である。現在はNATO(北大西洋条約機構)に加盟しているが、欧州連合EUには申請しているものの、加盟認可されてはいない。
 国民のほとんどがイスラム教徒で、かつての都イスタンブールは東西の経済交流の地として栄えた。

 トルコとヨーロッパを結ぶ物語である。
 映画の舞台は、ドイツのブレーメン、ハンブルク、そして、トルコのイスタンブール。
 脚本および監督は、トルコ系ドイツ人のファティ・アキン。

 初老のトルコ人のアリ(トゥンジェル・クルティズ)は、ドイツのブレーメンで、妻を亡くして一人で暮らしている。もう仕事はリタイアしているがいたって元気で、経済的にも年金で悠々自適である。
 彼の一人息子のネジャット(バーキ・ダヴラク)は、ハンブルクの大学でドイツ語の教授をしている。
 ある日、アリは街角のトルコ人の娼婦イェテル(ヌルセル・キョセ)が気に入り、今の収入は保証するから、自分とセックスするだけという条件で、自分と暮らしてほしいと申し出る。
 イェテルは、申し出を受け入れる。彼女は、トルコのイスタンブールに大学に通っている娘アイテン(ヌルギュル・イェシルチャイ)がいて、彼女のために仕送りをしているのだった。
 そこに、ハンブルクから息子のネジャットが帰ってくる。父と暮らすというイェテルの身のうちを聞いて、ネジャットは彼女に同情する。一方、金の力でイェテルを従わせようとする父に反発を覚える。
 そんな息子とイェテルに嫉妬したアリは、思いあまってイェテルを殴り、誤って彼女を殺してしまう。

 ここまででも物語として面白く、問題の伏線が周到に敷かれている。
 ドイツに移民として生活しているトルコ人。移民を受け入れているドイツで暮らすトルコ人は、現在約300万人とも言われている。EUの経済大国ドイツに対して、トルコはEU加盟を望みながら今だ未加盟だ。トルコには、経済問題以外にも、宗教・政治問題が内包している。
 娼婦と金で愛人契約を結んだ父と、それを冷ややかに見つめ、父の愛人に親しみを覚える息子。このシチュエーションだけでも、奇妙な親子の三角関係とも受けとめられるが、そういうエロチックな物語ではない。

 父アリは、収監される。息子ネジャットは、そんな父を許す気になれない。
 ネジャットは、死んだイェテルの娘アイテンを探し出し、援助するために、トルコのイスタンブールを訪れる。しかし、簡単には見つけられそうもないので、腰を落ち着けて探そうと、たまたま売りに出されていた書店を買って、イスタンブールに住みつくことにする。
 実は、アイテンは反政府活動グループの過激派に入っていた。彼女は、民主化を叫ぶ反政府騒動の最中にピストルを拾い、ビルの上に隠す。そして、政府の追及から逃れるためにドイツに逃亡し、ハンブルクに不法入国する。
 金のないアイテンは、ハンブルクの大学で、学生のロッテ(パトリツィア・ジウルコフスカ)と知りあい、その家に居候することになる。ロッテは、母ズザンネ(ハンナ・シグラ)と住んでいて、母は娘が過激な思想のトルコ人と親しくなりすぎていくことを心配する。
 ある日、車に乗っていた二人はパトロール中の警察の尋問にあい、アイテンの不法入国がばれて逮捕され、イスタンブールに強制送還されてしまう。
 ロッテは、アイテンを救うために、母の反対を押し切って自分もイスタンブールに向かう。
 獄中で面会のときに、アイテンは隠してある秘密のものを取り出してほしいとロッテに依頼する。それはピストルだったのだが、それを探したロッテは、それが元で誤って死んでしまう。

 イスタンブールの街中が映しだされる。ヨーロッパと違い、エキゾチックなイスラムの香りが漂う。
 イスタンブールの反政府のデモや騒乱は、日本の1960年代後半から70年の学生運動を彷彿させる。

 ロッテの母ズザンネは、娘が死んだイスタンブールに行く。そこで、アイテンを探しながら書店を営んでいる、ネジャットと知りあう。
 娘の死んだ原因ともいえるアイテンと面会したズザンネは、涙を流しながら許しを請うアイテンを許し、彼女が解放・出獄されるのを手助けする。
 また、ドイツで入獄していたネジャットの父アリも、トルコに強制送還される。その話を聞いたネジャットは、父に会いに行こうと思いたつ。

 ドイツに住んでいるトルコ人移民1世のアリと、息子の大学教授ネジャット。
 これまたドイツに出稼ぎにきていたトルコ人のイェテルと、娘のイスタンブールの学生アイテン。
 ドイツに住むドイツ人のズザンヌと、娘の学生のロッテ。
 ドイツとトルコを舞台に、3組の親子が絡みあう。それぞれの親子は、それぞれ死に出くわす。
 複雑に絡みあった物語は、まるでタピストリーを編むように上手に組み立てられている。その周到に組み立てられた話は、あまりにも偶然によるご都合主義的な面があるとしても、それが違和感なく流れるのには、設計図を引くような計算に裏打ちされているからなのだ。

 ストーリーをなぞるだけでこの評は終わった感じだが、そのストーリーだけで、脚本・監督のファティ・アキンが言いたいことが窺える。
 「愛より強く」(2004年、ベルリン国際映画祭金熊賞)に続く作品で、07年のカンヌ国際映画祭最優秀脚本賞。

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あなたに降る夢

2011-01-28 02:30:13 | 映画:外国映画
 監督:アンドリュー・バーグマン 出演:ニコラス・ケイジ ブリジット・フォンダ ロージー・ペレズ 1994年米

 僕はギャンブルはやってきたけど(今はやらないが)、宝くじは買わない。
 競馬や競輪の馬券や車券を買うのは、単なる番号を買うのではなく、少しは推理が入り込む。いや、推理する楽しみがある。
 カジノ(カシノ)だって、推理に加えてディーラーとの対決がある。単純なルーレットであれ、そう思える。それにまず、ギャンブル(賭け)をやるには、自らの足で、そこ(カジノ場)へ行かなければならない。映画を観に、あるいは音楽を聴きに会場に行くように。入場券を払って、だ。
 ましてや、麻雀に到っては、3人を相手に頭をフル回転させ、目まぐるしく変わる状況を見ながら、ときには心理作戦をちらつかせながら、勝負を競わなければならない。ギャンブルといえども、囲碁や将棋の闘い(戦局)に近い。
 しかし、宝くじはそうではない。番号が印刷された紙切れを買ったら、あとは結果を待つだけである。その数字が当たるか当たらないかに、自分の推理や意志や、ましてや努力が働く余地はない。
 そこには、スリルもない。つまり、僕は何の面白みも魅力も感じないのである。

 それに、宝くじの還元率、払い戻し率の悪さである。
 ギャンブル(賭け)やクジは、胴元が必ず儲けを出すために、還元率は1(100パーセント)以下である。そうしないと、胴元(例えばカジノ)はつぶれることになる。
 単純なルーレットの場合でも、ラスベカスルーレット(「0」「00」がある)の場合は約95パーセントで、ルーレットモンテカルロ(「0」がある)に到っては約97パーセントである。ヒフティ・ヒフティに近い。
 わが国の公営競馬の場合は、還元率75パーセント(近年、単勝・複勝は80パーセントに)である。
 しかし、宝くじはそうではない。朝日新聞の記事「今さら聞けない+宝くじの買い方」によると、国内の公営クジの還元率はすべて45パーセント近辺とある。これは、当選金付証票法で5割を超えてはいけないと決まっているからだそうである。
 つまりわが国の宝くじは、半分以上は胴元に、つまり国に税金として持っていかれているのである。税金を積極的に納めるのは悪いことではないので、それはそれでいいのだが。

 *

 映画「あなたに降る夢」(It could happen to you) は、宝くじに当たった男の物語である。
 ニューヨークの人のいい警察官(ニコラス・ケイジ)が、レストランで食事の支払いをしようとすると、ウエイトレス(ブリジット・フォンダ)に払うチップ代が足りない。男は、チップ代の代わりに、買った宝くじが当たったら半分やるので、それで許してくれ、と言って店を出る。ウエイトレスもあてにしていなくて、それでいいわと言って手を振る。
 ところが、その宝くじが当たり、400万ドルが入ることになる。
 1990年代前半は、1ドル120~150円ぐらいで、日本円に換算すると約5~6億円ということになる。
 真面目な警官は、妻(ロージー・ペレズ)の反対を押し切って、正直にウエイトレスの彼女に半分を渡すことにする。最初は冗談と思っていたウエイトレスは、それが本当だと分かって戸惑ってしまう。彼女はその申し出を最初は断わるが、正直な警官は約束だと言って、払う。
 このことを、マスコミは美談として持ち上げる。
 ここから、本当の物語は始まる。
 急に持ちなれないものを持つと、人生がおかしくなると言うではないか。
 しかも、舞台はアメリカ・ニューヨークで、ラブ・コメディである。山あり谷ありでハッピーエンドで終わる。
 これが、実際にあった話をもとにした物語だというのが面白い。
 こういう物語があるから、宝くじを買う人が絶えないのかなあと思ったりもする。

 さて、ここで問題なのは、警官の立場になったときに、自分だったらどうするだろうか、である。正直に、200万ドルをウエイトレスに渡すだろうか?
 美人だったら渡すのだろうか? 相手が嫌みな女性だったらどうするだろうか?
 こんなことで悩むのは、取り越し苦労ではあるが。

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オネーギンの恋文

2011-01-03 15:16:39 | 映画:外国映画
 原作:アレキサンドル・プーシキン 監督:マーサ・ファインズ 出演:レイク・ファインズ リヴ・タイラー トビー・スティーブンス ルナ・へディ 1999年英

 恋は生きもの。
 恋しているとき、人は詩人になる。
 田舎の情景も、野の花も、流れる雲も、すべてがいとおしく、手を伸ばせば掴みとることができる。
 それもひととき。
 気まぐれで、意地悪な恋は、するりと二人の間をすり抜ける。
いつしか野の花は萎び、雲は山の彼方に消えていき、さっき見た風景は変わってしまっている。
 それでも、いつしか時は過ぎ行く。
 あるとき、失くした恋の欠片を拾うときがある。
 そのとき、野の花や、流れた雲や、かつて輝いていた風景が甦ってくる。そしたら、また追い求めずにはいられないのだ。

 *

 19世紀のロシアのペテルブルク(サンクトペテルブルク)。
 退廃的な遊蕩に暮れる貴族の生活に辟易していたオネーギン(レイク・ファインズ)は、金も尽きていた。そんな折、独り者だった伯父が死に、田舎の広大な土地と屋敷と莫大な遺産が転がり込んでくる。
 オネーギンは出向いた伯父の住んでいた田舎の館で、近所に住む地主の若者ウラジミール(トビー・スティーブンス)と知り合いになる。歌を歌い、詩を作るウラジミールは、隣家の娘である次女オルガ(ルナ・へディ)と恋仲だと言った。
 彼はオネーギンをその隣家の館に誘い、その家の女性を紹介する。
 明るいオルガは、恋人ウラジミールの奏でる楽器に合わせて歌う。

  ボルチナ川のそばにスイカズラが咲く
  雪のように白く、丈の高い美しい花
  枝の下には恋に破れた乙女が独り
  馬に乗る殿方を思いたたずんでいる

 スイカズラという響きがいい。ロシアの田舎を連想させる。
 草や潅木の名では、カタバミやサンザシという響きも好きだ。

 オネーギンは田舎の人間を少し見下していたが、田舎にもそれなりの文化、教養があることを知る。
 長女のタチャーナ(リヴ・タイラー)は、次女オルガと違って奥ゆかしくも読書好きのもの静かな女性だった。そして、情熱家でもあった。
 タチャーナとオネーギンは、すぐに互いが好意を抱いているのを自覚する。
 タチャーナは、感情の高まりのまま、紙を取り出しペンをとる。
 「Why何故」、「eyesまなざし」、「help救い」、「secret秘密」、「love愛」
 ロシアの雄大な田舎の風景の中で、恋が生まれようとする瞬間は、美しく儚げだ。

 「あなたをひと目見てすぐに確信しました。私の運命の人が現れたと。私の気の迷いを晴らしてください。すべてがむなしい妄想で、別の運命が待つのですか?……」
 タチャーナから情熱的な恋文を受け取ったオネーギンは、彼女の恋の申し出を断り、次のように彼女に言う。
 「愛の告白、キス、結婚、家庭、義務、倦怠、不貞。そんな未来を望みますか?」
彼女は、しっかりと答える。
 「私は未来の可能性を信じます」

 そんな折、オネーギンが不用心に放った、オルガを冷笑する言葉に怒ったウラジミールが、 オネーギンに決闘を申し込む。当時、決闘は認められていたのだ。
 決闘でオネーギンはウラジミールを殺してしまい、彼は田舎のその地を去り一人旅に出た。そして、再び都会のペテルブルクに戻る。

 田舎を去って6年の歳月が過ぎたある日、社交界のパーティーで、オネーギンはタチャーナを見つける。彼女は、彼より位の高い公爵である従兄弟と結婚していた。そして、より気高く、美しく見えた。
 オネーギンはタチャーナに会うことを求めるが、拒絶される。
 障害がそびえたっていれば、さらに燃え上がるのが恋の炎。ましてやその相手は、かつて自分に恋していた女性だ。
 今度は、オネーギンがタチャーナに恋文を出す。
 「残された時間は短く、1分1秒も貴重なのに、むだに時間を過ごしています。恋の渇きに身を焦がしながら、理性で静めています。でも、自分の気持ちをこれ以上抑えられない。私はあなたの意のままです」
 オネーギンはタチャーナにひざまずき、乞いすがるのだった。

 *

 恋は生きもの。
 失くした恋は、いつの間にか輝きを増している。
 他人(ひと)の手に渡って、初めてその尊さを知る恋もある。
 しかし、かつて咲き誇っていた野の花も、流れる雲も、爽やかな風景も、今はそこにない。
 再びそれを手のひらの中にとじ込めるには、どのような手管が、いかなる熱情が、嘆きに代えて必要だというのか。
 それとも、もう二度と戻っては来ないものだろうか?

 *

 原作は、アレキサンドル・プーシキンの「エヴゲニイ・オネーギン」。
 プーシキンも、主人公のオネーギンと同じくロシアの貴族であった。彼は、美人の妻ナターリアに執拗に言い寄るフランス人のジョルジュ・ダンテスに決闘を申し込む。そして、死ぬ。
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疑惑の影

2010-12-15 03:08:44 | 映画:外国映画
 監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジョゼフ・コットン、テレサ・ライト、ヘンリー・トラヴァース、パトリシア・コリンジ、マクドナルド・ケリー 1943年米

 戦後の、つまり少し前の時代のアメリカのごく普通の家庭とは、こういうものであろう。
 のどかな郊外に建つ、瀟洒な一軒家。家の周りには落葉樹の木が植えてあり、それらの木々が季節を教えてくれる。梢の先の2階の窓からは、レースのカーテンが見え、時折少女が微笑みを浮かべた顔を出す。
 家の中を見渡せば、1階にはソファーのあるゆったりとした居間があり、そこにはテレビが置かれて、電話もある。台所には今でいうシステムキッチンが整っていて、背の高い冷蔵庫が置かれている。2階へ行けば、子どもたちの個室まである。
 家族は、地方の銀行員の実直な父親と、こまめに働く気のいい母親。子どもが3人いて、成績のいい高校生の長女と、少し年の離れたまだ小学生のお茶目な妹と弟。
 映画やテレビで流れる戦後のアメリカの家と家庭は、作り物の別世界のようであった。日本では、まだ文化的と言われた2DK(約40~50㎡)の団地すらできていない時代のことだ。

 アルフレッド・ヒッチコックの「疑惑の影」は、カリフォルニアの、典型的なアメリカの家庭での出来事である。
 2階の自分のベッドで寝ころんでいた少女(テレサ・ライト)が、病気でないかと心配で部屋をのぞきにきた父親に言う。
 「何時間も考えて、あきらめるしかないって分かったの」
 「何をだね?」と父親は尋ねる。
 「家庭ってこの世で一番いいものなのに、うちは崩壊している」
 「崩壊?」
 「毎日、何もなく、同じように過ぎていくだけ。もう何か月も考えている。この先どうなるの?」
 「悪く考えるな。パパも昇給しただろう」
 「魂の問題なのに、お金を持ち出すなんて」「みんな、食べて、寝るだけ」「あとは、中身のない世間話だけ」
 「働いているよ」
 「そうね、ママなんて働きずくめで哀れだわ」
 そして、少女は「奇跡を待つしかしようがないわ」と溜息にも似た呟きを吐くのだった。

 この倦怠感を打ち破ってくれるのが、叔父のチャーリー(ジョゼフ・コットン)だと少女は確信するのだった。自分と同じ名前の叔父は、少女の憧れの人で、今はニューヨークにいるのだった。
 その叔父が、久しぶりにこの家に来てしばらく滞在するというのだ。少女は叔父の訪れを心待ちにした。そして、叔父はやってきた。
 やはり、叔父は颯爽としていた。しかし、その叔父は秘密を持っているようだった。2人の男が密かに追っているようだ。

 映画の冒頭の、少女の家(家庭)への不満の呟きは、僕の思春期を思い出させた。
 この少女の嘆きは、僕の高校時代の思春期の思いと同じだった。
 子どもから大人になる時期、おおかた高校生の頃だが、思春期の反抗期がやってくる。毎日、同じことを繰り返して日々を過ごしている、それでいてそのことに疑問を持っていないような大人に懐疑的になるのだ。何のために、何を目的に生きているのか?という疑問。それは、手っ取り早く、身近な両親に向けられる。
 そして、少年は考える。
 こんな何も起こらない田舎を、一刻も早く出て行きたい。学校を卒業したら、都会へ、東京へ、出て行こうと。
 だから、都会である東京へ出ていた叔父が輝いて見えた。どんな生活をしているかは関係なかった。この映画の少女と同じように。

 都会や別の世界への憧れ。そして、故郷を去ることによって初めて知る世間の熱くも冷たくもある風。それを経験することによって、故郷や田舎の良さが分かるようになる。それは、自立への第一歩である。
 そして何よりも大切なのは、何も変化がなく繰り返される、かつて自分が懐疑的になり憎悪すら感じていた平凡な日々の良さが分かるようになるのだ。
 思春期は、自分が育った身の回りの小さな世界から、別の大きな世界に目を向ける時期で、元の世界との別離の時期である。
 憧れの世界は汚辱にまみれていようとも、旅立たねばならない時期なのである。

 「疑惑の影」のこの映画では、テレサ・ライトはアメリカの夢みる少女役がよく似合っている。かつてこういう優等生的な美少女がアメリカにはよくいた。今の少女と違って、少し遠くをキラキラと見ていた。
 彼女は2005年になくなった。86歳になっていた。
 陰のある叔父役の、「第三の男」で有名なジョゼフ・コットンも、気障な叔父を好演している。
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めぐりあう時間たち

2010-11-18 18:47:44 | 映画:外国映画
 原作:マイケル・カニンガム 脚本:デヴィッド・ヘア 監督:スティーヴン・ダルドリー 出演:ニコール・キッドマン ジュリアン・ムーア メルリ・ストリープ 2002年米

 小説の世界には、「純文学」なるものが存在してきたし、現在も少しは境界線が曖昧になったとはいえ、大衆・娯楽小説に対比する世界として、ずっと生きてきた。
 映画にもこういうジャンル分けがあるなら、この映画は間違いなく純文学的なる「純映画」といえるだろう。いや、元々映画は娯楽を目的として誕生してきたとするなら、純も大衆もないだろうという考え方もある。

 若いときから「純」に惹かれていた。
 純愛、純情、純文学……
 社会に出て世俗にまみれ、不純に染まっても、純は心の奥で時々目を覚まし、僕をいさめた。純はいつも、僕を原点に戻してくれるものとしてある。ということは、純は遠い彼方の空のようなものなのだろうか。

 1920年代のイギリスの郊外。作家ヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)は、田舎の家で小説「ダロウェイ夫人」の構想を練っていた。
 精神不安定なヴァージニアを見守る夫のレナードのいるなか、ヴァージニアは小説の出だしの文が見つかったと言う。
 “「私が花を買ってくるわ」とダロウェイ夫人は言った。”

 2001年のニューヨーク。編集者であるクラリッサ・ヴォーン(メルリ・ストリープ)は、詩人で小説家である恋人のリチャードの受賞祝いのために、花を買いに行く。しかし、リチャードはエイズに冒され、体も精神も荒廃していた。クラリッサもまた疲労していた。

 1951年のロスアンゼルス。第2子の妊娠中の中流家庭の主婦、ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は、夫の誕生日のお祝いもどこか上の空だ。彼女は、「ダロウェイ夫人」を読んでいた。そして、発作的に彼女は子どもを置いて、自殺を考える。

 「めぐりあう時間たち」(原題、The hours)は、この時間を隔てた3人の女性の人生が、ある1日を通して描かれる。1日の出来事のなかに滲み出る、彼女たちの愛と葛藤が時代(時間)を隔てて滲み出てくる。
 目の前の夫の優しさは? その優しさに身を任せている自分は? 今までの人生は? と問いかけている。

 「ダロウェイ夫人」を書いていた当時のヴァージニア・ウルフは、精神が病んでいた。少なくとも夫を含めて、周りからはそう見えた。それ故、夫のレナードは彼女を連れて、喧噪な都会のロンドンを離れて、田舎暮らしを始めたのだった。
 彼女は夫の優しさを蔑(ないがし)ろにするかのように、「ロンドンに帰りたい」と言う。
 「住みたくない町に住んで、望みたくない人生を送っている」
 夫は優しくいさめる。「君はロンドンで病んだ。この田舎の安らぎが必要だ」と。
 「退屈で死にそうな田舎町より、暴力の吹きあれる都会に住みたい。人生を避けても、安らぎは訪れないわ」
 彼らは、再びロンドンに帰ることにする。

 夫はヴァージニアに問う。「なぜ死なせる? 君の小説は誰かが死ぬ」
 「誰かが死ねば、生きる価値が分かる。対比よ」
 そして、彼女は呟く。
 「最後に決まらないものがあるの。ミセス・ダロウェイの終焉よ」

 1941年、ヴァージニア・ウルフは入水自殺する。
 夫レナードに囁く彼女の言葉で、スクリーンは幕を閉じることになる。
 「人生と向かい合い、どんな運命からも顔を背けることなく、それが何かを、知り、深く、理解すれば、人生そのものを愛せる。そして、捨てるの」
 「私たちの間には、長い年月があった。永遠に、愛があり、永遠に、時が流れた」

 誰でも、どの時代でも、「純」に生きることは難しい。しかし、純に生きたいと思う。
 ヴァージニア・ウルフを演じたニコール・キッドマンは、あの「ムーラン・ルージュ」の艶やかさを抑え隠して、苦悩を抱える作家の顔になっていた。

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