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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

人生の儚さを知る、「ライムライト」

2011-11-15 03:06:58 | 映画:外国映画
 誰にでも人生の黄昏がある。いや、人生の終末がやってくる。
 若いときは、そんなことがおこるとは思ってもみない。いつか自分も死ぬとはわかっていても、人生はなぜだかずっと続くと思っている。少しずつ年はとっていくものの、輝いている太陽が地平線に沈みゆくような黄昏時が自分にも来るとは、よもや思わない。
 振り返るに、こんなに確実なことが、なぜわからなかったのだろう。いやいや、わかってはいたはずだ。なのに…
 いつか必ずやってくるはずのものの正体は、自分では容易に知覚できない「時」なのだ。それは、身近にやってきて初めて感じるものなのだ。
 時は、それほど緩やかなように見え、ことさら気づかれないように進んでいる。
 しかし、人生の黄昏は誰にでも等しく、いつしかやってくる。ある時、何かの時に、それに気づく。いや、気づかされるのだ。そのとき人は知る。時は速いのだと。
 生まれた時から、人は老いに向かって進んでいるのだ。
 時は残酷だ。
 誰もそれを止めることができない。名誉や金や権力を得た人も、それを避けることができないし、何をもってしてもそのことから逃れることはできないのだ。

 *

 チャールズ・チャップリンの映画「ライムライト Lime-light」(1952年、米)には、いくつかの人生への箴言が散りばめられていた。
 チャップリンが60歳を過ぎた時の、製作・脚本・音楽から監督までした作品だ。
 主人公は、かつて脚光を浴び名声を博した老コメディアン(チャールズ・チャップリン)だが、今や舞台では誰も笑ってくれない。昔の名前のよしみで仕事を受けながら、アパートで独りで暮らしている。まるで、ロウソクの火が次第に細くなり消えゆくように。
 そんな彼が、同じアパートで自殺を企てた若い女性(クレア・ブルーム)を助ける。彼女はダンサー志望だが、病気になって踊れなくなり、人生に失望したのだった。
 老コメディアンは彼女に言う。
 「人生は素晴らしい。人生に必要なのは、勇気と想像力だ。そして、少々の金」
 彼は、彼女に生きるように激励の言葉を吐く。
 「死と同じように生も避けられないのだ」

 二人は愛し合う。
 病も癒え元気になった彼女は、やがて踊り子として成功する。
 老コメディアンは言う。
 「時は偉大な作家だ。完璧な結末を招く」
 彼女の前に現れた若い作曲家であるピアニストは、彼が売れない貧困の生活をしていたときに心を通わせたその人だった。
 それを知った老コメディアンは、そっと二人の前から去る決心をする。舞台の役も降ろされる段取りになろうとしていて、すでに自分の時代は去ったと知る。
 「何も失っていない。変わっただけだ」
 老コメディアンは、名声もプライドも捨て、人影少ない場末で芸を演じて細々と糊口をしのぐ。
 そんな彼を見つけて、今や有名になった踊り子や昔の知り合いが救いの手を差しのべ、彼のための舞台をプロデュースする。
 老コメディアンは、昔のように大舞台に立つ。その時(映画)の、チャップリンの共演の老ピアニストは、同じく偉大なコメディアン、バスター・キートン。
 ロウソクの火が最後に大きく燃えさかるように、彼は演じ、喝采を得、つかの間ロウソクの火は消える。

 誰にでも、日は上(のぼ)り、日は落ちる。
 ライムライト(脚光)は儚いのだ。
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「もし…」があるのなら、「スライディング・ドア」

2011-11-04 02:17:09 | 映画:外国映画
 誰にでも「もし…」が可能なら、あらゆる場面で人生は枝分かれして、あらゆる違った人生が展開されているだろう。
 そうだとしたら、現在の人生は、幾層にも重ねられた人生の中の一つを生きているにすぎない、ということになる。だからといって、別に繰り広げられている人生を垣間見ることができるわけではないし、その世界へ乗り換えられるものでもない。
 だから、もし…という考えは好きになれない。
 僕たちは、現在という一つの人生、一つの世界を生きているにすぎない。もし…と思って、時間を巻き戻し、人生をやり直すことはできないのだから。
 物語でも、過去や未来に簡単に行ったり、人間が誰かと入れ替わったり、幽霊が出てきたりする小説や映画、ドラマは多々あるが、大体が興味が持てない。発想が安直で、げんなりするものが多いからだ。
 その中でも、タイムスリップの物語では、映画では「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(ロバート・ゼメキス監督)、小説では「リプレイ」(ケン・グリムウッド著)が例外的に傑出した作品といえるだろう。これらの作品は、その後の映画や小説に多くの影響を与えている。
 また、多元世界の物語では「1Q84」に見られるように、村上春樹作品にその創造的面白さをみつけることができる。
 たまに、このような胸ときめかす物語に出くわさないかと期待するのだが。

 *

 「スライディング・ドア」(Sliding doors)ピーター・ホーイット監督、1997年、米=英作品

 電車に乗ろうと階段を走ってホームに出たところ、寸前でドアが閉まって乗れなかった。こういう経験は誰にでもあるだろう。
 階段を走って降りていた途中に子どもにぶつかりそうになり、避けていた分遅れてしまった。
 もし、ぎりぎりで乗れた場合はどうなったか?
 別の人生になったのだろうか?

 広告代理店勤務のヘレン(グウィネス・パルトロー)は、作家志望のジェリー(ジョン・リンチ)と同棲している。いつものように、大急ぎで家を出て、会社に向かうところから物語は始まる。ジェリーは家にいて、彼女を見送る。
 ヘレンは仕事はやり手だが、その日、会社のミーティングに遅刻し、会社をクビになる。落ち込んだ気分で会社を出て、家に帰るために地下鉄に乗ろうと構内を急ぐ。やってきた電車に乗る寸前で、ドアが閉まる。
 ここから、映画は2つの物語が進行する。
 <第1の物語>は、電車に乗り損ねる。
 発車した後の地下鉄の電車が事故で遅れることになり、ヘレンは外でタクシーを拾おうとして事故にあい、家に帰るのが大幅に遅くなる。
 <第2の物語>は、電車に乗れる。
 電車の中で、隣に座った人のよさそうな男がしきりに話しかけてくるが、ヘレンはそれを無視して、家に帰る。家に帰ってみると、家では、同棲しているジェリーが、元恋人のリディア(ジーン・トリプルホーン)とベッドの中で性交渉の最中だった。
 映画は、同時進行形で、この2つの物語が進行する。
 第1の物語は、ヘレンが家に帰ると、浮気相手の元恋人はすでにいない。ジェリーがシャワーを浴びていて、ベッドには酒が置いてある。ジェリーは、昨晩眠れなくて、君が会社に出て行ったあと酒を飲んで眠ったと言い逃れをする。
 つまり、電車に乗れた場合は、早く家に着き恋人の浮気現場に出くわし、電車に乗り遅れた場合は、不可解の痕跡はあるもの同棲している恋人の浮気は見つからないという結果になる。
 恋人の浮気を見つけた場合と見つけなかった場合、その後どう2人の恋は進行していくかという話である。どっちみち浮気はばれるのだが。

 *

 しかし、人生では誰でも、電車に乗るか乗り遅れるよりも、もっと決定的な「もし…」が存在する。
 受験、恋愛、就職、自立、出会い、別れ…etc.etc.
 あの時、この時で、大きな分岐点があったはずだ。もし、ああでなくこうしていたら、人生変わっていただろうというのが、誰にでもあっただろう。
 まず、受験に成功するかしないか、どの学校に進むかは、人には最初の大きな分岐点になるだろう。
 「もし、あの時、体調がよかったら…」、「もし、あの時、数学の問題で勘違いしなかったら…」、「もし、あの時、国語で迷って解答をAにしたが、Bにしていたら…」。
 僕の場合は、志望校の受験に失敗し、結果的に東京の大学に行くことになった。それが、その後の人生を決めたと言っていい。
 振り返れば、その時の失敗か成功かは、その後の人生を考えれば、どうなのかわからない。僕は、結果的によかったと思っている。
 いや、そもそも、その時その時の人生に失敗も成功もないのかもしれない。
 人生は、「あざなえる縄のごとし」なのだと思う。いろいろなことが起こるが、幸せも不幸せもコインの裏表だ。色川武大の言うところの、「人生はヒフティ・ヒフティ」なのだ。
 また、人間万事「塞翁が馬」だと考える。

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紳士協定(Gentleman's agreement)

2011-09-07 04:18:24 | 映画:外国映画
 監督:エリア・カザン 脚本:モス・ハート 出演者:グレゴリー・ペック ドロシー・マクガイア ジョン・ガーフィールド 1947年米

 「紳士協定」とは、公式手続きや規約に基づかなくとも、暗黙の了解として行われる約束事項である。紳士だから、いちいちその内容を言わなくてもみんなわかっているよね、といった意味を含めて使われる。
 この映画では、紳士協定とは、大衆に根付いた差別意識を皮肉表現としてタイトルとしている。古くから続く因習や差別は、どこの国でも存在し、自分ではそう思っていなくとも無意識にそれに追従している場合が多い。
 人々の無意識の差別を問いかける。

 アメリカは多民族国家ゆえに自由主義を標榜していても、白人による黒人の差別やユダヤ人への排他的感情がごく最近まで根強くあった。
 この映画「紳士協定」は、アメリカ社会でのユダヤ人への差別・排他感情を、一人の男の行動を通してあぶり出した物語である。
 主人公のグレゴリー・ペックは、アメリカの良心を描いた映画では、この人をおいてないような男優である。「アラバマ物語」(1962年)は、黒人差別を扱った物語で、この映画で彼はアカデミー主演男優賞を受賞している。
 しかし、グレゴリー・ペックといってピンとこない人でも、あのオードリー・ヘプバーンを世界的なスターにした「ローマの休日」の相手役の新聞記者と言えば、すぐ顔を思い浮かべる人も多いだろう。
 ほかに、ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」(共演、エヴァ・ガードナー)やメルヴィルの「白鯨」など、文芸作品も多い。

 *

 妻に先立たれ、幼い息子と母とカリフォルニアに住むライターのフィル・グリーン(グレゴリー・ペック)は、週刊誌の編集長から新連載を依頼され、ニューヨークに引っ越してくる。
 新連載の内容は「反ユダヤ主義」。今までさんざん取り扱われた記事だが、今までにはない斬新な記事を頼まれる。その発案者は、編集長の姪のキャシー(ドロシー・マクガイア)だった。
 フィルとキャシーは、すぐに意気投合して恋仲になる。
 新しい切り口を考え苦悩していたフィル・グリーンは、自分がユダヤ人になりきることを思いつく。次の日、会社の幹部による昼食会で、自分はユダヤ人でグリーンバーグだと名乗ると、噂は瞬く間に広がり、編集部の秘書をはじめ周囲の彼に対する目や反応が一変する。

 ユダヤ人の姓でよく知られるものに、次のようなものがあげられている(「人名の世界地図」)。
 フリードマンFriedman(平和の人)、グリーンバーグGreenberg(緑の山の人)、グリーンフィールドGreenfield(緑の野原の人)、ホフマンHofmann(宮廷人)、ロスRoth(赤)、ロスチャイルドRothchild(赤い盾)、ルービンシュテインRubinstein(紅玉石)など。
 これらの名前であれば、西洋ではすぐにユダヤ人だとわかる。姓にスターン sternやステインsteinをつけることが多いとある。
 ユダヤ人の姓の由来には、このような話もあげてある。
 16世紀以降、姓を持つことを禁じられていたユダヤ人に、ドイツでは話のわかる領主がユダヤ人に姓を売るようになった。それでもすぐにユダヤ人だとわかるように、その名を植物名と金属名に限った。例えば、ローゼンタールRosental(薔薇の谷)、リリエンタールLiliental(百合の谷)、ゴールドシュタインGoldstein(金石)などとある。

 フィルがグリーンバーグと名乗ると、すぐにユダヤ人だとわかるのである。
 たちまち彼に対する周囲の人々の対応が微妙に変わる。子供はいじめにあい、ユダヤ人だと知ったホテルでは体よく理由をつけて宿泊を拒否される。
 フィルは、周囲の無意識に蔓延している差別意識に怒りが込み上げてくる。
 フィルと婚約したキャシーは、食事の席でユダヤ人に対する悪いジョークに腹が立ったが、結局黙っていた。その話を聞いたフィルは、差別には反対といいながら、実際には何もしないそういう態度こそ、善人ぶった偽善者だとキャシーを責め、2人は別れを決意する。

 フィルは、自分の体験をもとに「8週間のユダヤ人」と題した連載を、ついに雑誌に発表開始する。
 本当は、ユダヤ人ではなかったと知った編集部の秘書は驚いた顔で彼を見た。彼は言い放つ。
 「よく見ろ。昨日とどこが変わったか。何を驚いている。好き好んでユダヤ人になるなんてどうかしていると? それこそが差別だ。キリスト教徒の方がいいと思っている。昨日、ある人に言われた“それが現実だ”と。私をよく見ろ。目も鼻もスーツも同じ。触ってみろ、同じ体だ」

 差別は、各々の心の中にある。
 この映画で、差別はその人になりきらないとわからない。自分は差別主義者ではないと言い張っていても、何もしないで黙認しているとそれを助長させているにすぎないと、主張する。
 差別は、どこの国でもある。自分の国に当てはめてみると、よくわかる。心が痛む過去があろう。
 この作品は第2時世界大戦直後の1947年作で、アカデミー作品賞、監督賞、助演賞(セレスト・ホルム)を受賞したが、なぜか当時日本では公開されず、日本公開は40年後の1987年だった。

 雑誌に発表される息子の原稿を読んだフィルの母は、「うんと長生きしたい」と言う。そして、次のように続ける。
 「どんなふうに世界が変わるのか見届けたい。変わるために今苦しんでいるの。将来、“変革の世紀”と呼ばれるかもしれない。アメリカの世紀でも、原子力の世紀でもなく、“万人の世紀“になるかも。世界中の人が仲良く生きられる時代よ。その始まりを見たいわ」
 確かに、20世紀はあらゆる意味で変革の世紀だったかもしれない。しかし、フィルの母のこの言葉に託したエリア・カザンの夢を、新しい21世紀になって人間は実現していると誰が言えるであろうか?

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ギリシャ男の魂、「その男ゾルバ」

2011-09-02 02:54:42 | 映画:外国映画
 ギリシャへは行くつもりはなかったが、20代の時、一人初めての海外への旅にパリへ行った際、アテネに1日寄ったことがある。
 航空チケットを買いに日比谷にあった航空会社(スイス航空)に出向いたとき、係りの人が、どうせ旅費は同じだからと言って、旅の帰りにアテネへ途中寄航するよう手続きしてくれた。
 そういうことで、ジュネーブを経由してアテネに降りたったのだが、空港はなんだか空気も街も乾燥している印象だった。飛行場を出ても、市街に向かうバスがわからず、僕は面倒になって仕方なく街中までタクシーに乗った。
 タクシーの運転手は、野卑な笑いを浮かべながらしきりに僕に話しかけてきたが、ギリシャ語で何を言っているかわからないので、まともな返事はしなかった。窓の外は青空が広がり、空には雲が巻いていて、5月というのに夏のようだった。
 車が走っている間中、音楽がガンガンとなった。ギリシャの音楽は軽快で、南国や中東のそれに共通するものがあり、僕の好みだった。しかし、ヴォリュームを必要以上にあげているので、素敵な音楽だと感じる以上に喧騒感が募るのだった。それでも運転手はお構いなく、音楽に負けないようにか、高い声で話しかけるのをやめなかった。
 うるさいほどの音楽を聴きながら、僕は時折通った六本木にあるギリシャ料理店の「ダブルアックス」を思い浮かべた。この店では毎晩、食事の合間に現地(ギリシャ)人であろう店員が、ギリシャ音楽に合わせてダンスを踊るイベントがあった。
 店では、このダンスが行われる前に、客に白い皿が配られた。ダンスが佳境に入ったころ、掛け合いとともに店員が皿を床に放り投げるのだった。それを合図にか、客も持っていた皿を次々に投げるのだった。そのたびに、皿の割れる音が店内に響いた。
 皿の割れる音が響く中、ダンスは繰り広げられるのだった。

 夜、僕は夕食をとるためにアテネの街をぶらついた。通りから路地と相当歩いた後、1軒のタベルナのガラス窓から、ギリシャの民族弦楽器を奏でているのが目に入った。扉を開けると、ブズーキを含めた4人の演奏者たちが僕の方を見てにっこり笑いながらも、演奏は続けた。彼らは、ロックミュージシャンのような ラフな格好をしていた。
 僕は、あの軽快なギリシャ音楽を耳にしながら、食事と一緒にウゾを頼んだ。

 *

 原作:ニコス・カザンザキス 製作・脚本・監督:マイケル・カコヤニス 出演:アンソニー・クイン アラン・ベイツ イレーネ・パパネ リラ・ケロドヴァ 1964年米=ギリシャ

 映画「その男ゾルバ」は、若いときに観た。
 ギリシャ人のゾルバを演じたアンソニー・クインの印象が強烈だった。ゾルバは、酒と女を愛し、人生の哀歓を表すとき、全身で踊った。映画では、ギリシャの音楽が重なって流れた。
 今度、再び見たときは、若いときに気づかなかったであろう含蓄ある言葉が残った。

 父が持っている廃坑になった炭鉱を再興しようと、ギリシャのクレタ島に向かった若いイギリス人の作家バジル(アラン・ベイツ)は、偶然にその島に行くギリシャ男、ゾルバ(アンソニー・クイン)に会う。ゾルバは中年を超えた初老とも言えたが、人懐っこく、それでいて豪放磊落だった。
 バジルは、あくが強いが憎めない、この人間臭いゾルバを、なりゆきで現場監督に雇い、島で炭鉱採掘に乗り出すことにした。

 島には、黒い服を着た美しい女(イレーネ・パパネ)がいた。美しいけど、険しさがあった。
 その女に対して島の男たちは、遠くから憧れと、その反面排他的な態度をとっていた。その女は、島の言い寄る男たちを無視している、孤高の女のようであった。
 島のあらゆる男たちを無視しているこの女が、バジルには気があることを、2人が初めて会った日に、ゾルバは彼女の眼の表情から見抜いた。
 ゾルバはバジルに、「あの女の家に行ってやれよ、お前が来るのを待っている」と勧める。
 確かに、女はバジルが自分に近づいてくれるのを待っているようであった。しかし、生真面目なバジルは、ゾルバの勧めにも何の行動も起こさなかった。
 ゾルバはバジルに言う。
 「神は今日、天国からあんたに贈り物をくれた」
 尻込みするバジルに、ゾルバは付け加える。
 「神が人に手を与えたのは、掴むためだ」
 「面倒は嫌だ」と言うバジルに、ゾルバは言う。
 「人生は面倒なものだ。死ねばそれもない」

 「女に独り寝させるのは男の恥だ」
 「神は寛大だが、決して許さない罪がある。女が求めているのに男がそれを拒むことだ。……トルコ人の年寄りがそう言っていた」

 ゾルバは、波乱の人生を歩いてきたようだった。戦争に行き、国のためなら何でもやった、相手が敵国人だったからだと語る。人を殺し、村を焼き、女を犯した。本当にバカだったと述懐する。
 「今は、人を見て善人か悪人かしか考えない。国は関係ないんだ」
 「もっと年をとると、善人だろうが悪人だろうが、どっちでもよくなる。最後は皆同じ。蛆虫のエサだ」

 2人は、島で1軒しかない老いた女(リラ・ケロドヴァ)が営むホテルに住みこみ、鉱山の再興を試みる。
 そんな中、やっとバジルと島の孤高の美女は愛を確認したのだが、翌日、村人たちの手によって、女は残酷な死を遂げることになる。彼女を助けることができなかったゾルバとバジルは、悲嘆にくれる。
 「なぜ若者は死ぬ。なぜ人は死ぬんだ?」と言うゾルバに、バジルは「わからない」と答えるだけだった。
 夜、一人でよく本を読んでいるバジルを見ているゾルバは、こう言うのだった。
 「本は、何のためにある。これを教えずに、何を教える」
 「本は……それを答えられない人の苦悩を教えてくれるんだ」
 バジルのこの答えに、ゾルバは吐き捨てるように言う。
 「そんな苦悩、クソ食らえだ」

 2人で進めてきた炭鉱の再興計画は、結局失敗に帰してしまう。それで、2人は島を去ることにする。
 島に来るとき出会った2人だが、また元の人生に2人は戻ることになる。真面目で思慮深いバジルと豪放で女好きなゾルバの2人は、年齢も育った環境も性格も違うが、友情以上のものを感じていた。しかし、男と女ならずとも、誰でも別れの時はやってくる。
 おとなしいバジルだが、俺も踊りたいと言って、2人は海辺で踊り始める。まるで、別れを振り切るように、今ある人生を謳歌するかのように、2人は踊る。
 最後に、ゾルバがバジルに、「これだけは言っておきたい」と言う。
 「あなたには、一つだけ欠けている。それは、愚かさだ。愚かさがないと……」
 「愚かさがないと?」
 「愚かさがないと、人は自由になれない」

 この物語は、ゾルバという一人の男の骨太の人生観を根源として描いたものと言え、アンソニー・クインの存在感はまさにその男、ゾルバそのものであった。
 そのゾルバの若いボスというか相棒となっている、知的な雰囲気を持つイギリス人のアラン・ベイツがいい。彼はロンドンの王立演劇学校出身で、稀しくも、「トム・ジョーンズの華麗な冒険」のアルバート・フィニーや、「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールなど、端正で知的雰囲気を持つ男優がクラスメイトである。
 島の美女であるイレーネ・パパネは、目鼻立ちが整っていて、まるでギリシャ彫刻のようだ。村の男の視線を一身に背負って生きている姿は、イタリア・シチリア島を舞台にした「マレーナ」(2000年、伊)のモニカ・ベルッチを思わせた。
 この映画の方がずっと先の作品なので、「マレーナ」のモニカ・ベルッチは、「その男ゾルバ」のイレーネ・パパネを思わせる、と言わねばならないが。
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華麗なる賭け

2011-06-01 17:42:29 | 映画:外国映画
 監督・製作:ノーマン・ジェイソン 音楽:ミシェル・ルグラン 出演:スティーブ・マックィーン フェイ・ダナウェイ 1968年米

 澄みきった青い空に、黄色いグライダーが舞い上がる。男が乗った有人グライダーは旋回しながら空を舞う。危険が伴うが、贅沢な遊びだ。
 乗っているのは大金持ちの実業家のトーマス・クラウン。演じているのは、スティーブ・マックィーン。
 映画「華麗なる賭け」(原題The Thomas Crown affair)の一場面だ。
 空を舞うグライダーに、歌が重なる。軽快な曲だが、乾いた哀愁が漂う。

 Round, like a circle in a spiral
 Like a wheel within a wheel.
 Never ending or beginning,
 ………

 ミシェル・ルグランの「The windmills of your mind」(日本題名:風のささやき)だ。歌っているのは、ノエル・ハリソン。
 日本語訳(字幕:岡田壮平)がいい。

 始めも終りもなく 永遠に回る輪
 回転木馬のようにいつまでも回る
 時計の針も回る 地球も虚空の中で回る
 心の中の風車のように回っている

 トーマス(スティーブ・マックィーン)は大金持ちの実業家なのに、銀行強盗を目論見、陰で指令し、計画は成功する。
 もともと金は有り余るほどある。瀟洒な別荘に、美食に、(妻以外に)女もいる。遊びに贅を尽くす。グライダーに乗るのも遊びの一つだ。
 歌は続く……。

 なぜ夏の日々はそう早く過ぎ去るのか
 恋人たちの足跡が砂浜に点々と続く
 出会った人の名や顔も忘却の彼方へ

 When you knew that it was over
 Were you suddenly aware
 That the autumn leaves were turning
 To the color of her hair
 ……
 別れを悟ったとき ふとつぶやく
 彼女の髪が秋の葉の色と同じだと

 As the images unwind
 Like the circles that you find
 In the windmills of your mind
 ……
 心の中の風車のように
 思いが巡る

 トーマスが乗ったグライダーは、林の間の草むらに滑り込む。そこに待っていた女が走り寄って言う。
 「着地に失敗したらどうするの?」
 男は、表情を変えずに答える。
 「心配事から解放される」
 「何が心配なの?」
 「気紛れな自分が」

 何もかも自分の手にしたものは、命さえも惜しくはない。それは、成りゆきというものだ。ぎりぎりのところで、自分に賭けをする。
 銀行強盗も賭けの一つにすぎない。

 警察と保険会社に頼まれて、銀行強盗の犯人を追ってきたのが、美人の私立探偵ビッキー(演ずるはフェイ・ダナウェイ)。
 彼女は、この銀行強盗の目的は金を盗むことではない、目的は他のところにある、とすぐさま見抜き、トーマスに犯人の焦点を当てる。
 トーマスに近づき親しくなった二人の、恋にも似た駆け引きが繰り広げられる。
 銀行強盗の目的に、トーマスは答える。
 「金なんかじゃない。この俺と、腐った世の中との対決だ」

 「荒野の七人」でスターダムにのし上がったスティーブ・マクィーンと、「俺たちに明日はない」で一気に人気爆発したフェイ・ダナウェイが、華麗なる恋愛の賭けを演じる。
 レーサーとしても活躍したアクション派スティーブ・マクィーンがスーツを着こなし、悪女の香りがするフェイ・ダナウェイがオートクチュール(おそらく)のモードを着て登場する。スカートは当時最先端の超ミニだ。
 アメリカ・ハリウッドの映画ではなく、フランス映画のような内容とテーマ曲だ。
 当時のフランスの人気俳優、「勝手にしやがれ」のジャン・ポール・ベルモンドと、「太陽がいっぱい」のマリー・ラフォレ、あるいは「昼顔」のカトリーヌ・ドヌーヴだと恋愛色が強くなりすぎるか。
 「男と女」のジャン・ルイ・トランティニアンと「突然炎のごとく」のジャンヌ・モローの組み合わせでは、かなり深刻で退廃的な映画になりそうだ。

 映画は、一つの場面、一つのメロディーだけで、心に残るものとなる。
 テーマ曲、「風のささやき」(英語The windmills of your mind、仏語Les moulins de mon coeur)だけで、映画「華麗なる賭け」(The Thomas Crown affair)は、心に残るものとなった。
 この曲は、様々なアーチストによるカバー・ヴァージョンがあるし、作曲者ミシェル・ルグラン自身もジャズ風に歌っている。

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