秋祭りの盛りである。
長崎くんちは、僕のように街をさるく人間にとっては最高の祭りである。
「さるく」とは、北九州あたりで言う、うろうろ歩くといった意味の方言である。
長崎くんちは、市内の諏訪神社の秋祭りで、「くんち」とは、北九州一帯で行われている神社の秋祭りである。「くんち」の由来は、いろいろあるが、旧暦の重陽(9月9日)の節句からきたと言われ、旧暦9月9日、19日、29日に行われた。
現在は、各地方、神社によって行われる日はまちまちである。
長崎くんちは、唐津くんち(佐賀県唐津市唐津神社)と並んで、くんち祭りの双璧であろう。この2つに、博多おくんち(福岡県福岡市櫛田神社)を加えて、日本三大くんちと呼んでいる。
長崎くんちは、毎年市内の町(地区)が7組に分かれて、持ちまわりで6、7つほどの町が演しもの(出しもの)を神社に奉納するものである。だから、7年に1度、同じ町の演しものは回ってくるということになる。逆に言えば、7年に1度しか、その町の演しものは見られないということでもある。
演しものは、町によって様々で、特徴がある。独自の踊りや舞いや山車(だし、だんじり)で、数人の笛や太鼓に合わせて3人ほどの女性が踊るものから、長さ20メートルにもおよぶ龍を高くくねらせながら回る、長崎特有の「蛇(龍)踊り」まで、参加人数も規模も本当にまちまちである。
各町の演しものは神社に奉納するだけでなく、庭先回りと言って、市内の家や店の前に繰り出し、演しものを披露して街を練り歩くのである。
祭りの行われる3日間は、長崎の町は朝から祭り色に染まる。町の演しものの庭先回りは、回るスケジュールは決まっているが、各町の時間と通るコースはまちまちなのである。それゆえに、演しもの一行は街のどこかにいるが、それはどれも常に動き回っているということになる。
*
10月7、8、9日に行われた長崎くんちの、最終日に長崎に行った。佐賀にまだいたので、特急列車で1時間ちょっとで行ける。
長崎くんちを見るのは3回目で、今年は去年に続き2年連続である。
このくんちの各町の演しもののスケジュール表は、地図と一緒になっていて、駅などの案内所で自由にもらえる。目当ての町の演しものがあれば、この案内書を見て、探し歩くことになる。ただし、案内書にあるスケジュール通りに動いているとは限らない。
今年の踊町は、東古川町、大黒町、小川町、紺屋町、樺島町、元古川町、出島町であった。
長崎の祭りの名物ともいえる「蛇踊り」は、毎年あるとは限らない。ただし、ない年はそれに代わる目玉の演しものがあるという。今年は蛇踊りが入っていない代わりに、樺島町の「太鼓山(コッコデショー)」があるということだ。
去年蛇踊りを見ることができたが、最初くんちを見た年は蛇踊りがなく、「鯨の汐吹き」があった。
朝10時頃に長崎駅に着いた僕は、案内書の地図を見ながら街中を諏訪神社の方に向かって歩いた。長崎は市電が走っていて、それに乗ると便利だが、祭りの日は歩くに限る。歩いていると、どこかの町の演しものにぶつかることになる。
だから、街を歩き回る旅人には、長崎くんちは、さるき(歩き回り)ながら祭りを楽しめるということになる。
駅前のメイン通りから筑後町の脇の道に入って歩いていると、案の定、笛の音が聴こえてきた。その音の方に向かっていくと人も多くなってきた。
最初に出合った演しものは、東古川町の「川船」であった。
そこから、諏訪神社に向かって歩いていると、広い交差点に出た。そこで、何人かが演しものを待っているようだった。横に大型バスが止まっていた。
立っている中の誰かが「小泉さんがいる」と声をあげた。そこにいる人は一様に、あたりを見回し、バスに視点を向けた。見ると、バスの中からこちらを見ながら、笑顔を振りまいている小泉元総理の姿があった。もう彼も政界を引退したので、自由を楽しんでいるのだろう。
諏訪神社に着いたとき、出島町の「阿蘭陀船」がやってきて、神社で奉納の演しものをやった。海外に唯一開かれた出島だけあって、旗をなびかしたオランダ船はきらびやかで、洋装をした少年が乗っている。船には木の車輪が4つ付いていて、押して進めるのだが、出しものとしては、掛け声とともに、その船を男たちがぐるぐると引っ張り回転させるのだ。それも、何回も。(写真)
諏訪神社から、新大工町のシーボルト通りを歩き、昼食をとった。
そこから、寺の集まる八幡町を歩いていると、亀山社中跡に出くわした。去年は坂本龍馬ブームで大変な人気だったであろう。
夕方3時には、諏訪神社に戻り、「お上がり」の神輿を待った。
初日に諏訪神社から大波止の「お旅所」と称されるところに「お下がり」に行った3台の神輿が、最終日に神社に戻ってきて、階段を一気に駆け上がるという儀式である。
諏訪神社の「お下がり」を見た後は、ゆっくりとメガネ橋のかかる川べりを歩きながら、浜市アーケードに向かった。ここは、長崎で最も華やかな商店街といえるだろう。
各町の演しもの一行は、最終的にはこの近辺に集まってくるのだ。
その途中で、いくつかの演しものと出くわした。
浜市のアーケードを抜けて、銅座町の先の新地中華街の裏手では、広い踊り場にやってきた出島町の「阿蘭陀船」の船回りを再び見た。近くで見るとすごい迫力だ。
空を見上げると、丸い月が出ていた。
しかし、何と言っても今年の目玉の樺島町の「コッコデショー」を見ないといけない。すると、「阿蘭陀船」を見ていた人が、樺島町が今浜市のアーケードに向かっているという情報を教えてくれた。
再び、浜市のアーケードに行くと、通りの両側は人でいっぱいで身動きも苦しいほどだった。ほどなく、樺島町の一行がやってきた。
男たちが担ぐ台座には子供が乗っていて、その上には大きな座布団を何枚も重ねそれを縛ったようなダンジリの太鼓山がある。
それを「コッコデショー」の掛け声と同時に、担いでいた男たちが宙に放り投げ、それを片手で受け止めるのだ。力と呼吸がいる荒業だ。
「コッコデショー」の意味がわかった。
やっと樺島町の「コッコデショー」を見終えて、中国料理を食べに行った。いつもは、中華街の江山楼の特性チャンポンなのだが、今回は地元の人が教えてくれた中華街の1本外の通りにある「福寿」に行ってみた。ここのチャンポンは具が大胆だった。
チャンポンも、店によって大きく違う。
長崎から最終の特急で佐賀に戻ったときは、深夜であった。
この日(10月23日)は、武雄くんち(佐賀県)が行われた。ここでは、昔から流鏑馬が行われている。すでに僕は東京に戻っているので、残念だが見られなかった。
唐津神社の唐津くんちは、11月の文化の日を挟んだ2、3、4日に行われる。
長崎くんちは、僕のように街をさるく人間にとっては最高の祭りである。
「さるく」とは、北九州あたりで言う、うろうろ歩くといった意味の方言である。
長崎くんちは、市内の諏訪神社の秋祭りで、「くんち」とは、北九州一帯で行われている神社の秋祭りである。「くんち」の由来は、いろいろあるが、旧暦の重陽(9月9日)の節句からきたと言われ、旧暦9月9日、19日、29日に行われた。
現在は、各地方、神社によって行われる日はまちまちである。
長崎くんちは、唐津くんち(佐賀県唐津市唐津神社)と並んで、くんち祭りの双璧であろう。この2つに、博多おくんち(福岡県福岡市櫛田神社)を加えて、日本三大くんちと呼んでいる。
長崎くんちは、毎年市内の町(地区)が7組に分かれて、持ちまわりで6、7つほどの町が演しもの(出しもの)を神社に奉納するものである。だから、7年に1度、同じ町の演しものは回ってくるということになる。逆に言えば、7年に1度しか、その町の演しものは見られないということでもある。
演しものは、町によって様々で、特徴がある。独自の踊りや舞いや山車(だし、だんじり)で、数人の笛や太鼓に合わせて3人ほどの女性が踊るものから、長さ20メートルにもおよぶ龍を高くくねらせながら回る、長崎特有の「蛇(龍)踊り」まで、参加人数も規模も本当にまちまちである。
各町の演しものは神社に奉納するだけでなく、庭先回りと言って、市内の家や店の前に繰り出し、演しものを披露して街を練り歩くのである。
祭りの行われる3日間は、長崎の町は朝から祭り色に染まる。町の演しものの庭先回りは、回るスケジュールは決まっているが、各町の時間と通るコースはまちまちなのである。それゆえに、演しもの一行は街のどこかにいるが、それはどれも常に動き回っているということになる。
*
10月7、8、9日に行われた長崎くんちの、最終日に長崎に行った。佐賀にまだいたので、特急列車で1時間ちょっとで行ける。
長崎くんちを見るのは3回目で、今年は去年に続き2年連続である。
このくんちの各町の演しもののスケジュール表は、地図と一緒になっていて、駅などの案内所で自由にもらえる。目当ての町の演しものがあれば、この案内書を見て、探し歩くことになる。ただし、案内書にあるスケジュール通りに動いているとは限らない。
今年の踊町は、東古川町、大黒町、小川町、紺屋町、樺島町、元古川町、出島町であった。
長崎の祭りの名物ともいえる「蛇踊り」は、毎年あるとは限らない。ただし、ない年はそれに代わる目玉の演しものがあるという。今年は蛇踊りが入っていない代わりに、樺島町の「太鼓山(コッコデショー)」があるということだ。
去年蛇踊りを見ることができたが、最初くんちを見た年は蛇踊りがなく、「鯨の汐吹き」があった。
朝10時頃に長崎駅に着いた僕は、案内書の地図を見ながら街中を諏訪神社の方に向かって歩いた。長崎は市電が走っていて、それに乗ると便利だが、祭りの日は歩くに限る。歩いていると、どこかの町の演しものにぶつかることになる。
だから、街を歩き回る旅人には、長崎くんちは、さるき(歩き回り)ながら祭りを楽しめるということになる。
駅前のメイン通りから筑後町の脇の道に入って歩いていると、案の定、笛の音が聴こえてきた。その音の方に向かっていくと人も多くなってきた。
最初に出合った演しものは、東古川町の「川船」であった。
そこから、諏訪神社に向かって歩いていると、広い交差点に出た。そこで、何人かが演しものを待っているようだった。横に大型バスが止まっていた。
立っている中の誰かが「小泉さんがいる」と声をあげた。そこにいる人は一様に、あたりを見回し、バスに視点を向けた。見ると、バスの中からこちらを見ながら、笑顔を振りまいている小泉元総理の姿があった。もう彼も政界を引退したので、自由を楽しんでいるのだろう。
諏訪神社に着いたとき、出島町の「阿蘭陀船」がやってきて、神社で奉納の演しものをやった。海外に唯一開かれた出島だけあって、旗をなびかしたオランダ船はきらびやかで、洋装をした少年が乗っている。船には木の車輪が4つ付いていて、押して進めるのだが、出しものとしては、掛け声とともに、その船を男たちがぐるぐると引っ張り回転させるのだ。それも、何回も。(写真)
諏訪神社から、新大工町のシーボルト通りを歩き、昼食をとった。
そこから、寺の集まる八幡町を歩いていると、亀山社中跡に出くわした。去年は坂本龍馬ブームで大変な人気だったであろう。
夕方3時には、諏訪神社に戻り、「お上がり」の神輿を待った。
初日に諏訪神社から大波止の「お旅所」と称されるところに「お下がり」に行った3台の神輿が、最終日に神社に戻ってきて、階段を一気に駆け上がるという儀式である。
諏訪神社の「お下がり」を見た後は、ゆっくりとメガネ橋のかかる川べりを歩きながら、浜市アーケードに向かった。ここは、長崎で最も華やかな商店街といえるだろう。
各町の演しもの一行は、最終的にはこの近辺に集まってくるのだ。
その途中で、いくつかの演しものと出くわした。
浜市のアーケードを抜けて、銅座町の先の新地中華街の裏手では、広い踊り場にやってきた出島町の「阿蘭陀船」の船回りを再び見た。近くで見るとすごい迫力だ。
空を見上げると、丸い月が出ていた。
しかし、何と言っても今年の目玉の樺島町の「コッコデショー」を見ないといけない。すると、「阿蘭陀船」を見ていた人が、樺島町が今浜市のアーケードに向かっているという情報を教えてくれた。
再び、浜市のアーケードに行くと、通りの両側は人でいっぱいで身動きも苦しいほどだった。ほどなく、樺島町の一行がやってきた。
男たちが担ぐ台座には子供が乗っていて、その上には大きな座布団を何枚も重ねそれを縛ったようなダンジリの太鼓山がある。
それを「コッコデショー」の掛け声と同時に、担いでいた男たちが宙に放り投げ、それを片手で受け止めるのだ。力と呼吸がいる荒業だ。
「コッコデショー」の意味がわかった。
やっと樺島町の「コッコデショー」を見終えて、中国料理を食べに行った。いつもは、中華街の江山楼の特性チャンポンなのだが、今回は地元の人が教えてくれた中華街の1本外の通りにある「福寿」に行ってみた。ここのチャンポンは具が大胆だった。
チャンポンも、店によって大きく違う。
長崎から最終の特急で佐賀に戻ったときは、深夜であった。
この日(10月23日)は、武雄くんち(佐賀県)が行われた。ここでは、昔から流鏑馬が行われている。すでに僕は東京に戻っているので、残念だが見られなかった。
唐津神社の唐津くんちは、11月の文化の日を挟んだ2、3、4日に行われる。