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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

さるく、長崎くんち

2011-10-24 03:47:09 | * 九州の祭りを追って
 秋祭りの盛りである。
 長崎くんちは、僕のように街をさるく人間にとっては最高の祭りである。
 「さるく」とは、北九州あたりで言う、うろうろ歩くといった意味の方言である。
 長崎くんちは、市内の諏訪神社の秋祭りで、「くんち」とは、北九州一帯で行われている神社の秋祭りである。「くんち」の由来は、いろいろあるが、旧暦の重陽(9月9日)の節句からきたと言われ、旧暦9月9日、19日、29日に行われた。
 現在は、各地方、神社によって行われる日はまちまちである。
 長崎くんちは、唐津くんち(佐賀県唐津市唐津神社)と並んで、くんち祭りの双璧であろう。この2つに、博多おくんち(福岡県福岡市櫛田神社)を加えて、日本三大くんちと呼んでいる。

 長崎くんちは、毎年市内の町(地区)が7組に分かれて、持ちまわりで6、7つほどの町が演しもの(出しもの)を神社に奉納するものである。だから、7年に1度、同じ町の演しものは回ってくるということになる。逆に言えば、7年に1度しか、その町の演しものは見られないということでもある。
 演しものは、町によって様々で、特徴がある。独自の踊りや舞いや山車(だし、だんじり)で、数人の笛や太鼓に合わせて3人ほどの女性が踊るものから、長さ20メートルにもおよぶ龍を高くくねらせながら回る、長崎特有の「蛇(龍)踊り」まで、参加人数も規模も本当にまちまちである。
 各町の演しものは神社に奉納するだけでなく、庭先回りと言って、市内の家や店の前に繰り出し、演しものを披露して街を練り歩くのである。
 祭りの行われる3日間は、長崎の町は朝から祭り色に染まる。町の演しものの庭先回りは、回るスケジュールは決まっているが、各町の時間と通るコースはまちまちなのである。それゆえに、演しもの一行は街のどこかにいるが、それはどれも常に動き回っているということになる。

 *

 10月7、8、9日に行われた長崎くんちの、最終日に長崎に行った。佐賀にまだいたので、特急列車で1時間ちょっとで行ける。
 長崎くんちを見るのは3回目で、今年は去年に続き2年連続である。
 このくんちの各町の演しもののスケジュール表は、地図と一緒になっていて、駅などの案内所で自由にもらえる。目当ての町の演しものがあれば、この案内書を見て、探し歩くことになる。ただし、案内書にあるスケジュール通りに動いているとは限らない。
 今年の踊町は、東古川町、大黒町、小川町、紺屋町、樺島町、元古川町、出島町であった。
 長崎の祭りの名物ともいえる「蛇踊り」は、毎年あるとは限らない。ただし、ない年はそれに代わる目玉の演しものがあるという。今年は蛇踊りが入っていない代わりに、樺島町の「太鼓山(コッコデショー)」があるということだ。
 去年蛇踊りを見ることができたが、最初くんちを見た年は蛇踊りがなく、「鯨の汐吹き」があった。

 朝10時頃に長崎駅に着いた僕は、案内書の地図を見ながら街中を諏訪神社の方に向かって歩いた。長崎は市電が走っていて、それに乗ると便利だが、祭りの日は歩くに限る。歩いていると、どこかの町の演しものにぶつかることになる。
 だから、街を歩き回る旅人には、長崎くんちは、さるき(歩き回り)ながら祭りを楽しめるということになる。
 駅前のメイン通りから筑後町の脇の道に入って歩いていると、案の定、笛の音が聴こえてきた。その音の方に向かっていくと人も多くなってきた。
 最初に出合った演しものは、東古川町の「川船」であった。
 そこから、諏訪神社に向かって歩いていると、広い交差点に出た。そこで、何人かが演しものを待っているようだった。横に大型バスが止まっていた。
 立っている中の誰かが「小泉さんがいる」と声をあげた。そこにいる人は一様に、あたりを見回し、バスに視点を向けた。見ると、バスの中からこちらを見ながら、笑顔を振りまいている小泉元総理の姿があった。もう彼も政界を引退したので、自由を楽しんでいるのだろう。

 諏訪神社に着いたとき、出島町の「阿蘭陀船」がやってきて、神社で奉納の演しものをやった。海外に唯一開かれた出島だけあって、旗をなびかしたオランダ船はきらびやかで、洋装をした少年が乗っている。船には木の車輪が4つ付いていて、押して進めるのだが、出しものとしては、掛け声とともに、その船を男たちがぐるぐると引っ張り回転させるのだ。それも、何回も。(写真)

 諏訪神社から、新大工町のシーボルト通りを歩き、昼食をとった。
 そこから、寺の集まる八幡町を歩いていると、亀山社中跡に出くわした。去年は坂本龍馬ブームで大変な人気だったであろう。

 夕方3時には、諏訪神社に戻り、「お上がり」の神輿を待った。
 初日に諏訪神社から大波止の「お旅所」と称されるところに「お下がり」に行った3台の神輿が、最終日に神社に戻ってきて、階段を一気に駆け上がるという儀式である。
 諏訪神社の「お下がり」を見た後は、ゆっくりとメガネ橋のかかる川べりを歩きながら、浜市アーケードに向かった。ここは、長崎で最も華やかな商店街といえるだろう。
 各町の演しもの一行は、最終的にはこの近辺に集まってくるのだ。
 その途中で、いくつかの演しものと出くわした。
 浜市のアーケードを抜けて、銅座町の先の新地中華街の裏手では、広い踊り場にやってきた出島町の「阿蘭陀船」の船回りを再び見た。近くで見るとすごい迫力だ。
 空を見上げると、丸い月が出ていた。

 しかし、何と言っても今年の目玉の樺島町の「コッコデショー」を見ないといけない。すると、「阿蘭陀船」を見ていた人が、樺島町が今浜市のアーケードに向かっているという情報を教えてくれた。
 再び、浜市のアーケードに行くと、通りの両側は人でいっぱいで身動きも苦しいほどだった。ほどなく、樺島町の一行がやってきた。
 男たちが担ぐ台座には子供が乗っていて、その上には大きな座布団を何枚も重ねそれを縛ったようなダンジリの太鼓山がある。
 それを「コッコデショー」の掛け声と同時に、担いでいた男たちが宙に放り投げ、それを片手で受け止めるのだ。力と呼吸がいる荒業だ。
 「コッコデショー」の意味がわかった。

 やっと樺島町の「コッコデショー」を見終えて、中国料理を食べに行った。いつもは、中華街の江山楼の特性チャンポンなのだが、今回は地元の人が教えてくれた中華街の1本外の通りにある「福寿」に行ってみた。ここのチャンポンは具が大胆だった。
 チャンポンも、店によって大きく違う。
 長崎から最終の特急で佐賀に戻ったときは、深夜であった。

 この日(10月23日)は、武雄くんち(佐賀県)が行われた。ここでは、昔から流鏑馬が行われている。すでに僕は東京に戻っているので、残念だが見られなかった。
 唐津神社の唐津くんちは、11月の文化の日を挟んだ2、3、4日に行われる。
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柳川の、水天宮祭り

2011-05-05 20:54:00 | * 九州の祭りを追って
 黄金週間のこの季節、柳川は少し活気づく。
 福永武彦の「廃市」にうたわれたように、モノクロームのような印象のこの街が、色彩を帯びる。
 街にめぐらされた掘割りを、船頭が竹の竿1本で漕いで周る「川下り」は、この季節のためにあるようだ。日ごろは静かな水を湛えた堀に、観光客を乗せた船が列をなしたり、船と船がすれ違うさまは、この季節さながらだろう。
 そして、5月の3日から5日まで行われる水天宮の祭りがある。この祭りは僕の好きな祭りで、祭りの原点を思わせる。
 黄金週間になると、この水天宮の祭りが行われていると思うと、柳川に行きたくなる。何度も見ているのに、行きたくなる。行って長くいられるわけではない。祭りのお披露目が始まるのが夕方からなのに、佐賀へ戻る最終のバスが、7時過ぎなのである。だから、ゆっくり鰻を食っていられるわけではない。

 佐賀から西鉄バスで柳川に行く。
 佐賀県と福岡県の県境には筑後川がある。その筑後川に入り諸富橋を通ると、南の方に赤い橋が見える。中央に2本の塔のような建造物を持っている。まるで、バリ島の寺院の割れ門のようだ。
 この橋が、1日に何回か塔の間の橋桁が持ち上げられて、高い船が通れるようになる、日本で初の昇降橋だ。
 かつて佐賀市から柳川を通って福岡県の瀬高駅まで通っていた、国鉄佐賀線の面影を残す遺産である。日本が車社会(特に地方が)となり、やがて佐賀線は廃線となり、鉄道としての橋は使われなくなった。かつては電車(鉄道)で、柳川まで行けたのだ。
 筑後川を通ると家具の大川で、すぐに柳川に行きつく。

 柳川へは最近よく行っている。今年の冬は、元吉屋で鰻を食べるだけに行った。
 だから、今回は「川下り」の堀に沿ってではなく、歩いたことのない裏通りを歩いて、水天宮に向かうことにした。
 だいたいの街の概略は頭に入っているが、西鉄の柳川駅前から、もらった1枚の観光案内図を片手に歩く。
 途中、サクランボが赤く実っているのが目に入った。横には黄色い金柑がなっている。サクランボを千切って食べてみると、もう甘酸っぱい味がした。
 民家の間をぶらぶらと歩いていると、真勝寺という寺に行き着いた。その先の長命寺も、観光案内図にも載っていない初めての寺だ。長命寺の門に構えていた木造の対の仁王像は、素朴で逞しい。
 堀に沿って古い倉の連なる「並倉」を過ぎると、本町に出て、その先に福厳寺がある。ここは、大きな禅寺で、ずいぶん前にやはり街中を歩いているときに出くわした寺で、檀一雄の墓があって、驚きと感慨を受けたところでもある。
 久しぶりに檀の墓を参ろうと思った。
 法名石のところを見ると、檀一雄のあとにも何人か加えられていた。
 堀と堀の間の道を、東に曲がりながら道なりに進むと、とつぜん「御花」(元立花藩主別邸)に出た。この辺りは、「川下り」の終点でもある。
 
 「御花」のもうすぐ横は、水天宮だ。
 昔の縁日のように、屋台が並んでいる。老若男女いろいろな人が、アイスクリームを舐めたり、イカをほおばったりしながら、道をそぞろ歩いている。祭りに付きものの、金魚すくいもある。今日は、この祭りに町の人たちが集まっているのだ。
 堀に浮かんだ大きな屋形船には、出番を待つ子供たちが座っている。
 ここでは、この屋形船に設えた舞台で、子供たちによる三味線、笛、太鼓による囃子が奏でられる。合い間に、旅芸人の一座であろうか、時代物の寸劇も行われる。
 祭りの法被を着た街の人に、いつから始まるのかと訊いたら、5時半だと言う。もうすぐだ。
 始まりの音がした。子ども達の演奏が始まる。(写真)
 しかし、このまま、見とれていると鰻を食べる時間がなくなる。目的の元吉屋は、ここから北のバス通りの京町にある。
 しかし、ここで食べると時間も計れる。この水天宮のある川端に元吉屋の別館があるというのを思いだし、そこで食べることにした。
 窓から川の柳を見ながら、付きだしの鰻の骨の唐揚げでビールを飲む。そして、名物の鰻のせいろ蒸しを食べる。

 食べ終わった後、また屋形船の子供たちの演奏を見ていると、あっという間に7時5分前だ。
 川端の堀のほとりに2人で座っている町の小父さんに、「京町へ行くにはどのくらいかかる?」と訊いたら、「どうやって行くの?」と逆に訊かれた。「歩いて」と答えると、「相当かかるよ」と言う。
 「20分ぐらいで行くでしょう」と、自分の経験で答えた。
 すると小父さんが、「いや、30分はかかるよ」と言うはなから、もう1人の小父さんが「40分はかかるかも。その先にバスが出ているから、それで行った方がいいよ」と、バスが走っていそうな大通りを指差した。
 腕時計を見ると、7(19)時ちょうどだ。
 柳川に着いたとき、西鉄のバス停で調べてあるが、西鉄駅前からの佐賀行き最終は、日曜・祭日は7(19)時26分だ。すぐ近くの次の京町は、19時27分ぐらいだ。
 僕は、小父さんに「ありがとう」と言って、急いで京町方向に向かった。
 途中バス停があったので時刻表を見ると、1時間に1本で、次のバスは19時10分だ。あと8分あるが、それなら歩こう。バスはあてにならない。
 だいたいの街の構図は頭の中に入っているが、最短距離を地図と腕時計を睨みながら、競歩のように歩いた。
 柳川高校、伝習館高校、それに小・中学校といくつかの学校を横目で見ながら歩いた。どの高校も、有名大学の合格者数の一覧を壁に掲げているのが、季節柄か。テニスで有名な柳川高校は、文武両道と謳っている。
 京町のバス停に着いたのは、19時23分だった。汗がにじみ出た。
 毎日の生活は怠惰だが、歩くのは速いのだ。
 それに、旅に出ると(小さな旅でも)勤勉になるのだ。

 もう街は暗く染まっていた。
 佐賀に向かうバスの窓から、筑後川に架かる昇降橋を見た。夜の橋は、色とりどりに明かりがついていて、きらめいていた。いつからこのような粋なことをしだしたのだろうか。地味な佐賀県が。と言っても、県境に架かっているから、もう片方の橋の端っこは福岡県になるのだが。
 この橋は貴重な産業遺産だ。いや、文化遺産といって言い。

 黄金週間も、柳川の水天宮の祭りも終わった。
 東京に戻る日も近づいた。
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有田陶器市の裏通り

2011-05-04 02:09:27 | * 九州の祭りを追って
 5月に入り、ここのところ佐賀の空気がかすんでいる。遠くの景色はぼんやりとして、靄(もや)がかかったようだ。佐賀だけではなく、北九州はそのようである。
 春霞と、のどかな風景と言ってばかりはいられない。
 中国大陸から黄砂がやってきたようだ。それも、例年になく強い。そのせいか、晴れていてもどんよりと曇っているみたいで、眩しい直射日光はない。何せ、霞がかかっているのだから。

 そんな春霞、いや、黄砂の漂うなか、有田の陶器市に出かけた。
 いつも、市が並ぶ上有田駅から有田駅まで一人でぶらぶら歩くのだが、今年は地元有田の友人が同行したので、少し裏通りを歩いた。
 まず、市の並ぶ通りから上有田駅の北の泉山にある「大いちょう」へ。
 陶器市案内図には、天然記念物で樹齢千年と書いてあるが、大いちょうの表示板には、樹齢400年とある。どちらにしろ、確かに大きい。それに老木という感じはなく、まだまだ成長するのではと思わせるように緑の若葉が茂り、若い。
 そこから、「トンバイ塀通り」を歩く。トンバイ塀とは、解体した登り窯のレンガを利用して作った塀で、焼き物の街有田特有のものだろう。赤茶けた不規則なレンガで作った塀が並ぶ。(写真)
 塀の中ほどを四角くくり抜いた穴から、顔を出している犬がいた。通る人間を見物しているみたいだ。

 そこから、再び市の並ぶ本通りへ戻った。
 今年は、例年より観光客が少ないようだ。
 今年はぶらぶら散策だけのつもりだが、カエルの焼き物を見つけた。大きなお腹を抱えて上を見ているユーモラスな格好で、磁器ではなく狸の信楽焼のようにごつごつしている。有田焼ではないが、面白いので、草が生い茂る庭にでも置いておこうと、それを買った。隣の店のお姉さんが中国産だと教えてくれた。
 ユーモラスなカエルは、バリ島で木彫りを土産に買ったのを思い出した。バリ島のカエルは、槍と傘を持っている2匹で、対になっている。
 それから、やはり深川と香蘭社を見る。深川で、昨年割ったマグカップの同品を買い足す。
 それに、磁器の風鈴。

 本通りの中心地の札の辻を通り過ぎると、少し高段になったところに禅寺、桂雲寺がある。その高段の麓に、「有田陶器市の発祥の地」の標示を見つけた。
 明治21年、有田の磁器の商品開発を喚起させる目的で、第1回陶磁器品評会がここ桂雲寺で開催される。その品評会の協賛行事として、当時青年会のリーダーだった深川六助の発案で、大正4年から行われた「一斉大蔵ざらえ」が有田の陶器市の始まりである。
 有田では元々小売はしていなくて、せいぜい5月に有田町の背後に聳える黒髪山に登るお遍路さん相手に、商家や窯元の主婦が売れ残りや二級品を並べて小遣い稼ぎをしていた程度だった。それを、陶器市として街ぐるみで行い、それが年毎に人気となって今日に至ったという。
 有田の陶器市(4月29日から5月5日まで開催)は、僕の中でも、黄金週間の慣習となっている。
 最近は、「見るだけ」をモットーにしているが、それが守られたことがない。
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有田陶器市と上海万博

2010-05-04 12:35:04 | * 九州の祭りを追って
 黄金週間(GW)恒例の有田陶器市に出向いた。
 近年恒例の「見るだけ」との思いでの、散歩気分での出発である。有田駅で降りて、上有田駅までの約4キロの道の両脇に並んだ焼き物の出店を見て歩くのである。
 佐賀に帰ってきている近年はほぼ毎年来ているので、だいたいの主な店の配置は分かってきている。それに、値段も。
 改めて買う物も買いたい物もないが、見るだけでも楽しいのである。みんなは見て周れないので、道沿いに並んだ物と、目についた物がある店にだけ中に入ることになる。
 だいたい、有田の焼き物がこれだけ一堂に並ぶのも珍しいので、それだけでも目の保養になる。柿右衛門も今右衛門も、人間国宝の井上蔓二も、ここでは並列である。三右衛門の一つといわれている唐津の中里太郎右衛門も(一説には源右衛門ともいわれている)、出品している。
 しかし、この「見るだけ」の散策がくせものである。そうなったためしはない。
 まあ今年は、しいて言えば、醤油差しを探そうと思った。
 今あるのは、形もデザインも気に入っているのだが、高台が小さいので少し触れただけで倒れることがあり、何度も倒して醤油をこぼしているのだ。だから、台がないか大きく平板で倒れにくい醤油差しを見つけようと思っているのだ。
 見た目と実用度は違う。その両方を適えているのであれば、越したことはない。

 この週間は歩行者天国(時間制限あり)になっているこの道を歩いていると、今年は犬を連れた人が多い。やはり、ここでもペットブームが反映されている。
 それに、外国人が目につく。
 有田駅からしばらく歩いたところで、鐘の音が聴こえてきた。メロディーになっている。
 そばに来てみると、それは鐘の音ではなく磁器の音だった。
 若い女性が二人(あとで聞いたところによると、地元の高校生だという)、整頓された大きさの異なる茶碗や湯飲みを、木琴のように叩いている。上には、「碗琴コンサート」と書かれていて、これが碗琴と呼ばれていることを知った。(写真)
 今開催中の上海万博(日本館)で演奏するとの新聞記事の切り抜きも、脇に貼ってある。演奏期日は10月とあるので、ずっと先だ。そうか、上海万博は10月までやっているのか。半年もやっているのだから、慌てて行くことはない。
 それに、まだ開設されていない、いまだ建設中のパビリオンもあるようだ。中国は鷹揚なものだ。日本ならありえないことだろうし、あったら責任者は誰だと非難の嵐だろう。

 上海万博に関して、上海市民に配られた道徳(モラル)書というのが面白かった。
 洗濯物は節度を持って景観を損なわないよう干しましょうとか、パジャマで外出はやめましょうというのがあった。
 昨年10月、上海を旅したが、繁華街の脇に入ると、道路には洗濯物がごく普通の風景のようにあった。路地裏の住宅の密集した家並みにくると、窓から窓へ紐を結び、洗濯物の満艦飾である。
 それこそ、万博の万国旗が風になびいているさまである。もちろん、女性の下着も平然と風に吹かれている。こういうところも、中国は大らかなのだ。
 万博開催直前の上海の下町を、テレビで紹介していた。
 洗濯物が並んでいる家並みに来て、係員が「洗濯物を今すぐ取り込むように」と、おばさんたちに文句を言っている。おばさんたちは、「干すところがないからここに干しているんだよ」と、係員に食ってかかっている。係員は、「そういう(国の)決まりだから、さあ早く取りなさい」と強気だ。
 「家の中は狭いし、どこへ干せと言うのよ」と、しぶしぶ洗濯物を取り込み始めたが、係員にはまだ反論している。係員とて、国だか市の命令のまま動いているので、「どこへ干すかは自分で探しなさい」と言っている。
 それに対する、洗濯物を片づけながらのおばさんの捨て台詞が面白かった。
 「文化革命のときだったら、私は反革(反政府?)闘士になっていたよ」などと、叫んでいた。

 有田の磁器とて、元々は中国の磁器から来たものだ。
 景徳鎮で焼かれた磁器は、かつてヨーロッパの王侯貴族には、宝石と同じように、あるいはそれ以上に珍重された。17世紀、李参平により有田で開発された日本初の磁器が、景徳鎮の代役としてオランダの東インド会社を通してヨーロッパに輸出された。ヨーロッパの王侯貴族は躍起になって、中国・日本の磁器を研究して作り出すことに力を注いだ。
 ヨーロッパで初めて磁器を作り出した初期のマイセンなど、柿右衛門にそっくりだ。
 最初はどこも、模倣から出発する。

 明治維新直前の1867(慶応3)年、パリ万博に日本は初めて参加した。幕府と薩摩藩、それに佐賀藩が参加し、有田焼を出品している。
 また、明治政府として初めて参加した1873(明治6)年のウイーン万博でも、有田焼が出品された。
 万博は、その当時のその国の自慢のものを出品して、国を誇示する祭りである。
 今年の上海万博は、日本館ではロボットによるヴァイオリン演奏に見られるように、ハイテク技術を競うかのようだ。そこに、百数十年ぶりに、有田の磁器が碗琴として参加するのも、時代を感じる。

 「見るだけ」の有田の陶器市は、安定感のある醤油差しを見つけることができた。最初唐子模様を買ったあと、流れ紋様の物を見つけたので、2個になってしまった。
 それに、去年買った、野葡萄模様の梅酒用のグラスと水差し風小皿。
 これも、去年も買った磁器の風鈴。
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長崎ランタン祭りを歩けば

2010-02-25 02:46:37 | * 九州の祭りを追って
 中国の街中の商店街とかお土産物売り場の集まる通りを歩くと、赤い提灯が並んでいるのをよく目にする。この大きなトマトかミカンのような、あるいはホオズキ(鬼灯)のような丸い提灯が続く様は、いかにもそこが中国だという思いを抱かせる。
 この中国提灯がランタンである。正確には、ランタンとは、角型で四面をガラス張りにした、軒下などに吊るした灯火をいう。
 このランタン(中国提灯)に彩られた祭りが、長崎で行われている。さすが、観光立県長崎である。中国の華僑の人が行っていた旧正月の祝いを、平成6年から本格的に始めたというから、長い歴史があるわけではない。秋のくんち(祭り)に匹敵するような観光の目玉を、2月の景気の落ち込む時期に立ち上げたのだ。
 期間は、中国の旧正月である春節の2月14日から元宵節の2月28日までの2週間という長さである。

 *

 実家の佐賀に帰っていたので、長崎に足を伸ばしてみた。
 長崎は、大河ドラマ「龍馬伝」にあやかって坂本龍馬の長崎を盛んにPRしている。JRの長崎駅に着くと、龍馬に加えランタン祭りで、秋のくんちの祭りのとき以上の賑わいである。
 駅構内から坂本龍馬のポスターがすぐに目につく。観光案内地図を見ると、龍馬の銅像が市内に2つもあり、龍馬のブーツ(長靴)像なるものまである。「亀山社中」の跡は記念館になっているし、中心街には「長崎まちなか龍馬館」をオープンさせている。さらに、「長崎龍馬の道」を名付けて、新たな観光コースも作っている。
 本家、高知はどうなのだろうかと気になった。長崎に負けていないか?

 この日の僕の目的は、龍馬ではなく中国ランタン祭りである。
 ランタン祭りは案内書を見ると、街中の何か所かに会場が設けてあり、そこでイベントが行われている。
 駅からゆっくり歩いて、本祭りの最大イベントである皇帝パレードの出発点となる、賑橋の近くの中央公園会場に向かうことにした。
 鐡(てつ)橋を渡って西浜町を川沿いに歩いていると、トルコ・ライスの看板のあるレストランに出くわした。ケチャップのかかったスパゲッティ(ナポリタン)とトンカツがのった料理で、トルコとは縁もゆかりもない。イタリアと日本の間はトルコという、冗談のような名前の由来を聞いたことがある。
 その隣に、豚マンの店があり、豚マンと並んで龍馬マンジュウとあった。いつから売り出したのか訊いてみたら、昨年の10月からという、典型的に龍馬人気にあやかったものだ。来年はないかもしれないと思って、ものは試しに買ってみた。中身は皿うどんの具で、何ということはない。

 中央公園会場に着いたら、すでに人は溢れんばかりにいっぱいだ。皿うどんや鯨カツや、 中国雑貨などの出店が並んでいる。会場入口近くには、チリンチリンアイス(アイスクリーム)売りのおばさんもいる。
 2月20日と27日の土曜日は、皇帝パレードが行われるので人気なのだ。
 それに、この日の20日は、皇帝パレードの初日で、ここ中央公園は出発会場である。
 皇帝パレードとは、清朝時代の中国衣装で、清朝の皇帝と皇后(の役)を御輿に乗せて街中をパレードするというものだ。
 日本の街道を、北九州から瀬戸内海を経て、江戸まで行列を作って歩いた朝鮮通信史と違って、実際に長崎で行われたのではない。本当は、長崎と縁もゆかりもない皇帝パレードなのだ。
 このあたりは長崎の観光にたいするアイディアの巧みさであり、したたかさでもある。例えば、上海や香港の祭りで、日本の天皇あるいは将軍のパレードを演じるようなものである。
 この日の皇帝役は、ドラマ「龍馬伝」の龍馬、福山雅治の子供時代を演じた濱田龍臣君であったので、ここでも、龍馬人気と一体である。
 この子役の皇帝は、紫禁城最後の皇帝、「ラストエンペラー」の宣統帝とダブって、愛らしかった。

 その後、中国雑技団によるショーが行われた。雑技団とは、中国各地にある様々なエンターテイメントなパフォーマンスを演じる、サーカスのようなグループである。
 パンフレットには、大黄河雑技団と書いてあり、司会者によると湖南省の雑技の本場から来た人たちだという。
 昨年2009年10月に上海を旅したときに、観光を無視して、というより雑技団を見ることなどすっかり頭の中から消えていて、上海で行われている雑技団を見なかった。そこで、ここは「上海のかたきを長崎で」と思い、どんなものか見入った。
 皿や大鉢回しの後は、アクロバットが行われた。
 アクロバットのメンバーは若い女の子で、体操選手のように脂肪を取り除いたスリムな身体ではなく、みんなぽっちゃりしていたのは意外だった。なかには、お腹までむっちりしている子もいた。ぽっちゃりやむっちりな体型とは関係なく、身体が柔らかいのだ。

 *

 中央公園会場をあとにして、最も賑やかな浜町アーケードへ出た。
 ここも、ランタン(中国提灯)で彩られている。
 そこから、新地中華街へ向かった。やはり、中国に倣ったランタン祭りでは、中華街へ行かないと画龍点睛を欠く。
 中華街の入口の中華門の近くまで来ると行列ができていた。中華街の中に入るのに、混雑しているのだ。こんな光景は初めてだ。
 中華街に入る前に、中華街に隣接している湊公園会場に行くと、ここも大勢の人だかりで、舞台ではニ胡の演奏が行われていた。
 二胡の演奏を聴くのもそこそこに、裏側から中華街に入った。人込みのなか、まっすぐ江山楼へ向かった。長崎に来たときには、チャンポンを食べに江山楼に行くのを、ここのところ常としている。
 しかし、ここでも客が並んで待っている。別館の方が少ないと思い、入口でどのくらい待つのかと係りの人に訊いてみると、2時間待ちだと言うので、すぐに店をあとにした。
 何か食べるのに、どんな店でも並んで待つことはしたくない。食堂が町に1件しかないというならまだしも、たかがチャンポンだ。
 しかしこの日は、中華街の店はどこも客がいっぱいで、すぐに食べられる店はありそうもない。とりあえず、満順の月餅を買って、中華街を出た。
 中華街を出てほどないところで、小さな中華料理店を見つけた。ここでは待つことなくテーブルにつけた。
 やはり、長崎に来たときの定番のチャンポンと焼き餃子を頼み、紹興酒を加えた。紹興酒は熱燗でと頼むと、主(あるじ)が紹興酒は熱燗にするのはよくない、そのままで飲んだほうが美味いと言う。客のごく普通のありふれた要望を否定するのも珍しいし、主があまりにも強く主張するので、そうすることにした。郷に入れば郷に従え、である。
 チャンポンはあんかけ風の味であった。いろいろな味のチャンポンがある。

 外は暗くなっているが、街はまだ静まるのを惜しむかのように、多くの人が行きかっている。

 *

 長崎のランタンフェスティバルは成功のようだ。それに、観光で来た人を、街中を歩かせることに成功している。
 街が賑わうには、人が集まることが第一の要因である。この長崎の街がわが愛する佐賀市と違って、中心街が廃れずにかつての勢いを保っているのは、街中に縦横に走る市電があるからだろう。市電はどこまで乗っても一律百円(今は120円)だ。
 それにこの街は、車が入りにくい狭い路地が多い。長いアーケードにも、中華街の中にも車が入らない。
 街の外は坂になっていて、それゆえ、否が応でも街の中心はコンパクトになっている。
 そのことが、人を街に入り(集まり)やすくし、人を街中に歩かせている。ちょっと歩くには遠いと感じたら、市電に飛び乗ればいい。
 これらが、車(自動車)依存の街に陥らない大きな要素になっている。
 空間の要素だけではない。人が集まるには、街が魅力的でなくてはならない。
 願わくば、人は街の中に発見とときめきを期待したい。
 街中の商店街は、小さな店が、それも様々な店がアトランダムに並んでいる。食堂の横に魚屋があり、その隣が雑貨屋だったりする。それらは、歩くことによって見出される店々だ。
 街は、目的だけで歩くものではない。ぶらぶらと歩いていて、そこから思わぬ発見があるものだ。予定しなかったものを買ってしまったり、思わぬものを食べたりすることがあるものだ。

 自動車依存の街はどこも、国道もしくは幹線道路沿いの新しくできた大型店舗に、人は大体が目的を持って買い物に行き、車が停まれるファーストフードの店で食事をするという潮流になっている。大型店舗で買い物を済ました客は、街の中をぶらぶらと歩きはしない。
 それゆえ哀しいかな、かつての町の中心街は廃れる命運をたどっている。

 *

 中華料理店を出て歩いていると、すっかりあたりも暗くなっていたので、思案橋に行った。
 最終列車まで、少し飲む時間があるようだ。
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