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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

長崎くんちは、蛇踊りで

2008-10-11 01:29:30 | * 九州の祭りを追って
 10月9日は、長崎くんちの最後の日だった。間にあった。
 くんちとは、陰暦9月9日の重陽の節供で、旧暦9月9日、もしくは19日、29日などの日に、主に北九州から熊本一帯で古くから行われている神社の秋祭りである。行われる日にちは、各地でばらばらである。
 2年前、長崎、唐津、伊万里、白石(佐賀)と、初めてくんち巡りをし、地域によって祭りの特色が色濃く出ているのを知り、それ以来、また見たいと思っていた。去年のこの季節は、東京にずっといたので見ることはなかったので、2年ぶりの長崎くんちであった。
 
 長崎くんちの見ものは、市内の古くからある、その年当番のいくつかの町が独自に行う、演(だ)しものである。7年に1回ずつ当番町は交代し、その年当番町の演(だ)しものが、「庭先回り」と言って、町(市)内の氏子の家々を周るのである。
 今年の演(だ)しものの目玉は、諏訪町の蛇(じゃ)踊りである。蛇踊りは大きな龍の造りが黄金の玉を追って踊り狂う様(さま)で、長崎くんちの代表格となっていい。
 2年前は、「鯨の汐吹き」という大きな鯨が出演したので、その年は蛇踊りは出なかった。
 であるので、蛇踊りを見るのは、初めてである。

 庭先回りは、長崎港にある「お旅所」という出発点を、第1陣が朝7時に、その後順次各町が出発して諏訪神社に向かい、そして街中を周ることになっている。その街周りは、夜8時ごろまで続けられる。

 *くんちの「庭先回り」を追って

 肥前山口で乗り換え、朝10時に長崎駅に着いた。
 庭先回りのスケジュールと市内地図が1枚になっているくんち案内を、駅ビル内の観光案内所でもらって、くんちを取り仕切る諏訪神社の方に向かった。
 長崎は路面電車があるので簡単に行けるのだが、今回は歩くことにした。30分ぐらいで着く距離だ。
 どこでも、町を知るには歩くのが一番である。
 
 神社近くまで来ると、笛と太鼓の音がしてきた。その方に行ってみると、西古川町の本踊りであった。笛や太鼓に合わせて、数人の踊り子がシャンシャンシャンと踊る単純な演しものである。
 街中を巡って、やっと11時ごろ蛇踊りの一行にぶつかった。
 ラッパ、ドラと、金属音を高々と鳴らしながら練り歩いているので、この一行は遠くからでもすぐに分かる。
 ほかの町とは桁が違う行列だ。先導の幟(のぼり)を持った人たちのあとに、蛇である龍の一団が、そのあとに赤い中国服を来た女性による長ラッパ、シンバル、ドラと続き、最後部に和式の笛、太鼓がついていく。その間に、ピンクの中国服の女性の一団が同行しているので、なんとも華やかだ。最後部の和風の人たちは、付け足しのようで肩身が狭そうだ。
 蛇である龍は、頭と腹から長い棒が出ていて10人で担ぐ。先頭の黄金の玉を持った人がその玉をぐるぐる動かしながら進むと、龍がその玉を追って踊りくねるのである。
 蛇は、広い公道から狭い路地まで、氏子のいるところへはどこへでも入っていく。(写真)
 その髪と髭をなびかせながら踊る蛇は、まるで生きているようにダイナミックである。蛇の担ぎ手は、支える棒を右に左に、上に下に、前の動きに合わせて動かし、汗だくである。頭と胴体から尻尾まで動きが合ったときは、大きな波のようにうねる。
 僕は、蛇踊りの追っかけのように、あるときは頭の方に出たり、あるときは最後尾から見たりと、街中を蛇について行った。
 この一行の中で責任者らしい係りの人に訊いたところ、蛇の長さは全長20m。10人で支える蛇の、頭の重さは30kg、後ろの腹の重さは各部10kgぐらいだが、踊りのときは全体が動くので、瞬間的にほかの部位の重さが被い重なってきて、一人にかかる正確の重さは分からないとおっしゃっていた。
 
 町を歩き回っているうちに、新大工町の演じものの一行に出くわし、興福寺に行き着いた。その寺の境内で、詩吟による詩舞が行われた。
 歩き疲れた3時に、諏訪神社で、くんち最後の日の目玉である「お上り」が行われるので、神社へ行った。街に下っていた3台の神輿が、「もりこみ」と言って、魂を入れて、神社の最後の石段を、本殿まで一気に駆け上がる行事である。
 行くと、すでに階段の下から上の本殿まで人でいっぱいだ。上段の桟敷席で見るのは2年前と同じである。
 神輿の「お上がり」は、あっという間に終わり、祭りのクライマックスは過ぎた。
 終わったあと、諏訪神社の長崎くんち案内書に、「日本三大祭りのひとつ」と書いてあったので、巫女さんに、あとの二つはなんですか、と訊いてみた。
 各地の有名どころの祭りが勝手に言っているので、正式な三大祭りはないとのことだった。居合わせた地元の90歳を超える長老に訊いてみても、知らないとのことだったから、はっきりした定説はないのだろう。
 ただ三大くんちは、この長崎くんちのほかに、唐津くんち(唐津神社)、博多おくんち(櫛田神社)が定説のようだ。

 *中華街のチャンポンの味

 10月だというのに、この日は夏の盛りのように暑かった。半日歩き回ったせいもあり、汗が引きもきらない。
 諏訪神社の「お上り」を見たあと、喉の渇きと空腹を満たすために、食事をしに行くことにした。胃の中は、すでに朝から考えていたチャンポンを待っている。
 2年前、偶然見つけた中華街の江山楼での特製チャンポンの味は忘れられなかった。
 諏訪神社から、中島川に沿って新地中華街へ歩くことにした。ほぼ長崎の主な街中を歩くことになる。
 途中眼鏡橋などを見ながら歩いていくと、大きなアーケードへ出た。観光道りアーケードと交差する浜町アーケードで、大きく賑やかだ。佐賀市の商店街アーケードはかつての賑やかさは失せて衰退しているのだが、長崎は活発だ。
アーケードを通り過ぎると、銅座橋に出た。
 銀座でなく、金座でもなく、銅座というのが渋い。
 その先は、新地中華街だ。
 ほかの店は目もくれずに、まっすぐ江山楼に入った。
 まず、エビ、イカ、肉の3個セットの焼売(シュウマイ)と東坡肉(トンボウロウ)を肴にビールを1本。
 東坡肉は角煮饅頭のことで、分厚い肉の角煮とホウレンソウ煮を、ハンバーガーのように、ふっくらとしたマンジュウに挟み、甘く濃いカルメラ味のたれを流し込んで食べる。これが旨い。パン風のマンジュウは、思ったより胃に重くならない軽さだったので安心した。
 さて、次はお目当てのチャンポンと紹興酒を熱燗銚子で。
 2年前に来たときは、海鮮味の特製チャンポンを食べた。値段は特製が1575円で、並が830円であるが、違いを訊いても店の人は、当然のことながらどちらも美味しいですよと言う。特製は、フカヒレがのっていて、具も20種類と豊富だが、普通のチャンポンとどう違うのか、今回は並みのチャンポンを頼んだ。
 並でもエビや貝の海鮮も入っていて、何よりスープが僕が知っているチャンポンと違って、潮の香りと味がする。こちらも、特製に劣るとも勝らない美味しさだ。
 チャンポンは、時としてこってり感が残るが、スープを飲み干しても舌にしつこさが感じられず、さっぱりとしているのはいい。

 *思案橋ブルース

 中華料理店を出るとすでに夜だったので、思案橋の方へ足が向かった。長崎の盛り場である。
 僕は酒は好きだがあまり強くはないので、すでにいい加減気持ちよく酔っていたが、せっかくの思案橋である。知っている店など1軒もないが、どの店に行こうかと思案しながら、雑居ビルの中の小さなスナックに入った。
 店は開けたばかりで、客は僕が最初だった。その店のカウンターで、佐賀へ帰る終電まで、ウイスキーの水割りを飲んだ。終電といっても早いもので、長崎発21時半の特急である。9時には店を出たいので、そんなに飲む時間はない。
 感じのいい店で、そんなときの時間はあっという間に過ぎてしまう。
 「長崎くんちを見にきた」と言ったら、帰りに店の女性が、「うちのところの町で出した、くんちの記念のものです」と言って、1枚の手ぬぐいをくれた。
 それには、青地に白で、紋様と魚が染め抜かれ、上段に「大漁万祝 恵比寿船」と、下段に「平成二十年くんち奉納 賑町」とあった。くんち奉納踊りの頭領が采配に使ったという、「采」のミニチアの縁起物も付いている。

 この日はよく歩いた。
 犬も歩けば、棒にあたる。
 人も歩けば、縁起にあたる。

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ほぼ満月の夜の、佐賀の精霊流し

2008-08-16 20:36:34 | * 九州の祭りを追って
 8月15日は、佐賀では精霊流しの日である。
 盆の終わりに、家に迎えた精霊を送り返すのである。提灯をともし、お供え物を携えた飾り舟を川に流す。舟の前方には、どの舟も「西方丸」と書かれている。西の方に極楽浄土があるという言い伝えなのだ。
 わが故里では、有明海に流れる六角川で行われている。この川の川縁は沼のようになった潟で、葦が生い茂っているので、薄暗闇の中、灯りをともした舟が流れると侘しさを漂わせる。
 同じ有明海に流れる嘉瀬川では、久保田町の精霊流しが行われている。それに、この精霊流しに合わせて、この日に花火大会もあるという。
 ほかの町の精霊流しは見たことがなかったので、この日、嘉瀬川に行ってみた。

 嘉瀬川の河川では、バルーンの世界大会も行われているだけあって、川は大きく、すぐ近くに大きな橋も見える。
 薄暮から、精霊舟の流しは行われた。
 日も落ちて、暗闇の中を流れる灯は幽玄の世界である。しかし、今でも自然なままの川である六角川の方が情緒はある。
 とはいえ、この日は、空の上には、雲間にほぼ満月の月が見える。
 空には月の明かり、川には舟の灯りである。

 しかし、何と言ってもこの日の特筆ものは、精霊流しのすぐ後に行われた花火である。
 ド、ドーンと音がして、橋の向こうに花火が上がった。
 その花火を目で追うと、すぐ近くに丸い月が浮かんでいた。火花が四方に舞い落ちた。
 次々と花火は打ち上げられた。まるで、丸い月に向かって打ち上げられたようであった。
 月は、何度も火の粉を浴びた。そして、何度も火の花の中に入った。月の近くに流れる、にわか流星群も出現した。

 この日ばかりは、月は、川に浮かぶ舟の灯りと、空に舞う花の火の介添え役のようであった。

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精霊流し

2007-08-16 20:39:51 | * 九州の祭りを追って
 夏草に 交じりて赤き彼岸花
  ふるさとの香の 匂ひ切なき
 
 実家の庭に彼岸花が咲いた。今咲いているのはピンクのナツズイセンだ。
 彼岸花は不思議な花だ。地面からいきなり茎がすっと伸びて、そして花をつける。何だか異様な風景だ。葉は花が終わったあとに出てくる。
 この花を切って、墓参りに行った。
 家に、坊さんがお経をあげにやって来た。

 去年の暮れに、僕の旧来の友人が死んだ。中学時代からの同級生、いわば幼馴染で大人になってからも関係は続き、親友とも腐れ縁とも言える間柄だった。
 生来の不摂生がたたっての病の果てだった。才能があったら、何かを後世に残していたら、無頼といえる生き方だっただろう。
 彼も独り身で、静かに誰に看取られるでもなく死んでいった。
 彼の初盆である。昨日(8月15日)の夜、彼の妹夫婦たちと一緒に、ふるさとで送り出した。

 盆に迎えた霊を、その終わる日に川へ帰す行事を精霊流しという。
 さだまさしの歌でも有名だ。

 まだ、夏の日も暮れない夕方6時に精霊流しは始まった。
 この町では、有明海に流れる六角川の川岸で行われている。死者を送り出す行事なのに出店が出たりして、少し祭りの雰囲気もあわせ持った不思議な空気が漂っている。
 日暮れとともに、派手やかに着飾った舟を持ってきた人が、次第に集まってくる。
 舟につけられた提灯のロウソクに灯りをともし、家人や関係者に見守られながら次々と舟は川に流される。
 いずれの舟にも、「西方丸」と名前が掲げてある。「西方浄土」、つまり西の方に極楽浄土があるということに由来しているのだ。
 日も暮れて暗くなると、灯りをともした舟は一段と艶やかに映る。川を流れる舟を見ていると、本当に極楽浄土に向かっているかのようだ。
 死者たちは、また彼の地へ帰っていく。
 こうして盆は終わるのだ。

 年々、死が身近な存在としてある。
 いつまでも生きていけるかのように振舞っていた季節は過ぎた。死は、いつ来てもおかしくないということが分かってきた。当たり前のことを知るまでに、相応の年月を経なければならなかった。
 盆は、それを知らしてくれる季節でもある。
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唐津くんち

2006-11-07 16:24:24 | * 九州の祭りを追って
 *

 いよいよ、くんちの掉尾を飾る唐津くんちである。
 唐津くんちの最大の見ものは、曳山(やま)である。曳山とは、祭りの日に氏子が街中を引いて練り歩く、各町が作った大きな漆張りの飾り(山車)のことである。曳山は、獅子や兜や鯛など14台あり、そのどれもがきらびやかで、その姿はすぐに祭りを想起するものばかりだ。
 なかでも、金色に縁取られた赤い鯛は、最も唐津のくんちを象徴するものであり、その大きな鯛が街を練り歩く様は想像するだに楽しいものだ。また、亀に乗った浦島太郎が登場するのも珍しいだろう。
  
 唐津くんちは、唐津神社の秋祭りとして16世紀末ごろ始まり、元来は旧暦9月29日に行われていた。それが後に、月遅れの10月29日になり、現在は11月3日を中心とした日程になっている。
 11月2日は、宵ヤマと言って、夜に提灯をつけた曳山が街を歩き、唐津神社に集合する。
 11月3日は、祭りの山場で、朝、神輿を中心に曳山が街を巡幸し、西の浜の御旅所(おたびしょ)と呼ぶところに集合する(曳込)。そして、夕刻、御旅所を曳山が順番に出発して(曳出)、街中を通って各町へたどり着く。
 11月4日は、曳山が街中を巡幸し、最後は曳山展示場に格納されて祭りを終える。

 曳山の進む順番は決まっていて、作られた年代順という。一番は刀町の「赤獅子」で、文政2年(1819年)で、最も新しい江川町14番の「七宝丸」が明治9年(1876年)である。
 曳山の誕生は、刀町の山本嘉兵衛が文政年間、伊勢参りの帰途、京都に寄ったときに見た祇園山笠をヒントに、仲間たちと「赤獅子」を作り奉納したことによる。
 ちなみに、14町の曳山は以下の通りである。
 1番 刀町の赤獅子(製作 1819年・文政2年)
 2番 中町の青獅子(1824年・文政7年)
 3番 材木町の亀と浦島太郎(1841年・天保12年)
 4番 呉服町の九郎判官源義経の兜(1844年・天保15年)
 5番 魚屋町の鯛(1845年・弘化2年)
 6番 大石町の鳳凰丸(1846年・弘化3年)
 7番 新町の飛龍(1846年・弘化3年)
 8番 本町の金獅子(1847年・弘化4年)
 9番 木綿町(きわたまち)の武田信玄の兜(1864年・元治元年)
 10番 平野町の上杉謙信の兜(1869年・明治2年)
 11番 米屋町の酒呑童子と源頼光の兜(1869年・明治2年)
 12番 京町の珠取獅子(1875年・明治8年)
 13番 水主町(かこまち)の鯱(1876年・明治9年)
 14番 江川町の七宝丸(1876年・明治9年)
 消滅 紺屋町の黒獅子

 **

 祭りの季節も終わりに近づいた。僕も、そろそろ東京に戻らないといけない。
 10月9日の長崎くんちに始まり、佐賀白石の稲佐神社、妻山神社のくんち、伊万里のトンテントン祭り(この喧嘩祭りも元はくんちである)を見て、ついに念願の唐津くんちである。
 日本3大くんち祭りは、この長崎・諏訪神社と唐津・唐津神社のくんちに加えて、福岡・櫛田神社の博多くんちとなっている。博多くんちは見逃したが、次回の楽しみにとっておくとしよう。

 祭りの山場である11月3日の昼ごろ、唐津に行った。
 唐津には、佐世保線の久保田で唐津線に乗り換えて行くことになる。佐世保線の在来線の各駅停車は、この時間はいつもガラガラなのだが、今まで経験したことがない混雑ぶりだ。普通はゆうに座席に座れるのに、それどころかラッシュアワー並みだ。
 そうなのだ。この季節、11月1日から5日まで、佐賀市の郊外佐賀平野で、国際バルーン・フェスティバルが行われているのだ。そのため、この期間だけ、佐世保線の久保田駅と隣の鍋島駅の間に、「バルーンさが駅」が登場するのだ。それもあって、車内では珍しい混雑ぶりも見られるのだ。
 ゴールデン・ウイークの有田陶器市のときでも、これほどの混雑はないだろう。
 いつの間にか九州の盟主の地位を獲得してしまった、商人の町博多・福岡と、異国情緒を看板に観光に並はずれた力を発揮するが、その実多くの離島で成り立っている観光立県・長崎に挟まれて、地味な存在に追いやられた肥前佐賀にあっては、珍しく活発な動きを見せるこの季節である。

 唐津駅を降りたら、日ごろの静かな佇まいとは変わって、駅前から祭りムードいっぱいである。魚の日干しやイカシュウマイなどの港町特有の土産物屋が並ぶ。さらに、祭りの定番である屋台が続く。
 これから曳山が順に繰り出すという、西の浜の御旅所に行った。駅を出たメイン通りには、すでに延々と見物人が並んでいる。曳山が来るのを待って、もう道の端に座っている人もいる。
 御旅所では、14台の曳山が待機していた。沿道はもう見物人でいっぱいで、立ち見である。
 午後3時、まず神輿が御旅所を厳かに出発した。
 そして、笛と太鼓に煽られて、第1番の赤獅子の曳山が動き出した。2本の太くて長い綱を、子どもたちを先頭に何人もの曳子が引いて動かすのだ。しかし、下は砂なので、車が砂にめり込んで、2トンを超える曳山はなかなか動かない。この砂地から、一般道にまで引っ張る「曳出」は、この祭りの見せ場でもある。
 曳子の掛け声とともに何度も綱を引き、そのうち力尽きて綱を置き、次には曳山の背に乗った男が塩をふりまきながら煽る、これらの行為を繰り返し、少しずつ曳山は進む。
 砂地から、やっと曳山が出ると、観客から拍手が起こる。あとは、曳山はスムーズに動き出し、そのうち勢いあまって走り出す。

 長崎くんちの目玉が蛇踊りで、今年は蛇踊りの代わりに鯨の潮吹きであった。しかし、唐津の14台は、そのどれもが鯨の潮吹きを凌駕するものであった。
 しかし、長崎くんちのいいところは、山車が路地に入り、1軒1軒、申し出のあった、つまり御花・御祝儀を渡した、店や家の前を回る「庭先回り」があるということだろう。この儀式が、街に参加意識をもたらしていると言える。

 ***

 曳山が街を巡って各町へ消えゆき、その日の祭りは終わった。
 人でごった返す唐津神社に参拝して、街で一杯飲みながら食事をして帰ろうと思って、駅前の繁華街を回ってみた。そこでは、今日の役目を終わった、鯛や兜が各町の通りに鎮座していて、その前で記念写真を撮っている人がいた。
 さてと、料理屋や食堂のめぼしいところを回ったら、ほとんどの店が明かりはつけているが営業をしていなかった。
 唐津には「三月倒れ」という言葉がある。このくんちのときは、近所の人や親しい知人を呼んで、豪勢にご馳走を振る舞うしきたりなのだ。3月分ぐらいの収入をつぎ込むので、この言葉ができたらしい。
 であるから、この日は仲間うちで宴会なのだ。ついさっきまで祭りに参加していたと思われる法被を着た人たちが、三々五々に、家の中に入っていく。あちこちで、そのような光景が見られる。窓からのぞき見える光景では、もう宴会が始まっているところもある。とても、一見の客が入る余地などなさそうだ。ここが、長崎と違うところだと感じた。

 唐津線で、佐賀市に出ることにした。九州といえども、6時になると日が暮れている。
 久保田駅の次で電車が止まった。臨時の駅の「佐賀バルーン駅」であった。ここは、見渡すかぎり田んぼの中なのだが、嘉瀬川の河川に沿ってずらりと屋台のテントが張り巡らされていて、何台もの車が止まっていた。まだ多くの人だかりがしている。
 国際バルーン競技の会場で、夜もやっているのだ。ただ、今はバルーンは飛んでいない。飛ぶ時間は決まっているらしいが、気候、風の具合で変更はよくあることらしい。
 
 バルーンを見ることはせず、まっすぐ佐賀市に行って、飲むことにした。
 佐賀市の駅からのメイン通りは、イルミネーションが輝いていた。バルーン・フェスタに合わせて、このまま年末までずっと続けて灯をともすらしい。柄にもなくというと言い過ぎだが、佐賀も観光に力を入れようとしている努力の欠片が見え隠れした。
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伊万里トンテントン祭り

2006-10-25 03:08:26 | * 九州の祭りを追って
 *喧嘩祭りの惨事

 伊万里トンテントン祭りは、日本三大喧嘩祭りの一つといわれている((ちなみに、他の二つは、新居浜太鼓祭り、飯坂けんかまつり)。時に死傷者が出る荒い祭りで有名である。
 僕は、見たことがなかったので、この時期佐賀にいるいい機会なので、見に行くことにした。有田出身で今は隣町の長崎・波佐見町に住んでいる友人に声をかけると、彼も見たことがないので、一緒に行こうということになった。
 トンテントン祭りは、伊万里河畔にある伊萬里神社の御神幸祭で、伊万里供日(いまりくんち)とも呼ばれている。10月22日の夜から24日まで3日間行われる。
 初日は、宵の祭りで、次の日から、荒神輿と団車(だんじり)が、町内各所で激しいぶつかり合戦を繰り返し、最終日の夕刻には、双方組み合ったまま川に落ちて、上陸を競うという「川落とし」で終幕を迎える。
 それで、最終日の10月24日に行くことにした。
 
 荒神輿と団車の担い手は、現在は出番制で、町内を4つに分けて、東軍と西軍に分かれて競い合う。であるから、担うことは、各町4年に1度ということになる。
 このトンテントン祭りの謂れは、太鼓の音と思われるが、どうしてこのような形になったのかは、諸説あるようだ。
 一説は、秋の豊穣を祝い、「川落とし」で、荒神輿が先に上陸すると豊作、団車が先に上陸すると豊漁、と吉凶を占うというもの。また、南北朝の古事になぞらえて、荒神輿(陸軍)が楠木方、団車(水軍)が足利方とする説、などがあるという。

 大川内の磁器の里を過ぎて、伊万里の街中に着いた。祭りだというのに、静かである。長崎のくんちとは、大分賑わいが違うなあと思った。
 街を歩いてメイン通りにさしかかると、音が流れてきた。祭りの音だ。
 人の群れが目に入った。踊りだ。編み笠をかぶった浴衣姿の男女や子どもも交じっている。盆踊りのような踊りの長い列があった。市内の各企業や団体による「いまり総踊り」である。それは、「トンテントン」という明るい歌とは裏腹に、風の盆のようにしとやかの踊りだった。
 それから先は、静かだと思った街が、突然賑やかな踊りモードになっていた。舞台が備えられた四辻から市民センターのある広場にいたる通りは、ずらりと屋台が並んでいる。
 夕3時半から、市民センター広場で、本日最後の合戦である荒神輿と団車のぶつかり合いがある予定だ。3時に行くと、桟敷が置かれてもうかなりの人が集まっている。僕らは桟敷の最前列に陣取った。
 中国青島(チンタオ)歌舞団(と説明があったと思う)による、舞踏が行われていた。そして太鼓の演奏のあと、法被姿の若い男たちに守られるように、荒神輿と団車が入ってきた。
 
 トンテントン祭りは、先に言ったように、荒神輿と団車がぶつかり合って相手を倒す合戦祭りである。
 僕は、写真などを見て、笛や太鼓に合わせて、神輿と団車をガッツン、ガッツンとぶつけ合う、合戦に見立てた、ある意味ではぶつかり合う優雅さを見せるものだと思っていた。つまり、よくある、祭りの一種の形式美を、荒々しく披露するものだと思っていたのである。そして、川に神輿を落とすときに、時にアクシデントでひっくり返り、けが人が出るものだと。
 しかし、まったく違ったものだった。
 荒神輿と団車を担いだ二つのグループが、まず、相手を煽り立てる。そして、二つがぶつかり合う。
 さあ、これからぶつかり合いが始まるぞと、僕が思った瞬間である。あっという間に、手前の団車がひっくり返った。僕は、デジカメを構えて、これから最もいい場面でシャッターを切ろうと待ち構えていたときだった。瞬時に、ひっくり返ったのだ。予測していなかったので、シャッターを押すタイミングすらなかった。
 僕は、一方のミスで、たまたまこんなに早くひっくり返ったと思った。しかし、そうではなかったのだ。僕の友人は、「テレビで見たことあるけど、意外と速く決まるよ」と言った。
 そうか、それは、相撲の立ち合いの、頭と頭をぶつけ合うのと同じだと思った。一瞬の真剣勝負だった。
 ひっくり返った方の中から2箇所で塊ができ、数人がしゃがんでのぞいている。2人が倒れているようだ。十字の旗を持った法被姿の男が走ってきた。怪我人対策の係りなのだ。しばらくして、「ピーポー」という音とともに救急車が来て、2人は運ばれた。
 合戦には加わっていないが、それを見守っている法被姿の人の中に、松葉杖の人がいた。
「この祭りで怪我をしたのですか」と訊くと、その若い男は、「ええ」と答えた。「いつですか」と訊くと、「昨日」と、「怪我は、どこを」と訊くと、「足の指を2本折りました」と平然と答えた。頬にかかる大きな眼帯をした男もいる。
 やはり、怪我はしょっちゅうあるのだと確認した。
 もうぶつかり合いの合戦は終わったのかと思ったら、隣の人が、「まだまだ川落としまでやりますよ」と言った。
 
 荒神輿と団車は各々立て直して、2度目の合戦が始まった。ぶつかり合う前に、団車の上に立った指揮官のような人が、味方の担ぎ手に注意をうながしていた。
 僕は、今度はしっかりと写真を撮ろうとデジカメを掲げた。荒神輿と団車がぶつかった。
 そのときだった。惨劇が起こったのは。
 またもや、団車がひっくり返った。またもや、あっという間の出来事だった。
 隣で立っていた僕の友人が「いや、もろに担いでいた男の頭に団車の木が当たったぞ」と言った。団車や荒神輿の重さは、550~600キロもある。
 そのときは、僕はまた怪我人が出たのか、という程度の認識だった。倒れた男の周りは、法被姿の担ぎ手の男たちに囲まれて、どのような状態か分からなかった。
 しかし、倒れた男はなかなか起き上がろうとしなかった。救急係の男が走った。何分か時間が過ぎた。法被姿の男が倒れた男に馬乗りになって、胸の辺りを何度も押している。
 「おい、人工呼吸をしているぞ」と友人が言った。それからすぐに「いや、心臓マッサージだ」と言い直した。
 この段階に来て、僕たちはことの深刻さに顔が凍った。再び、救急車が来て、男は担ぎこまれた。そのとき、男の顔は真赤だった。男が倒れたあとには、一面血が広がっていた。その量の多さに改めて、事の重大さを知らされた。
 すぐに、係りの人が、バケツに水を汲んできて、床の血を流した。見ている観客も、事の重大さに気づき始めて、熱気がひいていくのが分かった。
 僕の友人は言った。「これは、祭りでなか。もう、見る気は起きない。ここから出よう」と。
 骨折などと言った程度の怪我ではないことは明らかだった。
 僕たちは、会場をあとにした。
 「俺は、あの瞬間を見てしまった。もう、今後、トンテントン祭りは見ないぞ」と、友人は繰り返した。
 
 僕たちは、6時半から始まるという「川落とし」を見ないで、伊万里をあとにすることにした。
 会場を出て、祭りの屋台の並びを過ぎて、「川落とし」の会場となる伊万里川を通って、街の商店街のアーケードをゆっくり歩いていると、店の主人とおぼしき人が玄関から出て、立っていた。僕らが、「今、祭りの合戦を見てきたが、大変な事故があった」と言ったら、既にその主人は知っていた。
 「ええ、そうらしいですね。そのあとの合戦は中止になったそうです。「川落とし」だけは神事ですから、形だけはやるそうです」と言った。
 情報の速さに驚いたが、やはり大変な事故だったのだ。

 家に帰ったあと、その日(10月24日)の夜のテレビで、次のようなニュースが流れた。
 「伊万里トンテントン祭りで、死者が出ました。定時制の高校生です。この祭りでの死者は、97年の9年前以来です」
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