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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

大阪を経て九州へ① 大阪・御堂筋を歩く

2023-10-31 23:58:58 | * 九州の祭りを追って
 2023(令和5)年10月17日に東京を発って、ようやく久しぶりに九州・佐賀へ向かった。
 やっと解禁、いや開放された。
 何からかといえば、新型コロナからである。2019年末に発生したとされる新型コロナウィルスにより2020年から2022年にはパンデミック(世界的大流行)に陥れられ、その影響は3年余にも及んだ。
 日本においては2023年5月に2類相当から普通のインフルエンザ並みの5類へと位置づけが変更されるまで、外ではどこにでも不安で不穏な空気が漂っていた。
 その間、日帰りの近いところへの散策であればいいのだが、マスクを付けての旅など気分がのるわけがない。
 ということで長旅は控えていたが、もうマスクを付けなくて旅ができそうだ。とはいえ、今でもマスクを付けている人は減ってはいるが、コロナウィルスは完全になくなったわけではない。

 振り返れば、2019(令和元)年秋、九州へ行って以来の4年ぶりの旅である。
 とりあえずは佐賀の田舎のくんち祭りを見に行くという理由付けをして、10月19日を目途に、いつものなりゆきで出発した。

 *いつか歩いた大阪の街、御堂筋

 10月17日、途中下車で大阪に降りたった。かなりの、久しぶりのことだ。

 あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街
 どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道……
  「大阪ラプソディー」(作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章、唄:海原千里・万里、1976年)

 ……映画を見ましょうか それともこのまま 道頓堀まで歩きましょうか……上沼恵美子が、こんなロマンチックな歌をうたっていたときがあった。
 
 若いときは大阪の街をぶらぶらと歩いたものだが、ここのところは通り過ぎるだけで、思いおこせばもう何年も、いや何十年も歩いていない。
 すぐに思い浮かべるのは、ミナミの御堂筋、心斎橋、道頓堀、法善寺である。この一帯は、“そぞろ歩き”という言葉がよく似合う。東京とは違った都会の街で、心が躍る。

 「御堂筋」は歌にもよく唄われているし、大阪で最も人気のある通りといっていい。
 それに、東京駅や日本銀行本店などを設計した辰野金吾による日本銀行大阪支店をはじめ、古いビルディングが今も建っている。
 さらに付け加えれば、1959(昭和34)年、南海ホークスが初めて日本一になったとき、鶴岡一人監督ほか、杉浦忠、野村克也、広瀬叔功などのスター選手を乗せたオープンカーが凱旋パレードを行った通りなのだ。杉浦の4連投で南海が巨人に4連勝し、そのとき御堂筋沿道には20万人の人出が集まったという。
 私は子どものときから、ホークス・ファンだった。

 今まで、きれぎれには道頓堀近辺の御堂筋を歩いたことはあるものの、その通りはどこからどこまでなのか、そしてどんな道筋なのかはよくは知らなかった。
 おもむろに、御堂筋を、そのハシからハシまでを歩いてみようと思いたった。これは、素敵な思いつきだと思った。

 *「北御堂」(西本願寺津村別院)と「南御堂」(東本願寺難波別院)がある通り

 御堂通りでなくて、御堂筋と呼ぶのがいい。
 「御堂筋」は、大阪のキタの玄関口「梅田」とミナミの「難波」を結ぶ、全長約4km、幅約43m(大江橋、淀屋橋は約36m)、全6車線の幹線道路である。
 大阪市は、1919〈大正8〉年、道幅6mの道頓堀の拡張と地下鉄を一体化して進めると発表する。今日の御堂筋の出発点である。
 1933(昭和8)年、梅田-心斎橋間の大阪市営地下鉄1号線が完成する。現在の地下鉄「御堂筋線」である。
 東京では、1927(昭和2)年に東京地下鉄道株式会社(のちの東京メトロ)により上野-浅草間に地下鉄が開業していたが、公営の地下鉄としては大阪市営地下鉄が初めてであった。
 御堂筋の通りは、梅田新道が母体となる淀屋橋交差点以北は、大阪市電敷設の際に拡幅されていたこともあり1927年に完工したが、淀屋橋交差点以南は用地買収などで遅れて1929(昭和4)年に着工。その後、難波まで延びた御堂筋は1937(昭和12)年に完成した。
 御堂筋の地下には、大阪市初の市営地下鉄・御堂筋線が走った。

 *キタの「梅田」からミナミの「難波」まで、「御堂筋」を歩く

 まず、JR「大阪」駅、地下鉄・御堂筋線「梅田」駅の南側の交差点の陸橋前に出た。周りは、高層ビルが聳える。煩雑な大阪のイメージはない。東京でいえば、丸の内の感じである。

 ・「梅田」
 JR「大阪」駅南の梅田の一帯は、駅が複雑だ。先にあげた地下鉄・御堂筋線「梅田」駅の他に、阪急「大阪梅田」、阪神「大阪梅田」の私鉄の始発駅がある。それに、地下鉄「東梅田」(谷町線)、「西梅田」(四つ橋線)駅があり、そこにJR東西線「北新地」駅が絡む。
 左手に阪急、右手に阪神のビルを見ながら、南(ミナミ)に向かって御堂筋を出発した。
 御堂筋は6車線という大きな道幅の通りだが、初めて知ったのだが車はキタからミナミへの一方通行である。
 歩き始めるとすぐ左手に、入る通りに「お初天神通り」の文字が見える。

 ・曽根崎「お初天神」(露天神社)
 近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曽根崎心中」の舞台となった「お初天神」の参道である。「曽根崎お初天神通り」の商店街があり、奥には「露天神社」(つゆのてんじんしゃ)がある。この名が、お初天神の正式名であった。
 お初天神を過ぎて南に進むと「大江橋」に行き着く。橋を過ぎ「中之島」に入ると、御堂筋を挟んで右手にクラシックなビル、左手にモダンなビルが目につく。

 ・「日本銀行大阪支店」
 ・「大阪市役所」
 「大江橋」と中之島の先にある「淀屋橋」の間にある、右手の古典的なビルは辰野金吾設計の「日本銀行大阪支店」である。屋根に丸い擬宝珠のような帽子(塔)があるのは、辰野が気にいっていたのか東京駅・丸の内駅舎を想起させる。
 旧館は1903(明治36)年建造であるが、40年前に外壁を残して建て替えられた。
 左手にあるモダンなビルは「大阪市役所」で、現在の庁舎は1986(昭和61)年に完成したものである。

 ・「船場」
 淀屋橋から「本町駅」、さらに「心斎橋」駅に進む間に、昔からの問屋や老舗が残る「船場」がある。江戸時代、“天下の台所”として栄えた大坂の中心街で、駅名はないがこの一帯を「船場」と呼ぶ。
 船場で思いおこすのは、ここで古い暖簾を誇る廃れゆく旧家の4姉妹を描いた谷崎潤一郎の「細雪」である。
 何度か映画やドラマ化されたが、私が見たのは1983年に公開された市川崑監督の作品で、4姉妹のキャストが目を見張る。花のような岸惠子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子という姉妹女優陣に石坂浩二、伊丹十三という男優が絶妙に渋く絡んでいた。
 通りを歩いていると、いわくありげな「久太郎町」という町名も見える。

 ・「心斎橋」
 本町駅を過ぎると、ほどなく高級ブランド店が並ぶ「心斎橋」である。御堂筋に並行して、アーケードの心斎橋筋商店街がある。

 ・「道頓堀」
 心斎橋を過ぎると橋に出る。下に流れる川(堀)が道頓堀川で、橋は「道頓堀橋」である。
 堀の先の向こう(東)に架かる橋が「戎橋」で、その間の堀に、両手を挙げたランナーで有名な“グリコの看板”が見える。
 道頓堀を過ぎるとすぐ左手に、クラシックな建物が目につく。

 ・「大阪松竹座」
 1923(大正12)年に建てられた関西初の洋式劇場である。正面は洒落た半円形のアーチとなっている。

 ・「法善寺」
 大阪松竹座の先の派手な赤いタコと龍の看板を左に入っていくと、「法善寺横丁」にぶつかる。狭い路地といった感じで、昔ながらの商店街、繁華街といった風情が漂っている。
 そのなかに、千日寺と呼ばれる「法善寺」がある。小さな寺の境内には、全身が苔むした「水掛不動」の像がいわくありげな顔をして立っている。
 この一帯は、大阪の繁華街の真ん中にありながら、田舎の繁華街にある神社にさ迷いこんだように感じる。この雰囲気が私は好きで、大阪のミナミに来たら、必ずここを訪れる。
 ここを知ったのは、藤島桓夫が歌った「月の法善寺横町」(作詞:十二村哲、作曲:飯田景応、1960年)の歌からである。
  庖丁一本 さらしに巻いて
  旅へ出るのも 板場の修業
  待ってて、こいさん……
 そして、一番の歌のあとに台詞が入る。
 「こいさんが、わてを初めて法善寺へつれて来てくれはったのは、「藤よ志」に奉公に上った晩やった。はよう立派なお板場はんになりいやゆうて、長いこと水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなあ」
 「こいさん」とは、愛する女性に対する言葉だと思っていた。本当は大阪・船場言葉で、末娘のことだと知ったのはずっと後のことだ。「愛しい人」を表した「いとさん」は、主に長女に使い、「こいとさん」が縮まって「こいさん」になったようだ。

 法善寺を出て御堂筋に戻り、まっすぐ南へ進むと、御堂筋を受けとめるようにカーブを描いたクラシックなビルが横に伸びているのが見える。
 御堂筋の終わりはここですよと、高々に謳っているようである。

 ・難波駅、「南海ビルディング」
 「難波」の中心で、高島屋が入っていて、そして南海電鉄の始発駅「難波駅」がある南海ビルディングである。(写真)
 南海ビルディングは、1932(昭和7)年に建てられた170mもの壁を持つ7階建てのビルで、壁面を支えるのは16本のギリシャ・コリント式の柱である。
 先にも書いたように、私は南海ホークスのファンだったので、こうやって南海ビルディングを正面からきちんと見て、中に入ったのは初めてだったので感慨深い。格調ある南海ビルディングは、今はなき南海ホークスを偲ばせても、哀愁をも払拭させる厳かさを感じさせる。

 *南海ホークスがいた「大阪球場」
 
 南海電鉄・難波駅のすぐ南に大阪球場はあった。
 なぜ父親がこの帽子を選んだか知らないが、子どものとき初めて買ってもらった野球帽子には鳩と見紛う鷹のマークがあり、それが南海ホークスのマークだった。
 そのとき以来ホークス・ファンを自任してきたが、一度もホーム・スタジアムである「大阪球場」(大阪スタヂアム)に行っていないのを後ろめたく思っていた。いつかは大阪球場に行かねばと思っているうちに、なんと思わぬことに南海ホークスはダイエーに身売りすることになってしまった。
 南海としての最後の公式戦は、1988(昭和63)年10月15日、同じ大阪の球団である近鉄バファローズ戦と決まった。南海の監督は、あの4連勝で御堂筋パレードの立役者、杉浦忠。相手近鉄の監督は仰木彬だった。
 私は当時仕事先の広告代理店の人に頼んでチケットを入手し、その日、東京から新幹線で大阪へ行き、最初で最後となる大阪球場に入った。
 球場にいる人たちは、みんな涙をこらえて、なるだけ笑顔で普通に応援しようとしていた。試合では、佐賀県出身の岸川勝也のホームランもあり南海が勝利した。試合が終わった後も、球場の外では去りがたい人たちが物憂げにうろうろと歩いていた。私もその一人だった。
 大阪球場は、現在、複合商業施設「なんばパークス」に変わっている。
 近鉄バファローズは、現在オリックス・バファローズに変わってしまった。

 *大阪の盛り場ブルース

  ……すがるこいさん涙に濡れて
  帰るあてなく ミナミ、曽根崎、北新地……

 東京の銀座、赤坂、六本木……をはじめとする全国の有名盛り場を歌った、森進一の「盛り場ブルース」(作詞:藤三郎/村上千秋、作曲:城美好)の大阪編は、すべて御堂筋がらみである。

 ……七色のネオンさえ 甘い夢を唄ってる
 宵闇の大阪は 二人づれ恋の街
   ――「大阪ラプソディー」
 
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「唐津くんち」それとも「佐賀バルーンフェスタ」

2015-11-07 23:37:00 | * 九州の祭りを追って
 佐賀の空は青く澄み渡っている。
 中学校の同窓会が佐賀・川上峡のホテルで行われるのにあわせて、佐賀に帰った。
 同窓会の日、11月2日は会場となった川上峡のホテルに泊まり、翌日の3日、JR佐賀駅発9時38分の電車で唐津に向かった。電車は、普段は見られないぐらいに混んでいた。というのもこの時期、佐賀インターナショナル・バルーンフェスタと唐津くんちが行われているのだ。
 JRの電車は、佐賀駅から鍋島、その次の久保田駅で唐津線と佐世保線に分かれる。鍋島駅と久保田駅の間に嘉瀬川が流れていて、その広くて長い河川敷でバルーンフェスタは行われている。
 このバルーンフェスタが行われている10月30日から11月3日の期間だけ、鍋島駅と久保田駅の間の嘉瀬川の傍に「バルーンさが駅」なる駅が生まれる。このつかの間の駅にはホームは勿論のこと、臨時の改札所などができるのだが、その期間が過ぎたら、そこはホームも駅跡も消え、そこに駅があったことさえ誰もが忘れたかのように電車は通り過ぎていくという、地図や時刻表には載っていない蜃気楼のような駅だ。
 佐賀駅を出たところで、唐津行きのこの混雑した電車は、バルーンさが駅でほとんどの客が降りるんじゃないかと予想した。ところがバルーン佐賀駅では半分ほどが降りて、そのくらいの人がまた乗ってきた。バルーンフェスタを見ようとそこで降りた人もいれば、朝、バルーン競技を見た人が、午後唐津くんちを見ようと唐津へ向かっているのである。
 唐津線は田んぼの広がる田園から木々が覆う山間へと車窓を変えて、ゆっくりと北へ向かった。
 小1時間で唐津駅に着いたら、ホームから改札、さらに改札を出た構内まで人が溢れていた。ラッシュ時の新宿駅並みだ。駅の混雑に慣れていないのか、みんなもたもたしている感じだ。改札を出た構内にテントのにわか臨時切符売り場も作られていた。
 駅を1歩出ると、すぐに軽飲食の出店が多く並んでいる。そこは、すでに祭りの只中だった。

 *

 唐津くんちは、長崎くんち、博多おくんちと並び、日本3大くんちとされる秋の大祭である。くんちは、北部九州の各地の神社で行われている、諸説あるが旧暦9月の重陽の節句の祭りである。
 であるから、元々くんちは旧暦の9月9日に行われたであろうが、現在は各神社によってまちまちで、奉納である出しものも様々である。佐賀・白石町の稲佐神社や妻山神社、武雄神社など、流鏑馬を行う神社も多い。
 くんち好きの僕は、長崎くんちをはじめ、佐賀の稲佐神社や妻山神社などのくんちには何度か通ったが、唐津くんちは思い起こせば2006年以来の9年ぶりである。

 唐津くんちは、唐津神社を出た、きらびやかな鯛や鯱(しゃち)や獅子や兜など14台の曳山(やま)が町中を巡るのが見どころだ。
 この日、朝9時半に唐津神社を出発した曳山の群が、町内を回って、集合場所である西の浜のお旅所に向かっているはずだ。さあ、これから街中を歩いて、曳山を見つけないといけない。

 唐津駅を出て、すぐの大通りに出てみた。すると、人がいっぱいたむろしていると思ったら、その向こうから赤い大きな鯛がやって来た。唐津くんちの名物曳山だ。
 偶然にも、曳山がたった今、唐津駅前の米屋町の大通りへ来たところだった。唐津駅に到着するや否や、僕らの目の前に曳山がやってくるとは、ついている。
 何台もの曳山が、目の前を過ぎ去って家並みの中へ走り去っていった。西の浜のお旅所へ向かったのだ。

 曳山が通りを去った後、とりあえずくんち祭りの本山である唐津神社に向かうことにした。行く先々に屋台の店が並び、唐津の街中はどこも祭り一色である。神社の横で、おどろおどろしい絵を掲げたお化け屋敷が出現しているのも地方の祭りらしい。
 唐津神社でお参りして、一人西の浜のお旅所に向かった。
 お旅所では、14台の曳山が円を組むようにして勢揃いしていた。姿や色もとりどりで、一堂に揃うとより華やかだ。(写真)

 西の浜から町中を歩いた。
 杵島炭鉱などを経営した佐賀の炭鉱王、高取伊好の屋敷であった旧高取邸、赤煉瓦の東京駅を設計した唐津出身の辰野金吾設計の旧唐津銀行を周り、唐津駅に戻った。
 久保田駅へ向かわないといけない。

 *

 唐津からJR唐津線に乗って、久保田駅で降りた。空を見上げると青く澄み渡った夕空に、いくつかのバルーンが浮かんでいた。バルーンフェスタの会場が近いのだ。
 この駅で降りたのも、この近くにある日本料理店「酒菜 志波」に、少し早い夕食の席を予約してあったからだ。
 店は嘉瀬川の土手の近くで、普通の民家のなかに溶け込むように静かにたたずんでいた。
店の前から嘉瀬川の土手を見ると、目の前にバルーンが浮かび上がってきた。
 この店の女将さんは高校の同級生である。そしてこの店は、福岡・佐賀版ミシュランの、佐賀県内では数少ない星☆に輝いたのである。
 料理は、刺身、煮物、汁物など丁寧な造りで、新鮮な玄界灘、有明海の魚介が味わえる。料理を味わいながら、酒を少し飲む。

 店を出ると、もう外は暗かった。そのとき、ポン、ポーンと音が響いた。そして土手の向こうから花火が上がった。
 佐賀バルーンフェスタが終わった、フィナーレの印なのだ。

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秋の空を彩る、佐賀バルーンフェスタ

2013-11-02 03:01:13 | * 九州の祭りを追って
 今、佐賀の空には夢が広がる。いや、夢が浮かんでいる。運がよければ、それを見ることができる。
 佐賀平野で、佐賀インターナショナルバルーンフェスタが行われているのだ。
 バルーンは風船? いやいや、佐賀平野に浮かぶのは、もっと大きい熱気球である。
 一度、バルーンに乗りたいと思っていた。いつの時代でも、空を飛ぶのは人間の夢である。
 飛行機は、機械に運ばれているといった感じで、飛んでいるという気はしない。ハンググライダーは鳥のような気持ちにさせそうだが、少し勇気がいる。かつてモンブランの麓の町のシャモニーで、その機会を逃してしまった。
 その点、バルーンは安全でゆったりとしていて、景色を堪能する余裕も持てそうだ。佐賀バルーンフェスタでも、乗ることができそうだが、早朝の定員先着順なので別の機会にして、まずはバルーンの競技を見に行こうと思いたった。

 10月31日に始まった佐賀バルーンフェスタは、11月4日まで行われる。様々なイベントが編まれているが、バルーン競技は朝7時からと、午後3時からの2回行われる、予定である。あくまで予定なのは、天候次第ではすぐに中止になるという、デリケートな競技なのである。

 初日の午後の部に合わせて、バルーンフェスタ会場に出向いた。
 会場は、佐賀市の西のはずれ、佐賀平野の中ほどに流れる嘉瀬川の河川敷である。佐賀県の南部で有明海までなだらかに広がる田園地帯の佐賀平野は、高い建物がなく、バルーン飛行に適した格好の環境である。だから、何度か世界大会も行われているのだ。
 この期間、JR長崎本線の鍋島駅と久保田駅の中間に位置する嘉瀬川陸橋付近に、臨時の駅「バルーン佐賀駅」が出現する。
 広い河川敷の会場に行くと、テントがいくつも張られていて、車も何台も停まっている。テントの中に入ってみると、食べ物屋や名産物売り場、お祭りのような出店もある。
 これはすごい。僕が見た限り、佐賀県最大のイベント会場のようである。来ている見物人も多い。実際の来場者数は知らないが、黄金週間の有田陶器市に迫りそうだ。
 競技参加者に外国人も多いとあって、行き交う人に外国人が見受けられる。出店にトルコ料理店もあって、店の男がしきりに女の子に愛嬌を振りまいていた。インターナショナルなのも、佐賀県らしくなくて新鮮だ。

 そもそも、バルーン競技は何を競うのかと思っていた。
 競技種目はいくつかあるようだが、離陸したバルーンが離れたところに設定されたゴールにどれだけ近づけるかを競うのだそうだ。
 バルーンは自由自在に操縦ができるわけではないので、風任せということになる。風の方向、強さは一定ではなく、高度によっても違ってくる。つまり、どのような風が吹いているかを見極め、それを巧みに捉えて乗らないといけない。でないと、ゴールになかなか近づけないことになるのだ。
 ゴール地点に上手く近づいたら、地上のゴールの印に向かってバルーンからマーカー(砂袋)を落とし、より近くに落とすことによって得点を競うのである。
 会場から一斉に飛び立つ競技と、会場がゴールになっている競技とあるそうだが、この日は会場から一斉に飛び立った。

 広い河川敷の会場に、番号ごとに何十個もペチャンコになった気球が寝かせてある。
バルーンが飛ぶか飛ばないかは、開始時間の30分前に決まるとある。
 開始は午後3時だが、天候を調べてかなかなか始まらない。空を見ると快晴ではないが、穏やかな天気だ。青空ものぞいている。風も強くないと思うのだが、それでも、上空の風を見ているようで、やっと開始時間の30分過ぎにスタートの合図がなされた。
 僕は関係者でないのだが、バルーンのすぐ近くで見物させてもらうことにした。
 ペチャンコになった気球に、スタッフによって風が送り込まれて次第に丸く膨らんでくる。そして、電球の形をした気球になって、立ち上がる。最後にバーナーで熱気を噴きつける。すると、すっと浮かびあがる。飛び立ちだ。
 遠くに、すでに浮かんでいるのもある。あちこちで、浮かび出した。それぞれ形は同じだが、色とりどりで綺麗だ。さらに上空に揚がると、飛んでいるというより浮かんでいるといった感じだ。(写真)
 何十基ものバルーンが、空に浮かんでいる。
 それらは、いつしか小さくなって、そして見えなくなっていった。風に吹かれて、行ってしまった。見物していた人たちも立ち上がり、徐々に数が少なくなっていく。
 
 あのバルーンたちはどこへ行ったのだろうと思って、河川敷でパンフレットを売っていた関係者に訊いてみたが、アルバイトの学生でよくわからなかった。やはり、同じ疑問を持っていた若い外国人の女性が、あのバルーンはここに戻ってくるのか、と訊いている。3人で考えた。
 僕たちは、バルーンは戻ることはないだろうという勝手な結論を出して、会場を後にした。彼女はベネティア近くに住むイタリア人で、福岡の大学に短期留学に来ていた学生だった。
 思わぬ国際交流も楽しめる、インターナショナルな佐賀バルーンフェスタだった。

 *

 翌日、11月1日、朝、電話で起こされた。僕が前日バルーンを見に行ったのを知っている、同じ町に住んでいる中学時代の同級生が、すぐに江北町の方を見てみろ、バルーンがいっぱい飛んでいるぞ、と言って電話を切った。
 江北町とは、JR駅でいえば肥前山口駅周辺で、佐賀平野の中央あたりにあり、僕のいる町の隣町である。僕は起きて、近くの高台に行き、江北町の方を見た。
 遠くバルーンが数基見えた。この日、朝飛び立ったバルーンがここに飛んできたのだ。バルーンはさらに西の方に流れ、白石町の方に向かっていた。
 そうか、どこへ行くのだろうかと疑問に思っていた、嘉瀬川の河川敷の会場を旅たったバルーンは、数キロ離れている江北町、白石町を目指して飛んでいたのか。
 白石町は農業の町で、田んぼが広がる。僕は、バルーンはどこに着地するのだろうかと思いながら、じっと見ていた。バルーンは、白石町の薄靄の田んぼの中に沈んでいった。今すぐにでも、そこへ自転車で飛んでいきたかったが、バルーンが見えなくなったのを見届けて、家に帰って、湯を沸かしてお茶を飲んだ。
 起きて、一杯の緑茶を飲むのが日課である。

 疑問に思っていた、飛んでいったバルーンの行方がわかって安心した。

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佐賀・白鬚神社の田楽

2013-10-30 01:43:09 | * 九州の祭りを追って
 田楽といえば、豆腐や茄子や里芋などを串に刺して、味噌を塗って焼いた田楽刺しを思い浮かべる人が多いかもしれない。
 しかし、ここでいう田楽は古い民俗芸能のことである。田植えのときに田の神を祀るため笛、太鼓で歌い舞った平安時代から行われている農耕儀礼で、後の猿楽や能の原型と言われている。今では、数少ない地域でしか残っていない。
 その田楽が、佐賀の白鬚神社に残っているという。それも、珍しい子どもによる稚児田楽だという。佐賀県人にもあまり知られていないが、平成12年には国により重要無形文化財に指定されている。
 各地で秋祭り・くんちが行われている最中の、10月18、19日に田楽が奉納されるというので、18日に白鬚神社へ行った。

 佐賀市のバスセンターから北の久保泉町川久保方面へバスで約25分。
 佐賀平野の田園地帯の先の里山に白鬚神社はあった。すぐ横に小川が流れ、奥には森が茂り、道路沿いには人家が散在している。佐賀ののどかな田舎の町だ。
 白鬚神社は伝えによると、6世紀ごろ、近江国(現滋賀県)より移住した人により勧請された、白鬚明神である猿田彦命を祭った神社である。
 この白鬚神社の田楽は、いつから始まったかは定かではない。神社の人の話によると、古くは1665年の文献に出ているので、少なくともそれ以前から行われているという。

 正午、参道の鳥居をくぐって、舞い手の一行がやって来た。
 本殿の前には、竹で組まれた囲いの中にゴザが敷かれた玉垣の舞台が設えられていて、その中で舞いが始まった。(写真)
 正面に座った笛吹き8名は壮年で、舞い手の8名は稚児である少年たちだ。
 舞い手の構成は、「ハナカタメ」と呼ばれる、真綿の鉢巻をした幼児1名。
 「スッテンテン」と呼ばれる、金色の烏帽子をかぶり、小鼓・扇子を持つ幼児1名。
 「ササラツキ」と呼ばれる、造花を飾り、錦の女帯を垂らした花笠をかぶり、「ささら」という音を出す編み木を持った女装の少年4名。
 「カケウチ」と呼ばれる、花笠をかぶり、胸に平太鼓、両手にバチ、腰に木太刀を挟んだ少年2名。
 全員、地元の小学生および中学生で構成されている。
 左右両側に座った「カケウチ」が、「インヨー」「オハー」と掛け声を発し、太鼓でリズムをとり、舞台の進行役を行っている。
 「ササラツキ」の4人が、細長く削った何本もの木を糸で編んだ「ササラ」という編み木をジャラリ、ジャラリと鳴らしながら、女の舞いをするのである。少年たちは、頬紅に口紅をして全くの女のいでたちだ。
 時間もゆったりと流れていた時代に遡ったような、全体を通して、ゆったりとした舞いである。舞いはこの辺りの風景に溶け込み、今という時代をしばし忘れさせてくれた。
 この舞いが、休むことなく1時間半続けられた。なのに舞い手の子どもたちは、顔色変えずに舞い続けてくれた。

 白鬚神社の舞いが終わったら、一行はその足で、北へ歩いて10分ほどのところにある勝宿(かしゅく)神社へ向かった。
 そこでも、短縮した形で、田楽が奉納された。ここでは、本殿前の広い境内に直接ゴザを敷いて行われた。
 勝宿神社での奉納が終わって、再び一行は白鬚神社に帰っていった。僕が見送っていると、神社の人が、奉納のために作った花をくれた。その花は、木の枝である裂いた竹に、色紙の花弁を何枚か貼ったものである。
 僕は、その一行を見送りながら、帰りのバスに乗った。
 このような民俗芸能が、地元に長く伝えられ続けているのは貴重だ。
 願わくば、県(観光課)はもっと広くPRしてほしい。

 白鬚神社の田楽の風景を思い浮かべさせるその花は、今、わが家の玄関を入ったところに飾ってある。

 
  知らぬ世の 香りを運ぶ 祭り花
       宴のあとにも 庭草は繁げ
                     沖宿

  

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台風をはさんだ、長崎くんち

2013-10-10 23:17:51 | * 九州の祭りを追って
 東京を10月1日の夜行寝台列車「サンライズ瀬戸」で出発し、四国を経て九州へ渡り、10月5日、佐賀に帰り着いた。3年前、昨年に続き、3度目の四国経由の帰郷の旅である。
 このことは、後ほど改めて書きたい。長くなるので。

 *

 佐賀に着いたやいなや、10月の7日から9日までの3日間、長崎のくんちが始まる。その日程に合わせて佐賀に帰り着いた向きもある。
 天気予報を見ると、台風24号が九州に急接近している。くんち初日の7日は大丈夫だが、8、9日は台風の影響で雨の予想だ。
 長崎くんちを見に行くのは一昨年以来となり、今年で通算4回目となるが、いつもは最後の日の9日に行っていた。しかし、何はともあれ、台風が来る前に、まず7日の初日に行くことにした。
 長崎へは、肥前山口から特急で約1時間である。

 10月7日、長崎駅には昼近くに着いた。
 その日の長崎は、台風が近づいているとは思えない青空で、白い雲が泳いでいた。
 駅構内の案内所で、「長崎くんち庭先回りMAP」をもらい、本陣の諏訪神社に向かって歩いた。12時半ぐらいから、神様の「お下り」が行われるというのを聞いたからである。
 終日に行われる「お上り」は毎回行ったときに見ているが、「お下り」は初めてである。
 「お下り」とは、祭りの初日に、3体の神輿が諏訪神社の本宮から神社の階段を下りていき、祭りの期間中安置される港の近くの「お旅所」まで運行する行事である。
 諏訪神社に着くと、すでに見物人が階段を埋めていた。僕も階段の中ほどに陣取った。
 宮司や氏子の人たちであろうか、先陣が通った後、13時過ぎに神輿が下りてきた。「お上り」と違って、一気の駆け足ではなくゆっくりと、しっかりとした足取りだ。
 神輿が神社の階段を下りて町中に出ると、今年の演し物の参加町である踊町の傘鉾や、各町の様々な衣装を着た老若男女の参加者が待機していて、列をなして続いていく。親に手を引かれた子どもたちも多い。古衣装で着飾った馬に乗った人もいる。
 街中を、長い行列が続く。
 通常9日に行われる最終日の、この神輿が諏訪神社の石段を一気に駆け上がる「お上り」が、祭りの目玉でもある。

 この行列を見ながら歩いて、賑やかな浜市アーケードまで来てしまった。
 浜市アーケードは、地方都市の商店街が廃れていくなかで、いまだ活気を保っている市内随一の繁華街だ。
 時刻を見ると、ちょうどいいタイミングだ。各踊町の演しものが街を練り歩く「庭先回りスケジュール」によると、今年の目玉である万屋(よろずや)町の「鯨の潮吹き」が、このあたりに来る予定となっている。
 「鯨の潮吹き」は、有名な「蛇踊り」が参加しない年に参加する、7年に1度の演し物である。
 初めて長崎のくんちを見に来たときに、僕はすぐにこの祭りに魅了され、出くわしたのがこの「鯨の潮吹き」だったから、以後7年に4回の長崎くんち詣でということになる。実際、この長崎くんちは、街中を舞台にしている点でも、最も楽しい祭りの一つだと思う。
 毎回、踊町の庭先回りを追いかけているうちに、すっかり長崎の街に詳しくなった。

 鯨の潮吹きはまだやって来そうもないので、少し遅くなったが昼食をとることにした。
 築町から浜市アーケードに入ったすぐを左に曲がる通りに、トルコライスの店があるのを思い出したので、その店に入った。
 そもそも、B級グルメと称する、各地方都市にいつしか出現した意味不明な料理である、長崎のトルコライスや佐賀のシシリアンライスなどを、僕は食べたいとも食べようとも思ったことはなかった。料理名に使った国や地方とは何の縁もゆかりもないネーミングで、これはトルコ風呂(のちにソープランドと改名した)と同じで、使った国に失礼ではないかと思っている。まだわが国に本格的イタリア料理が入ってきていない時期の、スパゲッティ・ナポリタンとは意味合いが違うのである。
 しかし急に、ものは試しに、どんな味かと好奇心が動いた。
 店のメニューを見ると、トルコライスといっても何種類にも増殖・細分化していた。
 そのなかから、トンカツ、カレーライス、マヨネーズかけの千切り生キャベツ、スパゲッティの組み合わせを食べた。カレーでなくハヤシライスもあるが、もっともスタンダードな中身だろう。店の人によると、カレーの部分がドライカレーのものが元々らしい。
 いわば、洋食弁当を1皿に盛ったようなものである。食べ終わったあと、口の中に甘ったるい味が残った。

 食事を終えて、浜市アーケードに戻ると、万屋町の先頭の案内係が西浜町の橋のたもとに立っていた。本隊は、こちらに向かっているという。
 待ちきれずに橋を渡って築町へ行くと、囃子が聞こえ、人だかりのなかに黒い鯨が見えた。「鯨の潮吹き」である。鯨は、大きな縫いぐるみのような愛嬌のある目をしている。時々、頭から潮(水)を噴き上げる。(写真)
 「鯨の潮吹き」と一緒に浜市アーケードを歩いた。
 鯨の一行が、浜市アーケードからベルナール観光通りに逸れたのを機に、鯨と別れて、「お旅所」のある港へ向かった。
 大波止の電停を過ぎたところから屋台が並んでいて、辺りは人の山だ。ここでも、祭りを楽しんでいる人が大勢いる。
 「お旅所」の建物の中には、先ほど「お下り」した神輿が鎮座していた。

 「お旅所」の先の、長崎港の船着き場に行った。
 船着き場は、どこも少しうら哀しい空気が漂っているものだが、ここは立派な近代的な建物で、感傷を呼び起こす雰囲気はない。
 五島行きのフェリーの待合所に座って、海を眺めた。
 五島といえば、壇一雄が夜の銀座の通りでたまたま知り合った女と、ゆきずりで行った御値賀島を思い出す。
 五島にも行きたいなあ。若い時だったら、すぐにでも五島行きの船に乗っただろう。呼子に行ったときに、思わず壱岐行きの船に飛び乗ったように。スペインの地中海に面した南端のアルヘシラスに着いたとき、思わずそこの港からモロッコのタンジール行きの船に乗ったように。

 フェリーの船着き場から、出島を通って、新地町の中華街へ行った。夕暮れ時だが、僕にとっては早い夕食だ。
 長崎へ来たときは、いつもここでチャンポンを食べる。そして、紹興酒を飲む。最初に食べた江山楼の海鮮具の入った特上チャンポンは、絶妙な味だった。次に来た時も、迷わずその店に行った。
 しかし近年は、ほかにも美味しいチャンポンがあるだろうし、いろいろな味を試してみたいと思い、意識的に違う店、初めての店に入るようにしている。
 いつものように、チャンポンと餃子と、それに紹興酒を頼んだ。今回食べた店は、ほどほどの味だった。
 中華街のチャンポンも、店によって微妙に個性と違いがある。

 中華街を出て、思案橋を歩いていると、囃子の音が聴こえてきた。
 やって来たのは、丸山町の本踊りの庭先回りだ。三味線に合わせて、店先で踊りを踊るのである。花街の丸山町らしく、踊っているのは芸子さんだという。

 丸山町の踊りも見たので、列車の時刻まで思案橋のスナックでビールを飲んで、帰ることにした。
 長崎発の最終の博多行きの特急列車が21時30分発である。
 ほろ酔いの列車の窓の外は、真っ暗だ。
 翌8日のくんちは台風で中止となり、順延となった。台風が来ても、長崎くんちは3日間行われる。
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