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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

上海への旅⑦ 上海から中国新幹線で、杭州へ

2009-11-28 20:18:51 | * 上海への旅
 10月18日、上海から杭州へ行くことにした。
 地図を見ると、上海から東に向かった太湖のほとりに蘇州があり、東南の方に杭州がある。
 まず杭州に1泊し、杭州から蘇州に行き、蘇州で2泊して、再び上海に帰る予定にした。

 宿泊している那宅青年旅舎(ユース・ホテル)から、同じ系統の杭州の旅舎に予約を頼んだ。杭州の街の中心に近い旅舎は結局予約がとれずに、郊外の旅舎にやむをえず予約を入れておくことにした。
 中国は、日本のような鉄道の時刻表がなく(あるのかもしれないが見つけられず)、やはり遅れているなあと思ったが、思った以上に電脳(コンピューター)が発達している。
 旅舎のカウンターで、杭州行きの時刻表はないかと訊いたら、パソコンで検索して、表示してくれた。ついでに、杭州駅から蘇州行きに時刻表も調べてメモしておいた。
 パソコン表示の時刻表を見て、上海駅13時46分発に乗ることにした。それだと、15時35分に杭州駅に着く。
 中国では、鉄道は火車で、汽車はバス、自動車である。
 であるから、鉄道の上海駅は上海火車站(駅)となる。
 上海駅に着くと、すぐに切符を買いに向かった。切符売場は「售票処」といい、列車の乗降所の建物と道を隔てた別のところにあった。これは、分かりづらい。
 售票処の窓口は、何列も行列ができている。これはインドも同じだ。だが、現在はコンピューターで処理するので、早い。窓口に、「今日10月18日、上海13:46発→杭州、1枚(単票)」と書いて差し出すと、薄い紙の切符が渡された。
 「D5673次」が列車の車両番号のようだ。Dとあるのは、まさかD51(デコイチ)のように蒸気機関車ではないだろうなと思った。座席に関しては何も指定しなかったが、一等座と書いてあり座席指定で、75元。
 切符を買ったら、電光掲示板で、飛行機のフライト情報のように、自分の乗る列車が改札を開始しているかどうかを確認しなければいけない。改札開始の表示が出たら、そのホームに降りていくことになる。改札口は、検票口である。
 杭州行きのホームに降りると、すでに白い流麗な列車が待っていた。車体に、「和階号」と書いてある。どうやら、中国の新幹線らしい。どうりで一等座である。
 蒸気機関車ではと疑って、失礼なことをした。和階号は、どこまで続くのかと思わせるように長い。

 いよいよ列車の旅である。
 車両は、横2列ずつの座席である。僕の隣に座った若い男は、中国人らしくない顔立ちだ。
 ここ上海あたりでは、中国人は一般的に丸顔でゆったりとした表情をしている人が多い。
 若者の職業は技師で、そこそこの英語を話した。出張の帰りで、杭州の手前の海寧へ帰るところだと言った。
 僕が「韓国の映画スターにイ・ビョンホンという男がいるが、彼に似ているね」と言ったら、「妻もそう言った」と言って顔を崩した。若いので独身だと思っていたら、その言葉で結婚しているのを知った。
 僕が「中国語は分からない」と言った。そして、よく使う言葉は、ガイドブックにくるんだ白いカバーに、こうやって書いているんだ、と言って、最初に書いてある「清給我睥(似字)酒」(ビールをください)を指さした。すると、彼は頷いて、「これは、最も重要な言葉だ」と言ったので、笑ってしまった。ユーモアもある男だ。
 海寧で男が降りて、代わりに乗ってきたのは日本でバブル時に流行ったボディコンを着た若い女性だ。ばりばりのOL風で、海賊版ではないであろうルイ・ヴィトンのバッグを掲げていて、座ると短いスカートから丸い脚がむきだしだ。
 中国の格差社会は、進んでいるようだ。

 *

 杭州駅へ着いた。
 まずは、明日の蘇州行きの切符を買っておこうと售票処へ行った。やはり並んでいる。
 僕の番が来て、窓口に、昨晩コンピューターの時刻表で調べておいた「10月19日、杭州14:00発→蘇州。1枚(単票)、」と書いたメモを差し出した。
 受付の女性は、意外にも蘇州の字が分からないようだった。僕がガイドブックで、蘇州の項を開いてここだと言っても、まだ腑に落ちない顔をしている。
 中国では蘇が略字になっているとはいっても、元の字は本家中国の漢字であるのだから中国人は当然分かると思っていたのは、思い違いだった。中国の漢字は枝分かれが完全に進んでいるようである。
 蘇州の中国読みである「スーヂョウ」と言うと、彼女はパソコンに何やら文字を打ち込んだ。日本語のパソコンのように、音(おん)で打ち込んで漢字に変換したのだろうか。画面に、いくつかの「○州」という字が出てきた。画面を見せて、それでどれかと僕に問うているようであるが、それは僕に訊くことかい、僕が分かるはずがない。
 その中の一つに「芬(似字で日本語にはない)州」という字があった。ガイドブックにもこの字が載っている。僕が、その列車は天津行きだったので「終点:天津」と書いて渡すと、やはり「芬州」という文字が出てきて、これに間違いないということになった。
 蘇州一つにしても、日本語と中国語はまったく違うのだ。
 ようやく、明日の蘇州行きの切符を買った。

 *

 杭州は、地図を見ると西湖を中心とした街だ。
 杭州駅から中心街に向かうバスに乗った。
 予約は取れなかったが、とりあえず西湖に近い中心街にある杭州国際青年旅舎に行ってみようと思った。それで、地図にある旅舎の近くの名所らしい「柳浪聞鶯」と書いたメモを運転手に見せて、頷いたので、そのバスに乗った。
 杭州は、中国六大古都と聞いていたので鄙びた街を想像していたが、近代的な建物があちこちに建っている、思った以上の都会だ。それでいて、中心に大きな湖があるせいか、街中は上海ほど埃っぽくない。
 旅舎の近くの名所のところに来たら、運転手がここで降りろと合図してくれた。
 杭州国際青年旅舎は洒落た近代的な建物で、すぐに見つかった。繁華街に近いし、西湖にも近い、絶好のロケーションだ。
 受付で、念のため、シングルルームが空いているかと尋ねると、あると言うではないか。すぐにここに宿泊することにして、予約していた郊外の旅舎はキャンセルした。1泊、180元。
 何だったんだ、昨日から今日にかけての、旅舎との何回ものやりとりは。
旅舎に荷物を置いて、街へ出た。
 もうすでに日は暮れて、街は暗くなっている。旅舎の近くの南山路の並木道には、ファッショナブルなブランドの看板が輝く洒落た建物が並んでいて、中国とは思えない。
 スターバックスのようなコーヒーハウスもある。しかし、コーヒーハウスといっても、ウェイターが玄関に立っている高級館だ。メニューを見せてもらったら、コーヒー1杯で35元である。
 ファッショナブルな気取った南山路を横切って、繁華街を探した。
 いつだって、目指すのは繁華街だ。
 賑やかな街並みに入った。様々な店やレストランが並ぶ。街角に二胡をうら悲しく奏でる老人がいて、寄り添うように老婆が丸い鍋をさしだし、行き交う人に喜捨を乞うていた。夫婦なのだろう。僕が小さなコインを入れたら、鍋を持ったほかの男も寄ってきた。
 その街並みを過ぎたら、突然古い土産物屋が並ぶ通りに出た。赤い提灯がエキゾチックな雰囲気を醸し出している。道の真ん中に、横になった金色の大黒さんか布袋さんを思わせる、太った仏像が鎮座している。出店では、アクセサリーの彫金をしたり、判を彫ったりしている人もいる。
 ここが、土産物屋が並ぶ河坊街だった。(写真)
 食事は、大衆食堂に行こうと思い、繁華街の分岐点になっている中河路を越えた暗い街並みに入っていってみた。横道の建国南路に入ったところで、食堂の明かりが見えた。
 中国は、どこにでも食堂がある。
 中に入ると、奥のテーブルで店の人が、餃子の具のようなものを小麦粉のようなもので平たくくるんでいた。
 別のテーブルで、若い3人組が食事をしていた。彼らが食べている細いうどんのようなものが、湯気をたてて美味しそうだ。
 大碍(字不明)羊肉絵(面)、8元。大きな碗に具もたっぷり入った麺である。
 それに、つまみとして、山羊肉(小)、8元。ベーコンのような山羊の肉。
 生拍黄瓜、5元。黄瓜は、日本語になると胡瓜。キュウリの辛みゴマソースかけ。
 それに、雪花睥(似字)酒、5元。ビールである。

 食事を終えた後、河坊街を通って旅舎へ向かった。すると、小雨が降り出した。
 土産物商店街の1軒に雨宿りで入ったら、何だか申し合わせたように色とりどりの傘が並べてあって、若い女性が群がっている。中国の傘はカラフルだ。
 傘を買おうかと迷ったが、差すほどではないので、ブルゾンのフードをつけて通りを歩いた。中国での、初めての雨だ。
 旅舎に着いたら、その隣はロビーのように椅子が並べてある飲食ができるコーナーになっていた。そこで、コーヒーを飲んだ。
 中国に来て、初めてのコーヒーだ。
 明日は、杭州といえば西湖と言われる、西湖を見に行こう。そして、蘇州へ出発だ。
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上海への旅⑥ 上海の裏道

2009-11-18 03:53:00 | * 上海への旅
 不思議なもので、どこの国へ行っても売春は行われていて、それらしい場所がある。
 日本にもかつて遊郭があり、1956(昭和31)年、売春防止法が発布されるまで、売春は国で認められていた。
 ヨーロッパは、今ではフランス、ドイツ、スペインなど、国が売春を認めた公娼制度がある。オランダのアムステルダムでは、飾り窓(いわゆる売春宿)の一角があり、観光地にさえなっている。
 アジアは、タイを除けば概ね禁止されている。といっても、アジアでも、どの国でも売春は行われている。公認されていないというだけである。
 売春は、世界で最も古い職業の一つであるとさえ言われている。
 近年、ペンギンでもそのような行為が行われたという興味ある研究が発表された。もちろん、性の代価として受けとるのは金ではなく巣を作るための石だったというが。買春する方の雄に雌の連れあい(夫婦ともいうべき)がいた場合は、連れあいの雌のいないときにその行為は行われたというから、ペンギンも後ろめたさは感じてたようだ。

 では、売春とは何か?
 「売春」とは、対償を受け、または受ける約束で、不特定の相手方と性交をすること(売春防止法2条)とある。
 金もしくはそれに相当するものを貰って行う性交渉が、不特定の相手だといけないが、特定の相手だといいということである。つまり、愛人関係などは売春とは言わないのである。
 では、複数の特定の相手と、月契約などの愛人関係はいいのであろうか。何人までが特定の相手といえるのだろうか。その数が多ければ特定といっても、契約制、会員制の売春といえないであろうか。

 *

 中国では、理髪店がその道だと聞いた。それに、通りを歩いていて、足浴マッサージ店にもその道の店があることを知った。つまり、理髪店も足浴マッサージ店も、その名の通りやっている普通の店はあるのだが、看板は普通のそれだが実態である中身はその道だというのが紛れているのである。
 もちろん、この上海でも、繁華街の裏には交渉次第で開く裏道があるのだろうし、街娼もいるのだろう。
 旅舎のある保定路には、場末であるが、旅舎のすぐ先に普通の足浴屋が並んでいる。理髪店もある。その先に、若い女の子が3人ソファに座っているだけの、見てすぐに普通の店ではないと思わせる、その道の足浴屋がある。
 また、昨晩行った阿娃食堂の通りには、夫婦らしい中年の男と女のほかに、マッサージ、マッサージと声をかけた若い女の子が一人いる、普通ではない足浴屋がある。

 中国には、「君子危うきに近寄らず」という諺があるが、反対に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という諺もある。
 僕は君子でもないし、虎児を得るつもりはないが、虎穴がどんなところかの好奇心は充分持ちあわせている。
 この日、10月17日の晩も、西安食堂で遅い晩食を食べたあと、その足浴屋の前を通ると、ガラスごしに昨晩、マッサージマッサージと声をかけた女の子と目があった。
 ソファに座っていた彼女は、またにっこり笑って誘いかけた。ソファの奥はカーテンが引かれていて、そのカーテンの先にベッドが1個あるのが見える。暗いその奥には、2階に上る階段がある。
 僕は、好奇心で彼女に「いくら」と訊いてみた。
 彼女は、「50元」と言った。
 この近辺の普通の足浴屋が、足浴20元、身体マッサージ30元と知っていたので、値段からしても普通のマッサージとは違うと分かる。彼女は、僕の疑問を察知して、さらにメモ用紙に「小、50元、大、150元」と書いた。
 体は発達しているが、表情はまだあどけない。僕は中国語会話帳を見ながら、「クーアイ」と言った。すると、彼女はオウム返しに「クーアイ、クーアイ」と歌うような、屈託のない笑顔を返した。
 都会で、このような風俗をやっている女の子は、地方から来ている貧しい子だと聞いた。繁華街ならまだしも、観光客も来ないこの侘しい通りで、どのような人が客なのだろうかと思った。近所の人が来るのだろうか。
 この店の主人とおぼしき中年男と、その女房とおぼしき中年女は、どうぞと言いつつも、自分が出る幕ではないと思ってか対応は女の子に任せていて、成りゆきを見ている。

 「たちの悪いいたずらはなさらないでくださいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」
 ふとこの情景が浮かんだ。
 これは、川端康成の小説「眠れる美女」の冒頭に出てくる台詞なのだが、どきりとさせる。そして、この小説がいかがわしさを題材にした小説であることが分かる。
 驚いたことに、ガルシア・マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」でも、いきなり最初に、この「眠れる美女」の台詞が出てくる。おそらく、川端の小説に影響を受けて、この小説を書いたのだろう。

 ぎらぎらした欲望と狡猾な罠が混じり合い行き交う都心繁華街の裏道と違った、上海の侘しい街角にも、娼婦たちの物語は息づいていて、そして生活がある。
 僕は店の明かりを振り返りながら、妄想した。
 「眠れる美女」のいかがわしさを、上海少女に滲ませて。
 そして、上海の侘しい街角に、アムステルダムの「飾り窓」との違いを思った。

 その足で、今日は疲れていたので、いつも通る旅舎の近くの足浴屋へ行った。普通の足浴屋だ。
 全身マッサージを頼むと、2階へ案内された。1階は数人が足のマッサージを受けていたが、2階は僕だけだ。真面目で実直そうな女性が、汗をかきながら、頭の天辺から足までマッサージしてくれる。ここは、いかがわしい雰囲気も素振りもない。60分で30元とはいかにも安い。

 上海の保定路の十字路の角にはコンビニがある。そこで明日のために、牛乳とパンを買う。
 コンビニの道路を挟んだ角には、屋台のような果物屋がある。笠電球の下で、いつも黙って座っているお兄さんがいる。僕と目が合うと、少しはにかみながら顔を崩す。
 僕は今晩は、リンゴ1個とバナナ2個とミカン4個を買う。例えミカン1個でも、ここでは量りで料金が出てくる。合計、5.…元。僕は6元払った。彼は懸命に釣り銭を払おうとしたが、コンマ以下の何角(元の10分の1)かは僅かな額だったので、僕はいいからと言った。
 料金を払った後、ブドウが美味しそうなので、1房追加して買った。6.…元。すると、彼は、前のお返しと思ってか、料金をまけようとした。こんな安い料金なのに。それに、決して暴利を貪っているのではない。決して豊かではなく、どちらかと言えばささやかに生きているはずだろうに。
 純粋な人間は、どこにでもいるものだ。
 深夜まで、彼は黙って働いている。昨日も。おそらく、明日も。

 *

 日が暮れ始めた頃、アムステルダムといえば「飾り窓」だと思い出した。しかし、地図には飾り窓など載っていない。現地の人に、盛り場はどこかと何となく聞き出して、その界隈にたどり着いた。そこは、ダム広場からさほど遠くない、川(運河)を挟んだ通りにあり、普通の繁華街の延長上にあった。しかし、一歩その領域に入ると、すぐに空気が違うのを感じた。
 といっても、女性の観光客すら物珍しそうに歩いているところを見ると、「飾り窓」がアムステルダムのもはや観光ゾーンなのであろう。そこには、淫靡な性風俗地帯という暗い日陰の印象はない。
 私は歩きながら、映画『飾り窓の女』で主演したマリナ・ヴラディーを思い浮かべた。
 ――既刊『かりそめの旅』(岡戸一夫著)第11章「めぐり会いのフランス・イタリア」より
  本に関する問い合わせは、ocadeau01@nifty.com
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上海への旅⑤ 上海の朋友

2009-11-15 03:50:59 | * 上海への旅
 上海の空はどんよりとしている。晴れているのに、霞がかかったように灰色だ。
 この憂鬱そうな空が、ここは日本ではなくて上海なのだと教えてくれる。灰色の彼方に、青い空がきっとあるのだろう。
 幸運なことに喉の調子はよくなったので、この埃っぽい灰色の空気にも平気でいられるが、僕が喘息だったらこの町からすぐに逃げ出していただろう。

 10月17日、昼頃、ゆっくりと地下鉄で南京西路に行き、そこから人民広場の方に向かって歩き、1時ちょうどに上海美術館に着いた。
 美術館は、クラシックで豪壮な建物で素晴らしい。この建物の前身は、康楽大飯店。美術館では中国近代美術展をやっているようだ。
 入口前の椅子にしばらく座っていたが、館内には入らずに2時に美術館を離れた。僕は、何のためにここへ来たのか? 「君の名は?」
 僕はどこから来たのか?
 僕は何者か?
 僕は、どこへ行こうとしているのか?
 まるで、ゴーギャンの呟きである。

 *

 今日は、これから「豫園」にでも行くことにしよう。
 豫園は明代の庭園で、庭園といえば中国文化の象徴ともいえる。イギリスの西洋庭園と東西の双璧をなすものだ。
 地図を見ると豫園はここから南東の方にあり、少し時間はかかるが歩ける距離である。
 昼食を食べていなかったので腹が減ったが、歩いていくうちに何かあるだろうと、人民広場まで行って、南の方へ向かった。公園の中の大きな近代的な建物にぶつかり、その前に出店のような食べ物を売っているのがあった。
 ちゃんとした食べ物は後で食べることにし、とりあえず腹ごしらえにと、トウモロコシを買った。トウモロコシは粒が大きく色も黄色で美味しそうだった。しかし、食べてみるともっちりと硬く、味は薄い。全部食べるのに苦労した。全部食べる必要はなかったのだが、腹は減っていたのだった。
 豫園に向かう金陵東路から脇に流れた路地に、食堂を見つけたので入った。
 客は誰もいなく、店のおばさんが2人いて、僕にメニューを差し出した。すぐに 1人の男の客が入ってきて、僕の隣のテーブルに座った。
 2人のおばさんは客にはお構いなしに、いつも大声で話していた。話していたというより、罵りあっていたように見えた。
 僕がメニューから茄子飯を指さして注文すると、おばさんは何やら大声でどなった。中国語なので、何をどなっているのか分かりやしない。何度訊いてもどなるので、この料理はないのだろうと思って、違う咸菜飯を頼んだ。
 出てきたのは高菜の辛し炒めご飯だった。10元。野菜とは思っていたが、咸菜とは高菜のことだったのだ。
 すぐに、僕の隣の男に料理が出てきた。それを見ると、茄子炒めである。おばさんに、その茄子を指さし、次にメニューの茄子飯を指さし、これではないのかと言うと、おばさんは頷いた。
 どうなっているのだ。僕は茄子飯が食べたかったのに、腑に落ちないまま、塩辛い高菜飯で我慢した。

 *

 だいぶん歩いたので疲れたが、どうやら豫園にたどり着いた。
 豫園を囲むような人民路の通りから中に入ると、がらりと雰囲気が変わった。
 古い宮殿風の建物が、道の両サイドに並んでいる。建築様式は古い中国風だが建物自体は新しく、どこもぴかぴかである。人も多い。
 ここが豫園と思っていたら、ここは豫園の周辺にある観光客目当てのお店の並びだった。歩いていくと、土産物から料理店、スイートの店まで、様々な店が並んでいる。いわば商店街なのだが、まさに、チャイナ・オブ・チャイナとも言いたくなる、目をみはる典型的な中国風建物の街景観である。
 日本にも、古い家並みを保存した町があるが、その比ではない。ここ豫園の店通りは、別世界のテーマパークのようだ。
 豫園は、池を張り巡らした大きな庭園だった。
 龍を形取った塀の前で、数人の西洋人に向かって「はい、チーズ」という声がした。こんな台詞を大声で言うのは日本人だろうと思い、その声の方を振り向くと、若い女性とその母親らしい女性がいた。
 写真のシャッターを押してくれと頼まれたらしく、照れ笑いして、「チーズと言うのは日本だけかしら」と言ったあと、「はい、ポーズ、と言えばいいのかしら」と自問した。
 僕が、「やはり日本人だ。いつまで上海に滞在しているんですか?」と訊くと、「明日、日本に帰る」と答えた。「では、いつから上海にいるのですか?」と訊いたら、「今日着いたの。名古屋からツアーで来たんです。ええ、1泊2日なの」と答えた。
 僕は、驚いた。こんな短いツアーがあるんだ。それでいて、しっかり観光スポットはスケジュールで見てまわるんだろうなと思った。
 
 *

 明日は、上海を発って杭州に行くことにした。
 杭州は、上海から南東の方に位置し、列車で2時間足らずのところにある、西湖という湖が有名な古い町である。
 旅舎に戻って、カウンターで、チラシがあったので同じ青年旅舎の系列である杭州国際青年旅舎の予約を頼んだ。すると、中心街にある宿舎は今のところいっぱいで、明日昼の12時半がチェックアウト・タイムなので、その頃また電話してくれということであった。
 仕方なく杭州の郊外にある同じ系列の宿舎に一応予約しておくことにした。しかし、そこは、地図を見ると街中からは相当遠く、アクセスはバスで動物園前に行き、そこからタクシーということだった。杭州の動物園に行く気はない。近くの多摩動物公園すら行ったことがないというのに。
 
 *

 夕食は、遅くなったが、初日にマリさんと一緒に行った西安食堂に行った。
 顔を出すと、やあ、一人で来たのかいとばかりに笑顔が返ってきた。この前いた、店のお母さんやふっくらとした小姐やおばさんや娘までいる。息子もなぜか店の中をうろうろしている。
 主(あるじ)も、やあまた来たなといった表情で顔を出した。
 ここでは、2度来ると、もう馴染み客だ。
 何を頼む?と、僕にメニューを差しだし、僕の反応に、みんな興味津々だ。
 僕は、メニューと、周りの客の食事を見ながら、しばし考え込む。客も、僕が何を頼むかそっと見ている。僕が、会話単語帳の料理の項を開いて、たどたどしく「清給我睥(似字)酒」(チンゲイウォビージュ、ビールをください)などと言うと、みんながよくできましたといった表情で、にっこり笑う。
 メニューをじっくり見ると、そこにあるではないか。昼間食べ損なった茄子炒が。
 そこで頼んだのが次のもの。
 茄子炒、7元。
 土豆刀豆、7元。土豆はジャガイモで、刀豆は刀のように細長い莢豌豆だ。
 紅肉辛炒。肉の炒め物だが、量が多いので2分の1にしてもらい8元。
 それに、飯1杯。
 ビール(睥(似字)酒)を頼むと、にこにこしながら、若いのか老けているのか分からないぽっちゃりした小姐が、ビール持ってきて、これを見てとばかりにラベルを指さした。そこには、富士山が描かれていた。僕が、富士山と言ってにっこりすると、その小姐もうんうんと、にこにこした。
 三徳利という銘柄で、製造元を見ると日本のサントリーだった。

 僕が、料理をつまみ、ビールを飲みながら会話単語帳を見ていると、お母さんが何が書いてあるのかと、のぞき込む。そして、中国語を見て、頷いている。
 料理を作り終えた主(あるじ)が、僕のテーブルにやってきて、メモ用紙での筆談が始まる。やはり店の名の通り、西安から来たということだ。西安は中国の内陸部で、上海からかなり遠い。
 店の人は、家族と親類の人だった。やはり、親族なのだ。みんな仲がよさそうだ。
 「中国は初めて?」、「いつまで上海にいるの?」といった質問がある。
 筆談は、漢字だがやはり難しい。殆ど分からないが、想像で何となく分かったような分からないような感じで受け答えする。それでも、和気あいあいだ。
 そのうち客も帰って、僕と店の人たちばかりとなった。
 明日から、杭州と蘇州に行くつもりだ、だがまた上海には戻ってくるよと、彼らに紙に書いた。そして、僕は、記念に店の人の写真を撮った。この店の夫婦と子供たち、それにここで働く親類の人たち、驚いたことに、この小さな店に7人もいた。(写真)
 写真を送ると言ったら、各々の分、8枚送ってくれと注文された。OK。
 帰りに「埋単」(マイダン、勘定)と言うと、25元だと言った。僕が、料金があまりにも少ないので、ビールも飲んでいると言ったら、主(あるじ)が僕の顔を見て、「朋友」と、紙に書いた。
 僕は、その文字を見て、悲しいぐらい嬉しくなって、30元をテーブルに置いて、店を出た。
 僕は思い出していた。
 「朋(とも)遠方より来たるあり、また楽しからずや」という孔子の言葉を。

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上海への旅④ どこにでもある料理店

2009-11-11 00:46:05 | * 上海への旅
 世界3大料理といえば、フランス、中国、トルコ料理となっている。
 フランスと中国は異論ないとしても、トルコ料理が入っているのがなぜだろうという気がする。おそらく3大文化圏の代表として、西洋文化圏からはフランス、東洋文化圏から中国があがり、そしてイスラム(中東)の代表としてトルコが残ったのではないだろうか。
 トルコは、地理的にもヨーロッパとアジアの中間に位置するし、フランスや中国と同じく宮廷料理が栄えたところでもある。
 料理、味覚に関してはアメリカがまったく出てこないが、歴史の浅さもあって、味覚に関しては、アメリカは論外であろう。
  
 さて、中国料理だが、確かに美味しい。美味しいという前に、中国人は食に関して貪欲であり、熱心だ。それは、生来のDNA(遺伝子)にあるようにすら感じる。
 特に広州人は、「空を飛ぶもので翼のあるものは、飛行機以外何でも食べる。地上にある4本足は、机のほか何でも食べる。2本足は、両親のほか何でも食べる」と、開高健の「最後の晩餐」にあるように、中国人には好き嫌い以上に好奇心が遥かに勝っているようだ。
 小田実の「何でも見てやろう」風に言うと、「何でも食ってやろう」の精神である。
 中国人は、おしなべて食に熱心だから料理術にもたけていて、誰でも簡単に料理を作るように感じる。あの大きく丸い底の鍋1つで、何でも作ってしまいそうだ。それというのも、中国人のおおらかさが、料理では活かされているように感じるのだ。
 フランス料理のように妙にディテールに凝ったり、日本料理のように生(なま)で鮮度を競ったりすることに力を入れているわけではない。そこにある食材を、中国人のことだからあらゆるものが食材として活かすのだから、それらを炒め、あるときは煮、茹で、蒸し、たちまちなにがしかの料理が生まれてくることになる。
 様々な食材の組み合わせと、調味が加わり、独特の中国料理が生まれるのだ。
 中国では、どこにでも食堂がある。中国人が外国に移住すると、すぐに中華(中国)料理店を開く。それらは、どこも、そこそこ美味しいのである。高級店から場末の食堂まで、おしなべて当たりはずれが少ない。
 シェフの独りよがりに陥ったり(妙に創作料理などと肩肘張ったりしない)、逆に手を抜いたりもしない(料理の時は、いつも集中しているように見える)から、この味は何だと感じたり、ものすごくまずいといった店は少ない。
 僕は、インドを旅行しているときカレー食ばかり食べ続けていて、それはそれで大丈夫ではあるのだが、偶然中華料理店を見つけて、中華料理を食べてほっとした記憶がある。ヨーロッパでも、時に中華料理にありつけると、胃も落ち着きを取り戻す。
 海外での日本料理は当たりはずれが大きく、大体が日本で食べ慣れているせいか、酷いものが多いので、日本料理は避けている。

 *

 10月16日、上海の観光スポット、外灘に行き、そこでキャッチ茶館にあい、虚しい気持ちを抱いて南京東路から人民広場あたりを徘徊しているうちに日が暮れて暗くなった。
 さて食事をしようと思ったが、繁華街の煌びやかなレストランで食事するつもりはない。それに、ガイドブックに載っている上海料理を食べさせる店などで、観光スポットを巡るツアーのように、上海料理の代表(と書いてあるもの)を食べる気もない。それは、恋人か愛人を伴っての旅行時で充分だろう(恋人か愛人がいればの話だが)。
 一般の中国人が、いつも食べている街角の食堂が、僕の旅には相応しい。それに安い。

 まずは旅舎のある大連路に戻って、保定路近くの食堂に行くことにした。昨晩歩いて、多くの小さい食堂があるのを知っていたのだ。
 昨晩のぞいたらいっぱいだった、小さいが熱気のあった阿娃食堂に行ってみた。
店に着いたら既に9時過ぎだったので、今日は客は誰もいなかった。
 僕が一人で入って来たので、店にいた主人がきょとんとした顔で僕を見た。僕は、まだ食事は大丈夫かと身振り手振りで表わしたら、主人はなんだ食事か、それなら大丈夫だよ、まあ椅子に座れと、丁寧に応対した。もちろん、食事以外別な用事が僕にあるわけがない。
 差し出されたメニューを見たが、日本の中華料理店のメニューでさえも日本語と対比してやっと分かるぐらいなので、やはり中国語の漢字だけでは想像を駆使しても殆どが分からない。

 まずは無難に、日本でもポピュラーなピーマンと肉の細切り炒めの、青椒肉絲飯、8元。
 絲は、この字でなく日本語にない字だが、少し妄想すれば糸にたどり着く字である。
 土豆片辣、9元。
 土豆はジャガイモと昨日知ったので、ジャガイモと肉の辛し炒めを。中国は量が多いということも知っていたので、主人に、2分の1でいいかと頼み込んで、そうしてもらう。もちろん、料金も半分ということで。
 鍋貼、9元。
 これは分かりにくい。中国・日本語の単語帳を見てやっとこの字だと分かったのだが、中国字では略字なのでそもそも何という字か分からない。これは字の意味から、鍋に貼るように焼くので、ギョウザである。日本の漢字で書けば餃子。出てきたのは水ギョーザだった。
 本来、鍋貼は焼きギョウザで、水ギョウザになるとまったく違って水餃となる。
 これに、ビール(ビージュ睥酒)を頼んだ(睥は似字)。出てきたビールの銘柄は、「百威」。何だか元気が出そうな名前である。
 計35元。
 これだけ食べれば、食べ過ぎである。味は、そこそこである。
 青椒肉絲飯は、飯とあっても、日本のようにどんぶりご飯の上におかずの具がのっているのではなく、皿にのった青椒肉絲と茶碗のご飯が別々に出てきた。
 ギョウザは皮が厚く粗味で、量が多い。酒のつまみというより主食である。
 ビールはアルコール度数3度なので、酒は好きだが弱い僕にとっては格好の飲み物だ。水分補給にもちょうどいい。大瓶だが、軽いのでぐいぐい飲めて、中国では何だか酒が急に強くなった気分になる。

 この店の数軒手前に、よく分からない足浴(マッサージ)屋がある。玄関のガラスには、この手の店にはよく書いてある「歓迎光臨」(多分この字を当てはめると思う)とある。
 通るときちらと見たら、誰も足浴であるマッサージをやっていなく、主(あるじ)らしい男とその奥さんらしい中年の女と、若い豊満な女の子がソファーに所在なげに座っている。
 言っておくと、足浴マッサージ屋も食堂と同じくいたるところにあるのだ。
 阿娃食堂の帰り、立ち止まってその店をのぞいてみたら、ソファーに座っていた女の子が、僕と目が合うや、マッサージ、マッサージと言って、なぜか自分の乳房を両手で挟んで揺らす。やはり、この手の店なのだ。
 僕は、またねと言って、手を振って別れる。冷やかしはいけないのだ。

 場末なのに、上海の夜は遅く長い。

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上海への旅③ 上海のキャッチ茶館

2009-11-07 01:47:29 | * 上海への旅
 上海の観光地といえば真っ先にあげられるのが、旧欧米列強(後に日本も参入)の租界地であった外灘(バンド)であろう。古い西洋建築物を見るためにも、まずここには行っておこうと思い、バス停に向かった。
 一度乗り方を覚えれば分かりやすいのは地下鉄だが、夜はともかく、昼間は窓の外から風景が見られるのでバスに乗った方がいい。しかし、どこの国でも知らない土地のバスはやっかいだ。
 昨日10月15日、上海に着いた日、上海在住のマリさんに、例えば外灘に行くとすれば、バスはどう利用すればいいのですかと訊いてみた。
 「外灘はね…」と、マリさんは上海地図を見ながら、「中山東二路の通り近辺にあるでしょう。バス停に行って、この中山東二路に行くバスの路線に乗るの」。そして、ガイドブックに載っている外灘風景の写真を見ながら、「このような建物が見えてきたところで、バスを降りるの」と、実に大まかで、当たり前で、正しいことを言った。
 中国人は概して大まかな考え方だと思ってきたが、マリさんは日本人だ。中国に長く住んでいると思考形態も中国風になるのかもしれない。
 僕は、野球の天才的打者であった長嶋茂雄の有名なエピソードを思い出した。長島が若手に打撃を教えているとき、「球がこう来るでしょう。それを、カツンと打てばいいのですよ」と言ったという。細かいことを抜きにしたら(抜いているのだが)、言っていることは正しいのである。
 
 僕は旅舎のある保定路からだいぶん歩いた末、やっと大通りの周家嘴路でバス停を見つけた。何本もの路線案内の中から中山東二路を通るバスを見つけ、そのバスが来たので乗るとき運転手に、「中山東二路、外灘」と書いたメモを示し、運転手が頷くのを確認してバスに乗った。
 僕は、ガイドブックを片手に注意深く外の景色を見た。上海の空はどんよりとどこまでも灰色だ。
 都心に近づくにつれ、高層ビルが目立つ。地図を見ながら外灘に近づいてきたなと思っていたら、隣りに座った女性が、ここだと教えてくれた。
 降りた中山東二路の先は黄浦江が横たわっており、その川沿いは工事が進んでいた。その先の方に、これも上海のシンボルともいえる、超高層ビルがいくつも聳えていた。各々形を競うビル・コンテストのようにデザインに趣向を凝らしている。
 外灘あたりは、遊歩道があるはずの川沿いの通りは工事をしていることもあって埃っぽい。それでもさすがに有名どころとあって、観光客がカメラを片手にぞろぞろとひきも切らない。
 この工事をしている通りに沿って、石造りの洋風建築がずらりと並んでいる。東京の丸の内のようだ。ただ、丸の内はどんどん新しいビルに変わっていることもあって、ここ上海・外灘のように風情はない。
 ここからの風景は、中国というよりヨーロッパの街角のようだ。ここ外灘は、20世紀初頭の西洋建築物が原形で残っているのだった。

 *

 外灘は人気観光スポットだ。
 僕がカメラを構え写真を撮っていると、背中を指で押す人がいた。ふりむくとおかっぱの少女で、写真を撮ってくださいと頼んでいる。少女は背が低く小さいが高校生ぐらいだろうか。ほかに並んで、平凡なOL風と太ったおばさんがいた。3人づれで、ビルを背景に写真を撮った。
 少女が中国語で何やら言ったが、僕は中国語は分からない、と英語で答えた。どこから来たのかと英語で訊いてきたので、僕は日本からと答えた。すると、少女は目を輝かせて、「私、日本語を勉強している」と、日本語で答えてきた。
 僕は、「それはいい」と、日本語で答えた。ほかの2人も話しに入ってきて、日本語、英語、中国語のチャンポンになった。
 3人は年齢はまちまちだが、若い少女は目はぱっちりと大きいが真っ黒の髪に黒い服で、宮崎俊のアニメ映画に出てくる黒猫のようだ。年長の40代の太ったおばさんはお笑いの「森三中」の村上似で、30歳前後のOL風の女は友近似だ。どこにでもいる、中国人の観光客のようだ。
 彼らは、香港の近くの何某(なにがし)という町から、観光に来たと言った。その町を僕は知らなかった。小さな町なのだろう。
 少女は拙い日本語で、いろいろ訊いてきた。僕は、できるだけ易しい日本語でレッスンのように答え、時折他の2人とも拙い英語で喋った。
 「中国のお茶は好きか?」と訊いてきたので、「好きだよ。家ではプーアール茶を飲んでいるよ」と彼らが満足するような答えをした。「ウーロン茶は?」と重ねて訊いてきたので、「もちろん、ウーロン茶も好きだよ」と答えた。
 「じゃあ、今から中国茶を一緒に飲まない?」と言うので、お茶を飲むのもいいなと思って、この3人組と一緒に飲むことにした。歩けば、近くに中国茶を飲ませる喫茶店ぐらいあるだろう。
 僕たちは、外灘からなんだかんだと3か国語チャンポンで喋りながら、賑やかな通りの南京東路の方に向かって歩いた。黒猫少女と友近女は腹違いの姉妹だと言った。村上似の太ったおばさんは、アメリカに行っていたことがあるというだけあって英語がうまい。
 黒猫少女が、村上おばさんの太ってふくらんだ腹を指さし、「この中にベビーがいるの?といつも言われる」と言って笑った。僕が、村上おばさんのお腹を指さし、「ベビー、ワン」、そして順に左、右のおっぱいを指さして、「ツー、スリー」と言ったら、みんな大笑いになった。
 だいぶん歩いたところで、1軒の何でもない2階建ての建物に着いた。彼女たちは前に来たことがあるようで、ここと言って僕を促した。街中の喫茶店ではないが、京都とか鎌倉の郊外にある落ち着いた一軒家の喫茶店の雰囲気だった。
 
 店に入り、すぐに2階に上がったら、部屋には大きなテーブルがあって、真ん中にお茶の瓶がいくつも並んでいた。僕たち以外は誰もいない。伝統的な茶館のようだ。僕は普通の喫茶店を考えていたが、こういうところもいい雰囲気だと思った。
 僕たちは、椅子に座った。すると、赤いチャイナ服を着た篠原涼子を若くした感じの美女が入ってきて、お茶についての説明をした。そしてなぜかラッキーナンバーの話や、お茶と数字の因縁などを語り出した。
 お茶の説明が終わったところで、ようやくお茶を飲むことになった。6種類のお茶を飲むようである。
 メニューが出された。
 お茶の銘柄と各々の値段が書いてあって、大体が49元であった。下の方に少し高いお茶もあった。中国語の下に英語が(each…)と書いてあった。
 村上おばさんがメニューを見せて、英文を指さし、これでいいかと言ったので、僕は49元だったら大したことはないので、いいと頷いた。
 篠原涼子は、前に並んだ瓶から茶を掬いだし、急須に湯を注ぎ、みんなの前に出された杯を少し大きくした程度の茶碗にお茶を注いだ。そのたびに、僕たちは「乾杯」と言ってお茶を飲んだ。篠原涼子のお茶の解説のたび、村上おばさんが僕に英語で通訳した。
 茶を入れたフラスコのようなグラスの中に湯を注ぐと、しばらくしてパット花が咲く菊茶もあった。白磁に龍の絵が描いてある急須があり、湯を注ぐとその龍が赤く染まるのもある。最後は、どこそこの山で採れた特別の茶だというのが出てきた。
 お茶を飲んでいる間、友近女が2度、トイレと言って席を外した。トイレが近い女だ。
 6種類のお茶を飲み終わったところで、どのお茶が気に入ったかと訊かれたので、これとこれと言って、お茶の入った瓶を2種類指さした。黒猫少女と友近女も、私はこれが美味しかったなどと、各々指さした。
 すると、まもなく篠原涼子が奥からきれいな箱に入ったお茶を持ってきた。僕に、箱の中身を見せると、僕が気に入ったと言ったお茶が2種類入っているようだった。
 村上おばさんがお土産にどうですかと言うから、これは当然無料じゃないぞと思い、値段を訊いた。すると、村上おばさんは200g242元と書いた。2種類入っているからその倍ぐらいの値段かと思い、僕は要らないと断わった。黒猫少女と友近女のところには、お土産用に頼んだ箱が来た。

 もう帰り時なので、勘定を頼むと、請求書の用紙が渡された。そこには、合計2428と書いてあった。
 僕はすぐにはその数字の意味が分からず、242.8元かと訊いた。すると、村上おばさんが、いや2428元と確認するように言った。そして、おばさんはすぐに僕に向かって、「2人で半分ずつ払いましょう。ハーフ・ハーフで」と言った。
 半分でも1214元である。僕が腑に落ちないといった思いで、請求書をちゃんと見せてと言って、まじまじとそれを見た。
 昨日上海に着いたばかりで物価の観念がまだ身についていなかったが、高すぎるということだけはすぐに分かった。旅舎の宿泊代が150元で、昨日の食事代が35元である。合計請求値段2428元は、ざっと日本円に換算したら、3万数千円近くになる。
 請求書を見ると、左にお茶の値段が、49×4が5列続き、最後は少し高い128×4、それにサービス36×4とあり、計1686とあった。僕は一人49元だと思ったが、そうではなかった。
 右の欄には、2つに分かれていて、計792となっていた。2人のお土産用の箱入り茶の金額だろう。僕はお土産の茶は買っていない。
 僕が右の料金を指さして、これは何の料金かと疑問を呈すると、村上おばさんは、そうね、これを引いた左の方の1636元、こちらを2人でハーフ・ハーフにしましょう、と計算機を持ち出し、すぐさま818元でと、訂正した数字を書いた。
 それでも、日本円に換算すると1万2千円ほどになるので、僕は納得できなかったが、とりあえず払った。
 金額を受けとると、帰り際、篠原涼子はお土産だと言って、お菓子かチョコレートが入っているのではと思わせる梅干し大の丸いボールが2つ入った、子供の駄賃のような小さな紙袋と、鈴の付いた中国風の赤い房飾りを渡した。
 今更そんなものを貰ったところで、少しも嬉しくない。それを投げ捨てて店を出ようと思ったが、それも大人げないと思い、黙って受けとった。
 この時点で、僕はなぜか負けを感じとった。

 店を出ると、何となく店に入る前のはしゃいだ雰囲気はなく、どこかよそよそしい。4人は、虚ろな会話を時々交わしながら、歩いて南京東路へ出た。
 南京東路は賑々しい。それなのに、僕たちは、もう会話も途絶えていた。これからどこへ行くか?と言うので、行くあてもない僕が、もう少し向こうへと答えたら、彼らは私たちは地下鉄でと言って、南京東路の地下鉄の入り口に消えていった。
 一人になって、僕は罠に落ちたという思いが強まってきた。おそらく、彼ら3人組と店は予め話し合いができていたのだ。
 人込みの中のベンチに座り、何の疑いも持たなかった僕は、甘いなぁと一人溜息をついた。
 店はメニューの料金表も見せたし、一人49元と思ったのは、僕の独りよがりなのだ。店は何の落ち度もない。
 請求書を見ておかしいと思った時点で、せいぜい一人分払えばよかったのだ。
 振り返れば、村上おばさんは、高いと一度も言わずに、自分も半分払うからと即座に言った。そして、すぐに電卓で計算しだした。彼女たちだって、高すぎる料金だと思わなければいけない状況だったはずだ。身なりからしてそんな金満な感じでもない3人組である。ましてや、現地の中国人だから、相場は知っているはずだ。
 2人で半々と言いながら、僕の支払いのみを気にしていた。僕の反応を見て支払金額をすぐに変えた。それに、今思えば黒猫少女と友近女は最初から払う素振りはなく、ただ黙って僕と村上おばさんの対応をどうなるかと見つめていた。
 最初からシナリオができていて、彼らの最大の関心は、僕がいくら払うかに注がれていたのだ。
 時間がたち冷静になるにつれ、悔しさが湧き起こってきた。
 女の子が色気で男を誘って店につれていき、帰るとき法外な代金を請求するキャッチ・バーなるものがあるが、これではキャッチ茶館だと思った。誘い役が色気も何もない普通の観光客であるところが、疑いを持たせない意外な落とし穴かもしれない。
 僕は、まんまと落とし穴に落ちたのだ。
 帰りに店で渡された菓子の袋を開けると、丸い蕾の形の花茶が2つ入っていた。

 *

 南京東路も日が暮れ始めた。
 ここは上海一の繁華街で、新宿と渋谷を足して2で割ったような賑わいだ。
 あてもなく歩いていると、話しかけてくる女がいる。
 僕が中国語は話せないと英語で答えると、中国語と英語を交えて、「中国人ではないのですか?」、「何人ですか?」「観光ですか?」「私も観光です」…と、矢継ぎ早に話しかけてくる。ふいに、「日本人ですか?」と日本語を交えることもある。
 それから、僕をお茶に誘うつもりかな。
 僕だって君とお茶ぐらい飲みたいけど、さっき罠にかかったばかりだから、そうはいかないと、僕は「バイ、バイ」と笑って答える。
 女はすぐに諦め、雑踏に消えていく。

 僕は、1989年の第1回目のタイへの旅の初日の出来事を思い出した。
 あのときも、日本語を操るタイの男の罠にうまくはまったなぁと一人苦笑いした。

 *

 朝ホテルを出て、とりあえずバンコク中央駅のフォアラポーン駅に向かった。列車で、タイ北部の古都チェンマイに行こうと思ったのだ。
 喧騒な通りを歩き、中央駅が見えてきたところで、もう若くはない中年の男が日本語で話しかけてきた。私が日本人だと確認すると、自分は一二月に早稲田大学に留学する予定だと言った。現在、英語の教師をしているというだけあってインテリで、日本語も流暢で、よく喋った。
 中央駅は人が多くて、何だか上野駅を想像させた。切符売り場の窓口は、どこも行列ができていた。時刻表でチェンマイ行きを見てみると、一二時間以上かかり、夜行寝台列車で行くことに決めた。
 暇を持て余しているのかずっと話しながらついてきた先ほどの男が、あちらの方が早く買えると言って、さっさと私の切符を買ってきてくれた。
 出発は夜一九時四〇分でチェンマイ着が翌朝七時五五分であるから、出発までまだ充分時間がある。バンコクをどこか散策しようとガイドブックを見て思案し始めた。
 そこへ、男がこれからバンコクで一番大きなお寺でお祭りがあり、自分はそれを見に行くつもりだがあなたもどうかと言ってきた。そのお寺は、チャオプラヤー川の近くにあり、船で行くのだと言う。お祭りに船乗りとは面白そうだと思い、私は一緒に見に行くことにした。
 ――既刊『かりそめの旅』(岡戸一夫著)「第4章:落日のタイ」より抜粋
 本『かりそめの旅』―ゆきずりの海外ひとり旅-に関する問い合わせは、ocadeau01@nifty.com へ。

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