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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

上海への旅⑫ 蘇州の街角、観前街から平江路

2009-12-21 04:35:14 | * 上海への旅
 蘇州の4大園林の1つである留園。
 蘇州の西の郊外にある留園をあとにした僕は、街の中心街である観前街に向かうために大通りのバス停に行った。もう黄昏始めていた。
 観前街に行くにはどのバスに乗ればいいのか?
 来たときと同じく直通のバスはないようなので、近くまで行って、そこから歩けばいい。どうせ中心街は、ここから東へ真っ直ぐの道だ。そう思って、地図と見比べながらバス停の路線案内をくまなく見ていた。
 すると、僕が旅人で思案していると思ったのか、どこへ行くの?観前街へ?と訊いてくる女性がいた。振り向いた僕の戸惑う顔を見て、中国語から英語に変わった。
 僕はええ、と答えた。その若い女性は、私たちもそこへ行くの、一緒に行きましょうと言った。よく見ると2人連れだった。それに、2人とも美人であった。
 声をかけた女性は、僕を見てまるで化粧品のCMに出ているモデルのように、にっこり笑った。それは、本当なのか愛想なのか分からない中立的な笑いのように見えた。
 やってきたバスに、彼女に促されて乗った。バスは思いのほか混んでいて、僕たちは立ったまま中心街に向かった。
 バスの中でも僕と目が合うと、声をかけた女性は何の心配もいらないのよという表情をいつも用意していた。その隙のない優しさと親切心が、僕を少し臆病にさせた。
 若い女性が2人でこれから繁華街の観前街に行くのだから、ショッピングか食事と思うのだが、これからお仕事のお水の商売ではなかろうかともちらと思った。それはそれでいいのだが、初日の上海のキャッチ茶館の出来事(上海への旅③)が、僕から冒険心を損なわせていた。
 観前街の手前の人民路で、バスは右折し、そこで停車した。地図を見れば、道路を渡ればすぐに観前街の西の端で、ここで下りた方が最も近いように思われた。
 多くの人たちが下り始めた。僕は彼女たちを見たが、彼女たちは下りる気配がなかった。しかし、僕は人混みに紛れて下りてしまった。
 バスを下りて、僕は彼女たちが下りるのを待ったが、バスが発車するまでに彼女たちは下りてはこなかった。このバスは、もっと観前街の中心部まで行くのかもしれない。彼女たちは、そこで下りようと思っていたのだろう。でも、僕は観前街の西の端から東の端まで歩こうと思ったので、ここでいいのだった。
 美女2人とは再見も告げずに別れてしまった。彼女たちは、僕がバスの中からいなくなったのを見て、どう思っただろうか?
 観前街を散歩し、彼女たちがこれからビールでもどうと言ったところで、僕は、ありがとう、でも今日はやめとくよ、と言っただろう。
 あとで後悔するほど、僕は慎重になっていた。僕は君子ではないのに。

 観前街は、上海の南京路のように洒落た歩行者専用の通りだ。ブランド店をはじめ様々な店が並んでいる。遊園地を走るようなミニバスも通っている。
 蘇州で最も派手やかな観前街は意外と長く延びていて、なかなかその突き当たりまでは行かない。
 もうそろそろ通りも終りだろうと思い、観前街の通りから北に向かう路地に入ってみた。すると、小さな衣料品店や雑貨屋や食堂が不規則に幾列も並んでいて、こちらの方が僕好みだった。東京でいえば、銀座の通りから下北沢の街に入ったような感じである。
 
 この近くにある、古い道並である平江路に行ってみようと思った。最近は観光客にも隠れた人気だという。店の人に訊いたら、もう少し東のようだ。
 歩いていたら、人通りのない細い道に来た。暗い道で、このまま行っていいものか不安になったので、前を歩いている人に地図にある平江路への道を訊いた。振り向いたその人は若い女性で、こちらですと言って歩き始めた。
 暗い夜道は、やけに長く続いている。行き交う人もいない。途中車が擦れ違うことすらできないような道に、ポツンと忘れ去られたようにホンダの車が停まっていた。
 しかし、1人では心細い暗い夜道も、女性と2人では心地よく感じてしまうから不思議だ。
 黙ったままの時間がどのくらいか過ぎた。その時間は30秒だったのか3分だったのか今となっては不確かだが、そっと、さりげなく無難に英語で訊いてみた。蘇州へ住んでいるのですかと。
 そうですと英語が戻ってきた。そして、日本人ですかと、意外にも日本語の質問が、こちらもさりげなくなされてきた。それは、構えた風でもぎこちなくでもない、ごく自然の言葉として存在した。
 僕は、驚いた。あなたは日本語を話せるのですか?いつ勉強したのですか? 
久しぶりの日本語に、僕は嬉しくなった。
 彼女は学生時代に日本語を勉強し、つい最近までこちらの日本の会社に勤めていたと言った。しかし、英語を勉強しようと思い、その会社を辞めて英会話の学校へ通っていて、今その学校へ行く途中だと言った。
 ビジネスの世界と同じように、関心が日本からアメリカに移ったようだ。それでも日本には興味があると、決してお世辞ではないと思える言葉で話した。流暢ではないにしても、正確な言葉遣いだ。
 話が尽きないと思いだした頃に、小さな川(堀)にかかった丸い橋に出た。堀沿いには柳が植えてあり、細い枝が垂れていた。ここが平江路ですと彼女が言った。 橋の先には、丸い提灯の街灯が飾ってある、木の紅色の格子で構成された中国式の館があった。急に別世界に来たようだった。そして、左右を見ると、堀に沿って細い路地とも言える石畳の道が延びていた。
 夜の闇に浮かんだ、静かに水を湛えた堀。その堀により添うように並ぶ古い家並みと石畳の道は、あえて幻想的に設営された景色のように思えた。(写真)
 2人でその平江路を歩いた。通りには、カフェやバーがぽつりぽつりとあった。それらは薄明かりの中で、いかにも西洋人が好みそうなエキゾチックな雰囲気を醸し出していた。
 彼女が僕に付きあって歩いているようなので、僕が学校に遅れるからもうここでいいよと言うと、彼女は1人で大丈夫ですかと心遣ってくれた。いや、もう彼女は学校に遅れたていたのかもしれないのに。
 礼を言って彼女と別れたあと、1人平江路を南に歩いた。
 細い平江路は、古い街並みを残したまま長く続いた。
 やっと大きな通り千将東路に出たところで、平江路は終わった。出たところの道沿いに白い石膏の銅像があり、見覚えがあった。
 地図を見ると、やはり昨晩旅舎の近くの十全街から歩いてやって来た道のところではないか。とすると、このまま堀沿いに歩いて行けば30分ぐらいで十全街に出るはずだ。
 昨晩と逆のコースで、堀の反対の道を歩いた。
 誰も通らない道には、白い塀の家が並んでいる。途中、やはり木犀の香りがした。
 堀は静かに水を湛えて、白い淡い光を映している。
 「蘇州夜曲」という古い歌があったなぁと思いだした。

 十全街に出たところで、昨晩行った食堂へ入った。大分歩いたので、すっかり腹が減っていた。
 カウンターの中にいる主人が、おやまた来たねとばかり、にっこりと微笑んだ。奥に立っている猫のようなウエイトレスの女の子も、久しぶりに会った同郷の友のような顔をした。しっかり者の奥さん(多分想像だが)もいる。
 また、いつものようにメニューを見ながら、日中会話帳を広げてしかめっ面で見ていると、好奇心の強いウエイトレスの女の子が、また僕の会話帳をにやにやしながらのぞき込んだ。
 中国では初めての、麻辨(婆)豆腐をまず頼む。10元。
 それに、古老肉。いわゆる酢豚、22元。
 それに、睥(似字)酒、ビール。
 メニューを見ながら野菜がないかと探していたが、よく分からない。すると、調理をやっているふくよかで美人の愛人(妄想だが)が、何が欲しいのかと僕のそばに来た。僕が、野菜と肉の炒めとメモ用紙に書くと、彼女は、奥から細い枝とも葉ともいえる青野菜を手に掴んで、これでどうと見せてくれた。
 僕は直ちにOKのサインを出した。
 出てきた料理は、この野菜と肉の細切り炒めだった。しゃきっとしてとても美味しい。
 この野菜の名前は何かと訊くと、「金花菜」と美人の愛人はメモ用紙に書いた。初めて聞く名前で、初めて食べた。
 それと、麻辨豆腐が絶品だ。やわらかい絹豆腐で唐辛子がぴりりと効いていて、この店に似合わず繊細で洒落た味だ。
 ウエイトレスの女の子が、僕のそばにやってきて、メモ用紙に何やら書き出した。なついている子猫のようだ。かまってもらいたいのかもしれない。
 中国文字(漢字)はまったく日本の漢字と違うので、完全に理解できないが、どうも1人で旅行しているのか?と書いているようだ。僕が、そうだと頷くと、よくまあといった感じで目を丸めた。
 そして、僕が「一人」と書き、その横に1人歩いている人の絵を描くと、笑ったあと、もの珍しそうに改めて僕の顔を見て、またもや何やら書いた。
 何日ここにいるのか?という意味だと想像し、漢字で旅の日程を書いた。そして、中国と日本の地図を書いて、ここが東京だと言った。
 彼女は、うん、うんと頷いていた。
 僕が、君の故郷はどこだと訊くと、彼女はフーペイとか言ったが、僕が訊き返すと、漢字で「湖北」と書いた。蘇州から相当遠いところだということが分かった。
 やはり、僕が想像した通り、集団就職ではないにしろ、遠く田舎からつてを頼りに就職してきたのだろう。
 何歳?と、女性には失礼かなと思ったが、まだ若いからいいだろうと思って訊いてみると、20歳と答えた。ローティーンかハイティーンと思っていたら、意外と大人だった。
 もう大人だね。ビールを勧めると、笑いながら断わった。仕事中だものね。

 蘇州の夜は、こうして暮れていった。

 旅に出ると、勤勉になる。
 夜、旅舎に帰ると、共同炊事場で、下着と靴下を洗濯した。もう、深夜だ。旅には身軽にするために衣類は極力少なく持っていくので、大体1日おきに洗濯している。
 日中は歩きまわっているので、夜は疲れて、普段のように夜更かしせずに早く寝る。すると、普段と違って早く起きる。
 
 この旅舎の共同シャワーは、お湯の温度の調節が効かなくて、冷たい水か火傷するかのような高温度のお湯かのどちらかで、始末に悪い。
 どうやら、この日の旅舎の2階の宿泊客は、僕1人のようだ。

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上海への旅⑪ 蘇州の庭園

2009-12-18 03:15:26 | * 上海への旅
 杭州から蘇州へやってきた。
 10月20日、蘇州の旅舎で目を覚ます。
 窓のない部屋は、朝かどうか分からない。時計を見て、朝を確認する。
 こんな若者が泊まる味気ないホテルも、海外ひとり旅には格好の舞台と思えば心が晴れる。ただベッドがあるだけの単純な空間が、未知へのエネルギーを孕んでいるのだ。冒険を目指すには年をとりすぎたが、若いときは、こんな部屋にも言いしれぬ夢が満ちていたものだ。そして、そこから未知へ旅が始まった。

 蘇州は、長江(揚子江)の南、つまり江南の主要都市として古くから栄えた古都である。
 春秋時代(紀元前6世紀)の呉の都から出発し、隋の時代(6世紀)に呉州より蘇州となった。
 古くから、「杭州には西湖の美があり、蘇州には園林の景勝がある」と言われてきた。つまり、蘇州は運河が縦横に張り巡らしてあるので、東洋のヴェネティアと呼ばれているが、それより有名なのは数多くの庭園なのである。
 現在、蘇州にある拙政園、留園など9庭園が世界遺産となっている。なかでも、宋代の滄浪亭、元代の獅子林、明代の拙政園、清代の留園の4つを、「蘇州四大園林」ともいう。

 窓のない旅舎の部屋で、昨晩、街を歩いている途中のスーパーマーケットで買った牛乳と菓子パン、それに洋梨とミカン1個を食べて外へ出る。
 まずは、最も有名で大きいと言われている「拙政園」を見ようと出かけた。
 地図を見ると、拙政園は街の北にあり、南にある旅舎のある十全街からは街を縦断するほど遠く、歩ける距離でない。
 バス停を探して、バスで向かうことにした。
 中国のバスは、数字で行き先が分かれていて、バスは頻繁に走っているのだが、行き先に行き着くバスナンバーを見つけるのが大変である。やっと近くの蘇州博物館に行くバスを見つけて、そこから拙政園に着いた。
 この庭は、明の高官王献臣が、中央で失脚後にこの地に造ったものだ。
 「拙政園」という名前が面白い。この名は、藩岳の詩「閑居賦」の一節の、「拙(つたな)い者が政(まつりごと)をするは、悠々自適、閑居を楽しむことなり」から来ているとされる。
 また、収賄で溜めた金で造ったのを自嘲的につけたという説もある。
 彼を皮肉って言った言葉が名として残ったとなると、それこそ皮肉なものだが、それはそれで面白い。
 庭は広大で、緑の散歩道が続く。面積は5万㎡とあるから、東京ドームより大きいことになる。行く先々に、堀があり、池があって、水が存分にあるのが、この庭が落ち着く源になっている。
 堀には木の小船がひっそりと浮かべてあり、ことさら情緒を誘う。(写真)
 庭園の持ち主は、この小船に楊貴妃のような美女の愛人を乗せて、庭の花々を見ながら戯れの余生を送ったのであろうか。
 庭は、いくつかに分かれていて、そこには仕切の白塀があり、その塀に刳り抜かれた出入り口が丸いのも、足を止めた。遊び心もある。
 藤棚のような一角があった。それは、薔薇科の白木香と書かれていた。頭の上に、屋根状に白い薔薇の花が咲き誇っていたらと想像し、その季節でないのを惜しんだ。それに、薔薇科なのに枝に棘がないので、その蔦状の小枝が垂れてきて、身体にまとわりついたところで痛くなく、もし美女と寄り添ってでもいたら、逆に白い花が二人の仲を後押しし、心地いいに違いない。
 樹齢120年と書かれている。新しいとは思わないが、相当古いと言えるのだろうか。分からない樹齢だ。その葉を千切って、本に挟んだ。いけないことだ。

 *

 拙政園のすぐ近くに「獅子林」の庭園がある。歩いて数分ぐらいで行ける距離だ。
 獅子林は元代の庭園だ。太湖から引き揚げられた、ごつごつした白い石で造られている。園内の石が獅子に似ているから名づけられたようだ。
 石の庭は情緒的でないので、僕の好みではない。日本の枯山水も、このあたりからきたのだろうか。この石の庭を、物語的に、はたまた怪奇的に装飾したら、香港のタイガーバーム・ガーデンに行き着くのだろう。

 獅子林を出て、通りの食堂に入った。
 主人が1人出てきた。昼食の時間帯を過ぎていたので、客は誰もいない。ここは、無難な料理を頼んだ。
 青椒肉絲飯。ピーマンと肉の細切り炒めとご飯、10元。
 僕が食事をしている間、店の主人はカウンターの中で熱心にテレビを見ていた。そのとき、「はい」と言う甲高い声が、画面の中から続けざまに聞こえた。テレビを覗くと、戦争ドラマであった。第2次世界大戦時のドラマのようで、日本兵が上官に向かって直立不動で返事しているのであった。
 上海の仲よくなった西安食堂で、筆談で、僕が日本人だと書いたときに、食堂のお父さんが、「日本人ですか、ハイ、ハイ」、と直立して、大きな声で返事をしたのを思い出した。そのハイに、僕も、みんなと一緒に笑った。そのときは単に、日本人は几帳面にハイと返事するものと一般的な中国人は思っているのだ、と解釈していた。
 あのときのハイという甲高い言葉は、このドラマでの日本人の言葉だったのかと、僕は少し嫌な気分になった。中国の戦争ドラマで、日本の兵隊がいい描かれ方をされているはずはないと思ったからだ。
 まあ、仕方がない。確かに戦前に日本は中国でいいことをしたとは思えないから。
 食堂を出て、留園に行こうと思った。

 「留園」は、明代に造園し、清代に改造されて今日の庭園になった。
 地図を見ると、留園は、外堀である外城河の西の郊外にあった。とにかく行ってみよう。夕方5時頃には着くだろう。
 留園には、どのバスに乗ったらいいか分からない。とにかく、最寄りのバス停に行って、待っている人にガイドブックを見せながら、乗るバス路線を訊いてみた。しかし、何人かに訊いたが、答えが出てこない。一生懸命に考えてはくれているのだが。
 やっと1人の若者が、自分の詳しい地図帳を取り出して、留園の直行ではないが、最寄りのバス停に行くバス路線を教えてくれた。そこで降りれば、留園までは歩いてすぐですよと言った。そして、自分もその先に行くので、僕が乗るバスに乗ればいいと言って、乗るバスを教えてくれた。
 つまり、留園行きの直行バスは、そのバス停からは出ていなかった。そんなことはよくあることで、バスの乗り継ぎをしないといけないのだが、地元の人でもこの乗り継ぎは簡単には分からないのだろう。これだから、バスはやっかいだ。
 若者に言われた楓橋路で下りたところは、郊外といっても意外と開けていた。蘇州は、奥行きが広い。
 そこから歩いて、やっと留園にたどり着いた。すると、庭の入口の門は閉まっていた。受付の案内板には、閉園は夏5時30分、冬5時と書いてある。時計を見ると、すでに5時半である。
 仕方ない。バスを見つけるのに時間を取ってしまった。
 閉園後の留園の周りは、寂しい空気が漂っている。再び、大通りのバス停に向かうことにした。
 歩きながら思った。僕の旅は、目的地に着くのではなく、その過程にあるのだと。目的地に行くのが目的であれば、タクシーに乗ればよかった。そうすると、きっと閉園前に着き、慌ただしくても庭の中を見て回れただろう。
 でも、目的地に行く過程を僕は旅しているのだと、自分を納得させた。留園は明日また来ればいい。
 僕は、再び蘇州の中心街へ戻ることにした。
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上海への旅⑩ 列車の旅で、蘇州

2009-12-11 01:08:56 | * 上海への旅
 10月19日夕刻、列車で杭州から蘇州に着いた。
 蘇州駅に着いたときは、日が暮れかかっていた。蘇州には2泊するつもりだったので、21日の上海行きの切符を買っておこうと思い、切符売場である售票処を探した。切符売場は、やはり乗降口より大分離れたところにあった。
 行くと、どの窓口にも行列ができていた。どこの駅もそうだ。
 夕方発の列車がないかと探していたら、掲示板に上海行き15時54分発のがあったので、2日後のそれにした。窓口で切符を買うと、15元であった。あまりにも安い。
 切符には、K182次の車両で、真空調硬座快速で天座とある。(写真)
 切符の写真を見ると、蘇州の蘇の字が、芬に似たまったく違った中国字になっているのが分かるだろう。
 列車は硬座で天座であるから、硬い木の座席で天空が見える、屋根のない無蓋車のようなものなのだろうか。終戦直後であるまいし、そんなことはあるまい。もしそうだとしたら、そのまま中国東北地方の旧満州、長春(新京)まで行ってみたいものだ。
 「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」のように、屋根も庇もないトロッコ列車に乗るのもいい。あの映画も、インディ(ハリソン・フォード)が上海で美女と知りあって、中国人少年とインドの奥地に行く話だった。「天座、魔宮行、単票」なんてのがあれば、いいなぁ。
 それはさておき、天座とは、おそらく自由席なのだろう。硬座があるとすれば、軟座もあって、座席の椅子に格差があるのだろう。硬座が格下であるのは言うまでもない。

 蘇州の駅前に立って、地図を見た。
 蘇州の街は、四角く堀(外城河)で囲まれていて、さらに堀割である細い運河が縦横に張り巡らされていた。周囲が海ではないが、ヴェネツィアを思わせた。
 駅はこの堀の北にあり、予約してある蘇州青年之家旅舎は、南の十全街(通り)から南脇に下ったところにあった。
 すでに日も暮れていた。ここからバスを探してそこへ行くには、かなり困難を要しそうだ。中国のバス路線がやっかいなのを知っていた。それに、チェックインも急がないといけない。などと、言い訳しながら、タクシーに乗ることにした。
 僕は極力タクシーを使わない、地元の人の利用する公共の交通機関(電車、バスなど)での旅を目指しているが、たまにはこういうこともある。
 タクシー乗り場には、そこも行列ができていた。

 タクシーに乗ると、運転手に地図を見せながら旅舎の住所と、近くにある有名ホテルらしい蘇州ホテル近くと言った。運転手は老眼らしく見えにくい仕草で地図をながめていたが、分かったのか発進させた。
 車は、駅から街を囲む外城河に沿った外側の道を走った。空はダークブルーに染まって、まさに夜のとばりが下りようとしていた。堀に沿って、城の櫓のように中国式の建物があり、そこがイルミネーションで縁取られて輝いている。さらに、その輝きを長く続く堀割の水に映していた。それを見て、やはりこの街が水の都だと知った
 運転手は近くに来たのだろうか、外を右左に注意深く見ながら走った。そして、大通りから脇の道に入ったので、僕は違うところへ行っているのではと疑心暗鬼になった。
 それで、おもわず運転手に「蘇州飯店」と言った。そこなら有名ホテルらしいから知っているだろう。そこからは大した距離ではなさそうだし、そのホテルから歩こうと思ったのだ。
 運転手は、「蘇州飯店?」と聞き返し、僕が「そうだ」と言うと、車をUターンして、また大通りに出た。そして、蘇州飯店と書いてある入口前に出た。
 大通りの蘇州飯店入口は車が擦れ違う程度の間口だが、中の方に専用の道が続いていて、大きなホテルであることがすぐに推測できた。僕は、入口を入ったところで、「ストップ」と言った。
 しかし、運転手は僕のストップを無視して、敷地に入った。そこには燦々と光り輝く立派な建物が構えていた。タクシーは、そのホテルの入口まで行き、そこで車を止めた。
 玄関前には制服を着たホテルマンが立っていて、素早く僕に近づいてきて会釈した。僕はまずいなと思ったが、仕方ない。僕を案内するホテルマンに、車を出て、「ソーリー、僕はこのホテルに泊まるのではない」と言った。
 すると、ホテルマンは運転手に何か言った。小言を言っているようだった。運転手は、自分が勝手にこのホテルに連れてきたと疑われているようで、必死になって弁解していた。
 そう、運転手に罪はない。僕が勝手にこのホテルを指定したのだ。
 僕が顔を真っ赤にしている運転手に、メーター料金の21元を渡すと、運転手はむっとしたまま20元しか受けとらなかった。僕は、21元をしっかり運転手の手に押し返し、蘇州飯店の玄関を背にして、歩き始めた。
 運転手もホテルマンも不満を持ったままだった。僕が運転手を信用しなかったばかりに、本当に悪いことをした。
 蘇州ホテルを出て、地図を見ながら蘇州青年之家旅舎を探した。それらしいところが見つからない。行きすぎて引き返し、土地の人に聞いてやっと見つけたそこは、大通りから脇に入った、先ほどタクシーがUターンしたところだった。
 ホテルには見えない、通り過ぎてしまうのが当然の、普通のうらぶれた建物だった。それは、ホテルであることを隠す擬態のように、街の並んでいる建物の中に潜んでいた。

 旅舎の中では、若い中国人の男女と、西洋人が2人、ロビーらしき空間に座っていた。髪の長い西洋人が、ギターをつま弾いていた。後ろ姿だったので女性かと思ったが、ロックミュージシャンのような風貌の男性だった。
 中国人の男女は旅舎のスタッフだった。男がすぐに僕に対応した。
 宿泊料は、何と90元だ。
 部屋の鍵を渡された。それまでのカード式とは違って、古い差し込み式の金属のキーだ。
 2階の部屋に行くと、戸の部分の鍵のところがすり減っていて、鍵をかけても強く押すと開くのだった。誰かが、力ずくでギシギシと開いたのだろう。
 部屋の中に入ると、窓がない、ベッドが置いてあるだけの空間だ。洗面所もトイレ、バスもない。廊下の先の奥に、洗面所とトイレとシャワー室があった。
 この料金では仕方ない。

 部屋に荷物を置いて、ホテルを出た。
 十全街の通りに、大衆的な食堂があったので、すぐに入った。店の名前は、「○名米綫館」といかめしいが街の人が入る庶民的な食堂だ。
 入口のカウンターの中に、親父が構えていて、店の中はテーブルが6つある。若い女の子が、ウエイトレスとして立っていたが、手持ちぶさたそうだった。彼女以外にも、店の人らしい人が顔を出す。
 メニューと日・中会話帳の食材図をながめていると、立っているウエイトレスが近づいてきて会話帳をのぞき込む。好奇心旺盛な年頃で、それが顔に出ている。僕を見て、にっと笑う。何だか、集団就職(中国でもあるかどうか知らないが)で地方から出てきた少女のようだ。
 時々顔を出すおばさんも、受付にどんと座っている親父も、僕が何を注文するか、興味深げに見守っている。
 散々メニューをながめていても、無難な線を注文してしまう。
 咸菜肉絲。高菜と肉の細切り炒め。
 皮蛋。ピータン卵。
 水餃。水ギョーザ。
 四種面。4種の具の入ったうどんのような麺。
 睥(似字)酒。ビール。
 計35元。
 味はいい。僕は、再見と挨拶して店を出た。

 地図を見ながら、堀割に沿って北の方の繁華街に向かって歩いた。
白い塀の古い家が並ぶ。その道の堀沿いには柳や灌木が植えてあり、木々の先には水が明かりを照らしている。
 甘い匂いが夜に紛れて漂ってきた。その匂いに近づくと、木犀だった。夜の街灯に照らされた小さな花は、日本の黄色と違って白っぽい。かといって銀木犀ほどではない。うっすらと黄色なのだ。
 日本の金木犀は終わったばかりだったのに、中国では少し遅いようだ。こちらが寒いのでもないのに。
 人通りのない夜の運河沿いの小道は、寂しい。しかし、落ち着きのある街だ。
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上海への旅⑨ 杭州から蘇州へ

2009-12-08 01:43:04 | * 上海への旅
 杭州は古都である。しかしそれよりも、この町が観光地として名をなしているのは、湖一つだと言っていい。その湖の名は西湖。
 おそらく中国に数多くあるであろう、地理的に西の方にある湖という平凡な名の西湖だが、ただ単に西湖と言えば、ここ杭州の西湖なのである。日本にも、富士五湖の一つに西湖があるが、遥か遠く及ばない。

 10月19日、杭州国際青年旅舎で朝起きたら、すぐに西湖に行った。
 ここ旅舎からは、目と鼻の先だ。名所の柳浪聞鶯を抜けると、そこは西湖だった。
 きれいだと言っても、湖だ。それがきれいと思わせるには、プラスアルファがなければならない。それは、その湖を際だたせるために存在するかのような山や木々や花々があったり、水に生える蓮があったり、泳ぐ魚や亀や、はたまた水鳥がいたりした方がいい。
 西湖は、その周辺に木々があり、それも水に似合う柳があり、中国式の建物がここかしこに建っていて、確かにどこかで見た中国の水彩画のようだ。
 湖には、いくつかの船が揺れるように走っている。観光客の乗る遊覧船も多い。シンプルな屋形船からきらびやかな建物をした船まで、大きさも様々だ。
 ただ単なる静かな湖でなく、こういう船が行き交う風景がいい。自然だけの景観でなく、そこに人がいるという風景がいいのだ。
 旅舎から湖に出たところが、ちょうど船着き場だった。2、3隻の船が停まっていた。
 まだ疎らな客の船が、客を待って停まっている。停まっている船に乗り込もうとする観光客がいる。
 僕も遊覧船にでも乗ろうかと思って、切符売場のところへ行った。受付のところに10人ぐらいの中国人の団体客がいた。窓口で、客と受付の人が何やら言っている。
 切符1枚買うのに、何を手こずっているのだろうと覗いてみたら、細長い長方形の紙に何か印刷してある券のようなものを見て、受付の人がしきりに計算したりしている。団体の通しカードのようなものだろうか。誰もがそのカードのようなものを手にしていた。
 やっと1人が終わったら、次の人も同じくああだこうだと言っている。こうして、この団体客のすべての事務処理が終わったときは、先ほどまで水辺に停まっていた船はどれも出発していなくなっていた。
 窓口で、船の遊覧時間はどのくらいかかるのかと訊いたら、1時間半だという。
 腕時計を見ると午前10時である。出発時刻表はなかったので、客が待っていると船は次々に来るのだろうと思っていたら、そうではないようである。今、出発した船が戻ってくるのを待つようだ。
 仕方なく、船に乗るのはやめて湖の周りを歩くことにした。周囲は15キロあるので一周はできないが、昼ぐらいまでに戻ることにして、それまで歩くことにしよう。
 湖の周囲は道が整備されていて、湖のうねりを活かしてところどころに小さな公園のような空間ができていた。草むらなので、暖かい日なら寝転がってもいい。
 そこでは、地元の人たちが、石で造った将棋台の上で、トランプや麻雀をやっている。あるところでは、団体で太極拳を舞っている。あるところでは、二胡にあわせて唄を歌っているおばさんもいる。
 西湖は、観光客には観光の場で、地元の人たちには憩いの場なのだ。
 西湖は散歩にはちょうどいい。しばらく歩くと、また船着き場があった。ここから出るのは、違う形の船だ。ばらばらにある船着き場によって、船が違うのだ。
 ぶらぶら湖畔を歩いて、昼頃ホテルに戻った。

 旅舎をチェックアウトし、すぐ近くにあるレストランで昼食をとった。バイキング・スタイルの西洋風料理だ。中国に来て、初めて西洋料理だ。中国料理にはない生野菜のサラダが懐かしい。
 中国人は元来、野菜も魚も生は食べないのだ。だから、もともと中国料理に生のものはない。
 食べ放題で、58元。この近辺では安い方だが、僕にとっては高いランチだ。

 *

 昼食後、蘇州へ出発するために杭州駅に行った。
 昨日切符を買っておいたので安心なのに、14時発の1時間も前に駅に着いた。いつもぎりぎりに駆け込む僕にしては、異常に早い到着だ。でも、ここでは何が起こるか分らない。
 案の定、改札口が分からない。杭州駅は2階建てになっていて、しかも構内に普通の店が並んでいるので、分かりづらい。商店の並ぶその先に切符売場、售票処がある。改札口は検票口である。現地の人に訊くと、2階にあった。
 検問のような改札口を通ると、高く掲げられている電光掲示板を見ることになる。掲示板には、列車番号毎の待合室番号が映しだされている。切符に書いてあるT34次が、僕の乗る列車番号だ。自分の列車番号の列に書いてある待合室で待てということなのだ。
 検問を過ぎ進んでいくと、待合室がいくつかあって、それぞれ番号が付けられていた。入ると、小学校の講堂のように大きく、長椅子にいっぱいの人が座っていた。
 まるで、終戦直後、引き揚げ列車に乗り込むために待っているようだ(見てきたようなことを言うが、あくまで映画やドラマでのイメージをふまえての思いである)。
 でも、ここで待っていていいものか不安になって、僕は待合室を出たり入ったりした。というのも、上海駅と違って、ホームがどこにあるのか見えないのだ。歩き回って注意深く見渡してみても、待合室がいくつかあるだけで、列車とか線路がまったく見えないのだ。
 どこからホームに行くのだろうか。どこかで、ホームに繋がっていないといけない。自分の番になったら、行列になった集団となって、どこかにあるそのホームへ引率されて、連れて行かれるのだろうか。そんな疑問が、僕を不安にさせた。
 改札口の係員に切符を見せて、どこかと訊いたら、やはりその待合室で待てという返事なので、間違いではなさそうだ。
 待っている間、壁に貼ってある時刻表を見ていた。僕の乗る列車T34次は、直接蘇州に行くのではなく上海へ迂回経由のようだ。つまり>の形で、まず北東の方の上海へ行き、また戻るように北西の方の蘇州へ行き、翌朝天津に着く夜行列車のようである。
 いや、知っていてよかった。知らずに乗っていたら、まっすぐ蘇州へ着くものと思っていたから、そのうち上海に着いたらびっくりしただろう。
 発車30分前を過ぎた頃に、待合室の掲示板に、やっと僕の乗る列車の番号が表示された。
 すると、待合室の奥の仕切りが開かれ、並んでいる人が順に切符を見せて、仕切りの奥へ入っていく。こんなところに改札口があったのだ。いよいよ本当の改札が始まったようだ。しかし、改札のある仕切りの奥は、すぐに行き止まりになっている。
 僕も、その列の尻に並んで、改札の中に入っていく人を見ていた。改札の奥に入っていく人は、たちまち左右に消えていくのであった。
 僕の番になって入っていくと、左右の隅に階段が下りていた。その階段を下りると、そこがプラットホームだった。そんな仕組みだったのだ。
 ふーむ。やれ、やれ。

 *

 列車に乗った。一応、座席は指定されている。
 昨日の上海から杭州行きの一等座は、75元だったが、この杭州、上海、蘇州行きは、距離が長いのに44元である。やはり、新幹線「和階号」は高いのだ。といっても、日本とは比較にならないほど安い。
 座席は、通路を挟んで2列、3列で、日本の新幹線の座席と同じ格好だ。それが、向かい合わせに組んである。車両の表示に、1両定員118人と記されているから、18両編成だ2000人以上となる。
 南両編成か残念なことに数えなかったが、僕の乗った車両が16両(号)で、それ以上あるのは確かで、おそらく18両はあるのだろう。中国は人が多いから、列車も大量人数移送だ。日本の東海道新幹線も、16両編成(N700系)で1328人と多いのだが、それを遥かに凌ぐ。
 列車は、14時杭州発で、17時53分蘇州着だ。
 僕は2人座席の窓側で、隣の若者はすぐに頭を下げて寝てしまった。前の若者は、中国では珍しい肥満で眼鏡をかけたオタクっぽい印象で、ウォークマンのようなヘッドホンを耳に当て、何やら音楽でも聴いていそうであった。時々神経質そうに小さく独り言を呟くのであった。
 斜め前の女性は、通路を挟んで横に座った初老の女性と親子のようで、旅行のようだ。その女性が、車内販売の売り子から地図を買った。車内販売で、地図を売っているのだ。女性が地図を広げたのでのぞき込むと、上海駅で切符を買うのに苦労した「芬(似字)州」と書いてある。僕と同じく蘇州に行くのだ。
 上海で、寝ていた隣の若者は降りたが、親子の女性と前の若者は乗ったまま蘇州まで行った。前に座っていた若者も蘇州で降りた。
 
 改札口を出て、駅の外へ出るとき、前に座っていた若者と目が合ったので、目でアバヨと挨拶すると、彼はそれまで見せたことのないニコッとした表情を見せて、人混みへ消えていった。彼は人恋しいのかもしれない。
 親子の女性も挨拶を交わして、人混みへ消えた。
 蘇州駅前は、観光地らしく人が多く、混雑していた。
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上海への旅⑧ 杭州と中国六大古都

2009-12-04 03:28:58 | * 上海への旅
 10月19日、朝、杭州国際青年旅舎で目を覚ました。
 ここ旅舎の近くは近代的な建物が並び、この街が2千数百年も長い間息づいている街だと想像するのは難しい。しかし、メインロードを外れて歩いていくと、そこかしこにいにしえの香りを感じる。
 それは、杭州だけのものではない。中国に流れる、長いそして重い歴史の香りであり、僕たちの知らない遠くから来る風である。

 「杭州」は、歴史的にも紀元前の春秋時代(BC8~5世紀)の呉・越国の争い事に登場する古い街である。
 同じく、杭州の北にある蘇州は呉の都で、越の都は会稽(紹興)だった。紹興は、杭州のすぐ南にあり紹興酒で有名なところである。
 ちなみに「呉越同舟」の故事は、この呉と越の敵・味方に由来する。
 その頃、日本はまだ縄文時代である。クニもなく、卑弥呼すら登場していない。何と中国は早熟だったことか。
 杭州は、春秋・戦国、秦、魏晋南北朝時代を経て、隋(6後~7世紀初)の時代にこの名の杭州に改名される。そして、この時代に、現在の北京近くのタク郡から杭州へ大運河が造られる。
 中国は昔から「南船北馬」と言われてきたように、江南地方は水路は発達していたが、北の方は馬が頼りだった。その華北に南からの水路を繋げ、黄河と揚子江を結んだのである。全長約1800キロで、おおよそ青森から福岡までの距離だ。今から1400年も前のことだから、万里の長城にも匹敵する歴史的大事業である。
 これにより、杭州はその後、江南の交通、交易の拠点となる。清代のアヘン戦争(1840~1842年)以後、上海が繁栄を遂げるまでは。

 *

 杭州が中国六大古都とあるので、他の5都市はどこかと見たら、北京、西安、洛陽、開封、南京である。
 どこも、かつて社会科の教科書に出てきた都市である。
 本棚の奥から「世界史地図」(吉川弘文館)「世界史図説」(東京書籍)を引っぱり出して、ながめてみた。高校の副教本だ。灰色の受験生時代が、少しだけいとおしい。あの頃、どうして熱心に受験勉強しなかったのかという後悔は、今すべきではない。

 中国の歴史を紐解けば、紀元前1600年頃、殷の王朝が成立する。考古学的に実在が確認されている最初の王朝である。また、殷を商と称する説もある。
 紀元前1100年頃、殷を滅ぼした周が華北を統一し、都を鎬京(コウケイ)に置いた。さらに時代は過ぎて紀元前770年頃、都を洛陽に移した。そして、この頃、春秋時代が始まり、戦国時代となる。
 周を中心にしながらも、各地に諸侯が勢力を張ったのである。その諸侯が都とした街が発展し、それが今にまで息づいているのである。

 中国の王朝は時代とともに変遷をとげながら、20世紀の清まで続いた。
 中国人も、特に小学生は、この王朝を覚えるのは大変らしく、中国の小学校の社会科の教科書「中国の歴史」に、「中国歴史王朝序歌」なるものを紹介している。メロディーをつけて、歌うように覚えるのだろう。
 ちなみに、中国の教科書では、最初の王朝とされる殷は商となっていて、その前の紀元前2000年頃より夏の王朝を記録している。
 殷(商)の後の周は、西周と、春秋・戦国時代は東周とに区別している。
 <中国歴史王朝序歌>
  夏商と西周
  東周は二期に分かれ
  春秋と戦国
  一統して秦両漢
  三分して魏蜀呉
  両晋は前後に伸びて
  南北朝並立す
  隋唐五代と伝わり
  宋元明清の後
  王朝はここに至って終わる

 *

 「北京」は、現在の中華人民共和国の首都で、新しい都市だと思っていたら、意外に古い。いや、本当に古くて新しい都市なのだった。
 紀元前の春秋時代の燕の都、薊(ケイ)であった。燕は当時の中国の最北の国で、歴史地図を見ると、北方民族の攻撃を防ぐために、北方の東西に「燕の長城」が築かれている。これは、秦の万里の長城の礎と思われる。
 秦、漢時代は、右北平と称し、宋(北宋11世紀)の時代には、北京大名府の名が記されている。
 その後、モンゴルによる元の時代(13~14世紀)には都となり、大都と称した。
 その後、明の時代の中期に南京からの遷都で都になり(1421年)、それから清の時代(17~20世紀初)を経て、現在の中華人民共和国の今日まで、北京は中国の都である。
 清のラストエンペラーである溥儀は、清の滅亡(1921年)後も1924年まで北京の紫禁城にいた。
 その後、愛新覚羅溥儀は天津に逃れた後、日本政府が建国した満州国の初代皇帝として、首都新京(長春)に住むことになり、数奇な人生を送る。

 *

 「西安」は、黄河の上流、中国の中心部にある。
 わが国でも遣唐使で有名な唐の都・長安は、実は西安だった。
 社会科の時間に、長安の都と聞いただけで、雅やかな寺社や街並みが、まるで遣唐使が目を丸くして目を見はったように、九州の片田舎の中学生にも浮かんできたものだ。
 日本の飛鳥時代、動力機械もない帆船でやっと中国にたどり着いたと思ったら、その海岸からかなり奥まったところに長安の都はあったのだ。そして、長安の都、西安は、今でも遠い。
 唐の都であった頃の長安は、当時は朝鮮、日本、それに西の方の吐蕃(チベット)などの国から多くの留学生が来ていて、国際都市であった。西域とのシルクロードの交流も活発であった。
 長安の歴史は、唐以前に遡る。
 紀元前12世紀、殷を滅ぼした周の都、鎬京も、実は西安だった。春秋・戦国時代の鎬京から、秦の時代は咸陽と称し、漢の時代より長安となった。唐のあとも、長安は支配王朝によって名を様々に変えるが、明以降は今の西安である。
 僕が仲良しになった上海の場末の西安食堂の一家は、いにしえの長安から来たのだ。

 *

 「洛陽」は、古代中国の都の代名詞と言っていい。
 長安が日本では有名だが、春秋時代の中頃より、洛陽の都も長い。洛陽と長安(西安)は、古代中国の都の双璧、東西の横綱と言ってよい。
 洛陽は、長安(西安)と同じく黄河の上流に位置するが、長安よりやや東で海岸側に近い。歴史地図を見ると、春秋・戦国時代の中国のほぼ中心に位置する。
 紀元前8世紀、東周の時に鎬京(西安)より、洛邑と称したこの地に都が移された。その後、後漢、西晋、隋、後唐など各王朝の都となった。長安(西安)が、都になったときも副都となっている。
 芥川龍之介の「杜子春」は、中国の故事に倣った小説だ。その冒頭に、次のように書いてある。
 「或春の日暮です、唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。」
 芥川も、唐の都を洛陽としている。正確には長安である。中国の都と言えば、かくも洛陽か長安かで混同しやすい証左であろうが、芥川が間違うとは。中学生の時、「杜子春」は教科書で出てきた気がするが、どうだったか。
 現在はあまり使われなくなったが、「洛陽の紙価を高らしむ」という故事がある。このことは、西晋の文人である左思が書いた本が大いに売れて、晋の都洛陽の紙の値段が高騰したことを言う。つまり、大ベストセラーの時に使ったのである。
 う~ん、「かりそめの旅」の本が大いに売れて、東京の紙の値段が高騰したという話は、邯鄲の夢にもならないなぁ。失礼。

 *

 「開封」もまた古い都である。
 洛陽より黄河に沿って少し東、海岸側に位置する。
 春秋時代は、鄭の都で啓封と言った。戦国時代は、魏の都、大梁と称した。その後、北周の時代はベン(シ偏に下)州となり、宋(10~12世紀)の時代に東京開封府となった。
 宋は、東京開封府を中心に、北京大名府、南京応天府、西京河南府を置いている。
 やっと、東京が出てきた。東京という地名は、中国でもしばしば出現しているのだ。
 前漢の長安から、後漢になって洛陽に遷都されたとき、長安の東に当たるため洛陽は東京もしくは東都と呼ばれた。隋、唐の時代も、長安の都より東にあるため、洛陽は東京とも呼ばれた。
 また、宋の東京開封府は、開封となった現在でも雅号として東京と呼ぶ場合もあるそうだ。
 ちなみに、ベトナムの現在のハノイは、かつて東京(トンキン)と呼ばれていた。ベトナムも、漢字文化圏である。
 開封が正式に東京(トンキン)と称したら、日本の東京はあり得なかったに違いない。

 *

 「南京」は、揚子江の河口寄り、杭州の北西に位置する。
 南京は、アヘン戦争後の南京条約、辛亥革命時の臨時政府、第二次世界大戦時の南京大虐殺など、近代において歴史の表舞台に登場するが、紀元前の春秋時代に遡る古い都市である。
 戦国時代に呉を征服した楚が、この地を金陵とした。三国時代は、呉の健業となった。
 その後、様々に名を変えるが、明(14世紀)の時代に応天府と改め都になる。ところが、永楽帝の時順天府(北京)に遷都され、このとき南京と名を変えた。そして、現在に至っている。
 落花生、ピーナツを南京豆というのも面白い。南京が原産地というのではなく、中国から渡来したものの頭に日本で勝手に南京とつけたのと思われる。そのような意味では、南京袋や南京虫も同じだろう。
 岡晴夫が歌う「南京の花売り娘」という歌があった。1940(昭和15)年発売というから日中戦争中の歌だが、「純な瞳よ、南京娘…」と、内容は可愛い歌である。中国は魅力的なところですよという、意識高揚の国策意図があったのだろうか。

 地図を見るのは楽しいし、思わぬ発見がある。
 とりわけ、歴史地図を見ると、その町(都市)が時代によって名を変えるのを見るにつれ、町が時代に翻弄されたのが分かる。あるときは浮かれ、あるときは血塗られた、いにしえの消え去った物語の雫が地図の奥に滲んでいるようだ。
 支配王朝によって変わる街の名であるが、住んでいた人々はどんな思いだったのだろうか。
 長安や洛陽の門の下、晴れた夜の空には月が輝いていたことだろう。

  淡雲に流るる月にあくがれる
     唐人(からびと)もまた仰ぎ見しかな
           (12月2日、望月の夜に)

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