10月3日
三日前に、山に行ってきた。
いい山旅だった。
その山歩きについては、詳しくは、次回以降に書くとして、今回は、いつもの月曜日に書いておこうと思っていたことなど、いわゆる先週分の備忘録として、ここにあげておくことにする。
まずは、何としても書いておかなければならないこと、それは言うまでもない、あのW杯ラグビーの日本対アイルランド戦についてであり、その前にアイルランド対スコットランド戦を見たからでもあるのだが、W杯開催時の世界ランク1位の相手ではとてもかなわないだろうと、このブログにも書いていたのだが。
それも、おそらくは20点ぐらいの差がついて負けるだろうし、もしそれが10点差以内だったら大健闘ということになるのではないのかと。
それが、大方の意見、ラグビーを少しでもかじったことのある人間なら、だれでも感じただろう率直な思いだったのだろうが。
その日、私は、テレビ画面の前に一人座って、その熾烈(しれつ)な闘いを見続けたのだ。
私は、もちろん専門的な詳しい所までは分からないが、ラグビーボールをめぐっての個々働きと、チームとしてのまとまりがいかに重要なゲームであるかはよくわかっている。
それは、日本がスクラムで相手の強力フォワードに押し負けなかったこと、むしろ後半には押し勝っていて、モール(スクラムが崩れたり、あるいはボールの奪い合いなどで群れの押し合い状態になること)のまま、アイルランド側のモールがバラバラになって行くのを見て、まさに信じられない思いがした。
さらには、バックス(スクラム要員以外のパスラインを形作るメンバー)もフォワードと一緒になって、相手の攻撃ラインの防御につとめて、大きな相手に二人がかりの素晴らしいタックルを決めていったこと。
最初のうちこそ、これからのラグビーでの大きな流れになるかもしれない、あのキックパス(ラグビーではボールを前にトスしてはいけないけれどもキックでは前に蹴ってそれをキャッチすることができる)で、先制トライを奪われたけれども、その後はその出元になる所で、早めにタックルでつぶしていた。
その前半でも、日本側はペナルティーゴールを重ねて、アイルランドに僅差でつけていて、日本大健闘の戦いだったのだが、後半、一気に日本の爆発力につながっていったのだ。
ゴール近くきれいな日本側のラインができて、そこで後半加入のウィング(ラインを作る時の最終位置でトライにつなげたり、同時の相手攻撃の最終防御員でもある)福岡にパスが回って来て、福岡が快足を生かしてゴール内に飛び込んだ時、私は他に誰もいない部屋の中で手を叩き、テーブルを叩き、そして、不覚にも涙を流してしまった。
あの福岡に渡されたボールは、日本チーム全員の思いが込められたパスだったのだ。
この逆転トライの後、さらに終了前には、その福岡が相手のボールをインターセプト(横取り)して、ゴール手前まで独走した時、私は日本チームのこの歴史的な勝利を確信した。
素晴らしい、日本チームの試合だった。
試合後に主将リーチ・マイケルや他の選手たちが言っていたように、"あのつらい宮崎合宿に耐えてチーム一丸となって自信を持っていた”という言葉を聞いて、私たちしろうとがそれぞれに勝手に批評している間に、彼らは自分たちの目標に向かって、黙々とつらい訓練にも耐えていたのだ。
そうしたことも考えずに、誰もが一億総スポーツ評論家風になってあれこれ言っていて、そんな私たちこそが恥ずべきだったのだ。
ともかく、私たちはこの試合でまた、意志の力とその行動力に関して、あらためてかくのごとく教えられたのだ。
私は、大体の男たちがそうであるように、スポーツ競技を見ることもやることも(今ではほとんどしないが)好きなのだが、ここでもいつも書いているように、本当に好きなのは、誰とも争い競い合うこともない、あくまでも自分自身との闘いでしかない、山登り、単独登山であるが、それは他のスポーツとは別の、いわゆる山歩きという趣味の部分を多く含んでいるからなのかもしれない。
この度の、東北の山への山旅も、そうした年寄りにとっては、スポーツ的な過酷さと趣味道楽的な愉しみを相含んでいる、個人的な運動だったのだとあらためて思い知ったのだった。
人間の性向として、誰にでも、集団の一員として構成された中にあることの喜びと、その反面としての、団体構成員ではない、ひとりで行動する単独志向性の喜びを相持っているものなのかもしれない。
そこにおける行動と結果には、それぞれに長所と欠点があり、どちらが優れているとかいうべきものではなく、人それぞれの性質に応じて、その時その時に応じて相応えていけばいいのだろうが、私たちは今、平和な日本に住んでいて、個人個人にその選択ができるような良い時代に生まれ育ってきたのかもしれない。
さてもう一つ書きたかったことは、例のNHKの「ブラタモリ」からであるが、先週とその前の週との二回にわたって放送された”比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)”の話であり、平安時代初期の788年あの最澄(さいちょう)によって開かれ、その後最澄は唐にわたって天台宗の教義や密教、禅などの教えを学び帰って来て、天台宗の総本山としてのゆるぎない基礎を作ったのであるが、そうして延暦寺を創建して以来、ここで修業した僧たちが、例えば親鸞(しんらん)や日蓮などによって、それぞれに浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、などの新たな宗派を産み出していき、いわば日本の母なるお寺の意味合いを深くしていったのだが、今回の「ブラタモリ」では、その成立条件としての、地理的、地形的条件から、修行地としての適格性や信長との抗争に見られるような歴史的経過、そして1200年に長きにわたって続けられてきた修業がいまだに、”十二年籠山行”や”千日回峰行”という形で続けられており、今でもここでは100名以上の僧侶が修行しているとのことだが、そうしたことはあくまでも表面的な解説にすぎないのだろうが、私たち一般の人間が延暦寺を知るには十分であった。
しばらく前にあった同番組での、同じ平安時代の816年に空海(弘法大師)によって開かれた、和歌山県高野山にある、高野山真言宗総本山金剛峯寺(つまりは高野山)での話も興味深いものだったのだが、古代日本に出現した日本仏教の二つの山岳宗教都市の出現に、私はむしろ、その当時に生きた人々の様々な心の葛藤(かっとう)の様を、思い起こしてしまうのだが。
さて今回の”比叡山”特集での、最後には、その比叡山の山中で、12年に及ぶ下界との交際を絶って、山にこもって修行してきた”十二年籠山行”を終えた人の話を聞くことになっていて、そうした修業を終えた僧たちが、ふもとの坂本の町に降りて来てそこで隠居生活を送っているということだが、その一人の高僧が言うには、修行はここでもまだ続いていて、”確かに山中に比べて、下界、俗世間には便利なことが多くて良いのだろうけれども、あまりにも多くの誘惑に満ちていて、便利なことの裏側にはまた煩雑(はんざつ)なことが多くて、それは新たな別の悩みを産み出しているのではないのか”ということだった。
都会から離れること、山の中でひとりで暮らすこと、スマホを持たないこと、原則として電話には出ないこと・・・。
ささやかな、私の抗(あらが)い、なのですが・・・。
(上の写真は、行きの霞ケ浦上空と、下の写真は帰りの時の関東平野上空からの富士山の写真。現代の利器を最大に利用して時間を買い、大気中にNO2を大量にまき散らして飛ぶ、飛行機に乗っているという矛盾。)