ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

紅葉の残り香

2019-10-22 21:08:05 | Weblog




 10月22日

 前回、前々回と2回にわたって、東北の焼石岳の紅葉について書いてきたのだが、今回書くのは、山のことではなくて、ただ事の始まりはそのころなのだろうと思っているのだが、めったなことでは風邪をひかない私なのに、久しぶりに風邪をひいてしまったのだ。

 それは”年寄りに冷や水”の例えのごとく、実に1か月半ぶりに山に行き、往復8時間にも及ぶ登山という激しい運動をして、体力を消耗させていたからなのか、まず喉にきて、次に頭にきて、最後に腹にきた。
 風邪をひくと、その人の常日頃から弱い部分が、まずやられるというが、確かにあまり人と話す機会も少ない私は、例えば、明石家さんまや上沼恵美子のように、しゃべくりまくって無意識にでも喉を鍛えているわけではいないから、時々誤飲でせき込むこともあるくらいに喉は弱いし、この歳になっていまだに、こんな山の中で貧しく暮らしているわけだから、頭も決していいとは言えないし、三食まともな食事をしていないから胃袋の方も丈夫だとは言えず、”腹に一物、背中に荷物”というぐらいに、他人から見れば、何を考えているかわからないタヌキおやじだから、まあ”風邪をひくと、そうした私の弱点がすべてさらけ出される感じになるのだろう。

 それでも、何とか風邪の症状を軽減したいからと、風邪薬を飲んだのだが、次の日の朝から、風邪の症状は治まってきたのだが、何と出るものが一滴も出なくなってしまったのだ。
 15分おきぐらいにくる、出したくても出すことができない苦痛をまぎらすために、ただ家の中を歩き回るばかりで。
 そして、これはもう無理だと、救急車を呼ぶには大げさすぎるし、まだ診療時間前の病院に行くことにするが、さらには、あいにくその日は日曜日で、休日受付の病院を探しては、1時間ほどかかる病院へと自分のクルマで出かけたのだが、途中で街中の店舗のトイレに3回も寄って、それでも出なくて、あぶら汗を浮かべながら、やっとのことで指定病院にたどり着いたのだ。

 そして、しかるべき処置をしてもらい、溜まっていたものを解放・・・あの洗剤のコマーシャルのように、さわやかな風が体内を吹き抜けていくようで。
 私の病院嫌いは、母から受け継いだのだろうが、めったなことでは病院の御世話になることはなくて、もちろん外科的な外傷などの原因で治療を受けたことは何度もあるのだが、いわゆる内科の病気などでの、治療入院などの記憶がほとんどないくらいなのだ。
 しかし、今回はこうして、たまらずに駆け込んだ病院で見事に処置してもらい、病気を治してもらうありがたさを強く実感したのだ。
 そこで言えるのは、家でうじうじと痛みに耐えているよりは、ともかくすぐに病院に行って治してもらった方がいい、という単純な結論なのだが、私はそれまで、病院に行けば、いつもやっかいな病気を背負い込むような気がしていたのだ。
 もちろん、こうした年寄りが増えるから、老人の治療費がかさむことになり、国や自治体の負担が増えて、ひいては若い人たちの負担割合も増えることになるのだが。

 しかし、今回のことですべてが万事解決したわけではない。
 これからも、治療薬を飲んだりして、この老人病とは長く付き合っていかなければならない。
 つまり、これは、生きとし生ける者たちすべてに訪れる、それぞれの人生の終末を告げるラッパの響き、あの7人の御使いたちが吹くラッパの音、最初の始まりとして吹き鳴らされる、第一の御使いの吹くラッパの響きだったのかもしれないのだ。

” 小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。
それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
・・・。
そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。
 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった音と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
・・・。”

(『新約聖書』「ヨハネの黙示録」第8章より)

 しかし、こうした病気や終末の始まりの話をしていたところで、時の移ろいと限りある時のありがたさを知ることはできても、新しい展望への道が開かれるわけではない。
 大切なことは、生きている自分へ、今ある生の充実を図ることだ。

” 遊びをせむとや生まれけむ
 戯(たわぶ)れせむとや生まれけむ
 遊ぶ子供の声聞けば
 我が身さえこそゆるがるれ ”

(『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』四句神歌より 日本の古典 小学館)

” いのち短し恋せよ乙女
 赤き唇あせぬ間に
 熱き血潮の消えぬ間に
 明日の月日はないものを ”

(「ゴンドラの唄」吉井勇作詞 中山晋平作曲 松井須磨子歌)

 誰でも、子供には子供の間の大切な時間があり、乙女には乙女の間の大切な時間があり、大人には大人の、そして年寄りには年寄りの大切な時間があるものだ。
 それぞれに、求めるものは幸せな時間であり、そこに楽しいことがあり、心地よいと感じるものがあり、その中にいることこそが、人が本能的に求めるものなのだろう。
 このことは、前にも何度も取り上げてきた、あの古代ギリシアのエピクロス学派の、いわゆる快楽主義的な主張をそのままに繰り返しているわけではなく、人間の性分の一つとして、そういう性向があり、それは、自らのセラピー(いやし)となるものを求めようとする、人間の本能の一つなのかもしれない。

 この思いがけない出来事で、一時は慌てふためいたものの、考えてみれば、これは、年相応の自分の体の経年変化の症状の一つであり、それを受け容れることで、残された時のありがたさを強く感じることもできるのだ。
 去年は、事情があって早くこの北海道を離れることになり、わが家の林の紅葉を見ることができなかったが、今、林は黄色く色づき始め、赤い色も混じり始めてきた。
 思い返すのは、あの焼石岳の、豪奢(ごうしゃ)な錦の織物の広がりだ。
 二回にわたって、ここに載せてきた写真だけではとうてい足りない、あの錦の饗宴(きょうえん)・・・。

 そこで今回は、望遠レンズで切り取った写真を、3点ほどあげて、再び自らの愉しみにすることにした。
 それはつまり、写した本人だけが知る、その写真の前後左右に広がっていた光景として、思い返すことができるからだ。それも、その時々に撮ってきた写真があるからこそ、なのだ。

 じいさんは好奇の眼(まなこ)を一杯に見開き、右に左に、上に下に、遠く近く眺めまわしては、ニヒニヒと薄笑いを浮かべながら楽しむのでした・・・。

(冒頭の写真は、焼石岳山頂下から見た泉水沼。下の写真は、横岳西斜面の紅葉。その下の写真は、焼石岳と西焼石岳との間に挟まれた西焼石平とでも呼びたい所だが、沢登りで行く以外道がない。)






 この3回は、とうとう焼石岳の紅葉の写真ばかりになってしまった。
 確かに、それほどまでに、山の紅葉が印象的だったからではあるのだが、書くべきことは他にもいろいろとあったのだ。
 例えば、いまだに台風19号による水害の被害が増え続けていること、その時何があったのかという話の一つ・・・家が水につかり始め、さらに水かさが増していく中、足が不自由で水の中で動けないお父さんが、差し伸べられていた妻への手をゆるめて、”長い間世話になったな”と言い残して、水の中に沈んでいったという・・・。

 W杯ラグビー、日本対スコットランド、ぎりぎりのオフロード・パスをつなげて、何とそれを受けたフォワード・プロップ(フォワード最前列)の稲垣がトライしたこと、"one team"の見事な形だった。
 さらに、日本対南アフリカで、敵方のスクラム・ハーフのデクラークの、ひときわ目を引く俊敏な動きと日本勢の出足をくじくタックル、2mを超す大男たちがいる中で、わずか172㎝しかない体なのに・・・ここにもまた”one team"としての適材適所の形があったのだ。

 今日、令和天皇の即位礼の模様が映像で流され、平安時代からの伝統的な衣装と衣冠や髪型に見とれてしまった。それは、私の好きな日本古典文学の、時代背景をほうふつとさせるものだったからだ。

 家の林の中はすっかり、黄葉が進んでいて、そこに赤いサシが入っている紅葉も混じってきた。
 今年はなんとしても、去年は見ることができなかった、あの青空に照り映える赤い色を見たいものだ。

 そして、日高山脈はシルエットになって、茜(あかね)色の大空の中へと暮れなずんでいき、北国の秋は、その盛りの時を迎えようとしていた。






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