9月2日
”ハマナスの花が咲いたよ。
赤い赤い花だよ。
ハマナスの花は匂うよ。
あまいあまい香りだよ。
ハマナスの実がなったよ。
赤い赤い実だよ。
ハマナスのトゲは多いよ。
痛い痛いトゲだよ。"
(元詩は「からたちの花」北原白秋作詞 山田耕筰作曲)
6月のころにも書いていたハマナスの花が、まだ咲いている。(写真上)
そして、そのハマナスの実が、あちこちにいっぱいなっている。(写真下)
ずいぶん前のことになるが、このハマナスの実を集めて、ハマナスのジャムを作っていたことがある。
果実系の実の中では、ビタミンCの含有率が一番だとかいうので、ジャムにしたのだが、問題はその手間暇のかかる作り方にあるのだ。
ともかく種の数が多く、それを取り出すのに一苦労するから、ジャムにする前の下処理の段階で、多くの時間がかかってしまうのだ。
その上に、他の寒冷地系の灌木果実、例えばコケモモ、ガンコウラン、クロマメノキ、コクワ、ヤマブドウ、ヤマモモなどと比べても、このハマナスの実はどうしてもジャムにした味覚が今一つで、数年間作っただけで、すぐにそのジャムづくりはやめてしまった。
というか、もう10年ほど前から、これらのジャムづくりのほとんどは止めてしまったのだ。
今では、九州の家の庭にあるウメのジャムづくりだけなのだが、それも2,3年前からウメの実が少なくなり、今年はついに10個足らずになってしまい、そのウメジャムも作れなくなってしまったのだ。
若いころには、毎年数種類のジャムを作り、果実の”ジャムセッション”(ジャズ音楽において他のグループとの即興的なかけ合い演奏)だと、ひとり悦(えつ)に入っていたというのに、ああ今ではすっかり、”ぐうたらなじじい”に成り下がってしまって。
さらに言えば、この二日は、それまでの長い曇りや雨のうっとうしい天気から、青空が再び広がってきてくれたことはうれしいけれど、また夏の終わりの暑い日が戻ってきて、最高気温は25度近くまで上がり、またTシャツ一枚の服装に戻ってしまった。
一気に、秋のさわやかな日々になってくれるというわけにはいかないようだ。
そうした中でも、退屈することはない。私は自分の記憶を呼び覚まし、若いころの思い出にふけり、子供のころの”エリザベートの物語を織った”のだ。
” ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のように 音を立てて
樹木の梢(こずえ)に 家々の屋根に 降りしきった
(中略)
・・・また幾夜さかは 果たして夢に
その夜習ったエリーザベトの物語を織った
(中略)
私の夢は どこにめぐるのであらう
ひそかに しかしいたいたしく
その日もあの日も 賢いしずかさにて
(後略)
(立原道造『萱草に寄す』より「はじめてのものに」抜粋 手元に本がないためネット上のwikipediaより)
子供のころの思い出だが、親戚のお姉さんが、家の陰でひそかに島倉千代子の「からたち日記」を歌っていた。
” こころで好きと叫んでも
口では言えず ただあの人と
・・・
小径(こみち)に白い ほのかな
からたちからたち からたちの花”
(「からたち日記」西沢爽作詞 遠藤実作曲 島倉千代子歌 1958年)
かすかに流れ来るその歌声に、少年の私の心はときめを覚えたものだった。
その島倉千代子(1938~2013)の歌声が最も輝いていたのは、世間一般に知られているような、後年の「人生いろいろ」のころにあるのではなく、若いころの「この世の花」や「りんどう峠」(同じ1955年)、そしてこの「からたち日記」のころにあったのだと思う。
日本の歌手の中で、最高の女性歌手が美空ひばり(1937~1989)であることに、疑いはないけれども、声の美しさ清らかな声色から言えば、この島倉千代子に由紀さおり(1948~,「夜明けのスキャット」’69)、そして岩崎宏美(1958~,「ロマンス」’75)の3人だと思うのだが、調べてみて初めて気がついたのは、この3人が生まれたのは、期せずして10年ごとになっているということだ。美空ひばりは別格として、3人は十年に一人の歌手ということなのか。
そこで、もう一人あげたかったのは、薬師丸ひろ子であるが、実は二三日前、三陸鉄道全線開通の小さな駅の式典で、そこでの地元民だけのコンサートに彼女が招かれていて、あのNHK朝ドラ「あまちゃん」の主題歌を歌っていたのだが、そのきれいななめらかな歌声を聞いて、今も変わらない彼女の声に涙ぐんでしまったのだが。
何といっても、彼女があの映画『セーラー服と機関銃』の主題歌「夢の途中」を歌った頃は素晴らしかった。
今でもyoutubeで、高校生くらいの彼女が、当時の名物歌番組「夜のヒットスタジオ」で歌っているのを見ることができる。
残念なのは、彼女が若いころには、俳優の仕事もあり大学にも通っていて、あまり歌手として専念できなかったことだ。
もし、彼女が当時、もっと良いタイミングで音楽プロデュースされて、歌に専念できていたらと思わずにはいられない。それほどの歌声の持ち主だったのだ。
今にして思えば、当時は、あまりにも角川映画女優の肩書が強過ぎたような気がするのだが。
彼女は、一度結婚してすぐに離婚し、今年でもう50歳にもなるというのだが。
同じく結婚しては離婚して、さらに莫大な借金の肩代わりをして、それでも歌一筋に生きてきた、あの島倉千代子の人生をも思ってしまう。
そうした波乱万丈の人生でもなく、ただ名もなく、貧しく、好き勝手なことをして、ぐうたらなまま一生を送ってきた私は、案外幸せなのかもしれないと思ったりもするのだが。
まあ、本人がそう思い込んでいればいいだけの話で。
それでいいのだ。