6月25日
昨日一昨日と、強い西風が吹き荒れていた。
それは天空から吹きつけてくるような、台風の時のような不気味なゴーっという音ではなく、木々を揺さぶるようなザーっというような音だったのだけれども。
一日中、その風の音が聞こえていた。
しかし天気は良くて、気温も25℃を超えるほどに上がっていて、明らかに今までとは違う、夏の空気に満ちていた。
その数日前までは、ストーヴで薪(まき)を燃やしていたのに、こうして北海道では、ある日突然、夏が顔を出すのだのだ。
今月初めにも、一度その兆候を知らせるような暑い日があって、その後再びストーヴの暖房を使う羽目になったのだが、その時は、さすがに今回はもうこれでストーヴは終わりだろうと思っていた。
その後の、昨日からの風は、これからは夏の日が続くだろうという、そのお告げの風になのかもしれないと思っていたのだが、今朝の気温はまた一ケタに戻っていた、ストーヴの火はつけなかったものの。
どうしてどうして、北海道の夏は一筋縄ではいかないのだ。
とはいっても、庭では、ハマナスの花が咲き始めた。(写真上)
実は、このハマナスの花は、今月初めの最初の暑さが来た時に、花びらを開き始めていたのだが、一日で十数度も下がるような極端な気温の低下についていけずに、まだ完全に開かないうちに、しわくちゃになってしぼんでしまったのだ。
その時の寒さの名残りは、写真に見るように、新芽の葉の先が茶色く枯れていることからもわかるだおう。
前にも書いたことがあるが、いつも6月になると、裏の林ではエゾハルゼミたちがいっせいに大音量をあげて鳴くのだが、ある年に時機を逸したのか、雨や曇り空の続くまだ肌寒い時に、土の中から孵(かえ)って成虫のセミになり、一匹だけで鳴いていたのを見たことがあるが、それは前回、アン・マレーの歌に寄せて書いたことと同じで、もし忠告できれば、何事にも”時節を待って”ということが必要であり、物事には適切な時期があることなのだろうが。
それでも、いくら待ってもその時にめぐり会えなかったり、あるいはその時はもうとっくに通り過ぎていたのに、そのことにさえ気がつかなかったということは、実はよくある話であり、かくいう私もその一人であることはいうまでもないのだが・・・。
ただ、そんな不運な一人に自分がなったとしても、それを運命のせいにはせずに、ましては自分のせいにもしないことだ。
それは、もう通り過ぎてしまった昔のことでしかないのに、今さら悔やんでどうなるというのだ。
むしろ、自分にとって大切なのは、そんな遠い過去の反省などをすることではなく、今ある自分のことについて、老い先短いとはいえ、これからさらに歩いていく自分のことを考えるべきなのだ。
前にも書いたように、井戸水が干上がったままで、日常用水の使用にも困っているくらいで、ましてや、家の外の五右衛門風呂(ごえもんぶろ)を沸かして入ることなどできはしないから、周りにある街中の銭湯や温泉施設に行くことになるのだが、最近その駐車場に、内地ナンバーのキャンピング・カーやワゴン車を見ることが多くなってきた。
時には、その駐車場の半分くらいになることもあるくらいだ。
そして、その車のドライバーはというと、ほとんどが白髪まじりの、私と同世代の人たちばかりなのだ。
さらには、ご夫婦一緒にという場合も少なくはない。
リタイア(定年)後に、今までの自分の道のりを振り返り、そして前を向いては、新たな自分の道を進むべき覚悟を決めるには、確かに地平線の彼方にまで続く北海道の道は、そうした人たちにとっては、最適な旅の道になるのかもしれない。
アメリカのカントリー・フォーク歌手、ジョン・デンバーの歌うあの「カントリー・ロード」の歌声が、聞こえてきそうである。
” country road
take me home
to the place
I belong・・・"
”あの田舎の道よ
僕をふるさとに連れて行ってくれ
僕がいたあの場所に”
(そういえば、前回少し取り上げた、大阪地震でのブロック塀倒壊の被害者になったあの少女は、この歌が好きだったということで、告別式の模様を写したテレビ・ニュースでは、小さく「カントリー・ロード」の歌が流れていたが、生きていれば、その”カントリー・ロード”が続く北海道にも、さらには、その歌で歌われていた、アメリカは西ヴァージニアのカントリー・ロードにも、行くことができただろうに・・・。)
ともかく、そうした彼らのクルマ旅の途中に、各市町村ごとにある入浴施設に立ち寄っては、そこで出会って、互いに旅の情報を持ち寄り、話し合うことで、同年配同士の”旅は道づれ世は情け”の旅情も深まることになるだろう。
私も東京の会社を辞める前後には、周遊券を使っての鉄道の旅や、バイクのツーリング旅行で何度も北海道を回り、ユースホステルや若者宿に泊まっては、忙しい会社勤めで忘れていた、青春時代を取り戻したような気分になったものだ。
”類は友を呼ぶ”の例え通りに、そうした彼らが風呂の湯船に座って旅の情報を交し合っているのを聞いては、私もまた昔のことを思い出してしまったのだ。
ところで、昨日のことだが、相変わらず井戸水が使えなくて水に苦労していることは、今まで書いてきたとおりだが、台所での洗いものが終わった後で、まだ使うつもりでいたその貴重な汚れ水を床にこぼして、雑巾(ぞうきん)タオルで拭(ふ)いた後、それを乾かそうと、家の外に出して干しておいたのだが。
しばらくたって、また家の外に出て、どこでもトイレ方式の庭の端で用をすませて、ふとあのタオルの方を見ると、なんとそこにチョウが群がりとまっていたのだ。(写真下)
今まで、山の中の林道などの水たまりで、吸引しているチョウの群れを見たことはあるが、こうして風に揺れる生乾きのタオルに、チョウが群がってとまっているのを見たのは初めてだった。
このチョウは、ヤマキマダラヒカゲといって全国的に普通に見られて、別に珍しいチョウではないのだが、この時は同じ向きで並んでいる姿が面白く、”類は友を呼ぶ”のことわざを思い起こさせて、思わず写真に撮ってしまったのだ。
この後も強い風が吹きつけて、大きくタオルが揺れていたのだが、そんな中でも十数匹がとまっていた時もあったほどで、もっともその時は、お互いの向きはばらばらだったのだが。
さらに言えば、このヤマキマダラヒカゲ(写真下、家の丸太壁にとまっていた。)は寒さに強い方なのだが、さすがに北海道では越冬できないらしくて、春になって私が戻って来て、小屋の戸を開けて見ると、その裏側にとまったまま死んでいるヤマキマダラヒカゲや前回あげたクロヒカゲなどが何匹もいたのだが、なかにはなんとクジャクチョウやエルタテハのように、越冬して生き延びていたチョウもいて、その生命力の強さには驚かされてしまう。
この写真にあるように、何事も前者に倣(なら)うということは、それが安全な場所であったという、良い選択の結果になればいいのだが、もし誤っていることに従っていたことになれば、最悪の場合、自らの生命さえも失うことになりかねないのだ。
それは、人間を含むすべての生き物たちにとってもいえることであり、誰でもがいつも大多数の方を選んでしまうということは、生きる性(さが)として易(やす)き生き方へと流れるという本能なのかもしれない。
しかし、そのことは一方で、いつも大多数になってしまうがゆえに、目立ちやすいという危険さを招くいうことにもなるのだが。
”手本ほど伝染しやすいものはなく、われわれが大きな善や大きな悪を為せば、それらは必然的に同じような行為を産み出さずにはおかない。
われわれは善行を見ると競争心をおこして模倣し、また悪行を見ると、それまで廉恥心(れんちしん)に押さえこまれていたわれわれの本然の悪心が、手本によって解放されて、それを模倣するのである。”
(「ラ・ロシュフコー箴言集」二宮フサ訳 岩波文庫)
とかく、二律背反(にりつはいはん)する物事の場合の選択は難しいものだ。
そこで、あの夏目漱石の『草枕』冒頭部分の言葉が、思い浮かんでくる。
”山路(やまみち)を登りながらこう考えてみた。
智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。
兎に角(とにかく)に人の世は住みにくい。”
(『草枕』夏目漱石 新潮文庫)
思えば、そうした人の世のむつかしさから、しばし離れるために、私は山登りを始めたのかもしれない。
そして、この歳になるまで山に登り続けているということは、自分の前にある多くの問題が何ら解決されないまま、いたずらに歳を重ねてきては、今あるじじいの姿になってしまったということなのだろう。
ただそれは、数多くの幸運と偶然が、私をここまで生かしてくれたのであり、それによって老いさらばえながらも、今日まで生き延びることがことができたのだ・・・。
月を背に、岩頭に立ち、雄々しく遠吠えをする勢いのある若い狼ではないけれども、こうした森の中の粗末な家の中にいても、時にはその老躯(ろうく)を引っさげて外に出て、山に向かっては、ひとり吠え続ける狼でありたいものだ・・・。