ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

裏側から見た山

2018-03-12 21:02:38 | Weblog




 3月12日

 二日間、快晴の天気が続いた後、さすがに今日は薄雲が広がって、薄日が差すだけの天気になってしまった。
 しかし、明日の天気予報でも晴れのマークがついているし、こういう時こそ、残雪の縦走山歩きには最適なのだが。
 三日前に、雨まじりの風が吹き荒れた後に小雪が舞い、うっすらと雪が積もるほどったのだが、次の日の朝には、一転、快晴の空が広がっていた。
 その日は、まさに最後の雪山を楽しむには、絶好の登山日和(とざんびより)だったのに・・・私は、山に行くことができなかった。
 というのも、その日は他に、どうしても出かけなければならない用事があったからだ。

 そこで、”転んでもただでは起きない”、石ころの一つでも手に握って起き上がるようにしている私は、考えて、山の中を通って行く何本かの道の中から、まず由布院に行ってその町の北側の高原地帯にある集落、塚原を通って行く、いわゆる”塚原越え”の道を選ぶことにした。
 いつも正面登山口から登り、その南側から見ることの多い由布岳(’17.11.1の項参照)を、いつもと違う裏側の道を通って行けば、あまり見ることのない、由布岳の西面と北面の姿を間近に見ることができるからである。

 由布岳(1583m)は、確かに九州の名山である、というよりは”日本百名山”の中に含まれていても何の遜色(そんしょく)もないほどの、有名な山であり、歴史的に見ても、奈良時代の『古事記』や『風土記』にもその名が出てくるほどあり、さらには、なんといってもその個性的な双耳峰(そうじほう)の姿と、なおかつ風格のある山容が素晴らしいのだ。
 今でこそ、山麓の盆地にある由布院は、行きたい温泉地の1位に選ばれるほどの人気だが、もし背後にそびえる由布岳の姿がなかったら、その魅力は半減してしまうことだろう。

 私が九州で登っている山で、その回数が圧倒的に多いのは、九重の山々だが、それに次いで多いのは由布岳である。 
 暑い真夏に登ったことはないのだが、その他の季節ごとに登っていて、その中でも、冬の時期が一番多いのは、霧氷を楽しめるだけでなく、雪のお鉢一周の岩稜歩きで、ささやかなアルペン岩稜気分を味わえるからだ。
 しかし、その冬のお鉢一周も、年を取ってからはもう長い間行っていないし、今年の雪山の締めくくりとしてその由布岳にでも行こうかと思っていたのに、その最適のタイミングを逃してしまうことになったのだ。
 一日先に延ばせば、この晴れた天気で九州の山だから、雪はほとんどが消えてしまうだろうし、残念なことだ。 
 そこで、せめても雪の由布岳の姿を見て楽しもうと思って、たまにしか通らない塚原越えの道を選んだのだ。

 そして、この塚原高原からの、青空の下の由布岳の姿は素晴らしかった。(写真上)
 まるで、数年前に行った、あの大山(だいせん、1729m)の姿をほうふつとさせるものだった。(’13.3.12~17の項参照)
 もちろん、大山とは高さも違い、そのスケール感にもとうてい及ばないけれども、青空の下の火山独立峰の雪山の姿としては、どこか似通ったところがあると思った。
 写真中央部に見える”大崩れ”と呼ばれる浸食崩壊の沢は(その下部ではいくつもの砂防ダムが作られているが)、今後地質学的な長い時間を経ていけば、さらに上流部の開析が進んで、あの大山北壁のような壮絶な崩壊面が姿を見せるようになるのかもしれないのだ。
 その何万年という数字は、まさに私たち人類の生存の、はるか彼方にあるのだろうが、こうして地球上のあちこちにある、造山運動や火山噴出や浸食作用などの、地形変化の過程の途中にある風景を、自分たちへの被害の及ばない限りで見て行けば、いろいろと地球の歴史について想像し思いをはせることができるのだ。(だから地形地質の話が出てくるあのNHKの『ブラタモリ』は面白いのだ。)

 さて、離れた町で用事をすませて、帰りにもう一度あの雪の山々の眺めを見たくて、同じ道を戻ることにした。
 もう昼に近かったが、まだ快晴の空は続いていて、枯草色の塚原高原の彼方には、由布岳と相対するように、鶴見岳火山群の山々が並んでいた。行きには逆光気味だったのだが、今ではその霧氷に覆われた山肌が、上からの光を浴びて、白い毛におおわれた生き物のように見えていた。(写真下)




 この山なみは、登山者たちからはあまり注目を浴びてはいないが、それだけに、秋の紅葉時期も静かな山として楽しめるし('17.11.10の項参照 ) 、こうした冬の時期に、霧氷に覆われた山の姿として見てもま、またいい山域だと思う。
 もっとも、そうした山としての魅力に気づくのも、すべては、背景に青空があるからなのだが。
 ただ残念なことに、2年前の地震によって、鶴見岳(1375m)、鞍ヶ戸(1344m)、内山(1275m)、伽藍岳(がらんだけ1045m、=硫黄山)を結ぶ稜線のあちこちで、山体崩壊が起きていて、昔のように縦走することはできなくなっている。 
 こうして北西側から見れば、穏やかな山体の火山群に見えるのだが、反対側に広がる別府市街地から見ると、ぐるりと取り囲んだこの鶴見山群の東面は、いまだに浸食開析されていて、その険しい稜線の姿から、”鶴見アルプス”と呼ばれているほどである。 
 さらにあちこちでクルマを停めて、この鶴見山群と由布岳の姿を楽しみ、塚原越えの道を下りて行く、その途中からの、霧氷に覆われた由布岳西面の姿が素晴らしくて、ここでもクルマを停めて写真を撮った。(写真下)



 ところで、この私と同じように、先ほどから私と相前後して、クルマを停めては写真を撮っている人がいて、お互いに目が合って一声二声とあいさつをかわした。
 こうして山に登らなくても、きれいな山の姿に出会うと、どうしても写真に撮りたくなる人がいるものなのだ。
 山に登りながら、その写真を撮っていくのは、当然山が好きだからなのだが、こうして山に登るのではなく、クルマで走っていても、途中でクルマを停めてまでしても山の写真を撮りたくなるのは、やはり美しい風景を見るのが好きなのだろうし、山が好きだということなのかもしれない。

 そのことと併せて思い出したのだが、あるテレビ番組を見ていて、司会者の芸人が、タレントの女の子に、男の子にきれいな海の見える所とか、夕焼け空の見える所に連れて行ってもらったらどう思う、と尋ねて、その子は、面白く答えたつもりで、笑顔で”別に、何とも思わない”と答えていたが。 
 それが、”つっこみ”に対する”ボケ”の答えだったとしても、本心のところ、都会の女の子としては、おいしい食べ物やファッションのお店などと比べれば、自然の風景などには、あまり関心がないのかもしれない。
 そういうことなのだと思う、世の中は。 
 ある人にとっては非常に興味のある事でも、別な人にとっては全くの関心外のことだったりして、それらの関心の大小だけで、世の中のつながりが幾通りにもできあがっていくものなのかもしれない。

 ある人が美しいと思うものでも、ある人にとってはさほど美しいものではないのかもしれないし、そこで単純な例をあげれば、美男美女の基準は、大方の所で一致するものなのかもしれないが、仔細に調べれば、そこには様々な異なった見方があり、好き嫌いがあり、さらには、お互いに相いれないほどの差があったりもするのだ。
 ”蓼(たで)食う虫も好き好き”の例えのように、他の虫たちが見向きもしない、にがくすっぱい蓼の葉が好きな虫もいるのだから。
 なんでも”十把(じゅっぱ)ひとからげ”にして、物事はひとまとめにはできないということだ。

 最近ニュースで、”独り暮らしの孤独死”について、ある大学の研究班が、様々な統計からこういうことにもっと注意すべきだと勧告していたのが、今までにも似たような警告が毎年のように出されていて、またかと思うほどだが、考えてみれば、いまだその状況に身を置いたことのない若い人たちが、統計上の推論だけですべてこうあるべきだと結論づけていいものだろうかと思う、たかだか十数パーセントの割合で上下する結果など、様々な人の様々な人生の今からすれば、たいして変わらない誤差でしかないのかもしれないし、ほとんどの人々は、それぞれの状況の中で、それぞれの形で現在を受け入れているのだから。

「少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰(もら)いたい。」

(『虫も樹も』尾崎一雄 講談社文芸文庫)

 こうして、その日は日ごろあまり通ることのない道を通って山の眺めを楽しみ、家に戻ってきたのだが、翌日ネットで調べてみると、昨日の登山報告が幾つもあって、この冬一番かと思われるほどの澄み切った青空の下で、九重の雪山写真が何枚も載せられていて、そこには百数十キロ余りも離れた、あの霧島は新燃岳の噴煙を写したものさえあったのだ。 
 その日の、九重の霧氷樹氷などはあらかた午前中に落ちてしまい、帰りの道はぬかるみになっていたというけれども、早朝の白雪に覆われた山々と、遠くの山々の展望を思うと、私自身でさえ、やはり内心、忸怩(じくじ)たる思いにならざるをえなかった。 
 その代わりに、めったに見ることのない由布岳北面の姿を見せてもらえたのだし、希少価値から言えばこのほうがよほど価値ある見ものであり、雪の九重の写真はもうおびただしいほどあるのだからと、負け惜しみを自分に言い聞かせたのだった。

「・・・自由な行動のなかでこそ、人は幸福なのだ。自分にあたえる規律によってこそ、人は幸福なのだ。
 ・・・幸福とは、報酬を求めなかった人々のところへくる報酬なのだ。」

(『幸福論』アラン  白井健三郎訳 集英社文庫)