ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

春の息吹き

2018-03-05 21:03:26 | Weblog




 3月5日

 昨日、晴れた朝、庭に梅の花の香りが漂ってきて、目をやると、ウスラウメの花が咲いていた。(写真上)
 早い時には、2月の初めには咲くのだが、今年はその時期に、繰り返し寒波が押し寄せていたから、気温の上がり下がりに敏感な花芽たちは、確かな春の息吹きを感じられる今になって、ようやく花開かせたのだろう。
 家の庭には、もう一つウメの木があって、そこには毎年、私にとっては大切なジャムの原料となる、あの大きなブンゴウメの実がなるのだが、花が咲くのはまだ先のことだ。 
 もちろん、このユスラウメにも実がなるのだが、いつもその時期には北海道にいることが多くて、あまりこのユスラウメの実の記憶はがないくらいなのだが、確か一度、サクランボのような小さい実がなっているのを見たことがあったが、木が小さいうえにその実の数も少なく、とてもジャムの材料として使えるほどではなかった。

 昨日は、春本番を思わせるほどに気温が上がって、風も収まってきて、穏やかな春の一日になっていた。 
 この九州では、25度を超える夏日になったところもあったそうだが、山の中のわが家でも20度近くまで気温が上がり、午前中に洗濯したものが、午後にはもうからからに乾いていた。
 ただし、なるべく外を歩き回らないようにしていたのだが、それは実は、去年あたりからこのじじいの私にさえ、あの花粉症らしき症状がはっきりと出始めていて、今さらながらのにわか対策で、なるべく外には出ないようにして、洗濯物などは良くはたいてしまいこむようにはしているのだが。

 私たちの年代の人間は、その昔の子供時代、今にして思えば、きわめて非衛生的な日常を送っていたのだ。
 地面に落とした食べ物は一ぬぐいしただけで口に入れ、外で遊んでいて大きいほうをしたくなったらそのあたりの草むらですませて、草の葉っぱでお尻を拭いて、ほとんど手を洗うこともなく、腹をこわせば正露丸一粒飲まされてなおっていたし、大体が風邪などひいて熱が出て寝込むことになると、それまで怒鳴り散らしていた母親が急に猫なで声になり、桃の缶詰などを食べさせてくれたから、むしろ病気になるのはうれしくさえもあったぐらいだ。
 そして、数日に一度、親に連れられて銭湯に行き、小学生のころまでは、仕切り壁の所につけられたくぐり戸を開けて、自由に男湯と女湯の間を行き来して、男湯のいかにも武骨な眺めと比べれば、女湯の全体的に柔らかい光景を、子供心にも楽しんでいたのだが、後年”ああ、あれが天国の日々だったのだ”と気づくのだ。
 
 この子供時代から、若き日の東京での下宿時代に至るまで、幾たび銭湯の浴槽に浸かったことだろうか。
 昔、確か『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』というベストセラーになった本があったと思うが(読んではいないが)、その見事なキャッチコピーのようなタイトルに名前を借りるわけではないけれども、私も言わせてもらえるならば、”人生で大事なことはすべて風呂屋で学んだ”といっても過言ではないくらいであり、周りの大人たちから、様々な人生の機微(きび)を教えてもらったような気がする。
 風呂に入る際の最低限の礼儀マナーから、周りの人への気遣いなどを、時には大人たちに怒鳴りつけられ、時には世間一般の”与太話(よたばなし)”として面白く聞かされ、教えられていたのだ。そんな話だけでも、私にしても一編の”銭湯話し”が書けそうなくらいはあるのだ。

 ところで、もはや今の時代ではあまり顧(かえり)みられることもなくなった、江戸時代の娯楽本である、洒落本(しゃれぼん)や滑稽本(こっけいぼん)人情本の中にも、この風呂屋そのものでの話を題名にした、式亭三馬(しきていさんば、1776~1822)の名作『おどけ話 浮世風呂(全四編)』(『新日本古典文学大系』86 岩波書店)があり、それは、当時の江戸前の言葉で書かれていて、まるでその場にいるかのような、落語を話すかのような名調子であり、あの十辺舎一九(じっぺんしゃいっく、1765~1831)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』などとともに、私はこれらの作品もまた日本古典文学の第一級の作品だと思っているのだが。

 ともかく、再び私の子供時代の話に戻るが、そうした銭湯の風呂場で、ようやく何日かに一度、しっかりと手足を洗っていたぐらいの衛生状態だから、今の子供のお母さんたちから見れば、”後進国の子供かっ!”とマジギレされそうな日常を送っていたのだ。
 しかし、そうした非衛生的な、雑菌がうようよしている状況の中で育ってきたからこそ、その間に抵抗力がついて、滅多なことでは体をこわさないつくりになっていたのかもしれない。
 最近では、2年前の賞味期限切れの缶詰を食べたり、2か月前に賞味期限切れになっていたヨーグルトを食べたこともあるのだが、平気だった。
 もっとも、新しい医療としては、子供たちに、あらかじめ毒素を弱めたワクチンを打つようなこともあるようだが・・・。 

 考えてみれば、今の清潔な家庭生活環境と、さらに殺菌への配慮が行き届いた社会の中で育ってきた子供たちは、確かに世界の後進国の貧困家庭子供たちがかかることの多い、伝染病や疫病などで命を落とすことはまれなことになっているのかもしれないが、その代わりに幼い時から、私たちの子供の時代には聞いたこともなかった病名の、食物アレルギーや花粉症などにかかる子供たちが多くなっていることも確かである。

 もちろん私は、昔の非衛生的な時代のほうが良かったなどと言っているのではない。 
 もともと、地球上の一生物として生まれた私たち人間は、当然のごとく子供のころから他の生き物たちと同じように、自然の中で遊び、土にまみれて汚れて育ち成長ていくべきものなのに、今の都会の子供たちは、砂場でさえも殺菌された所でしか遊べないし、土そのものにふれる機会すらないのではないのか、アルマーニの制服を着て、コンクリートの壁に守られて。

 そうした、限られた環境の中で育っている子供たちと比べれば、私たち世代の人間は、子供時代はいつも外で遊んで、汚れて帰って来るのが当たり前だったのだ。
 極端な場合を言えば、ある時、田舎の母の実家に遊びに行った時に、畑のあぜ道のそばにあった、肥溜(こえだ)めのたまりの中に落ちて、全身ウンチまみれになって、泣きながら小川で体を洗ったものの、その臭いはとれるはずもなく、その日は周りの仲間からも、家族からも総スカンをくって、仕方なく皆から離れて一人で過ごしたものだった。
 自分でもいやになるほど、いつまでも取れないウンチの臭いを感じつつ・・・。

 そんな極端なまでの非衛生的な環境で育ってきたからこそ、いつの間にか様々な抵抗力がついていて、さらに最近では、追加対策としての梅ジャムをずっと食べているから、風邪をひくこともなく、食物アレルギーや花粉症などとは無縁のものだと思っていたのだ。 
 ところが2年ほど前から、この時期になると、外から帰ってきた後などに、目が少しかゆくなったり、目が乾燥してしょぼついたりするようになってきたのだ。 
 ゲッ、これはまぎれもなく花粉症の症状なのではないのか。
 子供のころ不衛生な所で育ってきたから、それが幸いして、アレルギーに対する抵抗力となってずっとあるものだと思っていたのに、それは何と、一生モノではなかったのだ。 
 つまり年を取ってきたということ自体からくる、抵抗力の弱体化が、この私にも起きてきているということなのだろう。

 思い返してみれば、年を取ってきてから気づくことが多いのだが、体のあちこちの小さな異変、昔から顔が悪い、頭が悪いなどということは、もう長い間の自分のことだからとあきらめはつくものの、眼鼻口、足腰手足の衰えは、今や覆い隠すべくもなく、これは神様からの、老い支度(じたく)、死の支度を日々心得ておくようにという、ありがたいお告げなのかもしれないと思うのだ。

 そういうことからも、常々、限られた残りの人生だと思っているのだが、ここで改めて、あのハイデッガーの『存在と時間』の理論を繰り返すまでもないことだが、人間は自分が生きていることで、他の物の存在を認識するし、自分の本来的な目的終着点である死を意識することで、残された時間、つまり本来の有意義な時間を知ることができるのだ。

 この冬に(1月から2月にかけて)、何度も訪れた冬景色の九重の山々、2年前の八甲田の樹氷群(’16.3.14の項参照)からさかのぼり、夏の北アルプス鹿島槍と五竜('15.8.4~17の項参照)、蔵王での雪氷芸術の数々('14.3.3~10の項参照)、夏の北アルプス裏銀座の山なみと黒部五郎岳('13.8.16~26の項参照)、初冬の燕岳から大天井岳('12.11.8~19の項参照)、夏の南アルプス北岳から塩見岳('12.7.31~8.16の項参照)などなど・・・おそらくは500回は超すだろう、私の山行歴は、誰のためでもなく、ただわがままで自分勝手な、私のためだけに登ってきた山々の記録であり・・・そんな山登りの人生を送らせてもらえて、幸せだったと思う。ありがとう。

 年を取り、体が弱ってくると、どうしても人は、残された時間が少ないことを考えるようになり、今までのことを振り返っては懐かしみ、そうした思い出をよみがえらせては、繰り返し何度も咀嚼(そしゃく)し味わうようになるのだが、それが今では、生きていくための三度の食事のようになっていて、はい、年寄りは同じ話を何度もしたがるものでありまして・・・。

 この数日、明らかに春の息吹きを感じさせるほどに、すっかり暖かくなってきて、山の中にあるわが家でも、冬の初めに咲いていたサザンカの花の後、久しぶりに咲いたのが、このユスラウメの花だったのだ。 
 何事が起きようとも起きなくても、人が死のうが生きていようが、こうして春の息吹きにふれては、梅の花が咲き、やがては他の花たちも咲き始めて、春になっていくのだ。そして夏が来て、秋になり、また冬が来て・・・人の世もまた移り変わって行くのだろう。

「散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき」

(『伊勢物語』在原業平(ありはらなりひら)を主人公にした歌物語 角川文庫)